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第三話 流れの集う国

 ソイーオが帰った後も、瑠美子はご機嫌なままだった。おにぎりを気に入ってもらえたのも、妙な力が抜けたのもその理由の一つだろう。しかし何より、新しくできた隣人がいい人そうだということが、彼女には嬉しかった。

 鼻歌交じりに明かりの埃を払って、瑠美子はふと外へ視線をやる。もう夕刻。うっすらたなびく雲が、窓越しにも淡く紫に染まっているのが見えた。

 日が暮れようとする時間帯の空、そこに浮かぶ染められた雲は、いつも昔の記憶を掘り起こす。茜色から徐々に紫へと、移りゆく色合いが儚くも綺麗だった。それは母親がもうすぐ帰ってくると、幼かった瑠美子に知らせてくれる光景だった。だからつい、瑠美子は独りごちる。

「太陽は、変わらないんだよなぁ」

 朝には日が昇り、沈めば月が輝く。空の色合いも全てが、瑠美子のよく知る世界と何ら変わりなかった。だから時々、ここが異世界であることを忘れてしまう。ここはどこか彼女が知らない国の田舎で、飛行機にでも乗ればすぐに日本へ帰れるのでは、と。そんなことを考えてしまうのだ。それが馬鹿げたことであると、そんなはずはないのだと、嫌と言う程思い知ったというのに。

 異世界からヌオビアへ流される人は多い。様々な世界から、人々はここへとやってくる。それは空き瓶やら椰子の実やらが、海流にのって日本へと流れ着くのに似ていた。その逆はない。流れはいつも決まっていて、元の世界へ戻ることはまず不可能だった。帰る方法を模索してきた異世界人も多いが、成功した例は聞かない。

 異世界人は帰れない。突然流されてきた人は、二度と生まれ故郷を見ることはない。その現実にはじめは打ちのめされ、だが次第に受け入れていくのが普通だった。ソイーオもそうなるのだろうかと、瑠美子は隣家へと思いを向ける。幼かった瑠美子には、その事実を受け入れるまで時間がかかった。彼の場合はどうだろうか。

「何だよ、そんなところで突っ立って」

 その時突然、背後からぶっきらぼうな声が聞こえた。慌てて瑠美子が振り返れば、怪訝そうな顔のノギトが、ぼろぼろの鞄を片手に立っている。いつの間に帰ってきたのだろう? 扉が開く音はしなかったはずだと記憶を辿りながら、瑠美子は首を横に振った。

「別に、綺麗な空だなあって見ただけよ」

「またかよ。ルミコは空好きだよなー。いつも同じなのに」

「同じだからいいのよ」

 思わずそう返してしまってから、はっとしてルミコは眉根を寄せた。だが幸いにも本音はノギトへと伝わっていないらしい。ふぅん、と気にない返事だけが聞こえ、それ以上の追及はなかった。

 子どもの頃に散々彼らを困らせ、後にそれを自覚してからというもの、瑠美子は帰りたいという言葉を全く口にしなくなった。それどころか元の世界を思わせる事柄さえ、誰にも話さなくなった。

 それは自分を受け入れてくれた彼らへの、ひどい裏切りになるような気がして、傷つける気がして言えなかった。特にイムノーやルロッタの前では、絶対に口にできない。

「母さんは今日、芝居だよな?」

「うん、そう。もう出かけたよ。イムノーさんはまだだけど、ハゼトなら部屋にいるから」

「あいつ、もう帰ってきたのか。ちゃんと勉強してるのかぁ? せっかく早く帰ってきた思ったのに、俺より早いなんて」

「ハゼトならちゃんとしてるって。もっと勉強したいことがあるって、前に言ってたわよ。ノギトみたいに体力だけが取り柄じゃないみたいね」

 瑠美子は肩をすくめると、くすりと笑ってみせた。ノギトがむっとするもお構いなしだ。いつもの反撃だから、これくらいは許されるだろう。料理しかできないと罵られるのは、瑠美子だって嫌なのだ。

「体力がなけりゃ、城の兵士なんて務まらないだろ」

「でもそれだけじゃあ、駄目でしょう。あ、訓練の調子はどうなの? そろそろ試験があるとか言ってなかった?」

「それならもう終わった。今回のは簡単だからな。問題は次だ」

「へーそうなんだ。イムノーさんも期待してるみたいだから、頑張ってよね」

 瑠美子はノギトの横をすり抜けると、台所へと向かった。ルロッタがいないから、今日の夕飯も瑠美子の担当だ。そろそろ準備しないと、また遅いとノギトが文句を言い出しかねない。今日はすぐできる献立を考えているから、あまり心配はしていないが。

 瑠美子は台所の傍で、椅子にかけてあったエプロンを手にする。すると次の瞬間、控えめに玄関の呼び鈴が鳴る音がした。可愛らしい音が、静かな家の中に浸透する。瑠美子は急いで振り返ったが、ノギトの方が反応は早かった。彼は玄関へ近づくと、警戒した面もちで扉を開ける。

「どなたですか?」

 少しだけ開いた扉の向こうには、男性らしき人が立っていた。しかしノギトの影になって、瑠美子からはその顔が見えない。ノギトの知らない人であることは確かだが、誰かはわからなかった。瑠美子はエプロンをまた椅子にかけると、ノギトへ近づく。

「突然すいません。今朝のお礼にと思ってやってきました、ソイーオザットです」

「あ、ソイーオさんっ」

 扉の向こうから聞こえたのは、ソイーオの声だった。急いでノギトの横へと並べば、隙間から微笑むソイーオの姿が見える。瑠美子が思わず笑顔を返すと、隣からノギトの訝るような視線を感じた。軽く見上げれば、ノギトは目で誰かと問いかけてくる。

