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異世界転生悪役令嬢弁護士 橋本理沙の事件簿

悪役令嬢弁護士、厨房長のレシピを盗んだ元弟子を論破したいので、全メニュー食べ比べてもいいですか?

掲載日:2026/04/04

「悪役令嬢弁護士」シリーズ第3話です。前世が弁護士の主人公が、乙女ゲームの悪役令嬢に転生し、断罪イベントを法的思考で切り抜けた後、異世界で弁護士のような仕事をしている——という設定です。これだけ分かれば、この話だけでも楽しめます。

(もっと知りたい方は、第1話「悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します」からどうぞ!)


一 依頼


 婚約破棄代理人として名を上げてから、一か月。


 「名を上げた」は正確ではない。「面倒ごとを引き受ける物好きな令嬢がいる」と認知された、というほうが近い。


 最近は「弁護士」と名乗ることにした。もちろん、この世界にそんな制度はない。王国法典に「弁護」という古い言葉を見つけた。「他者の利益のために代わりに語る」。意味としてはぴったりだ。それに「士」をつけた。「弁護する者」で「弁護士」。前世と同じ響きになったのは偶然だけど——悪くない。カタリナには「代理人のもっとかっこいい言い方」と説明した。深くは聞かれなかった。


 手紙は毎日来る。カタリナが三つの山に仕分けてくれる。法律相談、人生相談、「その他」。——問題は「その他」の山が日に日に巨大化していることだ。相談と呼べるかも怪しいものが紛れ込んでいる。前世でも同じだった。弁護士事務所に離婚の相談に来たはずなのに、帰り際に「先生、うちの猫が家出したんですが法的に取り戻せますか」と聞かれた。取り戻せない。


「カタリナ。今日の『その他』は?」


「まず、猫の件の続報です」


「猫の件」


「飼い猫が隣家の猫と駆け落ちした伯爵夫人。子猫が三匹生まれたそうで、養育費の分担を求めてます」


「猫に養育費。——前世にも似た相談はあった。答えは猫には当事者能力がないから、飼い主の管理責任ね。受けないけど」


「次は、庭師の件」


「庭師」


「『薔薇を北向きに植えろと言ったのに南向きに植えた。契約違反か』」


「それは——北と南で日照条件が違うから園芸的には正当な判断よ。むしろ契約不履行の問題になりそうだけど、庭師のほうが正しい。受けないけど」


「最後に、これ」


「何?」


「『うちの息子がカタリナ様に想いを寄せております。脈はありますか。参考までに息子の肖像画を同封します』」


「破いて」


「もう破きました。肖像画も」


「……肖像画は見た?」


「見ました。ちょっと太ってました」


「カタリナ。外見で人を判断するのは——」


「ルイーゼ様、今『破いて』とおっしゃいましたよね。判断は済んでいるかと」


(正論だ。助手に論破されている。成長が早い。嬉しいような、恐ろしいような。——それにしても、なぜ「脈はありますか」と聞かれただけで「破いて」と言ったのか。反射的に。弁護士は反射で判断しない。理由のない判断は弁護士失格だ。——理由は……ないわ。次)


 ある朝。相談室のドアが、遠慮がちに叩かれた。


 開けた。


 厨房長のヨーゼフだった。


(……厨房長?)


 嵐の日でも平然と鍋をふるう男。炎の前に立つ姿は戦場の将軍。焼き菓子に妥協したことは——前世のどの弁護士より——一度もないはずだ。


 なのに、手が震えている。


「お嬢様。折り入って、ご相談が」


「座ってください」


 座った。ハーブティーに手をつけない。


(お茶を淹れてくれるのはいつもこの人なのに、客の側に座ると途端にぎこちなくなる。前世の依頼者もそうだった。自分が助ける側の時は堂々としていた建設会社の社長が、相談に来ると声が小さくなる。人は弱みを見せるのが苦手なのだ。それは異世界でも同じだ)


 カタリナが焼き菓子を皿に盛った。今朝ヨーゼフが私のために焼いたものだ。


 三十秒の沈黙。その間に、ヨーゼフは無意識に焼き菓子を一枚つまんだ。


「厨房長。それ、わたくしのです」


「……あ」


 もう一口食べた。しかも、さっきより大きい一口。


「ちょっと待って。いま、なぜ食べ進めたの」


「……無意識でございました」


「しかもさっきより大きい一口で」


「……重ね重ね、申し訳ございません」


(よほど動揺している。前世でもこういう人はいた。ペンを回す人、書類を折る人、爪を噛む人。この人は焼き菓子を食べる。ある意味一番実害がある。被害者は私だ)


 カタリナが黙って一枚追加した。


(有能。この子は本当に有能だ。前世の事務所にほしかった。前世の事務員は五時に帰った。それは当然の権利だが)


「……王都に、レストランができたそうです。半年ほど前に」


「はい」


「そこの料理が、わたくしのレシピと——同じなのです」


「同じ?」


「焦がし菓子。羊肉の香草焼き。蜂蜜のクッキー。木の実のタルト。冬の根菜スープ。全てわたくしが二十年以上かけたレシピです」


「料理人は?」


 声が震えた。


「ハインツ。わたくしの——元弟子です」


 怒りではなく、悲しみだ。


「三年前に喧嘩別れで出て行きました。独立は構わない。でも——」


「でも?」


「あの子は客に『全て自分が考案した』と言っているそうです。パトロンのマルテ伯爵にもそう説明している。それどころか——以前いた厨房は『古臭い爺さんがやっていた』と」


