第50話:帰還
「知り難きこと影の如し、『霧隠れ』」
印を組んで呪文を唱えた龍斗。彼は窓に手をかけると、板を押し上げて森の中へと飛び出した。大きな音をたてないよう慎重に板を下ろし、森の中を歩いていった。
空家を中心に、円を描くように歩いていく龍斗。家の入り口が見えたところでふと足を止めた。さっきまでいた空家はこの鬼人集落の最奥部。ここまで来る道は1つだけ、それは即ちあの場所から出ていく為の道も1つしかないことを意味している。そしてそこには、5人の鬼人。皆一様に空家の方を睨んでいた。
(見張りがついてたか。やっぱり用心に越したことはない)
この『霧隠れ』という術は、文字通り相手から身を隠すために使う。正確に言えば、相手に気付かれないようにするための術である。『即応の霧』と同じように自身の魔力を外に放出するのだが、放出した魔力に感覚を乗せるそれとは違い、放出した魔力を周りに『合わせる』のである。
実は魔力を持つのは人間や亜人だけではない。持つ量の大小、扱えるか否かを無視すれば、この世の全てに魔力が存在する。自然界、特に無生物のものから感じられるごく普通の僅かな魔力。龍斗は自身の魔力を自然界のそれと同調させることで生き物としての存在感を消しているのだ。とはいえ、姿を消しているわけではないため簡単に見つけられることもある。故に龍斗は慎重に、音を極力消しながら、木の陰に隠れながら、見張り5人の横を通り過ぎていった。
分厚い雲に遮られ、その姿を見る事は出来ないが、雲の周りはしっかり茜色になっていた。夕飯の支度をしているのだろう、どの家からも包丁で俎板を叩く音、何かを焼いている香ばしい香りが外にまで漏れている。それを耳や鼻で感じながらてくてく歩く1つの水瓶があった。正面から見れば水瓶が手の平で腹を押さえ、短い足を底から出して歩いているように見える。だが後ろから見てみれば、栗色の髪の少女が水瓶を抱えて歩いているのが分かるだろう。振動で揺れる度に水の跳ねる音がする。やがて1軒の家の裏に回ると、勝手口の傍に中身の詰まった水瓶を置いた。1つ息をついて額の汗を拭く。
「ご苦労じゃったな、マルム」
「あ、お爺様!! ううん、これくらいは大丈夫だよ。これでも立派な鬼人なんだから」
栗色の髪の少女、マルムは得意げに胸を張った。それを見た老人、ゼオルは苦笑する。
「ははは、まあ、無茶はするでないぞ」
「失礼する」
突然声が聞こえたことに驚いた2人。声が聞こえた方を見てみると、そこには雑然と木々が生えているばかり。人がいる気配もない。誰、とマルムが呟いた。それに呼応するかのように、木の影から和服姿の青年が姿を現した。そして何の躊躇も無く土下座した。
「まずは此度の件、あなた方や集落に多大な迷惑をかけたこと深くお詫び申し上げる。……同時に、卑しいこの身の頼み、聞き入れて下さったことに心から感謝いたします」
頭を下げる龍斗を前に、鬼人2人は黙ったままだった。マルムはどうすれば良いか分からず、ゼオルと龍斗を交互に見ている。ゼオルは探るような視線を向けていた。
「聞くが小僧、お前さん何を考えとる? 誰かの差し金か? 恩を売って内に入り、我らを滅ぼそうとでも言うのか?」
「……亜人と人間との間に大きな隔たりがあることは承知しています。ですが、それとは関係ありません。誰の差し金でもありません。『物憑き』が現れ、王国にいると危険と判断したために1人で森に。森の中で気絶していたところを赤髪の……ナツキ殿でしたか、彼女に助けられこの集落に参った次第。それまではここの存在など欠片も知りませんでした。それと、何故自分があなた方を滅ぼさねばならないのか理由を測りかねます」
ゼオルは目を丸くした。しばし沈黙を漂わせ、やがて口を開いた。
「……いつまで頭を下げているつもりだ。面を上げんか」
龍斗は顔を上げた。それでもなお正座は崩していない。
「よくそう無防備でいられるな。亜人が人間を殺そうとするとは思わんのか」
「そうなった時の対策も用意しております。何の言われもないのに大人しく殺されるつもりはありません」
「……立て、いつもでもそうされると落ち着かんわい」
「では、お言葉に甘えて」
立ち上がった龍斗をなおも見据えるゼオル。
「ふん、嘘を言っておるようには見えんが……知っての通り、我々と人間とは遥かな昔から確執がある。そう簡単に人間を信用するわけにはいかん。改めて聞くが、何が目的だ? 何故マルムを解放してくれた?」
「邪推されているような、鬼人族の方々にこちらから危害を加えようなどとは思っておりません。解放した理由は……正直に申せば、自分に必要ないからです」