「ほら、ディーターさんが引き受けた異世界人」

「あぁー、噂の異世界人か。今朝って、何かあったのか?」

「ルミコさんが、料理を分けてくださったんです」

 ついで放たれたノギトの疑問に、先に答えたのはソイーオだった。そう言われると何だかすごいことのように思えるが、実際はおにぎりをお裾分けしただけ。瑠美子は小さく首を横に振り、頬へとかかった黒髪を耳にかけた。

「大したことないわよ。お弁当用のおにぎり、余ってたのをあげただけだから」

「ふぅん」

「ほら、だからノギト、知らない人じゃあないんだからちゃんと扉を開けて」

 瑠美子はノギトの腕を引っ張った。中途半端に開けられた扉から、ソイーオは顔だけを出している状態だ。ノギトが見知らぬ人を警戒するのは当たり前だが、ソイーオは隣人なのだ。この扱いのままではひどいだろう。

 だがノギトはまだ彼を信用していないらしく、渋々といった様子で扉をゆっくり引いた。いや、単に噂の異世界人を快く思っていないだけかもしれないが。

 ようやくソイーオの全身が見えると、彼は今朝見た服とは別の物を着ていた。ヌオビアでよく見かける簡素な作りの、草色に染められた綿の服だ。きっとディーターが買ってくれたのだろう。そこに煌びやかさはないが、落ち着いた色合いがソイーオによく合っていた。しかもこれなら街を歩いても目立たないだろう。さすがディーターはよくわかっている。

 するとノギトは瑠美子を一瞥してから、またソイーオへと鋭い視線を戻した。

「お礼を言いに来たんだろう?」

 早く用を済ませろと、言わんばかりの口調だった。瑠美子に対しては口汚いノギトも、余所の者に対してはいつも礼儀正しい。いきなり喧嘩を売るようなことは、今まではなかった。これはかなり珍しいことだ。よっぽどこの異世界人を妬んでるなと、瑠美子は密かに推測する。

「ええ、ちょっと待ってくださいね」

 けれどもソイーオは意に介した様子もなく、うっすら微笑んでそう答えた。そして右手を前にかざすと、軽く目を閉じる。その仕草の意味がわからなくて、瑠美子はノギトを見上げた。しかしノギトにも理解できないようで、その眉がひそめられている。

 刹那、空気が破裂するような音が鼓膜を叩いた。瑠美子が思わず目を瞑ると、その鼻先に甘い香りが漂ってきた。どこかで嗅いだことがある気がする、草の匂いも混じっている。これは何の香りだっただろうか?

「はい、ルミコさん」

 ソイーオの穏やかな声に、おそるおそる瑠美子は目を開いた。すると目の前には、色とりどりの花が差し出されていた。見たことのない花の中に、幾つか見知った物が混じっている。ティティフやモノトフだろうか。つまりこれは、花束だ。

「あの、ソイーオさん――」

「お気に召しませんでしたか? 僕の世界の花なんですけれど」

「……え?」

 彼は今、何と言ったのか? 耳を疑って首を傾げると、すぐ横からノギトの声がした。魔法だ、というかすれた呟きに、瑠美子は思わず息を呑む。

 魔法。それなら聞いたことがあった。不思議な力を使うことができる人が、別の世界にはいるのだと。そういった人が流されてくることも、稀にあるのだと以前耳にしたことがある。ではソイーオは魔法使いなのだろうか?

「ソイーオさん、って」

「魔法使いか、お前」

 よりノギトの声が険しくなった。その理由がわからないらしく、ソイーオは不思議そうに頭を傾けるた。結ばれた青銀の髪が揺れて、沈みかけた陽光を反射した。彼は緑の瞳を何度か瞬かせ、瑠美子とノギトを交互に見つめる。

「はい、そうですけれど。でも、これだけの物を召還できたのは初めてですけどね。何度か試してみたんですが、この世界だと僕の力は強くなるみたいで」

「そりゃそうだろう。ここはあらゆる世界からの流れが、一番集まりやすい場所だ。お前の力がどっかから物を呼び出すことなんだとしたら、呼び出しやすいに決まってる」

「ああ、なるほど!」

 素直に納得するソイーオとは対照的に、ノギトの顔は強張っていた。それが何故なのか瑠美子でも予想はつく。魔法使いは滅多に現れないため、その扱いは普通の異世界人以上に厄介なのだ。様々な制限が課せられるという噂も、耳にしたことがある。

 そのためだろう。ノギトは大きくため息をつき、乱暴に前髪を掻き上げた。迷惑な隣人に憤っているのか、それとも今後のディーターの苦労を思っているのか、それは瑠美子にはわからない。だが目の前に難題が突きつけられているだろうということは、よく実感できた。

「お前が魔法使えるって、ディーターさんは知ってるのか?」

「ええ、先ほど言いました」

「そうか、じゃあ詳しいことはディーターさんに聞いてくれ。俺よりは詳しいはずだ」

「あの……魔法使いがいると、何か問題があるんですか?」

 心底不思議そうなソイーオに、ノギトはもう一度嘆息する。きっとソイーオの世界では、魔法使いは一般的な存在なのだろうと、そう思わせる反応だった。だから決して彼が悪いわけではないのだ。ないのだが、頭痛の種となり得る。瑠美子は静かに苦笑しながら、とりあえず花束を受け取った。

「ここヌオビアでは、魔法使いは珍しいんです。しかも異世界人となると、きっとしばらく魔法は使えなくなると思います。ヌオビア人としての資格を取るまでは」

 花束を両腕に抱えて、瑠美子は軽く瞳を細めた。何かが起こりそうな、そんな予感が渦巻いていた。

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