「最後の約束は、言わないままで」
改札を出た瞬間、潮の匂いがした。
湿った風が、肺の奥にゆっくりと入り込んでくる。駅舎の壁は古く、白い塗装はところどころ剥がれている。変わらない景色だった。
変わっていない、ということが、少しだけ息苦しかった。
切符をしまう手が遅れる。
帰ってきた、と思う。
そして、帰ってきてしまった、とも思う。
「……久しぶり」
声がして、振り返る。
彼女がいた。
改札の少し外、昔と同じ位置に立っている。待ち合わせでもしていたかのように自然な立ち方で、同じように笑っていた。
「帰ってきたんだ」
「少しだけ」
それだけ言うと、彼女は小さく頷く。
それ以上は聞かない。その距離感が、昔と変わっていないことに、わずかに安堵する。
「歩こ」
先に歩き出す。
俺は一歩遅れて、それを追う。
靴底がアスファルトを擦る音が、やけに乾いて聞こえた。
⸻
坂道に差し掛かると、風が強くなる。
海から上がってくる風だと、すぐにわかる。
「ここ、覚えてる?」
彼女が振り返らずに言う。
「ああ。よく走ったな」
「毎回、本気だったよね」
「お前、途中で近道してただろ」
「してないって」
軽く笑う。
その笑い方は、昔と同じだった。
ただ、言葉のあとに、ほんのわずかな空白がある。
呼吸を整えるための間のような、あるいは言葉を選び直すための沈黙のような。
気づかなければ、そのまま通り過ぎる程度の違いだった。
⸻
公園のブランコは、鎖が錆びていた。
風に揺れるたび、短く軋む。
彼女は座らない。
鎖に指先を触れて、その冷たさを確かめるように、ほんの少しだけ押す。
「ねえ」
視線を落としたまま言う。
「あの約束、覚えてる?」
胸の奥に、何かが沈む。
「覚えてる」
「そっか」
それだけだった。
責めるでもなく、懐かしむでもなく、ただ確認するように。
鎖が、もう一度鳴る。
その音が、やけに長く残る。
⸻
商店街は、半分以上が閉まっていた。
シャッターの隙間から埃の匂いがする。夕方の光が細く差し込み、床に長い影を落としている。
彼女はゆっくり歩く。
急ぐ様子はないが、立ち止まることもない。
同じ速さで、同じ幅で、一定の時間をなぞるように。
その歩き方に、違和感がある。
理由はわかりかけて、やめる。
言葉にすれば、戻れなくなる気がした。
⸻
見失ったのは、その日の帰りだった。
少し目を離しただけで、姿が消えていた。
探して、見つける。
白い建物の前だった。
病院。
ガラス越しの光が、外に滲んでいる。
彼女は一度、その奥を見た。
それからこちらに気づき、少しだけ間を置いて笑う。
「ごめん。ちょっと寄るね」
「……ああ」
「すぐ終わるから」
そう言って、入口の前に立つ。
だが、入らない。
ほんの数秒、そこに立ったまま動かない。
何かを確かめるように。
あるいは、何かを諦めるように。
やがて、こちらへ戻ってくる。
「行こ」
何事もなかったように言う。
その“何事もなさ”だけが、妙に重く残る。
⸻
最後に会ったのは、夜の海だった。
人はいない。波の音だけが規則的に繰り返されている。
防波堤に座ると、コンクリートの冷たさが、服越しにじわりと伝わる。
「ねえ」
隣で、彼女が言う。
「今なら、行けるよ」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかる。
「約束」
あのときの声が、遠くから重なる。
「この町を出るって約束」
遠くの灯りが揺れている。その向こうに、見たことのない場所が広がっている気がした。
「今なら、まだ間に合うよ」
静かな声だった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
考える時間はあったはずなのに、結局、口から出たのは変わらない言葉だった。
「……無理だ」
自分の声だけが、やけに近い。
「仕事もあるし」
それが理由のすべてではないと、言いながらわかっている。
ただ、今の自分を守るための言葉だった。
彼女は少しだけ黙る。
波が、一つ遅れて砕ける。
「そっか」
短く言う。
それだけで、すべてが終わる。
「じゃあ、また今度ね」
笑う。
その笑顔は、何も求めていなかった。
だから、何も返せなかった。
名前を呼ぶ理由が、見つからなかった。
⸻
それが、最後だった。
⸻
彼女が亡くなったと知ったのは、数日後だった。
病院に通っていたこと。
もう長くはなかったこと。
あのときの違和感が、一つずつ形になる。
すべて、あとから整う。
⸻
手紙は、短かった。
紙は薄く、折り目がわずかに歪んでいる。
――約束、待ってたよ。
それだけで、息が詰まる。
――でもね、守れなかったのは、たぶん私も同じだから。
否定は、声にならない。
――本当は、全部言うつもりだった。
――でも、やめた。
行間が、少し広い。
――知ったら、連れて出してくれたでしょ。
そこで、止まる。
最後の一行だけ、少し離れている。
――だから、あの日、断られてよかった。
⸻
もう一度、海に来る。
改札を出たときと同じ匂いがする。
潮の匂いは、少しも変わらない。
同じ場所に座る。
コンクリートは、前より冷たく感じない。
慣れただけかもしれない。
隣には、誰もいない。
最初から、そうだったみたいに。
「……なあ」
声に出すと、風にほどける。
「一回くらい、無理してもよかっただろ」
波の音が返る。
それだけだ。
あの夜と同じ音。
違うのは、もう選べないことだけだ。
潮の匂いが、少しだけ薄れる。
気のせいかもしれない。
それでも、そう思った。
あのとき、言わなかった言葉を思い出す。
思い出して、やめる。
言葉にしてしまえば、ここに残っているものまで消えてしまいそうで。
立ち上がる。
風が吹く。
匂いは、もうほとんど残っていない。