(五年間育てた師匠を「古臭い爺さん」。——前世でもいた。育ててもらった先輩弁護士を「あの人は時代遅れ」と陰で言うイソ弁。イソ弁——居候弁護士の略。つまり、雇用されてボスから給料を貰って働いている弁護士のことだ。「弁護士は独立が原則」という考えがあるから、勤務していても「居候」扱い。なんとも古い業界だ。なお、イソギンチャク弁護士の略ではない)


「確認させてください。悔しいのは、レシピを使われたこと? それとも——」


「自分が考えたと、嘘をつかれたことです」


 やはりだ。


(前世のデジャヴだ。弁護士・橋本理沙が受けた著作権紛争。長谷川さんも同じ構造だった。「パクリだ」と言われて傷ついたのではなく、作品を否定されたことが辛かった。今回は鏡の裏。パクられた側が声を上げられずにいる)


「引き受けます」


「でも、料理人の世界の話で——」


「わたくしは代理人です。料理人でも貴族でも、嘘で他人の功績を奪うなら、わたくしの仕事です。——それに」


「それに?」


「厨房長の焼き菓子を十三年間食べてきた恩がありますから。恩を受けた人が困っていたら、動くのが弁護士です」


(前世だったら「恩で動くのは弁護士倫理的にどうか」と言われるが、この世界に弁護士会も、綱紀委員会もない。ないものは怒られない)


 ヨーゼフの目が潤んだ。——そして、また無意識に焼き菓子に手を伸ばした。


「厨房長」


「はい」


「それもわたくしのです」


「……三度目でございますね」


「三度目です」


二 調査(食べる仕事)


 三日後。王都。ハインツの店「金の竈」。


 客として潜入した。カタリナと二人で。


「ルイーゼ様。変装は?」


「不要よ。ただの客として食事する」


「服装はどうしますか。いつものドレスだと目立ちません?」


「目立たない程度のドレスで。——カタリナ、あなた、まさか今日のためにおしゃれしてきた?」


 カタリナは確かにいつもと違った。髪を少し巻いている。耳元に小さな花の飾り。


「調査にはふさわしい服装が必要だと——」


「食事を楽しみに来たでしょう」


「…………半分くらいは」


(正直でよろしい。——でも、似合っている。この子は少しおしゃれをすると驚くほど印象が変わる。前世で一緒にランチに行く同僚がいたら、こういう感じだったかもしれない。いなかったけど)


 席に案内される時、給仕が「お二人でお食事ですか。素敵ですね」と言った。


(何が素敵だ。仕事だ。——いや、端から見たら王都のレストランで二人きりの食事だ。デートに見えるかもしれない。見えないでほしい。見えてもいいけど。いや、よくない)


 店は瀟洒だった。白壁に金の飾り窓。マルテ伯爵の出資らしい華やかさ。


 入口の看板。


 「天才料理人ハインツが腕をふるう、独創的な料理の数々」


(「天才」で「独創的」。形容詞が二つ嘘な可能性がある。看板は商品の由来表示。弁護士はまず看板を読む。前世では店の看板より先にGoogleの口コミを読んだものだが、この世界にGoogleはない。残念だ)


 メニューを開く。全品「ハインツ考案」と堂々記載。


「全品注文します」


「五品全部ですか?」


「証拠は網羅的に集めるのが鉄則よ」


「では、わたくしも同じものを」


「二人分で十品」


「調査の再現性には——」


「はいはい。再現性ね。——司法研修所の教官が聞いたら泣く再現性だけど」


「シホウケンシュウショ……?」


「独り言。気にしないで」


 料理が来た。


 一品目。焦がし菓子。一口。——手が止まった。


「この焦がし加減……」


 カタリナも食べた。目を閉じた。三秒。五秒。長い。


「カタリナ。味の確認に五秒は長い」


「……堪能してました」


「堪能するな。分析して」


「分析結果です。厨房長のと同じです」


「もう少し具体的に」


「バターの溶け方が同じ。後味のレモンの余韻が同じ。焦がし加減の色も同じ。——あと、すごくおいしいです」


「最後の一言は分析ではない」


(でも同意する。おいしい。——仕事だけど)


「カタリナ。同じだけじゃない。同じ『間違い方』をしている」


「間違い方?」


「バターを入れるタイミングが一般的なレシピとズレている。ヨーゼフ独自の手法よ。理由は知らないけれど、ハインツの菓子にも同じズレがある。自分で試行錯誤したなら、自分なりの別のクセが出るはず」


「なるほど……コピーだと原本のクセまで再現される、と」


「そう。——以前似た事件で学んだ原則よ。オリジナルとコピーの違いを『レシピに例えると分かりやすい』と説明したことがあって。——まさかその比喩が本物のレシピ紛争になるとは」


「何の話ですか? 予言者かなんかやってたんですか?」


「気にしないで。——予言者だったらもっと稼げそうね」


 二品目。羊肉の香草焼き。ローズマリーが多い。明らかに。


「ルイーゼ様。このローズマリーの量——」


「ヨーゼフと同じ。しかも切り方が同じ。葉を手で千切っている。ナイフで刻んでない。これもヨーゼフの癖よ」


「そこまで分かるんですか」


「十三年間食べてるもの。分からないほうがおかしい」


(弁護士が十三年間の食事記録を舌で保存していた。前世ではExcelに記録したが、今世では舌がデータベースだ。なんてアナログな)


 三品目。蜂蜜クッキー。蜂蜜にラベンダーの香り。——同じ。


「カタリナ。この蜂蜜の香り、分かる?」


「ラベンダーですね。厨房長が使う蜂蜜と同じ産地です。——わたくし、蜂蜜の産地まで嗅ぎ分けられるようになったんですが、これは成長ですか、それとも食い意地ですか」


「両方よ。弁護士の能力に必要なのは論理と観察と味覚。三つ目は教科書に載ってないけど」


 四品目。冬の根菜スープ。私が食べる。カタリナがテーブルの下でこっそりメモを取る。私が食べる。カタリナが書く。周りの客に気づかれないように、自然な手つきで。——この子、いつの間にか隠密技術まで身につけている。


