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ある戦車兵の回想


 1943年7月7日 地中海 マルタ島沖合50km 第115号輸送艦後部甲板


  

 帝国陸軍軍曹、武府切雄たけふせつおは地中海の空の下にあった。

 地中海の空である。

 ただ、それだけで何か少し甘い香りがする、洒落た気分になりそうな言葉だったが、生憎と武府は島根の山奥で生まれた生粋の田舎者であったので、空は空でしかなく、地中海はやはりただの海としか感じられなかった。

 田舎者とは概して即物的な生き物である。

 それでも人生初の海外渡航であったので、最初の内は見たこともない景色に興奮したり、異文化との出会い感動することもあったけれど、今は殆ど何も感じなくなっていた。只今、自分もその一部として大海原を行く有史以来最大規模の侵攻船団も、数が多いなという程度の感想しかない。

 或いは、敢て何も感じないようにしているのかもしれなかった。

 戦車揚陸艦の後部甲板から見下ろす海は、高級リゾート地ならではの淡いエメラルドブルーだったが、だからどうしたという態度だった。海を見ているのは、その方が気が紛れるからだ。艦のつくる速度で適度に風もある。船酔いには風に当たるのが一番だった。

 遊びじゃないんだ。武府は自分にそう言い聞かせていた。

 武府が地中海をクルージングしているのは、観光のためではなく、戦争をするのためだった。海の色が何色だろうと、どうでもいいことだった。どうせ全て、硝煙の灰色に染まる定めなのだから。


「綺麗な海でしょう?」

「うん?ああ、そうだな」


 しかし、武府に話しかけてきた男は、そうでもないようだった。


「小さいときから、一度、地中海って奴を見てみたいと思ってたんですよ。エーゲ海とか。戦争のおかげで夢が叶うなんて、皮肉なものですね。ところで、出身はどちらですか?」

 

 土屋香緒つちやかおと名乗る海軍少尉はやたら馴れ馴れしい男だった。

 歳が同じくらいだったので、話しかけてきたらしい。

 武府はこの種の人間が嫌いだった。プライバシーなど欠片も存在しない濃密な人間関係が渦巻く軍隊生活においても、適切な間合いのとり方というのは存在するのだ。

 面倒な奴に目をつけられてしまった。武府はそう思った。

 しかし、相手は海軍だったし、階級も上だった。しかも、新品の少尉らしかった。


「新足手軍曹は、実戦経験はありますか?」


 などという質問は、新兵か新聞記者ぐらいしかしてこない。

 実戦経験の有無ぐらい、顔を見れば分かるだろうと思った。まず、目付きや顔の締りからして、違うものなのだ。精神的な余裕が顔に出る。一目見れば、だいたい直ぐに分かる。

 人相見に関しては、退役した後でそれで食っていけるぐらいの自信が武府にはあった。

 また、そうでなくてはならなかった。戦場において、その人間が頼りになるか、どうか。特に上官が使える奴なのか、ダメなのか。シビアな判断が下される。ダメな奴についていったら、死ぬだけだ。

 しかし、そんなことは、軍隊の服に”着られている”新品の少尉に言っても無駄な話だ。

 彼にまだ分からない。これについては経験が全てだった。言っても無駄なのだ。

 言っても無駄なら黙って無視してやり過ごすのが上策なのだが、そうしたらこいつは癇癪を起こすだろう。面倒なことになるのは目に見えている。

 結局、武府は曖昧な反応を示した。それでなんとかやり過ごせないかと思ったのだ。

 

「ええ、まぁ、多少はあります」

「ふむふむ。で、具体的には?」


 武府は密かにキレそうになった。

 

「僕は対空戦闘が1回あるんですよ。ストゥーカーって分かりますか?ドイツ野郎の急降下爆撃機です。それがいきなり現れたんですよ。その時、対空見張りをしていた僕が見つけました。大声で叫びましたよ。「敵機、直上きゅぅこぉかぁあああ!」ってね。機銃を撃つ暇もありませんでした。艦は緊急回避でなんとか無事でしたがね。本当に危ないところでした」


 身振り手振りを交えて熱演する土屋に、武府は白けていた。

 たった1回の対空戦闘ぐらいで、どうしてそんな得意げな顔ができるのか分からなかったからだ。

 この勘違いしたバカに、自分の戦歴を明かしたら、どんな顔をするだろうか?武府は空想して、密かにほくそ笑んだ。

 武府の初陣は、1940年12月末の北アフリカだった。

 エジプトに突如侵攻したイタリア軍に対する反撃として、コンパス作戦が発動。王立陸軍ロイアルアーミー第7機甲師団と共に帝国陸軍インペリアルアーミー第5師団は、サハラ砂漠を疾走した。

