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航空巡洋艦『利根』


 1990年1月28日 午前5時00分 ペルシャ湾 IJN 航空巡洋艦「利根」


 ペルシャ湾に朝の気配が近づいていた。

 東の空をウンザリ顔でみやり、水銀燈みずかねあかり陸軍少尉は手首の時計に視線を落とした。日本を立つ前に勝った新品のGショックだ。

 水銀が手に入れたのは、その中でも特に防錆製を高めたダイビング特化モデルのガルフマンだった。チタンフレームとプラスティックパーツにより極めて高い防錆性を発揮する。

 こうした小物を新たに揃えようと思ったのは、派遣先が海軍の巡洋艦だったからだ。しかも、戦地にいくのだという。

 普段使うお気に入りの時計はロンジンだ。ミリタリーもモデルだが、ステンレス製なのが不安だった。ステンレス鋼は錆びない鉄と思われているが、それは誤解である。ステンレスも錆びる時は錆びる。

 特に、ペルシャ湾のような塩分濃度の高い海では。

 買い換えたのが正解だったのかは、まだ分からない。

 

「時代は変わった」


 先に飛行甲板に上がっていた上官の屋良内夫おくよしうちお大尉が言った。

 ペルシャ湾の強烈な日差しにさらされても、なお白さをキープしている細長い横顔に屋良は複雑な表情を浮かべていた。

 コールサインは、ホワイトロング。水銀のリードであり、想いの人だった。

 愛する者の言うことの意味が分からなかったので、水銀は混乱した。


「海軍の船で、地球の反対側まで連れてこられて、アラブ人の頭に爆弾を落す日が来るなんて、思いもしなかっただろ」

「はぁ・・・そう」


 それがそんなに不思議なことなのか。水銀には分からなかった。

 これから行うイラク軍の補給所爆撃については、十分にブリーフィングを受けていたし、使用する機材と戦術についても訓練と何ら変わりはない。

 使用する機材は、AV-8BハリアーⅡと250kg爆弾だ。

 AV-8BハリアーⅡについては、他に85式襲撃機「蛟龍」という日本の正式名称もあるが、これを用いるのは書面上のことであり、部隊内では単純に「ハリアー」で通る。

 ハリアーはイギリスのホーカー・シドレー社が開発した世界初の実用垂直離着陸機(V/STOL機)だ。ただし、帝国陸軍が採用したハリアーⅡは、アメリカのマクドネル・ダグラス社が「ハリアー」を改良したもので、実態は英米の合作機だ。設計の合理化と軽量複合材を使用することで、第1世代型のハリアーに比べて大幅な軽量化が達成されている。軽量化された分だけ爆弾搭載量が増し、投射火力が増えるという理屈だ。

 そうした改良を施してもなお、超音速飛行は不可能であったし、独特のエンジン配置からくる赤外線誘導ミサイルに対する生存性の低さは相変わらずだった。

 それでも、帝国陸軍はハリアーⅡを制式採用していた。満州国でソヴィエト軍の戦車軍団と直接対峙する帝国陸軍は、近接航空支援を殊の外重視していたからだ。戦線直下に敷設した野戦飛行場からでも運用できるV/STOL機は近接航空支援の切り札だった。

 さらにA-10攻撃機の導入計画まであったとされるが、真偽の程は定かではない。

 仮に計画が実現し、A-10を導入したところで宝の持ち腐れになる可能性が高かった。何しろ、1989年12月のマルタ会談により、冷戦が終わってしまったからだ。

 冷戦終結は、帝国陸軍に激震をもたらした。

 営々と築いてきた軍事力の大半が無意味になってしまったからだ。5,000両に及ぶ主力戦車群や1,000機も揃えた戦術航空機群は大幅削減が早々と決まり、来年度の予算削減は避けられない情勢だった。

 そうした中、降って湧いたように起きたのが湾岸事変だった。

 

「大尉殿はこの戦争には反対なの?」

「別に、そんなんじゃない。ただ、妙な気分になっただけだろ。暑さのせいだな」


 二人で飛行甲板に上がり、乗機のプリフライトチェックをする。

 機首から時計回りに、油漏れ、クラックの有無、兵装の固定を確認する。動翼を手で動かし、異物感がないか確認する。

 この手の作業はパイロット自身が行わなければならない。少なくとも陸軍ではそうなっている。さらに、機体の通常整備にもパイロットは参加することになっていた。

 なぜなら、野戦運用するハリアーは、帰投先で十分な地上支援が受けられるとは限らないからだ。戦線直下の野戦飛行場は、ソヴィエト軍に蹂躙される可能性が非常に高かった。そうでなくとも、敵の爆撃は必至で、野戦飛行場は移動を繰り返すことで敵の反撃を回避するのだ。

