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第十三話 消えゆくもの(後)

 ノギトに謝ろう。そう思って待っていたというのに、その日彼が帰ってきたのは真夜中になろうという時刻だった。イムノーやルロッタ、ハゼトまでもがもう眠った時間。風が戸を叩く音に混じって聞こえた足音を、かろうじて瑠美子の耳は拾い上げた。

 こんなに遅くまで何をやっていたのか? 疑問に思いつつも寝間着に軽く上着を羽織り、彼女は慌てて玄関へと向かった。薄暗くとも家の中ならば、何かに躓くことなく辿り着ける。

「ノギト」

 走り寄った彼女が呼びかけると、コートを脱いだノギトは驚いたように振り返った。そして風に乱れた髪を慌てて手櫛で直し、肩にかけていた鞄をゆっくりと下ろす。肩紐が床へと落ち、乾いた音を立てた。

「な、なんだよルミコ。まだ起きてたのか」

「お、お帰り。遅かったじゃない」

 互いにどことなくぎくしゃくとした口調なのは、滑稽だが仕方がないことだろう。ここしばらくまともに会話も交わしてなかったのだ。不必要な言葉を口にしないよう努めて、瑠美子は薄く微笑んだ。ノギトはくたびれたコートを片手に持って、月が見え隠れする空をちらりと見やる。

「まー、ちょっと用事があって。それよりも、何でお前――」

「あ、謝ろうと思って」

 彼の双眸が向けられていないのをいいことに、思い切って彼女はそう告げた。声は震えていなかったが、若干早口になってしまった。じわりと手のひらに滲んだ汗を、彼女は上着にこすりつける。すると窓、床、とうろついていた彼の視線が、ゆっくり彼女へと戻ってきた。

「ルミコ?」

 今度は彼女が目を逸らした。ここでまともに見つめ合ってしまうと、また悪態を吐く可能性すらあった。そうならないうちに言うべきことは言ってしまおうと、彼女は急いで口を開く。

「い、言い過ぎたな……と思って。みんながみんな、全部理解し合えるわけじゃないんだしね。何もかも口にしてるわけじゃないんだし」

 こういうのはどうも苦手だ。相手がノギトだと余計にそうで、謝っている間にもどんどん恥ずかしくなってくる。今彼がどんな顔をしているのか、確かめたくなかった。相手がソイーオならばきっと素直に謝れるだろう。彼ならば穏やかに微笑んで、嫌味を言うことなく許してくれる気がする。

「……ってことは、わかったわけじゃあないのか」

「え?」

 しかしノギトから返ってきたのは、予想外にも気の抜けた声だった。不思議に思って彼を見つめると、薄明かりの中でも微苦笑を浮かべているのがわかる。その理由が飲み込めず、彼女は数回瞬きをした。残念そうでもありほっとしたような瞳には、首を傾げる彼女の姿が映っている。

「ノギト?」

「いや、いい。その方がいいかもな」

「ちょっとそれ、どういう意味?」

「実は俺な、今ディーターさんの家に行ってきたんだ」

 はぐらかすつもりならば、その手には乗らない。そう口にしようとしたのに、ディーターという名前を聞いただけで彼女の思考は一瞬停止した。

 何故ノギトがそんな所へ行くのか。どうしてこんな時間に訪ねたのか。考えようとしても悪い予想ばかり浮かんできて、心臓が早鐘のように打ち始める。彼女は息を呑んだ。

「森のことで、ちょっとな。聞きたいことがあって」

「……それって、行方不明者のこと?」

「そうだ。――ってルミコも知ってたのか」

「うん。今日ハゼトから聞いて」

 彼女が首を縦に振ると、彼は安堵したように相槌を打ち再び窓を見やった。淡い光に照らされた横顔には、普段とは違う表情が浮かんでいる。喧嘩をふっかけてくる時とも、慰めてくる時とも違う。かすかに迷いの滲んだ横顔。彼は視線はそのままに、軽く首の後ろを掻いた。

「それで、ちょっとソイーオのことも聞いてきた」

「ソイーオさんの?」

 躊躇いながら彼が口にした名に、彼女の鼓動はまた跳ねる。森での一件以来、ずっと気にかかっていたことだった。

 詰め寄ろうと一歩を踏み出したところで、彼女はかろうじてそうするのを思いとどまった。焦るのは良くない癖だと、以前イムノーに言われたことがある。一度呼吸を整えてから、彼女はおそるおそる口を開いた。

「それで、ソイーオさんは?」

「今は、ほとんど城にいるらしい」

 ノギトの声に抑揚はなかった。夜の水辺を思い起こさせる静けさに、彼の言葉がじわりと染み込んでいく。彼女は軽く唇を噛み、理由を問いただしたいのを我慢した。今は急かすべき時ではない、そんな気がする。

