静寂
ディアナは溢れ出る涙を何の躊躇いもなく自分の手の甲に落としてうめいた。
胸の奥が燃えるように熱く、心臓が悲鳴をあげている。
汚れたアーリウスの手の甲に涙が吸い込まれる。その手をディアナはぎゅっと強く握り締めた。
「……ディ…ァ…な……」
「アースッ!」
微かではあるが、息を吐くようなその声にディアナは面をあげ、アーリウスを真っ直ぐに見つめた。
彼女の背後では激しい切り合いが展開され、ついたり離れたりを目にもとまらぬ速さで繰り返して剣を交えている。ディアナはそこから切り離された世界を自分の中に作り出して完全に外界との音を遮断していたが、アーリウスの声を聞き取るのには苦労した。
ディアナは無意識のうちに薄く目を開くアーリウスに手を突き出して、身を乗り出した。
「ごめんなさいっ。私、私が──ッ!」
武器化転身できないために、アースは傷ついてしまった。
「そんなん、かまわねぇよ……気に、すんな」
アーリウスは焦点の合っていない視線をディアナに向けた。
きゅうっと胸の締まる思いがして、ディアナは熱くなった息をゆっくりと吐き出した。
胸の奥が熱い。
「あなたを、守りたかったの……」
「そっ…か……」
アーリウスは血で汚れた顔に笑みを浮かべた。その体からは血が止まることなく、周囲を赤く染めていく。
「アース。私は、貴方の武器であっていい? 私は、あなたの側にいたいの。だから」
生まれてきて初めて出来た“私の場所”は──
「だから貴方の為に、私の命を捧げます」
──貴方の存在であり、それを絶対に失いたくない。
既に瞼を閉じたアーリウスに、自分の言葉が届いていることを願いながら、ディアナは小さく咳き込んだ。それからすぐ地に足がつかない不安定な浮遊感に包まれ、視界が霞んだ。
今まで激しく剣を交えていたゼロヒトが一瞬隙を見せたために、シャークイッドに切り込まれた。
じわりと破れた服に滲み出る赤い血。
ゼロヒトはやはり無表情のままシャークイッドとの間合いをつめると、硬質化させた腕で首筋に打撃を加えた。
「ゼロ、ヒト……?」
全身から力が抜けたシャークイッドが、がっくりと地面に両膝をつくが、ゼロヒトの視線はまっすぐディアナへ向けられていた。
「やっと、始まったのか」
「何が……始まったって?」
シャークイッドが全身に痺れを感じながら聞き返すと、ゼロヒトは振り返らずに告げた。
「覚醒。これでバングルを装着することができる」
「バングル……?」
朦朧とした意識の中、うまく回らない舌を駆使してなんとか聞き返した。
「超小型エネルギー抽出放射装置」
シャークイッドが続きを聞こうと口を開いたが、その時には既にゼロヒトの姿はディアナの側にあった。
先ほどからうずくまったまま動こうとしない少女の腕に、ゼロヒトが例の腕輪を装着させる。遠い目をしたゼロヒトの姿がそこにあった。
* * *
「う゛……ごほっ、ごほっ」
やっとのことで降り積もった瓦礫を押し退け、外に出るとあたりは異様な静けさに包まれていた。
「学園長! ご無事ですか」
「平気だ。それより……」
理事長は服についた埃を払いながら学者顔の男の前に立ち、動きを止めると、
「アーリウス!?」
血糊を貼り付けて倒れる息子の姿に、理事長は顔色を変えて駆け寄った。
「いったい、何があったんだ!」
呆然と立ち尽くす男を振り返って事情を聞き出そうとするが、相手もさっぱりわかっていない様子だった。
「そうだ、街は……敵国の襲撃はどうなっているっ!」
「外に出てみましょう。ここから上にあがれそうです」
男が瓦礫の山を指差し、その上に開いた大きな穴を見た。それは爆発でできたもので、アーリウスが落ちてきた穴でもあった。しかし、アーリウスについていたはずのディアナとゼロヒトの姿はない。
理事長は所々破けたスーツの上着を丸めてアーリウスの首下に差し入れると、さっそく穴にしがみついて外に出ようとする学者顔の男を手伝って、瓦礫の山を登った。