 海軍の航空巡洋艦に独立中隊として派遣される際に、整備中隊もついてきたが、屋良大尉はパイロット全員に、いつもどおり乗機を自分の手で整備するように指示していた。

 そのせいで、フライトスーツにはいくつも油染みがあった。


「おはようございます。水銀少尉。今日は絶好の爆撃びよりですね」

 

 入足手来夫いりあしでくるお海軍少尉のフライトスーツは、シミ一つない綺麗なものだった。

 しっかり糊が効いていそうだった。首には純白のスカーフがさり気なくまかれていて、整髪料で撫で付けられた髪は如何にも都会的に見えた。

 とある劇団から俳優になってみないかと、学生のころスカウトされたことがあるそうだ。あながち、ホラでもないと思えるのは容姿のせいだろう。

 水銀が何故そのことを知っているかと言えば、モーションをかけられたからに決まっていた。

 肘鉄を食らわせて、ゲロの海に沈めてやったのだが、まだ懲りていないらしい。


「これからフライト?」

「イエス、マム。プレーンガードです。万が一にもありえないことでしょうが、貴方が発艦に失敗したら、直ぐに迎えにあがりますよ」

「要らん世話だな。少尉"殿"、さっさと配置についたらどうだ?」

 

 屋良が遮るように言った。

 愛しているけれど、毛がない恋人の頭を見て、水銀はため息を付きそうになる。

 別に機種転換するつもりは全くなかったけれど、同じパイロットでどうしてここまで差がついたのか。


「そうしますよ大尉。それから、まだ慣れていないのか、それとも覚える気がないのかは知りませんが、海軍では階級の後に殿はつけないんです」

「もちろん知ってるだろ。話はそれだけか?失せろ」


 水銀は、一瞬、スマートな海軍士官の顔が歪むのを見た。

 しかし、入足手は何も言わなかった。軽く敬礼を返しただけだ。脇を閉めた海軍礼だ。

 狭い艦内ですれ違うために、そうなったと言われている。もちろん、屋良は脇を開けた陸軍礼を返した。どこにいても、流儀を変えるつもりは全くないらしい。


「朝から喧嘩?」

「上官には、敬意を払うべきだろ。常識的に考えて。だいたい、プリフライトチェックも、機体整備も自分でやらない神経が理解できんだろ」

「海軍はそれでいいんだから、いいんじゃない?」

「気に入らないだろ」

 

 眉間に皺を寄せて屋良は言った。

 帝国海軍の士官に広がっている貴族趣味的な態度が鼻につくのだ。

 特に、あの入足出とか言う少尉は、下士官や兵を召使か何かのように見ているとしか思えなかった。

 どうもそれが海軍の伝統というものであることに気付いたのは、つい最近のことだ。建軍の際に、英国海軍から移植した階級社会というものらしい。

 おかしな話だ。屋良はそう思った。帝国海軍には四民平等という言葉がないのか。憲法改正で疾うの昔に華族制度は廃止されている。

 そもそも、将校と兵で食べているものが全く違うなんて馬鹿げた話だった。陸軍では、例え師団長であったとしても、勤務中は兵隊と同じ物を食べている。

 乗員達がランチに焼き魚を食べているときに、艦長や一部の士官がフランス料理のフルコースを食べていると知ったら、どんな気分になるだろうか?


「食い物の恨みは恐ろしいんだ」

「ほどほどにして頂戴よ」


 水銀が自機のコクピットにつく頃には、東の空が白み始めていた。

 逆光の中を慌ただしくデッキクルーが行き交っているのが見えた。赤、青、黄色、緑。色とりどりのジャージを着込んだデッキクルーの動きは、一見すると無秩序のように見えるが、実際は調整のとれたバレエのように精密な動きだ。全く、無駄がない。

 水銀はコクピットから見るデッキオペレーションがたまらなく好きだった。

 特に夜明け前のこの時間帯は、映画のワンシーンのように見える。まるで数年前に劇場で見たハリウッド映画のようだ。日本に帰ったら、レンタルビデオ屋に行ってもう一度借りて見ようと思った。きっと、別の感動があるに違いない。

 白いジャージを来たデッキクルーの手を借りてフライトスーツのハーネスを接続。Gスーツの高圧空気供給用ホースをセット。酸素マスクの接続を確認する。全て問題なし。

 一際、騒々しく回転翼機が発艦していく。SH-60Jだ。

 蜻蛉釣りのヘリだ。もちろん、本当に蜻蛉釣りに行くわけではない。蜻蛉釣りとは離着艦事故の際にパイロットを救助するために待機するヘリのことを指す。米国ではプレーンガードという。できれば、お世話になりたくないものだ。