 第5師団は、帝国陸軍唯一の自動車化歩兵師団だった。自動車化歩兵師団とは、部隊全体の移動がトラックや自動車で行う歩兵師団で、サハラ砂漠のような広大な戦場に適していた。

 武府はその時、捜索第5連隊にいて、九五式軽戦車に乗っていた。

 その頃はまだ操縦手だった。初めて実戦で、緊張のあまりエンジンをオーバーヒートさせた記憶がある。非力な空冷エンジンを灼熱の砂漠で無闇に吹かせば、直ぐにオーバーヒートするに決まっていた。

 エンジンが止まって動けない戦車は鉄の棺桶だ。よく命があったものだと思う。

 思えば、緒戦の最大の敵はイタリア軍ではなく、サハラ砂漠の自然だった。

 日中に気温が40度に達するのだ。空冷ディーゼルエンジンなど、ひとたまりもない。空気が熱を帯びているのでエンジンが冷えない。仕方なく、夜間行軍したこともある。しかし、夜間行軍は事故が多発した。砂漠の夜はとても深い。目の前が見えないこともしばしばあった。追突するなというのが無理な話だ。しかし、安全のために車載ライトを点ければ遠くから狙いうちされる。遮蔽物のない砂漠では、灯が驚くほど遠くから見えた。ただし、夜間行軍にはそれなりに利点もあった。砂漠の夜は、空冷エンジンがとてもよく冷えた。気温が氷点下まで下がることもしばしばあった。厳しい寒暖の差で、体調がおかしくなる兵士は多かった。

 武府は北アフリカで思い出すのは自然の厳しさであり、戦闘の厳しさではなかった。自然が最大の脅威で、イタリア軍は士気が低く、全くお話にならなかった。

 先頭を進むイギリス軍の第7機甲師団はアレコレ苦労していたらしいが、少なくとも武府はイタリア軍相手に苦戦したことは一度もない。

 イタリア軍は戦車恐怖症にかかっているらしく、軽戦車相手にパニックを起こして勝手に降伏してきた。九七式中戦車の中隊などは、威嚇だけで連隊規模の部隊を降伏させたほどだ。

 敵よりも、砂漠のヒリつくようなような暑さの方が大変だった。何かあるたびに大和魂だとか、皇軍精神と言った精神論を振り回す古参兵も、昼間は沈黙したほどだ。補給線が伸びて、水が不足するようになると熱中症で仲間がバタバタと倒れた。大和魂も無意味だった。件の古参兵はさっさと倒れて後送された。

 さらに雲行きが怪しくなったのは、1941年2月だった。

 ドイツ軍のギリシャ侵攻が始まったからだ。頼りになる第7機甲師団は救援のためにギリシャに送られることになった。作戦は中止されるかと思ったが、続行になった。帝国陸軍の増援が内地から次々に前線に届いていたので、戦力は十分と判断されたのだ。

 本当に自分達だけで大丈夫なのか、なんとなく不安に思った記憶がある。

 それでもイタリア軍相手ならなんとかなった。なんとかならなかったのは、イタリア軍最後の拠点だったトリポリにドイツ軍の増援部隊が現れた時だ。

 今でも、武府はあの時自分が死なずに済んだのか、理由が分からなかった。

 サンドイエローの3号戦車が1個中隊。4両一組で3組が砂漠をまっすぐに突進してきた。ひと目で今まで相手にしてきたイタリア軍とは違うと分かった。統制がとれた整然とした隊列だった。イタリア軍にも戦車はあったが、あんな整然とした戦闘機動はしなかった。車載無線機がないからだ。それは日本軍も同じだった。各小隊が一斉に散開する様など、戦車学校の教本のように見えたぐらいだ。

 このままでは包囲される。相手はおそろしく速かった。直ぐにこちらも散開して反撃に移ったが、結果は散々だった。こちらの撃った弾はほとんどが当たらなかった。敵戦車が速すぎたからだ。しかも、九五式軽戦車の37mm砲は全く話にならなかった。当たっても、釣鐘を叩いたような音がして弾かれた。こんなことは初めてだった。