(なんだこの完璧な分業は。前世の事務所でもこんなに連携取れなかった。加藤くん、見てるか。私は今、異世界でスープを飲みながら証拠収集をしている。あの事務所では絶対にできなかった仕事だ。——いや、できなくて正常だ)


「五品目。木の実のタルトです。——やはり同じ」


「証拠は十分ね」


「……あの、ルイーゼ様」


「何?」


「デザートの追加は証拠として必要でしょうか」


「必要ありません」


「では個人的に。季節の果物のコンポートが——」


「わたくしもいただくわ」


「あ、あとチーズのタルトも——」


「それは証拠にも個人的興味にもならないわよ」


「……おなかがすいてます」


「十品食べて?」


「ルイーゼ様も追加注文してますよね?」


「…………」


(正論で返すな)


 デザートを食べながら、給仕に聞いた。


「料理長さんは独学ですか?」


「はい! 天才肌です。田舎で古臭い爺さんの下にいた時期もあるようですが——」


「ありがとう。もう十分です」


(田舎ってどこだよ。ここだよ。エーレンフェルト領のことだよ。——舞踏会の会場より、厨房のほうが立派だというのに)


(給仕が下がった後、カタリナが小声で)


「『爺さん』って言いましたね」


「ええ。ハインツがスタッフにもそう教えている。組織ぐるみの虚偽ね」


「組織ぐるみ、というか——」


「料理人一人と給仕一人と伯爵一人の組織だけど」


「小さい組織ですね」


「組織の規模は問題じゃないわ。嘘の規模が問題」


 会計。——一瞬、固まった。


「ルイーゼ様。お会計が——」


「見た。金貨六枚」


「金貨六枚!? 十品とデザートで六枚——」


「高級店だからね。前世で銀座の寿司屋に証拠収集に行った先輩弁護士を思い出す。経費で落としたら事務所に怒られたらしい。——この場合、エーレンフェルト家の家計から出すことになる。お父様に怒られるかしら」


「たぶん怒られます」


「『証拠収集費用』として報告するわ。嘘はついてない」


「デザートの分は?」


「…………福利厚生費」


 ——だが、一度では足りなかった。


 徹底的な調査が必要だ。


 二度目。ビュッフェスタイルの特別営業日。全メニューが小皿で並ぶ。


「ルイーゼ様、これは証拠収集ですか、それとも食べ放題ですか」


「両方よ。証拠は量が命」


 三度目。ハインツの「新作メニュー」が出た日。——新作のはずなのに、ヨーゼフのレシピ帳にある改良案との類似度が高い。ただし味は劣る。


(オリジナルを超えられない。当然だ。手順はコピーできても、「なぜそうしたか」は盗めない。改良のセンスだけは師匠の教えなしには育たない。それが技術の伝承というものだ)


 四度目。夜の部。ワインが出る。


「ルイーゼ様。夜の営業も調べるべきです」


「なぜ?」


「料理人は夜のほうが手を抜きやすいと、厨房長が言っていました。——あと、ここのワインリストが気になります」


「証拠収集の一環として認める。ワイン二杯まで」


「三杯では」


「二杯。——いいわ。三杯」


 交渉に負けた。


 ワインは確かにおいしかった。二杯目で少し頬が赤くなる。三杯目でカタリナの頬も赤い。


「ルイーゼ様ぁ」


「……声が甘い。酔ってるわね」


「酔ってません。——少しだけふわふわしてます」


「ふわふわは酔ってるのよ」


「ルイーゼ様もふわふわしてますよね」


「していません」


「目がとろんとしてます」


「……とろんとしてない」


 帰り道。王都の石畳。星が出ている。カタリナが少しふらついたので、とっさに腕を掴んで支えた。——そのまま握り返され、離されなかった。


「カタリナ。腕」


「危ないので」


「もう安定してるわよ」


「念のため」


 カタリナの手が温かい。指が細い。しっかり握っている。酔っているくせに握力は確かだ。


(——この子の手を引いているのか、引かれているのか。分からなくなっている。弁護士は立場を明確にすべきなのに。ワインのせいだ。ワインのせいにしておく)


「ルイーゼ様」


「何?」


「今日、楽しかったです。お仕事なのに」


「……わたくしも」


(仕事だった。仕事だったはずだ。でも、星の下でカタリナと歩く帰り道が「仕事」だったかと聞かれたら、正直に答える自信がない。弁護士は嘘をつかない。だから黙っておく)


 翌朝。頭が重い。王都の宿で目覚めた。隣の寝台にカタリナ。まだ眠っている。髪が顔にかかっている。


(寝顔は見ない。見ない。——見た。可愛い。見なかったことにする。法的根拠はないが、自衛手段だ)


 宿を出た。王都の通りは朝の光で眩しい。


「ルイーゼ様。整理すると——レシピの流用+虚偽の経歴+師匠を貶める発言。三重の問題ですね」


「ええ。弁護士的に言えば、不正競争、優良誤認、名誉毀損。三本の矢」


「三本の矢?」


「前世の歴史上の武将の逸話……いえ、何でもない。三つの法的根拠、ということよ」


(毛利元就の三本の矢を異世界で説明しかけた。危ない。前世の知識をうっかり漏らすのは弁護士としてリスク管理ができていない。——もっともカタリナは聞き流してくれるが。この子は「ルイーゼ様が時々変なことを言う」くらいの認識で受け止めている。助かる)