外は暗かったが、星はもう輝いていなかった。
屋上へ出た二人は驚愕を隠し切れないまま、あたりを見渡した。
「いったい、どういうことなんだ。敵国の軍が撤退を始めている……」
男の言葉を聞いた理事長は、あたりを見渡して何かを悟ったように呟いた。
「そうか……」
「あっ、理事長! 学園の生徒が気絶してますよっ」
男の焦燥感のある声に急かされて、理事長も振り返った。
「…ってェ…ん、あれ? 理事長じゃないっすか」
「シャークイッド君。いったい、どうしたんだい」
足早に近づき、傷を診てから理事長はシャークイッドの顔を覗き込んだ。途端、顔色を悪くするシャークイッドの様子に理事長と男がそろって顔を見合わせた。
シャークイッドは顔色を曇らせたまま重い口を開き、ここであったことを何一つ隠さずにすべて話した。ゼロヒトに関することになると、悔しそうに手を硬く握り締めて。
説明し終えて、シャークイッドはふとある事が頭を掠めた。
それはまだ誰もが学園に入ったばかりの頃に、ハナグサの部屋に訪れた時のことである。
つい長時間二人で話し込んでしまい、日も傾き始めた頃にようやく腰をあげて部屋から引き上げようとしたその時、ハナグサがポツリと呟いた。
「あれ? この本片付けたと思ったのに……」
と言って、彼女が手に取ったのは分厚い最新の医学書だった。当時はあまり気に留めなかったが、今も何故か頭の隅に残っていた。
「そういえば戦闘機って、病気にかかるんすか?」
今更のように気になって聞いてみると、学者顔の男が答えた。
「一応肉体をもった人間の変異種が戦闘機という定義だから、通常より耐性はあるけれど、病にかかる事もあるね」
この答えに理事長が口を挟んだ。
「いや、シャークイッド君の話では、ゼロヒトは言葉を操っていたそうだね。すると、別の見解ができる」
「別の、見解?」
「ディアナの事を思い出してくれ。彼女は生まれながらに感情を持ち合わせて生まれた特殊な例だが、ゼロヒトも同じように考えられる」
「まさか、あいつは感情を……?」
「そうだ。ディアナとまったく同じとは考えられないけれど、可能性はある。それにこの戦争もその事実がいくらか関係していると私は考えているんだ」
思いもよらない理事長の言葉に、シャークイッドは思わず息を飲んだ。
「近年になって分かってきたことなのだが、健常者の体質が戦闘機へと変化し、さらに感情欠落がある段階から激しく起こる病気が存在していたのだよ」
「それと今回の戦争が、どう関係してるんすか」
「それはね。その病気に隣国の王太子殿下がかかっているという噂が実はあったんだよ。王太子殿下の名はフランセルといって、隣国の陛下が彼を特に愛でていたらしいが、日に日に言葉と表情を亡くしていく殿下の姿を見て、陛下は非常に嘆いたそうだよ。そしてまた、悲しみによって周りが見えなくなってしまい、人民を虐げる政治を行うようになってしまった。国状は悪化の一歩を辿り、遂に陛下の悲しみの矛先は国中の戦闘機に集中して、彼らを酷使させるようになったんだ……私はその国状を確かめるために調査員を編成して向かったのだが、そこでディアナと出会った」
理事長は遠い地に思いを馳せ、瞼を閉じた。
「今回の襲撃はディアナの存在に気づいた国王によるものだ。たぶん、戦闘機でありながら感情を保有する彼女の存在が、王太子殿下に再び感情を取り戻させる鍵になると考えてことだろう。だから“如来比如”──仏と同様の力を持つ者──と呼んだのだろうね」
「ちょ、待ってくださいよ。そのニョライヒジョって言ったのはゼロヒトなんすよ!? まるで、ゼロヒトがその……敵国の人間みたいな」
「悲しい事だが、君の推測はおおかた外れではいないだろうね……」
明らかに衝撃と動揺を隠しきれないシャークイッドに、理事長は苦笑を浮かべた。遠くに燃える戦火のあとを見ると、くすぶった煙が細く空に伸びてたなびいていた。