 結果として、捜索連隊は全滅に近い損害を被った。

 撃破された味方の戦車が吹き上がる煙があまりにも多くて、製鉄所か何かに見えた。

 九五式軽戦車1個小隊が損害に構わず突貫して、体当たりに近い距離から37mm砲を側面に当てて、ようやく3号戦車を一両撃破できた。正面装甲を抜いた弾は一発もなかった。

 後から戦場に参入した九七式中戦車も結果は同じだった。速度がでない分、なお酷いことになった。

 トリポリは、日独が初めて直接対峙した激戦地になった。

 ドイツ軍は少数だったが、市街地に立て篭もって頑強な抵抗を示した。日英軍は戦艦で街を砲撃して、なんとかトリポリを陥落させたのだった。

 後で分かったことだが、トリポリに送られた3号戦車は僅かに1個中隊しかなかった。アレが1個大隊もあればトリポリは落ちなかっただろう。たったの1個中隊では、4個師団の総攻撃を防ぎきれるものではなかった。ヒトラーがムッソリーニに約束した増援は、ギリギリ間に合わなかったのだ。

 枢軸国は、戦争が始まってから早々に北アフリカから叩きだされた。日英を結ぶ地中海航路の安全が確保されたのだ。

 しかし、そんなことは武府にとってどうでもいいことだった。

 一兵士にとっては、目の前に転がっている死の恐怖の方がよほど重い。

 トリポリの戦車戦は酷いものだった。撃破された九五式軽戦車から車長と共に転げ落ちるように脱出した時のことは、今でもはっきりと覚えている。

 目の前に、敵の戦車がいた。ドイツの3号戦車だった。サンドイエローの角ばった戦車だ。砲塔から突き出た細長い砲身が火を吹くたびに、味方の戦車がびっくり箱のように弾け飛んだ。ドイツ軍の戦車は徹甲榴弾を使っていた。装甲を叩き割ると砲弾が車内で爆発するのだ。九五式軽戦車のような軽戦車の場合は、致命的だった。

 印象深いのは、その戦車の車長だ。彼は砲塔ハッチから半身を出して、悠々と指揮をとっていた。怖いものなど何もないように。ゆったりと戦車に体重を預けて、時々、笑ってさえみせた。そんなことをすれば、狙撃兵の的にしかならないが奴は弾が当たらないと確信しているらしかった。

 笑みを浮かべる彼の着ていた黒い制服が、サハラの青空に映えて見える。強く心象残る制服だった。直裁的に表現すれば、格好良かった。自分の着ている制服が野良着か何か見えた。後になって、ドイツの戦車兵はエリートで制服も特別なもの支給されると聞いたときは、妙な納得を覚えたほどだった。

 そのうち、彼は武府の視線に気がついた。

 ああ、死んだなと思った。逃げようという気はまるで起きなかった。しかし、抵抗する気力もなかった。この時になって、初めて自分が死ぬことを真剣に意識した。それまで、どんなに危険な目に遭っても、自分は死なないと思っていた。自分の死体など、想像することさえしなかった。