 水銀は電源スイッチを入れ、システムが立ち上げる。計器盤はデジタル化が進んでいて、アナログ機器は少ない。念のための予備の扱いだ。液晶の多目的ディスプレイで殆どの情報が管理できる。HUDは国産の広角タイプ。表示の明度が高く見易い。

 屋良はこうしたグラスコクピット化を嫌っていたが、水銀は正常な進化の結果と思っていた。旧式の戦術爆撃機に乗っていたときに、酷い苦労をした覚えがあるのだ。 

 MFDに五芒星のロゴマークが表示され、ブルースクリーンに英語でエンジン始動手順がでる。

 水銀は計器盤から顔を上げ、デッキクルーにサムズ・アップを送った。相手もそれを返す。ガッツ・ポーズではない。エンジン始動を開始するという意味だ。

 人差し指を挙げ、軽く回した。デッキクルーも同じ動きで返す。意味はAPU始動。APUはジェット燃料を使用する小型のガスタービンエンジンだ。地上駐機時の発電機も兼ねていた。低い機械の唸りがして、APUが起動し、高圧空気の供給が始まる。ギアボックスを介して高圧空気がペガサスエンジンのタービンが回す。タービン回転計が少しずつ針をもたげる。

 水銀は耳をすませて異音がないことを確認し、人差し指に中指を足して軽く振った。デッキクルーが応答する。水銀はゆっくりとスロットルをアイドルまで開く。エンジン、点火。

 夜明け前のペルシャ湾の空に、ペガサスエンジンが嘶いた。

 エンジンの補機類が作動し、電力、油圧の供給が始まる。電圧計、ノーマル。油圧計、ノーマル。排気温度、ノーマル。

 水銀はプリフライトチェックシステムを立ち上げ、BITプログラムを走らせた。MFDにその結果を表示させる。エラー表示はない。他は全て読み飛ばした。全てに目を通していると日が暮れてしまう。

 レーダー、火器管制システム、電子戦装備については、パイロットがチェックできることはあまり多くなかった。専門の整備員が正しい仕事をしてくれていることを祈るだけだ。

 水銀は左手を払うように動かした。コクピットから、デッキクルーが機から離れるのが見える。手には車輪止めがあった。車輪止めを外し、機下に何もないことを確認する。動翼を動かして、動作確認をするためだ。

 フライトモードをテイクオフに切り替る。デッキクルーのハンドサインに従って、動翼を動かす。フラップ、エルロン、エレベーター。ラダー。全て正常。

 最後に、推力偏向ノズルの動作確認。これはハリアーしかないチェック項目だ。4つのエンジンノズルの位置を0度から98度まで動かす。ノズルの角度はスロットル脇のレバーを使って制御する。

 電圧と油圧が定格を示す。エンジン回転計も正常値。排気温度も安定。GPS、レーザージャイロ、ラジオコンパスのセットアップ。戦術データリンクシステム、オンライン。無線機器類の立ち上げ。

 回線を開く。即座に通信が入る。


『通信環境をテストする。金がなくて、今日食べるパンもない。さて、どうする?』

『ヤクルトを飲めばいいんじゃない?』


 通信状況は良好。問題なし。

 水銀はアイランドを呼び出す。


『ホームベース。ホームベース。こちらホワイト・ロング2。時計合わせをお願い』

『ホーム、了解。スタンバイ、マーク・・・』


 水銀は、ホームベースを見上げた。

 基準排水量35,000tの航空巡洋艦のアイランドは巨大だ。戦国時代の天守閣ほどの高さがあるという。造形もそれを受け継いでるように見えた。アイランド頂上はアンテナの櫓だ。中層の4面にはSPY-1Jフェーズドアレイレーダーのアンテナが張り付いていた。イージス・システム用の高性能レーダだ。プラスティックと軽金属で出来たアンテナだが、見ようによっては装甲板のように見える。さらに、ECM、ESMアンテナ、衛星通信機のドーム、FCSのイルミネーター、探照灯やCIWS、複雑な形状のキャットウォークの張り出しがますます戦闘要塞のような雰囲気も醸している。

 物々しい輪郭はさらに続く。艦橋を挟むように4連装対艦ミサイルの発射チューブが2つあった。艦首方向に向かって、トマホーク巡航ミサイル、アスロック対潜ミサイル、スタンダード対空ミサイルを収めたMk41VLSが128セル。陸軍の開発したガン・ミサイル複合近接防護システム。国産の127mm連装自動砲がある。