「な……」
「大陸では当たり前のように制度がありますが、私が生まれ育った国では奴隷制度は原則禁止、禁忌とされていますので。例え制度が解禁されたとしても、一定額を納めれば解放する決まりとなっていました。だがこっちでは違う。人として扱われぬ存在。物と同類の存在。偽善だという自覚はありますが、それでも人を物扱いするこの制度には憤りを感じる。そんなことも関わってはいますが、理由としては自分に必要が無いからです」
「……本当にそれだけなのか?」
「はい」
「……最後に1つ、今更だがお前さん、ワシら鬼人を恐れておらぬように見えるが……普通の人間はワシらを恐れるものだが」
「私は大陸の外から流れてきた人間なので。私が元いた国では、異形は何処にでも存在すると言われました。同時にそれらに対して『恐れるな、畏れろ』とも言われました。種族としての『鬼人』とは違いますが、同じような特徴を持つ『鬼』という異形があります。それらは時に神として祀られていることもあります。単に異形だからといって拒絶、排除する考えではありませんでした。そんな環境で育った故でしょう。私から見たあなた方は、角がある人達だというだけで、それ以上でも以下でもありません」
唖然としていたゼオルは、力が抜けたように肩を落とした。ゆっくりと、力無げに首を振る。
「どうも、ワシらの知る人間とは違いがありすぎるようだ……それでお前さんはどうしたい?」
「『物憑き』の件が治まったのでこれ以上此処にいる理由もありません。エルグレシアで家族が待っていますので、あいつらの元に帰ろうかと」
「……そうか。取り敢えず、孫を助け、奴隷から解放してくれたことは感謝する。有難う」
「いえ、己の身勝手な理由でしたことです。感謝される筋合いはありません」
そう言って首を横に振る龍斗。何も言わない2人を他所に、龍斗は手印を組み始めた。
「其の速きこと風の如し、『天駆翔走』……ま、一抹の不安はありましたが、良かったです。人間と同じように情を持っている。仁義がある。では、お世話になりました。これにて失礼します」
そう言うと龍斗は大きく跳躍、そのまま太陽に向かって宙を駆けていった。姿が見えなくなるまで唖然としていた2人だったが、早く回復したのはマルムだった。彼女は既にこの術を見て知っていたからだ。
「そっか、あの人……龍斗さん? だっけ、空を走ることが出来たんだった。そっか、空なら邪魔するものもないもんね。道を行くより早いか。ねぇ、お爺様、やっぱりあの人悪い人じゃなかったよね」
「ふむ……じゃが、それはそれじゃ。奴はああだが、普通の人間とは大分違うようじゃ。大半がどういう人間か……お前はよく分かっておろう」
「うん……あ、早く晩御飯の支度しなきゃ!!」
「おお、もう日が落ちるか。マルム、火のついた焚き木1本もらえんかね」
「え、何処行くの?」
「最奥の空家。あの様子だと見つからんようこっそり出てきたんじゃないかと思うてな。見張りしとる奴らに教えてやらにゃ」
「姉さん、今日で9日目、よね」
「そうね」
エルグレシア王国セトラベルク地区内にある旅亭『三毛猫』。その一室に2人の少女がいた。レイア・フォルデント・マーティスとミーア・フォルデント・マーティスの姉妹である。向かい合う形で椅子とベッドに腰かけたまま、特に話題も無くじっとしていた。それぞれの目は互いを見ていない。ミーアは簪、レイアはネックレスとそれぞれ手元に目を向けていた。龍斗が失踪してから今まで、彼女達は毎晩こうして過ごしていた。だがそれもこの日までの話だった。
戸を叩く音がした。レイアが返事をして扉を開けたが、そこには誰もいなかった。小首を傾げていると、また音が聞こえてきた。しかし扉はレイアが開けたまま、廊下には誰もいない。
「姉さん、反対だよっ」
妹の言葉に気付いたレイアは扉を閉めて振り返った。そう、音の発生源は窓を塞ぐ板の方だったのだ。互いを見て頷いた姉妹は、同時に板を押し上げた。
「待たせた。ちゃんと帰ってきたぞ」
そこにいたのは、黒髪に藍色の目を持つ和服姿の青年。結界で足場を作っているのだろう、宙に立て膝をついた状態で穏やかな笑みを浮かべていた。
『お帰りなさい、龍斗様!!』
2人の顔色も、声色も、花が開いたように一瞬で明るく輝いた。
蛇足的ですが、なんとか終了。ようやく次に進めますね。しかしネタの整理をつける時間も欲しいので、だいぶ間が空いてしまうかもです。
拙い作品ですがどうぞ、よろしくお願いします。