 人間は、いつか必ず誰もが死ぬ定めにある。例外はない。

 だからといって、誰もがそのことを四六時中、気に留めていたりはしない。今日と同じ明日が永遠に続くと思っている。

 それがただの思いこみにすぎないことが、その時はっきり分かった。

 しかし、彼は武器を向けようとはしなかった。代わりに、軍袴の社会の窓が開いていることを指摘するような気楽さで、何かを指さした。

 振り向くと隣でひっくり返っていた車長が虫の息だった。大量出血で、今直ぐ止血しなければ危険な状態だったのだ。

 慌てて傷口を確かめにかかると、彼は戦車のエンジンを吹かして走り去っていくところだった。後ろ姿にくだけた敬礼を送ってくるのが見えた。

 キザな野郎だ。武府はそう思った。


「あの・・・大丈夫ですか?気分が悪いなら無理しない方がいいですよ」


 思い出に浸っていたのは一瞬のことだった。

 目の前にあるのは地中海のエメラルドブルーで、サハラの砂色の海ではない。


「大丈夫だ。大したことない」

「な、なら良いんですけど・・・」


 土屋は怯えているらしかった。

 少し顔が歪んでいたらしい。しかし、そんなにも怯えなくてもいいだろうとも思った。

 武府は頬の傷を撫でる。あの時に出来た傷だ。興奮していたので全く気づかなかったが、頬を18針も縫う大怪我をしていた。

 おかげで、人相が少々悪くなってしまっている。

 同じ戦車に乗る砲手に言わせると、女子が見たら失禁ものらしい。名誉の負傷なのに、酷い話だった。


「その傷は名誉の負傷ですか」

「まぁ、一応」


 武府は脳裏に浮かぶあの日の情景を追い払った。三度は見たくないと思った。何故、三度かと言えば、もう一度似たような目に遭ったことがあるからだ。


「へぇ、凄いなぁ。どこで負傷したんですか?」

「北アフリカだよ」

「じゃあ、額の傷は?」


 武府は、いい加減にこの男にウンザリしていた。

 初対面の人間相手に、どうしてこうもズケズケと振る舞うことができるのだろうか。或いは、自分が人見知りしすぎなのか。

 周りを見回して、誰かに助けを求めようと思った。しかし、こんな時に限って誰もいない。

 諦めて、武府は言った。


「・・・シチリア島だ」


 1942年4月のことだ。日英連合軍の12個師団がシチリア島に上陸した。

 戦局の転換点は、1941年6月のバルバロッサ作戦だった。ドイツが突如としてソヴィエトに侵攻した。ドイツ空陸軍の主力が東部戦線に振り向けられたので、日英は初めて数的な優位を確保して戦争をすることができるようになった。

 さらにソヴィエトが連合国に入ったことで、日本は対ソ警戒に充てていた陸軍主力をヨーロッパに転用することができた。

 そして、この戦力を利用して地中海戦線で攻勢計画が立てられた。

 目標は、シチリア島。イタリア半島の目と鼻の先にあるこの島を攻略することで、次目標のイタリア本土への侵攻拠点とすることだった。

 もっとも、この作戦は大失敗だった。日英連合軍は1ヶ月程度でこの島を制圧するつもりだったが、実際には4ヶ月も寸土の土地を奪い合う消耗戦になってしまったからだ。

 日英連合軍は反攻を急ぐあまり、酷く間の悪い時期に上陸作戦を行なってしまった。

 東部戦線では前年の12月にドイツ軍のモスクワ攻略失敗が決定的になり、ソヴィエト軍の冬季反攻によってモスクワ前面から撤退に次ぐ、撤退を重ねていた。

 この撤退を空から援護するはずのドイツ空軍はロシアの大寒波で作戦不能になっていた。冬季戦準備ができておらず、エンジンやオイルが凍りついてしまったのだ。その為、一時的に機材とパイロットが東部戦線が引き上げられ、本土防空と地中海戦線に振り向けられていた。

 イタリア空軍も弱体ながら、北アフリカでの敗北から立ち直りつつあった。本土防衛戦ということで、士気も低くなかった。

 日英連合軍の爆撃で潰されることが分かりきっていたシチリア島、イタリア南部の飛行場にはバルーンダミーや廃棄予定の損傷機が並べられた。それらを破壊して航空撃滅戦に勝利したと誤認した日英連合軍がシチリア島に上陸した時、イタリア北部から無傷のドイツ・イタリア空軍が舞い戻り、上陸船団に殺到したのである。

 この航空反撃で、帝国海軍は赤城、加賀、陸奥の3空母が被弾してアレキサンドリアに後退。稼働する正規空母が上陸初日で0になった。また、火力支援にあっていた世界に2隻しかない41サンチ砲搭載戦艦の長門が、後にソ連人民最大の敵としてスターリンから賞金を賭けられるエースパイロットの操縦するJu87の急降下爆撃で1000kg徹甲爆弾を直撃され、爆沈している。

 バトル・オブ・ブリテンにおいて、ロンドンを救った零式艦上戦闘機も、緒戦の輝きを失っていた。ドイツ空軍のパイロット達は、零式戦が得意とする低速での格闘戦に乗らなくなっていたからだ。しかも、シチリア島上空に現れたのは、バトル・オブ・ブリテンの頃の主力であったE型ではなく、改良型のF型だった。Me109シリーズ最良とも評価されるMe109Fを装備したドイツ軍戦闘機部隊は、零式戦の苦手とする高速度域での戦闘を得意としていた。

 東部戦線での夏期攻勢が始まる前にケリをつけなければならないドイツ空軍の攻勢は短期決戦を目指した激烈なものだった。

 そして、制空権が拮抗するシチリアの浜辺に、ドイツ軍装甲師団が突進してきたのだ。

 武府は、その海岸に展開した唯一の日本軍戦車中隊にいた。

 あの日の海岸の情景は忘れもしない。

 エメラルドグリーンの海は、ドイツ軍のMGになぎ倒された将兵で赤く染まっていた。

 立て篭もったトーチカごと火炎放射器で焼き殺されたイタリア人の死体。止むことなく降り注ぐ迫撃砲のポンポンという気の抜けた砲声。ドイツ軍の野戦重砲兵が放つ大口径榴弾が撒き散らすスプリンターの不気味な唸り。海岸で撃破された軽戦車は未だ炎を吹き上げる。手足をなくしたままフラフラさまよい歩く兵士たちのうつろな顔。砲撃で撃破された大発舟艇の周りには、誰のものか分からないほどバラバラになった人体に混ざって、大小無数の魚が白い腹を晒して浮かんでいた。魚の白い腹と真っ赤に染まった海との奇妙なコントラストだった。