 航空母艦が、普通なら飛行甲板としている場所に並んだ各種兵装が、この船が巡洋艦であることを示していた。飛行甲板は船体後部から左舷に向かって斜めに伸びている。アングルドフライトデッキだ。オングルドオフ角は、船の中心線から9度で、これは合州国海軍の原子力空母と同じ値だった。

 イージス巡洋艦と軽空母のキメラ。それが航空巡洋艦利根の正体だ。

 このような奇妙な船が建造されたのは、帝国海軍が直面した深刻な予算不足によるものである。

 航空機のジェット化が進んだ1950年台以降、運用プラットホームである航空母艦は、巨大化の一途を辿っていった。大型化するジェット戦闘機を戦力的に意味がある数量で搭載するには、船体規模を拡大するより他なかったからだ。

 その為、空母の建造、運用コストはハイパーインフレ傾向だった。搭載する艦上機も高度複雑化し、極めて高価なものとなっていた。また、空母は単艦では脆弱な存在であり、多数の護衛艦を配置して艦隊行動する必要があった。もちろん、護衛艦の建造、運用コストも莫大なものとなる。

 結果として、空母を運用できるのは、それに見合った軍事予算を用意できる富裕国だけになった。

 さらに、空母を纏まった戦略的単位で維持、運用出来る国となると西側諸国ではアメリカ合州国ただ一国だけだった。

 第二次世界大戦おいて、多数の空母を運用した帝国海軍も、70年代半ばには経済的な限界から合州国海軍が配備しているような大型空母の建造を断念していた。

 建造そのものは可能だが、毎年の維持費が賄えないからだ。また、建造するにしても1隻だけでは意味がなかった。円滑なローテーションを組むために最低でも3隻建造する必要があった。大型空母3隻と護衛艦、補給艦を用意する金はどこにもなかった。

 フランス海軍のように、国家の見栄か或いは壮大な道楽で、空母を維持しているケースもあったが、帝国海軍のおかれた状況は切実だった。

 敵手たるソヴィエト海軍が70年台以降、多数の原子力潜水艦を配備して、太平洋の海上連絡線を脅かすようになっていたからだ。

 日英同盟に基づいて戦った二度に渡る世界大戦でドイツ海軍、特に∪ボートとの死闘を経験してきた帝国海軍において、潜水艦とは恐怖の代名詞であり、その対策は愁眉の急であった。

 ソヴィエト原潜に対抗するため、この頃に配備された78式陸上哨戒機は広大な西太平洋全域をカヴァーする能力を求められたので、陸軍が開発した超音速爆撃機を流用しており、アフターバーナーを使用して、超音速飛行すら可能な超高速対潜哨戒機だった。

 さらに、ハンター・キラーとしてチタン船殻を備え、水中速力50ktを発揮するイ号第2000型原子力潜水艦が18隻も整備された。

 SOSUSで探知したソヴィエト原潜を超高速対潜哨戒機と高速原潜で即座にインターセプトして撃滅するという非常にアグレッシブな防衛構想だった。

 問題は、この構想において、低速な水上艦艇が事実上、不要だったということである。

 空母建造計画は葬り去られ、防空能力拡充を目的としたイージス・システムの導入も撤回された。

 空母とイージス・システムという洋上防空の要を失った帝国海軍は、対艦巡航ミサイルのような経空脅威を議会で訴えが、予算が承認されることはなかった。同時期に帝国陸軍も新型MBTの大量生産や陸軍航空隊の拡充を進めていたので、国庫は逼迫していたのだ。

 それならばと、王立海軍が先鞭をつけていた軽空母とハリアーの導入も検討されたが、ここにも予算の壁が立ちはだかった。軽空母とイージス艦を同時に導入するのは、どうやり繰りしても予算上不可能だった。どちらか一つなら可能とされたが、帝国海軍はどちらも切実に必要としていた。

 そうした中で、当初は対潜巡洋艦として回転翼機のみを搭載する予定だった利根に、V/STOL機運用能力が追加され、併せてイージス・システム搭載艦へと設計変更が行われたのは、全くの苦肉の策だった。

 それでもなお、艦上機の確保という別の問題があったが、海軍は半ば自棄になって、有事の際には陸軍航空隊のハリアーを搭載するものとして、建造を強行した。

 もしかしたら、後で予算がついて艦上機が買えるかもしれないという極めて希望的な観測が当時の艦政本部を支配していたと言われている。

 そんなことあるわけなかったのだが。

 後日、湾岸事変に際して、計画はしていたが、全く載せるつもりがなかった陸軍航空隊のハリアーを本当に載せなければならなくなった時の大混乱は、帝国海軍の黒歴史である。

 

