第21話:レイアの夜
妹が寝静まるのを確認すると、私は音を立てないようゆっくり歩いて部屋を出た。1つは手に持つ燭台の火を消さないようにするため。もう1つは今寝たばかりの妹を起こさないようにするため。蝶番が鳴らないように扉を開け、部屋の外へと左足を出した。
しかし体重をかけた瞬間、木製の床が軋んで音が出てしまった。私は慌てて室内を見た。……良かった、今の音で起きた様子はない。ほっと胸を撫で下ろし慎重に扉を閉めた。蝋燭片手に廊下を歩くのだけれど、またさっきみたいに音が鳴らないかと心配になり、自然歩みが遅くなってしまう。……念のため断っておくと、私は別に太って体重が重いわけではない。幼少の頃から様々な面で気を使ってきたためにそれなりに見目の良い容姿であると密かに自負している。
しかしまさか、それを後悔する日が来るとは思わなかった。どうしてこうなったのだろう。父も母も殺されたのに何故私達だけ残され、奴隷にされたのか? 答えは簡単。海賊が容姿を見て金になると言った、容姿ゆえに売られて奴隷にされ、また容姿を気に入られたが故に買われ……つまり、このような結果になったのは全てこの容姿が生んだ結果。どうしてこうなったのだろう。キリが無いとわかっていても、何度も考えずにはいられなかった。
私は旅亭から出て建物の裏手へ回った。酒場の明かりだろうか、夜だというのにあちらこちらに明りがある。今出てきた旅亭も夜は酒場として営業しているらしく、食堂の方から野太い声と光が漏れてきている。表側は通りに面しているけど、その裏側には何もない。敢えて言うならば、大きな木が一本と、昼間は子供たちの遊び場となる何もない土地だけ。数年前に商人が何かを建てようとしていたけど、ある日盗賊に襲撃されて死亡。計画は頓挫し、以来手つかずの状態なのだと女将さんが教えてくれた。
けれど私は他にもあると感じた。それは闇。かつては、北方大陸にある母国の屋敷にいた頃は見下ろすだけだった、光の無い真っ暗な空間。こちら側にも少し光が漏れているから、完全な闇ではないけれど、すっかり環境が変わってしまった今はそれすら懐かしいと思えてきた。屋敷で見ていた風景と重ねながら空を見た。雲の無い群青の中に大小様々な星が瞬いている。でもしばらくすると景色に違和感を覚えた。おかしい。何処でどう見たところで夜空が変わるわけではないのに。そして気付いた。「変わったのは私の方なんだ」と。確かに夜空は変わらない。しかしあの時私は屋敷の3階、自室のベランダから前を見ていた。でも今は、あの時見下ろしていた闇の中から見上げているのだ。そしてなんという皮肉だろう、今の私の状況にピッタリではないか。そう考えるとあまりに可笑しくてつい笑ってしまった。まあ、どうせ誰もいないのだから周りを気にする必要もないか。
「女の1人歩きとは不用心だな」
突然声を掛けられた私は本当に驚いた。慌てて周りを確認したけど、何所にも姿はない。さっきの感じだとすぐ傍にいたとしか思えないのに。
「……ククク、何処見てるんだ? そっちに俺はいないぞ」
今度は分かった。私の頭上だ。でも、見上げた瞬間私の驚きは更に深くなった。
「ご、ごしゅ――」
「おい、昼間言ったばっかだよな、レイア。お前はもう奴隷じゃねぇから、その呼び方するなって」
「あ……申し訳ございません、龍斗様」
私が背を預けようとしていた大木の上に座っていたのは、他の誰でもないご主人様……東龍斗様だった。月光の影になって表情がよく見えないけれど、あまりいい顔はしていらっしゃらないだろう。何故なら。
「ハァ……あんま変わってないだろそれ。身内にそんなこと言う奴俺は知らないぞ」
そう、この人は主人扱いされることを嫌っている。もっと言えば、奴隷制度そのものを嫌っている。あの人にとって私達は最初からただの人だった。でも、私たちにとってあの人はそうじゃない。家族も家も、何もかもを失い、挙句この我が身すら失いかけていた絶望の中から救ってくれた人。あの日以来、与えられることの無かったものを与えてくれた人。物憑きの一件。あんなことがあったのに、あんなことの真っただ中というのに、私達の身を案じて守ろうとしてくれた人。この人からして頂いたことはどれも身に余る、感謝してもし足りないことばかり。私はこのご恩を忘れたくない。……だからこそ。
「なら、ここにいます。幾ら龍斗様の頼みでも変えるつもりはありませんので」
「確かにお前の自由だが……何も敬語使わんでも……なぁ、ミーア?」
あの人は振り返ることもなくそう言った。振り返ってみると、そこには確かにミーアがいた。建物の影から出した顔と手が、月の光を浴びて白く輝いて見える。その顔は私と同じ、驚きで目を丸くしている。もっともその理由は正反対。ミーアは気づかれたことに、私は気付かなかったことに。
「あ、えと、ごめんなさい。音がしたから目が覚めちゃって、そしたらお姉ちゃんがどこかへ行くのが見えたからそれについてきて……おお、お邪魔してすみません!!」
「別に邪魔じゃないからいいさ。レイアが来たのだって予想外だ。別に俺が呼び出したわけじゃないし」
「そ、そうですか」
ほっとした様子の妹はそのまま私の隣まで来た。そこで肝心なことに気付いた私はあの人を見上げた。
「ところで龍斗様は何故こんな時間にこんな場所に?」
「ああ、ちょっと昔のことを思い出してな。軽い月見に来ただけだ」
私はその視線の先へと顔を向けた。……そこには半円の白い月があった。暫くして、目だけを動かしてあの人を見てみた。月光に照らされ、浮き彫りになったあの人の藍色の眼を見ていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。向こうがこちらに気付いている様子はなく、私はまた月に目を戻した。気付いていたとしてもあの人はきっと気にしない。
……何故だろう。あれほど心を占めていた後悔の念が今はあまり感じられない。いつの間にか重い荷物が肩から降りている。これもあの人のお陰なのだろうか。
「さて、そろそろ戻るか。お前らも、夜更かしは女の敵だぞ?」
『はい』
あの人は木から飛び降りた。私とミーアはその背中を追っていった。
女性1人称って難しいね、うん。しかも大して意味の無い話です。すいません。まあ、練習回としてお見逃しください←