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「最後の約束は、言わないままで」

作者: 釣鐘銅鑼
掲載日:2026/04/12

改札を出た瞬間、潮の匂いがした。


 湿った風が、肺の奥にゆっくりと入り込んでくる。駅舎の壁は古く、白い塗装はところどころ剥がれている。変わらない景色だった。


 変わっていない、ということが、少しだけ息苦しかった。


 切符をしまう手が遅れる。


 帰ってきた、と思う。


 そして、帰ってきてしまった、とも思う。


「……久しぶり」


 声がして、振り返る。


 彼女がいた。


 改札の少し外、昔と同じ位置に立っている。待ち合わせでもしていたかのように自然な立ち方で、同じように笑っていた。


「帰ってきたんだ」


「少しだけ」


 それだけ言うと、彼女は小さく頷く。


 それ以上は聞かない。その距離感が、昔と変わっていないことに、わずかに安堵する。


「歩こ」


 先に歩き出す。


 俺は一歩遅れて、それを追う。


 靴底がアスファルトを擦る音が、やけに乾いて聞こえた。



 坂道に差し掛かると、風が強くなる。


 海から上がってくる風だと、すぐにわかる。


「ここ、覚えてる?」


 彼女が振り返らずに言う。


「ああ。よく走ったな」


「毎回、本気だったよね」


「お前、途中で近道してただろ」


「してないって」


 軽く笑う。


 その笑い方は、昔と同じだった。


 ただ、言葉のあとに、ほんのわずかな空白がある。


 呼吸を整えるための間のような、あるいは言葉を選び直すための沈黙のような。


 気づかなければ、そのまま通り過ぎる程度の違いだった。



 公園のブランコは、鎖が錆びていた。


 風に揺れるたび、短く軋む。


 彼女は座らない。


 鎖に指先を触れて、その冷たさを確かめるように、ほんの少しだけ押す。


「ねえ」


 視線を落としたまま言う。


「あの約束、覚えてる?」


 胸の奥に、何かが沈む。


「覚えてる」


「そっか」


 それだけだった。


 責めるでもなく、懐かしむでもなく、ただ確認するように。


 鎖が、もう一度鳴る。


 その音が、やけに長く残る。



 商店街は、半分以上が閉まっていた。


 シャッターの隙間から埃の匂いがする。夕方の光が細く差し込み、床に長い影を落としている。


 彼女はゆっくり歩く。


 急ぐ様子はないが、立ち止まることもない。


 同じ速さで、同じ幅で、一定の時間をなぞるように。


 その歩き方に、違和感がある。


 理由はわかりかけて、やめる。


 言葉にすれば、戻れなくなる気がした。



 見失ったのは、その日の帰りだった。


 少し目を離しただけで、姿が消えていた。


 探して、見つける。


 白い建物の前だった。


 病院。


 ガラス越しの光が、外に滲んでいる。


 彼女は一度、その奥を見た。


 それからこちらに気づき、少しだけ間を置いて笑う。


「ごめん。ちょっと寄るね」


「……ああ」


「すぐ終わるから」


 そう言って、入口の前に立つ。


 だが、入らない。


 ほんの数秒、そこに立ったまま動かない。


 何かを確かめるように。


 あるいは、何かを諦めるように。


 やがて、こちらへ戻ってくる。


「行こ」


 何事もなかったように言う。


 その“何事もなさ”だけが、妙に重く残る。



 最後に会ったのは、夜の海だった。


 人はいない。波の音だけが規則的に繰り返されている。


 防波堤に座ると、コンクリートの冷たさが、服越しにじわりと伝わる。


「ねえ」


 隣で、彼女が言う。


「今なら、行けるよ」


 言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかる。


「約束」


 あのときの声が、遠くから重なる。


「この町を出るって約束」


 遠くの灯りが揺れている。その向こうに、見たことのない場所が広がっている気がした。


「今なら、まだ間に合うよ」


 静かな声だった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


 考える時間はあったはずなのに、結局、口から出たのは変わらない言葉だった。


「……無理だ」


 自分の声だけが、やけに近い。


「仕事もあるし」


 それが理由のすべてではないと、言いながらわかっている。


 ただ、今の自分を守るための言葉だった。


 彼女は少しだけ黙る。


 波が、一つ遅れて砕ける。


「そっか」


 短く言う。


 それだけで、すべてが終わる。


「じゃあ、また今度ね」


 笑う。


 その笑顔は、何も求めていなかった。


 だから、何も返せなかった。


 名前を呼ぶ理由が、見つからなかった。



 それが、最後だった。



 彼女が亡くなったと知ったのは、数日後だった。


 病院に通っていたこと。


 もう長くはなかったこと。


 あのときの違和感が、一つずつ形になる。


 すべて、あとから整う。



 手紙は、短かった。


 紙は薄く、折り目がわずかに歪んでいる。


 


 ――約束、待ってたよ。


 


 それだけで、息が詰まる。


 


 ――でもね、守れなかったのは、たぶん私も同じだから。


 


 否定は、声にならない。


 


 ――本当は、全部言うつもりだった。


 ――でも、やめた。


 


 行間が、少し広い。


 


 ――知ったら、連れて出してくれたでしょ。


 


 そこで、止まる。


 最後の一行だけ、少し離れている。


 


 ――だから、あの日、断られてよかった。


 



 もう一度、海に来る。


 改札を出たときと同じ匂いがする。


 潮の匂いは、少しも変わらない。


 同じ場所に座る。


 コンクリートは、前より冷たく感じない。


 慣れただけかもしれない。


 隣には、誰もいない。


 最初から、そうだったみたいに。


「……なあ」


 声に出すと、風にほどける。


「一回くらい、無理してもよかっただろ」


 波の音が返る。


 それだけだ。


 あの夜と同じ音。


 違うのは、もう選べないことだけだ。


 潮の匂いが、少しだけ薄れる。


 気のせいかもしれない。


 それでも、そう思った。


 あのとき、言わなかった言葉を思い出す。


 思い出して、やめる。


 言葉にしてしまえば、ここに残っているものまで消えてしまいそうで。


 立ち上がる。


 風が吹く。


 匂いは、もうほとんど残っていない。

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