「だからほとんどディーターさんもまともに話をしてないらしいんだ」

「そ、そうなんだ」

「けれど、一つだけはっきり言ってたことがあるらしい」

 自然と落ちかけていた双眸を、彼女はもう一度ノギトへと向けた。彼の瞳もおもむろに彼女を捉え、その唇が躊躇いがちに動く。

「ルミコには、会わないって」

 告げられた言葉は、真っ直ぐ彼女の胸に刺さった。その理由を聞こうにも声が出なくて、止まりそうになった息を吐き出さんと胸元に手が伸びる。

 どうしてなのか。何のためなのか。気に病んでいるだけなのか、会いたくないのか。尋ねようとしても喉元で言葉が詰まり、かすかな声しか漏れてこなかった。瞳を細めたノギトは、見ていられないとばかりに顔を背ける。

「会いに来ないでくれ、だとさ」

 言いづらそうに、そうノギトは続けた。泣きたいのか笑いたいのか何をしたいのかわからず、彼女は奥歯を噛んで床を睨みつける。

 ノギトが嘘を言っているとは思わない。だが本当のことだと信じたくもなかった。胸の奥が灼けたように痛んで、とにかく息が苦しくなる。胸元の手で服を掴み、彼女はただ心の波が落ち着くのを待った。

「別に、きっと、お前を嫌いになったとか、そういうわけじゃあないと思う。たぶん何ていうか……責任を感じてるんだと思う」

「うん」

「気にするなって言っても無理だと思うけど――あんまり落ち込むなよ?」

「うん」

 ノギトが気を遣ってくれているのはよくわかった。おそらく彼の言う通りだろう。バルソアが狙っていたのはソイーオで、彼女はたまたまそれに巻き込まれたのだ。しかも怪我をしたのは彼女だけ。だからソイーオが自分を責めるのはわかるし、もうこれ以上彼女を巻き込みたくないと思うのは理解できる。

 しかしそれでも悲しかった。そう思わせてしまう自分も情けなく、会えないことがとにかく辛かった。ディーターとも話していないとなると、彼はきっと孤独だろう。そうさせてしまったのは、彼女だ。

「ソイーオさん……」

 痛々しい静寂の中に、弱々しい声が染み入る。久しぶりにノギトと話ができたと思ったら、今度はソイーオと会えないことがわかるなんて。

 どうして全てがうまくいかないのだろうか。不器用な自分が悔しくて、彼女は小さなため息を落とした。まるで迷路の中に迷い込んだようで、何を道標にすればいいのかわからなかった。




 明け方の森を、一人の少女が歩いていた。親戚の家に泊まり込んでいた少女は、学校に遅れまいとひたすら家路を急いでいた。森に近寄ってはいけない、森に入ってはいけない。そう教えられていたが、ここを通るのが一番の近道なのだ。

「大丈夫、大丈夫」

 呪文のように繰り返す言葉は、努力の甲斐もなくわずかに震えている。恐怖がないわけではない。それでも気難しい両親に怒られることの方が、少女にとっては怖かった。

 小さな足では森を抜けるにはやや時間がかかる。それでも何度か通ったことのある道を、迷わず少女は進んでいた。時折聞こえる鳥の鳴き声にびくつきながらも、ひたすら家に向かって歩き続ける。

 すると不意に、風の音が強くなった。空を裂くような鳥のけたたましい叫びが続き、羽音で少女の耳はまともに音を捉えなくなる。思わずその場にしゃがみ込んだ少女は、目を瞑りながら頭を抱えた。鳥が飛び立っただけ。そう思いたくとも学校で聞いた噂話が、少女の脳裏をかすめていく。

 森へ近寄ってはいけない。森に入ってはいけない。

 羽音が止んだところで、少女は怖々と目を開いた。そして何もないことを確かめるように、ゆっくりと辺りを見回す。風が強く吹いただけ。鳥が驚いて逃げただけ。そう自分に言い聞かせて、少女はそっと頭に載せた手をのけた。

「ほら、何もないじゃ――」

 ごうっと、凄まじい風の音が聞こえた。

 木々の倒れる音とともに、地響きが少女の体を揺さぶる。立ち上がろうにも驚きで足がもたつき、うまく上体を起こすことさえできなかった。少女は地に手をついたまま、音の出所を確かめようと背後を振り返る。

 日の光を浴びて青々と輝く木々。しかしその奥に、何か見慣れない物があるのを少女の双眸は捉えた。この森にあるはずのない物。空と木と土ぐらいしか見えないはずの景色に、赤い何かが混じっていた。

「え、あ……」

 ミシミシとなぎ倒された木が、また大きな地響きを立てる。鼓膜を叩くような強い風の鳴き声に、少女は悲鳴を上げることもできなかった。もう完全に、凍りついた足は動いてくれそうにない。

「あ、あ」

 土煙と共に巻き上げられた葉が、少女の目の前で舞った。驚きの方が勝って、涙一つこぼれなかった。

 少女へと近づいてくるもの。それは木々を押し倒しながら進む、小さな赤い竜巻だった。

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