バトン
それは、あまりに唐突すぎる出来事だった。
「伊藤さんは、今日の負傷で、運動会には間に合わないと思います」
大将のせいだ。それはもう分かっている。
「伊藤さんの分まで、がんばりましょう!」
しかし、トラブルは時に人に幸福を与える。
「リレーは、伊藤さんの代わりに川崎さんが走ることになりました。ですよね? 体育委員」
「そうです」
「では、起立」
俺は、ある決断をする。
「礼っ」
「さようならー」
言うなり、教室じゅうに話し声や歓声があがる。
そんな中、俺は中村に向かってガッツポーズをする。
中村は、だめだこりゃ、とでも言うように、口をへの字に曲げる。
「いい加減諦めろ、冴えない陸上部員さん」
「違うんだよ」
違う、違うのさ。
「違うって――」
「これで諦めがつく。明後日、俺はナナのことを諦める」
中村の言葉をさえぎって放った言葉は、自分の心の中でやまびこのように響く。
「ナナにバトンを渡した瞬間、俺はすぱッと諦める」
「……かっこつけて走るんじゃねえよ、ちゃんと走れよ。そんで、ナナの顔見て、バトンちゃんと渡して……。それから空見てみ、スカッとするぜ」
「ああ、そうする」
「がんばれよ」
俺は頷く。
「わりい、新部長として呼ばれてんだ、先に帰ってて」
「分かった」
小走りで教室から出てく中村の背中を見送る。完全に見えなくなった後、俺も歩を進める。
運動会は明後日だ。天気予報も、確か晴れだった。
ナナが幸せになるには、こっちが身を引く。それが一番いい。
ナナ……もう少し一緒にいたかったけど、無理だね。内山と幸せになって。今までありがとう。そしてこれからも、この学校から卒業するまで、お互い楽しく過ごそう。
グラウンドにある応援席までいすを運ばなければならない。外に出た瞬間、まばゆいばかりの日差しが差し込んできた。
「やっぱ暑いよ、晴れないほうがいいや、やっぱ」
弱音を吐いている中村に向かって村上がつっこんでくる。
「運動会っつったら、晴れて日光を体中に浴びている中でやるのが一番でしょー」
「やだよー暑いよー」
空には、少しばかりの遠慮がちにいる雲と、これでもか、と輝いている太陽が見える。
目を細めながら空に親指を立てた右手を振りかざした。
「次の種目は、2年生クラス対抗全員リレーです。2年生が入場してきました」
相変わらず、内山の隣は嫌だったが、仕方ない。ナナの好きな人を、傷つけちゃいけないもんな。
「佐野ー! スタート失敗すんなよー!」
声をかけたが、気づいてないようだ。集中しすぎだと思う……。
「位置にぃついて……」
失敗すんなよ。心の中でつぶやく。
「よぉい……」
ピストルがなった。
佐野は最高のスタートを切れた。若干、フライング気味の1クラスには先を越されたが、2番手でバトンをつないだ。
だが、その後、ずるずる後退していき、俺にバトンが渡るまでには4番手になっていた。5クラスあるので、まだ後ろにはいるのだが。
これで、終わり……。
「ヘイ、矢野ー! もう少し!」
そこそこ速い矢野がバトンを振り、走ってくる。
助走を始める。
バトン、来た!
バトンを握る。走る。風になる。1人、また1人と、抜かしてゆく。
先頭を走っているクラスに迫る。
ナナが見えてきた。手を抜かず、風になり続ける。
手が出てきた。バトンをそこに差し出す。
気を抜いてしまった。
レーンの内側から足が出てきた。
ナナの足にかかる。
危ないっ!
ナナの手を掴む……