「理事長。ゼロヒトの言っていた“超小型エネルギー抽出放射装置”ってなんすか?」
シャークイッドが思い出したようにつぶやいた。
脇に並び立っていた理事長は難しく顔を引き吊らせると、シャークイッドの強い要望もあって諦めて白状した。
「例の陛下が造らせた代物だよ」
「それを使うと? 抽出放射器ってことは、かなりの攻撃力を引き出せるってことっすよね」
今までになく興味津々な様子で、少し元気を取り戻したシャークイッドが振り返った。しかし理事長は彼の向けてきた表情とは相反して、苦虫を噛み潰すような顔をして言った。
「違うんだ。ディアナは攻撃系の戦闘機ではない。治癒もしくは防御といったらいいのかな……彼女は戦闘機でありながら、戦闘機を救う存在なのだ。“超小型エネルギー抽出放射装置”というのは本来覚醒できなかった戦闘機に対して、人為的に行う覚醒装置なんだ」
「戦闘機を……救う。それじゃあ、やっぱりディアナは!」
シャークイッドが期待を込めた目で理事長を見た。
「しかし、代償が大きすぎた!!」
突然、理事長が頭を大きく振って唸るように言葉を発した。その声の大きさにビクリと肩を震わせると、シャークイッドは心配そうに隣を振り返った。理事長の眼の下に薄っすらと隈ができている。すぐ目の前に開いた大きな穴の向こうにある、ぱっくり開いた扉を見つめたまま、理事長が次の言葉を慎重に声に乗せた。
「ディアナは体調不良のままで、術をするにもただでさえ限度があるというのに、その状態で発動したら彼女の体の方が耐えられない」
それはつまり何だといいたいのか。問い掛けるようにシャークイッドは理事長を食い入る様に見つめ続けた。
この目の前にいる人は本当に自分の知っている『理事長』なのかどうか、一度確認を取らなければ不安になってしまうほど、その姿は明らかに動揺し、取り乱していた。
「彼女には自然的覚醒をしてもらおうと、息子をパートナーとしてつけたが……まさかこの短期間で二人の間に絆が生まれるとは思ってもいなかった」
それから理事長は一言も言葉を口にすること無く、呆然と屋上に立ち尽くした。
国家間の戦争を引き起こす発端を、自らつくってしまった理事長の調査団派遣という決断。そして、ディアナの覚醒後の力を予測し、隣国の王太子殿下フランセルの病を治癒して戦争を事前に食い止めようとした彼の良心的作戦が、結果として大きな悲劇を生んでしまう事になってしまった。
シャークイッドは何も答えられず、俯き加減のまま唾を飲み下した。
理事長とシャークイッドが暫く沈黙を保っていると、背後で裏返った男の声が上あがった。
「アーリウス!」
身構えたシャークイッドの前に、折れた剣を学者顔の男に突きつけたアーリウスの血まみれた姿があった。青白い顔をして、足元に血の固まった唾を吐く。それから燃えるような視線を彼は理事長に向けた。
「ディアナをどこにやったんだ、クソ親父ッ!」
「剣をしまいなさい、アーリウス。私が気づいた時にはもう彼女は居なかったよ」
「……っざけんな! テメェのいうことなんか信用できるか!」
「ホントっすよ、隊長。ディアナは、ゼロヒトが連れ去ったと思うっす……すいません」
暗く重い空気が辺りを取り巻いた。アーリウスは興味を無くしたように学者顔の男を突き放し、折れた剣を忌々しそうに手放した。
シャークイッドは複雑な表情を浮かべて沈黙する。
「くそっ!」
「どこ行くんだ、アーリウス!」
アーリウスは力任せに腕についた真紅の腕章を引き千切り、か殴り捨てると旧校舎の薄闇の中へ吸い込まれるように消えて行った。
薄っすらと、空が次第に明けはじめる。
消えたアーリウスの後ろ姿を見つめていたシャークイッドが、視線を手元に落とした。
握り締めて白くなった掌に、気づいた時には暖かい光が舞い降りていた。