第90話:矜持
「……これの名を知っている、だと?」
黒い長髪の男の表情に変化は無い。低い声の抑揚も変わらず淡白。だがその台詞には確実に驚きが含まれていた。沈黙が場を支配し、両者の睨み合いが続く。やがて男が口を開いた。
「……まあいい。闇に沈む者が何を知っていようが、関係ない……『影技、黒隠れ』」
そう言うと、ほんの数瞬で男が姿を消した。それを見た龍斗は、すぐに周囲を探し始めた。しかし何処にも見当たらない。そしてまた、龍斗は背に気配を感じた。
「チッ……何時の間に……!!」
間一髪、身を屈めて苦無を避ける龍斗。仕切り直すため距離を取ろうと走り出す。だが。
「影から逃げること能わず。『影技、影踏み』」
突然、龍斗の体がぴたりと止まった。正確に言えば止まったのはその足。数歩進んだところで、地面に縫い付けられたように微動だにしなくなったのである。振り返ると、苦無を持つ男が龍斗に向かってくる。
「くっ……我に光を、『蛍光』!!」
龍斗はとっさに魔法を放った。光が一瞬だけ辺りを照らす。だが真夜中の闇に慣れた目には、それは充分な目眩ましとなった。
「くっ……何処だ?」
男が目を開けると、そこに龍斗の姿は無かった。視線だけで周囲を見渡すが、そこには森の木があるばかり。下を見るとそこには草の生えた地面。そして大きな岩がごろごろと転がっているばかり。男は背後を警戒し、後ろを振り向こうとした。
その瞬間、男は最も近い岩を視界の端に捕らえた。その岩が動きを見せたからである。ただ動いたのではない。粘土の如く変形し、男の方に『伸びて』きたのである。
「なっ……!?」
予想だにしないその動きに驚きつつも、男は何とか回避行動をとった。が、僅かに遅れ、脛の辺りにその岩の先端が掠った。刃物で切ったように赤い線が滲み出る。
「……間一髪。『幻術』が効いてくれたようで何より」
そんな声が聞こえたかと思うと、変形した岩が更なる変化を始めた。複数の色が現れ、明確な形を取る。男の目には岩から人へ変化したように見えただろう。岩の代わりに、脇差を振り上げた状態の龍斗が姿を現した。
「……どういうことだ……岩が人に……」
「正確には、俺が岩に化けた……『幻術・纏陽炎』にて」
暗くて見えないが、してやったりと笑みを見せる龍斗。男は彼の言葉に目を見開いた。
「幻術、だと? 先祖秘伝の幻の技……何故貴様が知っている、いや、何故扱える? ……何者だ?」
「……先祖秘伝、だと? ……ますます何者だ?」
男の言葉に、笑みを消し眉を顰める龍斗。沈黙が続いたが、やがて男が静かに口を開いた。
「……影忍、黒田影次。忍者氏族『黒影衆』が頭領」
「……黒影衆だと……これを制した者が忍を制し、果ては国を制すると謂われた伝説の一族。数百年前に消息不明になったと聞いていたが……まさか、大陸で生き続けていたというのか」
失われたはずの生ける伝説、それを前にして平然としていられる者はいないだろう。事実、龍斗は驚愕していた。
「一族のことも知るか……して、お前は?」
「……お初にお目にかかる。某、蒼崎龍斗と申す者。大和にて忍を志し修行を積んだ身なれば、かの氏族のこと知り得たるに異は無し」
龍斗は大和の言葉を以て返した。同時に、脇差を元の鞘に納める。黒田もこれに応じ手中の苦無をしまった。
「先祖の祖国大和の忍……改めて聞く。何故幻術が扱える?」
「大陸に来て魔力、魔法なるものを知り得ました。長らくの間にこれを応用し相手に幻覚を発生させる魔力の使い方を会得、これを幻術と称した次第。こちらからもお聞きしたい。黒田殿が使う不可思議な技は一体どういうものですか」
自然体で立つ黒田を、片膝をついた状態で見据える龍斗。間をおいて黒田が答えた。
「我が一族は、始祖の頃より闇神ハデスが使徒。その中で最たる実力者、即ち頭領の座に就く者にハデスより加護が与えられる。我らに与えられしは影の能力。その扱いを影技と称しているだけのこと」
なおも黒田は淡々と言葉を続ける。
「我らに与えられし業は『秩序』……我らは代々、これを乱さんとする因子を見定め闇の内に排除してきた」
黒田の言葉を静かに聞いていた龍斗は、ここで尋ねた。
「……つまり私を秩序を乱す者として排除するつもりだと?」
「長らく続いた反乱の制圧。それを成した実力……一国を滅ぼせる程の智謀を持つお前を、秩序を破る火種と見做すのは間違ってはいまい」
龍斗は暫く何の動きも見せなかった。やがて立ち上がると、嘆息して首を振った。
「……どうやら名高い黒影衆も、ただの暗殺者集団になってしまったか。謀計は忍に必須とされているものの1つ。それを備えていないばかりか認めようともしない……それで忍者を名乗るなど俺からすれば笑止としか言いようがない」
黒田は相変わらずの無表情で静聴していた。龍斗は更に言葉を続ける。
「……それに、俺を狙う理由がそれであるなら話は早い。俺は国を潰したり乗っ取ったりなど断じてしない」
「断言するか、理由は?」
「忍の本分ではないから。何かしらの形でそこに協力するようなことはあっても、主体としてすることは無い」
「……何があっても?」
「大和の教えに曰く、『自ずから約しき盟を破ることなかれ』……二言は無い」
なおも無言で表情も変えず、ただ立っているだけの黒田。変化や内情が見えないというのは実は相手にとって相当な脅威となる。相手が次にとる行動の予測すら困難だからだ。緊張に支配された静寂の中、黒田は肩の力を抜いた。
「……先祖の地から来た、幻の技を会得せし本来の忍……まあ良い。この一件は保留とする」
「有難い」
「だがまだ保留だ。必要性を感じた時にはその命、頂戴する」
「その時は、全力で返り討ちにするまで」
そういうと黒田は、近くにあった木の影に沈んでいき、ついに姿を消した。暫くその場で様子を窺っていた龍斗も、やがて『天駆翔走』を使い森から離れていった。