 その為、老年の域に達した後でも、武府は魚の白い腹を見るのを避けた。白い腹と一緒にあの日の海岸線の有様を思い出してしまうからだ。

 その時、中隊の士気を執っていたのは、大隊長だったと思う。

 思うというのは、異様な興奮状態にあったせいか、正確な記憶がないからだ。生き残った者に後から尋ねたが、指揮を執っていたのは中隊長だと言う者や、小隊長だった言う者もいた。指揮者など、最初から最後までいなかったと言う者もいる。何が真実だったのかは不明。とにかく、誰かが指揮を執っていたのは確かである。

 しかし、中隊長が指揮を執っていたと言うのは眉唾であろう。中隊長は乗船していた揚陸艦が撃沈され、早々と戦死していたからだ。小隊長はどうだったかは記憶が無い。しかし、戦死したと聞いた。大隊長は少なくともその時は存命だったと思う。死んだという報告は受けていなかった。

 その時は、全てが混乱していた。

 ドイツの装甲師団が突進してくるということだけが確かな情報だった。

 変な話だが、誰もそのことは疑いもしなかった。彼らは来るのだ。

 迎え討つ戦車中隊は戦況と状況と同じく滅茶苦茶だった。中隊といっても、戦車大隊の生き残りをかき集めて編成した寄せ集めにすぎない。小隊同士どころか、小隊内でもまともな連携はとれなかった。

 その為、大隊長の考えた作戦は至ってシンプルだった。砲撃で作られた海岸のクレーターに戦車をダックインさせ、即席のトーチカとしてその場を死守するというものだ。

 作戦も何もあったものではなかった。

 しかし、中隊は異様な雰囲気の中で、それが天啓のごとき名案であると各自確信して、持ち場に散っていた。

 そして、2度と会うことはなかった。

 思い返すほどに奇妙な寒気を覚えるのだが、あの大隊長は本当に大隊長だったのだろうか?

 後になって知ったことなのだが、大隊長はあの時、既に戦死していたらしいのだ。戦死の詳しい状況は分からないが、戦死は確実だった。

 もちろん、あの海岸で誰が何時まで生きていて、誰が何時に死んだかなど、確実なことは現代に至るまで不明だ。

 もしかしたら、生きていたのかもしれない。しかし、何時まで生きていたのだろう。


 大隊長は、あの時、この世の者であったのだろうか?


 こんなことを思うのは、あの中隊で武府は唯一の生き残りだったからだ。

 しかも、大隊長の命に背く形で。

 何故、命令違反をしたのか、今でも理由はよく分からない。しかし、ごく常識的な発想として、動かない戦車は鉄の棺桶だと思ったのだ。

 砂地の海岸で、砲弾の作ったクレーターに入ったら最後、さらさらと崩れる砂に足をとられて二度と出られなくなる。自ら墓穴に入るようなものだ。

 そんなことをするくらいなら、単騎で敵に向かって突撃した方がいい。どうせ死ぬなら、景気よく死のう。同じ戦車に乗る全員が賛成してくれた。

 この時、乗っていたのは、九五式軽戦車に代わって新鋭の百式中戦車だった。

 九五式軽戦車は様々な意味で性能が絶望的だったので、北アフリカ戦後に全てが前線から引き上げられ、練習用戦車に格下げされていた。

 百式中戦車は、前作の九七式中戦車の改良型だった。

 最大の変更点は主砲で、短砲身の57mm18口径砲から、野砲転用の75mm38口径砲に換装していた。この砲は同時に配備された新型徹甲弾を使用すれば、1000mの距離から80mmの装甲貫通力を発揮した。一応は、ドイツ軍の主力戦車である3号戦車、4号戦車を正面から撃破可能だった。ただし、これは理論上の話だった。

 4号戦車の前面装甲は強化されていたので正面装甲を抜くためには600mまで接近する必要がある。逆に、4号戦車の75mm48口径砲は1,000mから百式中戦車を正面から撃破可能だった。火力の強化は未だ不十分だった。