三 レシピ帳


 夜。自室。


 ヨーゼフが「これを」と、大事そうに差し出したレシピ帳。革表紙、三百ページ超。重い。ページの端が茶色く変色している。三十年の重みだ。


 カタリナと並んで読む。ソファに二人で座って、一冊のレシピ帳を覗き込む。自然と肩が触れる距離になる。


(近い。カタリナの髪がかすかに花の香りがする。今日の飾りのせいか。——集中しろ。証拠の検討中だ)


「すごい……研究ノートみたい」


「前世の実験ノートに似ているわ。日付入りで創作の時系列を証明できる。証拠の宝庫」


 ページをめくる。


 「秋の羊肉。ローズマリー多め。前回より火を弱く」

 「バター配合変更。六対四から七対三。お嬢様は甘いほうがお好き」

 「レオポルト(現在の弟子)は真面目。ハインツは才能はあるが横着。包丁を洗わずに次の工程に入る癖がある」


「……厨房長、弟子の人事評価まで書いてる」


「料理人も管理職なのね。前世の事務所のボス弁もこういうメモを書いていたかもしれない。見たことはないけど。見たくもないけど」


(もし見ていたら「橋本。金曜に一人で残ってコンビニのおにぎりを食べている。食生活に問題あり」と書かれていたかもしれない。事実だから反論できない)


 さらにめくる。


 「ハインツに焦がし菓子を教える。三回失敗。四回目でやっと」


「ここ。五年前。ハインツが『独学で考案した』と言っている全ての料理に、教えた記録がある。しかも教えるのに四回かかっている」


「独学の天才が四回で習得って、矛盾してますよね」


「いい着眼点ね。本当に独学なら、彼自身のノートに『試行錯誤した記録』があるはずよ。でも現実に存在するのは、ここ——師匠のレシピ帳に書かれた『四回教えた』という事実だけ。これだけで十分」


 さらにめくった。十三年前。私が七歳の時——


 「焦がし菓子改良版。バター増量、レモンを少し。お嬢様が『今日のが一番おいしい』と。——お嬢様に仕事を救っていただいた恩に、料理で返すことしかできない。せめて一番おいしいものを」


(……厨房長)


(七歳の「おいしい」の一言で配合を変えた。十三年間、毎朝の焼き菓子にこの想いが入っていた。——あの焼き菓子、今朝三枚食べられたけど、元の配合はこれだったのか。三枚返してほしい。嘘。返さなくていいから追加がほしい)


「ルイーゼ様。目が赤いです」


「花粉症よ」


「この季節に花粉症は——」


「レシピ帳の革表紙にアレルギー反応が出る体質なの」


「そんな体質は聞いたことがありません」


「そうね。——法的分析に入るわよ」


「はい。涙を拭いてからで構いませんよ」


 カタリナが、自分のハンカチを差し出した。何も言わずに。


「……拭いてないわ」


「はい。でも、もし拭きたくなった時のために」


 受け取った。ラベンダーの刺繍が入っている。カタリナの手作りだ。


(……この子は、こういうことをさりげなくやる。「拭きたくなった時のために」。——「泣くな」でもなく、「泣いていいよ」でもなく、「拭きたくなった時のために」。その言い方が、たまらなく優しい。胸の奥がじんと熱くなる)


(拭いた。ラベンダーの香りがした。——このハンカチ、いつ返そう。明日。……明後日)


「問題は、この世界に知的財産権がないこと。レシピの所有権を認める条文もない」


「じゃあどうやって——」


「前回と同じ。使われていない古い条文を探す」


 王国法典を二時間読んだ。ハーブティー三杯。焼き菓子は今日は厨房長が二人分出してくれた。


「見つけた」


「また!?」


「毎回驚かないでほしいわ。探せば見つかるのが法律よ」


「いえ、探して見つかるのと、使える条文を発見するのは別次元だと思うんですが」


「八年間やってきた技術よ。条文の森で獲物を見つける狩人みたいなもの。——本当は、裁判例や文献を網羅的に調べられるデータベースがあればもっと楽なのだけど。……月額三万で使い放題だったのに」


(この世界にはそんな便利なものはない。治癒魔法はあるのに、法律検索魔法はない。開発の優先順位がおかしい。——誰か作ってくれないかしら)


「さんまんが分かりません」


「金貨三枚くらい。高い」


「高いですね。ルイーゼ様は無料ですよね」


「そうよ。この世界のわたくしはフリー素材の法律検索システムよ。ありがたく思いなさい」


 王国法典第八十七条。「取引において、商品の価値に関して虚偽の表示をした者は、相手方に対して損害を賠償する義務を負う」


「虚偽の表示?」


「商品の『価値』に注目して。価値には由来が含まれる。伝統的な品物、伝説的な芸術品——そういうものは、由来があるから価値が高いでしょう? 『天才料理人ハインツのオリジナル』っていう由来自体が商品の価値の一部。それが嘘なら、価値ごと嘘だということ」


(本来は取引の「相手方」——つまり騙された客や出資者を保護する条文だ。それを考案者の権利保護に拡大解釈して援用する。条文の射程を広げるのが弁護士の腕の見せ所だ)


「なるほど! レシピの問題じゃなくて、嘘の問題として攻める」


「そう。もう一つ。師弟関係の暖簾分けの慣習。弟子が独立する時は師匠の名を出すのが礼儀。慣習法として援用できる」


「つまり法律と慣習、二つの武器ですね。——弁護士の言い方だと?」


「不正競争防止法」


「覚えます」


「覚えなくていい。『嘘をつくな法』で十分」


「嘘をつくな法。いいですね。次の勉強会で紹介させていただきます」


「正式名称にはしないでね」


「もちろんです。——『ルイーゼ様が嘘をつくな法という画期的な法律を発見されました』と」


「画期的じゃない。八百年前の条文よ」


「八百年前でも今使えるなら画期的です」


「……一理ある。——でも、くれぐれも正式名称は別にあることを忘れないで」


(法律にはひどい通称がつきものだ。前世にも「法例」という法律があった。「法の適用に関する通則法」そのものの前身だ。正式名称があまりに長くて、様々なあだ名がつく。——もしかしたら「嘘をつくな法」は、この世界の法律教育の第一歩として、案外正しいのかもしれない。正しくてもちょっと恥ずかしいが)