『ホワイト・ロング、ホワイト・ロング。こちらホーム・ベース。仕事の時間だ。給料を稼いでこい。ただちに発艦せよ』

『ホワイト・ロング。了解。さぁ、出勤タイムだろ』


 水銀は、デッキ・クルーの誘導に従って、ハリアーを発艦位置に移動させる。

 朝日に目を細めた。既に夜は開けていた。東の海に朝焼けの太陽が昇っていく。

 水銀はちらりとアイランドを見やった。軍艦旗が風に煽られ、舞っている。海と同じ構図だった。ライジング・サン。

 水銀はアイランドから目を離し、飛行甲板の先に見据える。凪いだ穏やかな海だ。ただし、風は強い。飛行甲板は台風並の風が吹いていた。発艦に必要な揚力を作るため、風上に向かって艦を走らせているからだ。

 垂直離着陸できるハリアーも、爆装している場合は滑走して発艦する。スチームカタパルトのような気の利いたものはない。自前の揚力が全てだ。王立海軍の軽空母のようなスキージャンプでもあれば、また変わってくるのだが、それもない。

 ハリアーは伝説の零式艦上戦闘機がそうだったように、滑走して発艦する。

 飛行甲板から、チョークがせり出す。機が発艦位置についた。

 赤いジャージを着たデッキクルーが、機の下に潜り込んで兵装の最終確認。同時に、爆弾とミサイルの安全ピンを外して、走り去っていた。

 MFDに兵装管理モードを呼び出し、全兵装の管理がパイロットに移ったことを確認する。

 水銀は操縦桿を握った。しきたりにしたがって、「私は、水銀燈。闇を纏わされ逆十字を標された薔薇乙女最凶のドールよ」と呟きながら、操縦桿を前後左右に動かした。左右の足で、ラダーペダルを踏む。ノズル変更レバーを押し出し、「アーメン」と、元の位置に戻した。

 黄色のジャージを着たデッキクルーが、動翼とノズルの動きを確認して、親指をあげてサインを送った。全て的確に動いている。

 フラップを離陸モードにセットし、エンジンノズルの角度を45度に変更する。

 屋良から通信が入った。

 

『水銀。準備はいいか?』

『ロックン・ロール』


 水銀はアイランドを見た。朝焼けの空にグリーン・ランプが輝いていた。全ての発艦準備が完了し、いつでも飛び立てる。


『ホーム・ベースより、ホワイトロング・リーダー。発艦を許可する。武運を祈る』

『コピー。ホーム・ベース。ホワイトロング・リーダー、出るぞ』


 1番機が、ペガサスエンジンを轟かせる。直ぐに滑走を開始した。滑走距離は200m足らずだ。それでも、ハリアーはふわりと浮いた。危なげなく加速していく。

 

『ホーム・ベース。こちら、ホワイトロング2。出ます』


 水銀はスロットルを全開まで開いた。

 4つのノズルが灼熱の気流を飛行甲板に叩きつける。ハリアーの前脚オレオが限界まで屈伸し、前傾姿勢を保つ。

 水銀はデッキ・クルーに敬礼を送った。いつでも飛び立てるというサインだ。敬礼を受けたデッキクルーは、バレエのような身のこなしで伏せ、片足を伸ばして、指先を甲板に当てた。

 次の瞬間、チョークが甲板に引きこみ、車止めを失ったハリアーが走りだした。

 水銀は操縦桿をホールドして、進路を固定。飛行甲板は直ぐに足元から消えた。機速はまだ失速速度だったが、45度の角度で吹き出すエンジンブラストが自重を支えていた。翼が揚力を発揮していないこの瞬間がハリアーの最も危険な時間だった。

 やがて、トリムが変わって、主翼が風を捉えた感覚が来る。水銀は対気速度を確認し、慎重にノズル角を0度まで戻した。

 バックミラーに母艦の艦首が遠ざかっていくのが見えた。

 特に思い浮かぶことは何もなく、どこか清々しい気分さえ覚えるほどだった。

 先行する1番機のエンジン排気を見つけ、編隊を組むため増速する。母艦は直ぐに見えなくなった。

 共に編隊を組む3、4番機が発艦したことを母艦の航空管制センターが告げていたが、水銀がそれを意識することは殆どなかった。少なくとも今はどうでもいいことだった。

 世界に、空と海と自分だけがいる。高度を上げて、空の割合が高まるほどに、水銀は高揚を感じた。

 心の支配するのは、やがて空だけになった。

 

 

 



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