 火力の強化は不十分なら、防御も不満足だった。前面装甲が25mmから2倍の50mmまで増えていたが、ドイツ軍の4号戦車は80mmよりは薄い。6号戦車と比べるのは、比べること自体が誤りだった。しかし、装甲の構成が平面と直線を多用した生産性の高いものに変わり、前作の九七式中戦車よりも総合的には大き改善されていた。

 特に、装甲板をリベットではなく、溶接で止めているところが新しかった。

 溶接の何がそれほど新しいかと言えば、生産性の向上もさることながら、装甲板の接合強度が飛躍的に高まったことだった。九七式中戦車のリベット接合は大口径榴弾の衝撃波で簡単に外れてしまうのだ。車体はバラバラ四散して、乗員は即死である。

 そうでなくとも、衝撃波で外れたリベットが高速で車内を飛び回り、乗員が死傷することがあった。溶接装甲でも、同様な問題が全く発生しないわけではなかったが、間接的ながらも防御力の大きな改善が図られていた。

 また、部隊の連携になくてはならない通信装備も、イギリスから供与されたマルコーニ社製の高性能無線機に変更され、車内通信機もよりノイズの少ないものになっていた。ただし、通信機よりも足で蹴る方が速いため活用はあまり進んでいない。

 歩兵支援用戦車だった九七式中戦車を総合的に見てドイツ軍の3号戦車と同等に程度まで引き揚げた百式中戦車は、三式中戦車が配備されるまでのつなぎとして評価されている。アメリカ陸軍が暫定的に配備したM3リー・グラント中戦車と同じ過渡期の戦車ということだ。

 もちろん、その戦車に乗って1個装甲師団の突進を迎撃しなければならなかった武府にとって、そのような後付けの評価はどうでもいいことだった。


「戦車、前へ」


 武府は短く、低い声で命令した。

 操縦手がクラッチをつなぎ、エンジンの動力を起動輪に伝えると百式中戦車はなめらかに動き出した。

統制型空冷ディーゼルエンジンは声高らかに、空冷ファンをいからせて履帯を前へ、前へと突き動かす。

 砲手が狙いをつけて、先頭のドイツ戦車に75mm砲弾を撃ち込んだ。

 外れる。走行中射撃の命中率は3%以下だ。角ばったドイツの3号戦車の向こう、砂塵の中に砲弾が消える。突如、爆発が起きた。75mm徹甲弾が何かに当たったのだ。朦々と立つ砂塵のせいで、何かは分からなかった。まるで北アフリカで遭遇した砂嵐のようだった。ドイツ軍の200両近い各種装甲車両が巻き上げる砂塵は、洋上の上陸船団からも見えたという。師団単位で編成した巨大なパンツァー・カイルだった。

 武府は特に命令はしていないが、操縦手は百式中戦車を全速で走らせた。百式中戦車は敵の戦車と戦車の間をすり抜けて走った。砲撃や銃撃が間に合わない場合は、体当たりで敵の装甲車を蹂躙した。装填手は腕力と弾が続く限り装填作業を続け、砲手は目の前の敵を撃ち続けた。

 砲塔バルジの即応弾薬は直ぐになくなった。床の弾薬庫から弾を取り出してさらに撃った。そのうち床の弾薬庫も空になった。おびただしい数の薬莢が車内に転がり、足の踏み場もなかった。エンジンの油温計が危険なほど高い数値を示し、空冷ディーゼルエンジンが白煙をあげていた。ベンチレーターが砲弾の燃焼ガスを排出しきれなくなり、車内の空気が悪くなった。喉がいがらっぽくなり、吐き気がする。

 そこでようやく、武府は戦車を止める気になった。

 砲塔ハッチから半身を出すと、そこが小高い丘であることが分かった。元々は緑の丘のようだった。おびただしい数の轍が、草木を鋤きこんでいたので、元の姿が幾らか想像できた。

 振り返ると上陸海岸は遥かな彼方にあった。

 武府は曰く言いがたい奇妙な顔で首を傾げた。

 村一番の醜男が豆腐屋小町から唐突に愛を告白されたかのような、35銭の煙草を買って35円のお釣りを受け取った煙草飲みのような、無銭飲食の食い逃げ犯が来場者1万人記念で無料食事券を進呈されたときのような、曰く言いがたい顔だった。