四 交渉


 ハインツに書状を送った。三つの要求。


 第一。「ハインツ考案」を「ヨーゼフ伝承のレシピ」に変更。

 第二。虚偽の説明の停止。

 第三。ヨーゼフへの謝罪。


 金銭は求めない。


(厨房長が欲しいのは「師匠と認めてほしい」。それだけだ。弁護士の任務は勝利ではない。解決だ。依頼者が求めていないものを勝ち取っても意味がない。前世で財産分与を含めて一千万取ったけど依頼者が不幸そうだった離婚案件を思い出す。金じゃないんだ)


 五日後。返事。ハインツ本人ではなく、マルテ伯爵から。


「わが家の料理人に言いがかりをつけていると聞いた。田舎の老料理人の嫉妬に付き合う義理はない」


(「嫉妬」。嫉妬と権利侵害は違う。感情と事実を区別してほしいが、権力者ほどこれができない。前世でも「うちの会社に嫉妬してるんだ」と反論してきた社長がいた。嫉妬で訴える弁護士はいない。弁護士費用が嫉妬で賄えるなら世の中もっと訴訟が多い)


 返書を書いた。丁寧に。でも刃は仕込む。


「マルテ伯爵。もし『ハインツ考案』が虚偽であった場合、伯爵ご自身も虚偽を知りながら後援していたことになります。伯爵のお名前に傷がつくのは、わたくしの望むところではございません。——なお、ヨーゼフのレシピ帳には三十年分、日付入りの記録がございます」


 カタリナに見せた。


「ルイーゼ様。最後の一文が怖いです」


「怖くないわよ。事実を述べただけ」


「事実を述べただけなのに怖いのが、ルイーゼ様の手紙の特徴です」


(「ございます」の一言で十分だ。「見せてやろうか」とは書かない。書かなくても意味は伝わる。弁護士の手紙は書いてあることと書いてないことの両方を読ませる。——前世のボス弁に教わった技だ。「橋本、手紙は脅すな。事実を書け。事実のほうが脅しより怖い」。名言だった。ボス弁にも良いところはあった)


 一週間後。伯爵からは沈黙。ハインツ本人から返事。


「レシピに所有権なんてない。料理は自由だ」


(確かに、レシピに所有権はない。この世界でも、前世でも。でも本件の問題はそこじゃない。自分の考案だと偽っていることだ。レシピを使うことと嘘をつくことは別問題。前世でもあった。問題の核心とは別の、明々白々な部分を取り上げて論点をずらして反論するケース。——騙されない)


「カタリナ。決裂よ」


「想定内ですか」


「想定内。ならば場を変える。密室がだめなら公開の場で。和解がだめなら、第三者の目の前でやる」


「訴訟……」


「この世界ではまだ通常の『訴訟』という制度がないから。——一応、貴族向けの勅裁会議はあるけれど——だから別の公開の場を使うわ。——相手はマルテ伯爵。美食家よ。月例の美食の会がある。あの場を使う」


「ルイーゼ様、もしかしてまたおいしいもの食べられますか」


「……カタリナ。目的を見失わないで」


「見失ってません。目的の横においしいものがあるだけです」


五 対決


 マルテ伯爵の月例の「美食の会」。ルイーゼが申し入れた。


「ハインツ様の料理の由来について、公開の場で検証を。ヨーゼフが同じ料理を実演します」


 伯爵は断れない。断れば「逃げた」。美食家の名が泣く。


(嫌がる相手を表舞台に出す方法——「出てこないと損しますよ」。前世でも今世でも同じ)


 当日。王都の社交場。


 列席者三十名。広間の両端に調理台。ハインツとヨーゼフが向かい合う。


 ヨーゼフは手が震えている。


「厨房長。いつも通りに」


「……はい」


「あと、わたくしの分は多めに」


「今日も、ですか」


「今日は大勢の前です。公開試食です。堂々と多めに出せる機会は貴重よ」


「……お嬢様は、この状況で食い意地の話をなさるのですか」


「食い意地ではなく証拠収集よ。——あと一枚多く焼いてください」


 ヨーゼフが笑った。よし。


「カタリナ。準備は?」


「レシピ帳の該当ページに付箋を貼りました。時系列順です」


「完璧」


「あと、質問リストも作りました」


「それはわたくしが作る仕事では」


「ルイーゼ様が昨夜ハーブティーを飲みながら呟いていた質問を書き起こしました。七問あります」


「……わたくし、独り言を言ってた?」


「はい。三問目あたりでニヤニヤしてました」


「やめて。忘れて」


「忘れません。ニヤニヤしてるルイーゼ様、可愛かったので」


「——っ」


(今、心臓が跳ねた。弁護士が法廷の準備中に心臓が跳ねる原因が助手の一言というのは、法律の教科書に載っていない事態だ)


 カタリナが、ルイーゼの襟元を直した。自然な手つきで。


「壇上に立つんですから。服装は完璧にしないと」


「……ありがとう」


(この子の手は、いつも温かい。前世では誰にも襟を直してもらったことがない。自分のことは自分でやるものだと思っていた。——でも、直してもらうと、少しだけ背筋が伸びる気がする)