 結果について異議を申し立てるつもりはサラサラなかったけれど。

 見れば、洋上に山があった。山のように見える戦艦だった。後で知ったことことが、それは帝国海軍の高千穂という戦艦だった。

 その後ろにも、同じ形の戦艦が見えた。これも後で知ったことだが、穂高という戦艦なのだという。

 2隻の戦艦が、巨大な主砲を殆ど水平にして放っていた。

 着弾の衝撃が地鳴りのように足を震わせる。砲声は大気が爆発したようであり、爆発は地球の皮膚を強引に引きちぎるようだった。

 武府は唖然としたまま2隻の戦艦が織り成す火の饗宴を見ていた。

 2隻の戦艦が砲撃しているのは、中隊が死守するシチリアの白い砂浜だった。

 橋頭堡に突入したドイツ軍装甲師団は、艦砲砲撃によって日英連合軍の将兵と諸共に消滅した。

 

「もう2度と上陸作戦なんて、ごめんだと思ったんだがな」


 しかし、再び武府は揚陸艦の甲板で波に揺られている。

 脳裏に浮かぶのは、ひっくりかえった魚の白い腹だ。もう一度、アレを見る羽目になるのかと思うと気が重い。


「いやぁ、凄いなぁ。凄いなぁ。僕も参加してみたかったですよ」


 土屋はしきりに関心して頷いていたが、「じゃあ一緒に来るか」と尋ねると「僕は海軍ですから」と言って、そそくさと逃げっていた。

 最初からこうすればよかったのだ。

 何か急にいたたまれない気持ちになった武府は、新しい戦車でも見て、気分を変えようと思った。

 この船には、新型の三式中戦車4両が搭載されている。

 いずれも同じ小隊の戦車だ。同僚たちは、戦車の周りでそれぞれの時間を過ごしていた。


「軍曹殿、海はどうだった?」

 

 同じ戦車に乗る砲手の義士庵徳男上等兵ぎしあんどくおが言った。

 

「青かったよ」


 それにはまともに答えず、武府は新型戦車を見上げた。

 蛍光灯の白っぽい灯りを映した装甲板を軽く叩く。感触はとても重い。装甲板の向こう側にある空間をまるで感じさせないくらい重い。鉄の塊を叩いたような感覚だ。

 武府は思わず、笑みをこぼした。

 この戦車なら確実にドイツ戦車を殺しきれるだろう。

 三式中戦車は、帝国陸軍がこの戦争に送り出した最後の中戦車だ。九七式、百式、そして三式に続く日本式と呼ばれる戦車設計の最後を飾った戦車だった。

 なぜならば、戦後に制式化された七式中戦車は、ドイツ軍のパンターや、キングタイガー戦車の影響を受けたドイツ流の設計だからだ。ただし、パンターやキングタイガーはソビエト軍のT34の影響を受けているので、七式中戦車はソビエト流が正しいのかもしれない。

 武府は叩いた前面装甲は100mm。百式中戦車の2倍だ。ただし、パンターやM4シャーマンのような傾斜装甲ではなく垂直装甲だった。これはドイツ軍のタイガー戦車と同じだ。

 車体前部にトランスミッションの点検ハッチがある。これは九七式中戦車以来の伝統だった。攻撃が集まる車体前部上面にこのようなものがあるのは防御上の大弱点だが、トランスミッションを後部に移して後輪駆動方式に変更する時間はなかった。

 ただし、点検ハッチのある車体前部上面は水平装甲50mmで、登坂中ならともかく水平射撃で狙うのはほぼ不可能だ。その代わり、車体前部下部装甲が張りだしているが、ここは45度で80mmの傾斜装甲なので160mm級の装甲になっている。

 砲塔前面装甲は120mm。百式中戦車と同じ後方バルジの付きの6角形砲塔。砲塔側面は70mmだが、正面から30度の傾斜があるのでここは150mmクラスの装甲だ。側面後部は30mmしかない。37mmクラスの小口径戦車砲に抜かれる程度の装甲だった。しかし、砲塔重量の軽減のために切り捨てられた。

 火力は、連合国陣営最強を目指して100mm戦車砲を開発中だったが、今時大戦に間に合わないと判断され、イギリスが開発した17ポンド砲を改造して搭載していた。高速徹甲弾を使用すれば、1,000mで192mmの装甲を貫通する優秀砲である。

 1943年7月時点において、三式中戦車が連合国最強の攻防性能を実現していたのは日本が戦車開発の後進国であること考えれば特筆に値することだった。三式中戦車は1943年にパンターやティーガーⅠを正面から撃破できる唯一の戦車なのだ。