(ニヤニヤも独り言も、前世なら誰にも見られなかった。一人暮らしの利点だった。今世は——助手が隣の部屋にいる。プライバシーの代償が大きすぎる)


 壇上に立った。


「皆様。本日は料理の由来の検証です。ハインツ様とヨーゼフに同じメニューを三品、実演していただきます。食べ比べた上で、考案者にしか答えられない質問をします」


 調理が始まった。焦がし菓子。羊肉の香草焼き。蜂蜜クッキー。


 料理が出揃う。列席者が食べ比べる。ざわめき。


「同じ味だ!」


「いや、こちらのほうが深みが——」


「どっちがどっち?」


 ——「深みがある」は、ヨーゼフのほうだった。


(師匠と弟子の差は、技術ではなく「なぜその味にしたか」という理由の深さに出る。味覚は正直だ)


「味が近いのは当然です。同じレシピですから。問題は別にあります。——ハインツ様」


 ハインツは腕を組んでいる。自信の表情。


(その自信、今からなくなるよ)


「焦がし菓子のバターのタイミング。一般的なレシピと違います。なぜ?」


「そのほうが美味いからですよ」


(一応、敬語は使っている。ただ声に自信が滲んでいる。貴族の前でこの態度——よほど天狗になっているらしい。今のうちだけど)


「なぜ美味い?」


「食感が軽くなりますね」


「なぜ軽くなる? バターが生地にどう作用する?」


「……何度も試しましたよ」


「記録は?」


 沈黙。


「蜂蜜クッキーの蜂蜜。独特の香りですが、産地は?」


「エーレンフェルト領だ」


(焦って敬語が剥がれ落ちている。化けの皮が剥がれるまであと少し)


「正解。なぜそこを?」


「味が合う」


「羊肉のローズマリー。多いですが、きっかけは?」


「…………」


 沈黙。


「ハインツ様。全て『美味いから』『合うから』。——理由がひとつもありませんね」


 ハインツは言葉に詰まり、顔を強張らせた。


 広間が静まった。


「手順は再現できる。でも『なぜ』が分からない。それは考案者の答え方ではありません。——上手なコピーです。でもコピーはオリジナルを超えない」


 間を置いた。


「ヨーゼフ。同じ質問です」


 ヨーゼフが照れながら話し始めた。


「バターのタイミングは——二十年前の冬でした。薪が湿っていて、火が弱くて。バターが溶けなくて。待ちきれなくて半溶けのまま混ぜた。失敗でした。——でも焼き上がったら今までで一番おいしくなった」


「何がきっかけで配合を固定したのですか」


「お嬢様が——ルイーゼ様が七歳の時に、『今日のが一番おいしい』と。——それで変えました」


 広間がどよめいた。


「蜂蜜は?」


「西の丘の養蜂家です。二十五年前に偶然見つけた。ラベンダーが自生していて、蜂蜜に香りが移る」


「ローズマリーは?」


「お嬢様が十歳の時、風邪で食欲がないと。ローズマリーが食欲を刺激するかと思い多めに。気に入ってくださったので——以来、ずっとです」


 沈黙。


(全部、私のためだった。七歳の「おいしい」。十歳の風邪。——弁護士は感情で動かない。動かないが、花粉が飛んでいる)


「レシピとは、ただの手順ではありません。なぜその手順になったか。誰のために工夫したか。——それを知る人だけが、考案者です」


「手順だけコピーして『オリジナル』と名乗ることは、料理を盗んだのではない。三十年分の想いを盗んだのです」


 マルテ伯爵、青ざめている。居心地悪そうに席で身じろぎし、目を逸らした。


(伯爵。次に投資する時はデューデリジェンスをしてください。デューデリジェンス——投資先の適法性や実態を徹底的に調べること。前世では常識だけど、この世界のパトロンには無縁の概念らしい。美食にデューデリジェンスをする人は前世にもいませんでしたが)


(ハインツの供述——口では何とでも言える。でも、そこから信用性を検討するのが法曹の仕事だ。具体的で迫真性があるか。経験者でないと言えないこと、知り得ないことを語れるか。ヨーゼフの答えには二十年前の薪の湿り具合まであった。ハインツには何もなかった。これが「供述の信用性」。——ここが、腕の見せ所だ)


 ハインツが俯いた。


「……認めてほしかった。ただそれだけだ。あの人の下じゃいつまでも弟子で——」


「気持ちは分かります。でも嘘は要らなかった」


「…………」


「提案です。メニューに『ヨーゼフ伝承のレシピ』、あなたの改良は『ハインツ改良版』。両方の名前が残る。嘘つきじゃなく優秀な弟子と呼ばれる。——そちらのほうが格好いいでしょう」


 ヨーゼフが言った。


「ハインツ。お前の腕は認めている。認めているから悔しかった。なぜ師匠と言ってくれなかった」


 ハインツの目が赤い。


「……すみません、でした」


 深く、頭を下げた。


 令嬢たちの囁き。


「あの令嬢、また法律で……」

「前は婚約で今度はレシピ?」

「守備範囲広すぎない?」

「『弁護士』とか名乗っているみたいだけど、どういう意味かしら?」

「一般的な言葉ではないわよね。王国法典の古い言葉らしいわ」

「次は何の代理人になるの?」

「婚約破棄代理人の次はレシピ代理人? 肩書きは何て名乗るの?」


 ——そして、別の囁き。


「ねえ、あの助手の子。ずっとルイーゼ様の隣にいるわよね」

「いつも一緒みたい。勉強会でもそうだったし」

「すごく自然なの。手が触れても気にしてないし、目が合うと二人とも照れるの」

「なんかいいわね、あの二人。ああいう関係って——」

「しっ。本人たちは気づいてないから、言っちゃだめよ」

「気づいてないの、本人たちだけよね……」


(何を囁いている? 聞こえなかった。聞こえなくてよかった気がする)


(何でもやるわけじゃない。猫の養育費はやらない。——肩書きか。前世なら名刺に書くところだ。そういえば、「弁護士」の語源は「代理人」だった。古い言葉を引っ張り出して名乗ったけど、結局やっていることは代理人そのものだ。今世では「弁護士 ルイーゼ・フォン・エーレンフェルト」。長い。この世界の名前は長すぎる。……仮に名刺があったとしても、絶対に一枚に収まらないわね)


六 報告


 エーレンフェルト家。


「解決しました。合意書に署名済みです」


 ヨーゼフが長い息を吐いた。そして——焼き菓子の皿に手を伸ばした。


「厨房長」


「……あ」


「今日はいいです。召し上がってください」


「いえ、これはお嬢様のために——」


「今日は依頼者への差し入れです。弁護士が依頼者にお茶を出すのは通常業務ですから」


 ヨーゼフが焼き菓子を一口食べた。自分で焼いた菓子なのに、目を細めている。


(自分の料理を自分で食べて安心する。それが職人だ。前世の弁護士も、自分の書面を読み返して「いい書面だ」と思う瞬間がある。自画自賛は技術者の特権だ)


「……ありがとうございます」


「報酬ですが」


「金銭は——」


「焼き菓子がいいです」


「……よろしいのですか。お嬢様に焼き菓子でお返しするのは——」


「十三年間毎朝届けてもらった焼き菓子は、何よりも価値があります。——あと、焦がし菓子を七歳の配合でもう一度」


(前世の弁護士報酬より価値がある。——前世のことは口には出さないけれど、心の中では比べてしまう。金銭では測れないものがある)


 ヨーゼフの目が潤んだ。


「……喜んで」


「カタリナの分も」


「わたくしの分も!?」


「二人分で。これからはずっと」


 カタリナが赤くなった。——頬だけじゃなく、耳まで赤い。


「……ずっと、ですか」


「ずっとよ。焼き菓子の話。何か変?」


「いえ。何も変じゃないです。——嬉しいだけです」


(嬉しいだけ、か。——この子がこういう顔をすると、なぜかこちらまで落ち着かなくなる。弁護士は交渉の場で動じない訓練を受けているはずなのに。カタリナの「嬉しい」には、交渉術の訓練が通用しない)


 ヨーゼフが二人を交互に見て、少し笑った。


「厨房長。何か?」


「いえ。……お嬢様がお幸せそうで、何よりです」


(幸せ? 今の状況のどこが幸せだ。焼き菓子の配分を決めただけだ。——まあ、焼き菓子があれば幸せかもしれないが。焼き菓子と、カタリナがいれば)


(いま「カタリナがいれば」と思った。それは焼き菓子と同列なのか、それとも別枠なのか。——やめよう。弁護士は不用意な比較をしてはいけない)


「ルイーゼ様。今回の事件で分かったことがあります」


「何?」


「ルイーゼ様の仕事は、紙に書かれた想いを守る仕事です。契約書もレシピ帳も——」


「……あなた、時々核心を突くわね」


「ルイーゼ様の真似です」


「真似でこれが言えるなら合格よ。——ところでカタリナ」


「はい」


「『嘘をつくな法』、勉強会で紹介した?」


「しました。先週の令嬢勉強会で。大好評でした」


「好評だとしても——」


「ミランダ様が『嘘をつくな法、我が家の旦那に適用したい』と」


「個人間には適用できないわよ」


「エリーザベト様は『社交界全体に適用すべき』と」


「社交界に適用したら社交界が滅びるわ。社交界は半分嘘でできてるんだから」


(実は、前世でも、嘘をつくこと自体は違法でも犯罪でもなかった。嘘で財産を騙し取ったり、嘘で他人の名誉を傷つけたり、嘘+αのときだけ、違法になったり、犯罪が成立する。この世界の「嘘をつくな法」も同じ構造だ。「取引において」虚偽表示をすることが要件——単なる嘘じゃない、嘘+取引だ)


(……それにしても、この国の法律、分かりにくい。整理したい。さすがに行為規範と裁判規範の分類も、準拠法の規定も、法源の体系も整備されていない。一代の令嬢の手におえることじゃないけれど、なんとかならないかしら)


「では正式名称はどうしますか」


「『虚偽表示禁止条項に基づく商取引の由来表明制度に関する——』」


「長いです」


「前世の正式名称はこれくらい長い」


「嘘をつくな法でいいのでは」


「……もう令嬢に広まっちゃった?」


「広まりました。三十七名に」


「三十七。——だめだ。もう止まらないわ」


七 エピローグ


 夜。自室。


 厨房長の焦がし菓子。七歳の配合。一口。


 ——うまい。十三年前と同じ。バターを増やしてレモンを少し。あの日「今日のが一番おいしい」と言った七歳の自分が、ここにいる。


(前世で長谷川さんに言った。「テンプレは罪じゃない。使い方がすべてだ」。レシピも同じ。同じ材料でも、誰のために作るかで味が変わる。法律も同じ。誰を守るかで条文の意味が変わる)


(長谷川さんがくれたマドレーヌ。あの味も覚えている。前世で最後の手作り菓子。この世界で最初の手作り菓子が厨房長の焦がし菓子。焼き菓子が二つの人生を繋いでいる)


 一件解決した。でも構造は変わっていない。


 この王国にはレシピも歌も工芸品も守る仕組みがない。次の「ハインツ」が現れたら同じことが起きる。そうだ、登録制度なら、規制と自由のバランスが取れる。「私が考案しました」と登録しておけば、事後の証明が楽になる。まわりにもわかる。勅裁会議に提案しよう。——名前は……「考案者登録制度」。いや、きっと令嬢たちには「新・嘘をつくな法」とか「嘘をつくな法・登録編」と呼ばれるわね。もうそれでいい。カタリナに負けた。