 ただし、設計に全く疑問がないわけではなかった。車体正面に装備された57mm18口径砲などは、防御上の大弱点だった。対人や火点攻撃に17ポンド砲を撃つのはもったいないという発想は理解できる。しかし、その為に榴弾を撃つための副砲を備えるという発想は、完全に時代遅れだった。普通は同軸機銃や、車体上面に機銃を搭載して対応する。

 旧式化した九七式中戦車の主砲が大量に余っていたので、その廃品利用を図ったという弁護もあるが、初期生産型以外は副砲を装備していないことを考えると失策の謗りは免れないだろう。 

 また、操縦席のバイザーが可動式で対弾性に劣っていた。つまり副砲と操縦席という弱点を抱えた車体前面装甲は、100mmの装甲がありながら、旧式化した3号戦車の50mm砲に撃ち抜かれるのである。

 攻防性能以外にも不備は多かった。最大の問題はパワー・プラントたるエンジンにW型ガソリン・エンジンという特殊な形式を採用していたことだ。

 川崎重工が過去に航空機用ガソリンエンジンとしてライセンス生産していたネイピアライオン12気筒エンジンを戦車用の改造したものだ。550馬力を発生し、35tの三式中戦車には必要十分なパワーだった。ただし、改造元のライオンエンジンは既に旧式化しているので、これは廃品利用に近い。高馬力のディーゼルエンジンの開発が間に合わないための窮余の策だった。

 しかし、一本のクランクシャフトに、直列4気筒を3つも装着するW型エンジンは∨型エンジンに比べて、構造が複雑で信頼性に問題があった。さらにパワーアップのために装備されたインタークーラー付きスーパーチャージャーも車載式としては日本初の試みであり、このエンジンを気難しいものにしていた。

 ただし、利点は欠点を補って余りあるほどだった。W型エンジンは全幅は大きくなるが、全長は短くできる。クランクシャフトが短いからだ。12気筒クラスの多気筒エンジンになると全長短縮の効果は大きい。エンジンが小型化できれば、シャーシーをその分小型化できる。

 事実、三式中戦車の車幅は2.8mでしかない。パンターが3.3mであることを考えると一回り小さい。全長もパンターが6.8mに対して5.8mしかない。小さい分だけ、軽量化がなされており重量は35tに抑えられている。パンターが45tを超えていることを考えれば、小型化による軽量化は大成功といえるだろう。

 この成功体験は後に開発される七式中戦車にも引き継がれ、W型18気筒ターボチャージドディーゼルエンジンが開発されることになり、後に水平対向ディーゼルエンジンに発展する。

 ただし、1943年時点では、気難しい整備員泣かせのエンジンであることに代わりはなかった。

 

「どうしたんですか?ニヤニヤと笑ってって気味悪いですよ」

「俺、笑っていたか?」


 義士庵が怪訝な顔をしていた。


「気持ちは分かりますけどね。こいつは百式やら、九七式とは全然違いますから」

「まぁ、な。シチリアや北アフリカにこいつがアレば、もっと楽ができたんだが」


 それはないものねだりというものだった。

 帝国陸軍がこれほどの戦車を整備するようになったのは、今時大戦が始まってからだ。


「イタリアでは、楽ができるといいんだがなぁ」


 楽な戦争など存在しないことはわかっていたけれど、武府はそう願わざるえなかった。

 この上陸船団に乗っていた大方の兵士も同じ思いだった。そして、その願いがかなわないことも当然のこととして了解されていた。

 しかし、その彼らは三日後に二重の意味で裏切られることになる。

 殆ど全ての日本軍将兵とアドルフ・ヒトラーが予想したイタリア上陸はフェイクだったからだ。

 連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワーの真の狙いは南フランス、トゥーロン。イタリアではなく、西欧に第2戦線を構築する本格的な大陸反攻作戦だった。

 シチリア島上陸作戦のような血で血を洗う波打ち際の攻防はついにおきなかった。現地のヴィシー・フランス軍が寝返ったため、連合国軍はほぼ無血で上陸を果たしたのだった。

 そして、アドルフ・ヒトラーが南フランスに在西欧の軍主力をかき集めている隙に、アメリカ軍主導のオーバーロード作戦が発動。こちらも軽微な損害で、北フランスのノルマンディー半島を占領。西部戦線のドイツ軍は南北からの大包囲網によって、その尽くが殲滅されることになる。

 第二次世界大戦が終わる1年前のほどの前の話だった。



 

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