 カタリナの調査報告書が机にある。隅に小さな花の落書き。報告書に落書きをする助手は問題だが、可愛いから許す。法的根拠はない。ないが許す。弁護士の裁量権だ。(裁量権の使い方としては非常に不適切だが、弁護士倫理委員会がこの世界にはないので問題ない。ないものは怒られない)


 ポケットにカタリナのハンカチがある。返し忘れた。ラベンダーの刺繍。洗って返そうと思ったが、なんとなくまだ持っている。


(返さないと。——明日返そう。明日)


 明日のお茶の時間に焼き菓子を食べよう。二人分で。


 最近「二人分」を使う回数が増えている。注文も二人分。焼き菓子も二人分。ハーブティーも二人分。ソファも二人分の幅で座る。前世は全部一人分だった。一人分の弁当、一人分のコーヒー、一人分のデスク。


 二人分のほうが、おいしい。法的根拠はないが、経験則として確かだ。


 乙女ゲーの世界に百合ルートはない。——たぶんない。前世で長谷川さんの小説を読んだ限りでは、なかった。でも、二次創作ではあったかもしれない。


(やめよう。この思考は危険だ。弁護士は不確定な仮説に深入りしない。——でも、仮にこの世界に百合ルートがあったとして。それは分岐条件が何だ。好感度イベント? 焼き菓子を一緒に食べた回数? だとしたら、もう取り返しがつかないくらい回数を重ねている気がする)


(——ああ、思い出した。ツクヨの奴)


 転生の時。あの月の神様が言ったのだ。「男性の在庫がないので女性で」と。在庫。人間の性別を在庫管理するな。こちらは弁護士だぞ。せめて選択肢をくれ。


(もし男だったら。——男として転生していたら。カタリナと……)


(いや。待て。待て待て)


(仮に男性に転生していたとして。カタリナは部下だ。助手だ。上司と部下の交際は——前世の弁護士事務所なら完全にコンプライアンス違反だ)


(事務所の研修で「職場内の恋愛関係について」って毎年スライドを見せられた。あの退屈なスライド。講師の先生が「上下関係のある者同士の交際は力の不均衡が——」と説明している間に寝かけた。あのスライドが今、自分に刺さっている。前世の研修は無駄じゃなかった)


(コンプラ。コンプラだ。仮に男でも、助手に手を出すのは弁護士倫理に反する。反するんだ。——じゃあ女なら問題ないのか? いや、性別に関係なく上下関係がある以上、同じ問題だ。前世でも、同性婚が世界中で認められている。「女同士ならOK」なんて、それ自体がコンプラ違反だ。コンプライアンスに性別は関係ない。平等に適用される。法の下の平等だ)


(つまりどう転んでも詰んでいる。ツクヨ、お前のせいだ。……いや、在庫の問題じゃなく、わたくしの問題だ。これは)


(本当にやめよう。弁護士が夜中に一人でコンプライアンス研修の復習をしている場合じゃない)


 手紙の束を見た。未読が三通。


 一通開いた。新しい相談。


 次の依頼者が待っている。


 もう少しだけ、この地味な仕事を続けよう。テンプレみたいな人生だけど——テンプレは罪じゃない。使い方が、すべてだ。


 焼き菓子の最後のひとかけ。レモンの香り。


 ——前世の長谷川さん。あなたの小説の主人公が、異世界でレシピ紛争を解決しましたよ。それと、助手の女の子が可愛くて困っています。報告する手段はないけれど。


 あと、前世の先輩弁護士にも報告したい。「先輩。異世界でも弁護士やってます。報酬は焼き菓子です。確定申告は不要です。あと、助手が優秀すぎて心臓に悪いです」


 ——怒られるだろうな。心配もされるだろうな。


(続く)


お読みいただきありがとうございます!


「悪役令嬢弁護士」シリーズ第3話です。


今回のテーマは「レシピの所有権」。現実世界でも、料理のレシピには著作権が成立しにくいとされています。手順そのものは「アイデア」に近く、「表現」とは見なされにくいためです。でも、「自分が考えた」と嘘をつくのは別の話。それは不正競争防止法の問題です。また、商品やサービスの品質・内容について実際より良く見せる表示は、景品表示法(優良誤認)の問題にもなり得ます。異世界の「嘘をつくな法」は、現実世界のこれらの法律のエッセンスを凝縮した条文、というわけです。


ちなみに、前日譚で橋本理沙が著作権を説明する際に「カレーのレシピに例えると分かりやすい」と言った場面、覚えていますか? あの比喩が、異世界で本当のレシピ紛争になって返ってきました。テンプレは罪じゃない。使い方がすべてだ——レシピも、法律も、物語も。


次回は何を引き受けるのか。猫の養育費だけはやらないと思います。たぶん。


◆「悪役令嬢弁護士」シリーズ

→ 前日譚:悪役令嬢弁護士 前日譚 橋本理沙と乙女ゲーム ~著作権紛争事件~

→ 第1話:悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します ~前世が弁護士チートなしなので、法的思考で王子に和解を呑ませてもいいですか?~

→ 第2話:悪役令嬢弁護士 婚約破棄代理人 逃げたい令嬢


☆評価・ブックマーク・感想——どれか一つでもいただけたら、厨房長の焼き菓子を一箱お届けします(ルイーゼ様の分は確保済み。カタリナ分は別途交渉中)。

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最後に「(完)」とありましたが、これで終わりじゃないですよね? まだまだ見ていたいので、続くと嬉しいです! 厨房長の焼き菓子が、楽しみです!
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