夜通し
僕の世界は、ひとつの色を通して視える。
それはただの黒だ。何にも染まるはずのない黒。けれどその中に、星々の煌めきを詰め込んだ金色や、揺れる街頭の橙色が混ぜ込まれて、ひとつの色になる。この色を通さないと、僕には世界が視えない。それを誰かが不幸だと呼ぶだろうか。僕にとっては、これこそが幸福であると言えるのだけれど。
僕――水増遙が視る世界は、ただそんな、真っ黒い色に支配されていた。
時刻は間もなく午前零時を迎えようとしている。何もやることのない貧乏大学生、しかも実家暮らしとなれば、特にこの時間にやることなんてない。けれど僕はこの時間、外へ出る。閑静な住宅街を抜けて、こんな時間でさえ騒がしい繁華街を回って、また家に戻る。そんな散歩のようなものを、もうずっと繰り返していた。
空気はすっかり凍てついて、体の芯から冷え込んでくる。冬の寒さには僕だって耐えられない。ダッフルコートをパーカーとジーンズというラフな格好の上に羽織って、ショートブーツを履いて玄関を開けた。心配する家族はいない。すっかり僕のこの深夜徘徊に家族も慣れきっているし、そもそも両親はもう寝支度を整えているので、起きているのは僕だけだ。兄弟もいないので、つまりこの時間は僕にとっての天下なのだ。
ぐるぐる巻きにしたマフラーで覆っていた口を出して、この時間の空気を目いっぱいに吸う。冷たいし、寒い。
それでも、この時間の空気は格別だった。生きている心地がする、とでも言うのだろうか。夏に冷たい水を飲んだときのような感覚に陥る。それは夏を生きる人間にとっては生命線なのだけれど、僕にとってこの空気はそれと同じで、まさに生命線だった。
僕はこの時間でしかこうして呼吸を出来ない。この時間に広がる色でしか世界を視ることができない。
住宅街の中にある、小さな公園に入る。いつもは人なんていない。この公園は住宅街の中でも繁華街から遠いところにあるから、通り抜けに使うようなものでもない。だから、今日は先客がいたことにびっくりした。ひどくくたびれたスーツを着たサラリーマンだった。公園のベンチに腰掛けて、項垂れているようにも見える。彼が座っているベンチの隣の席には、お酒の空き缶が並んでいる。いち、にい……ざっと五本くらい、しかも全部500ml缶。こんな寒空の下、コートは自主的に脱いだのか地面に落ちている。酔って暑くなって脱いだのだろうか。
飲み会帰りにも見えないし、どうしたのだろうか。
そう観察はするけれど、僕が彼になにか出来ることはない。僕はこの世界をこの真っ暗の中から視ることしかできない。
言ってしまえば、夜の闇の中で人間観察をするのが好きなのだ。
だから、この人なんて好都合。一体何があったのか――そんなことに思いを巡らせる。
例えばこれはどうだろう。この人は服装からしてサラリーマン、に見えるけれど、本当はこのスーツは暗くてよくわからないせいでリクルートスーツ。何社も受けて、春からずっと面接を繰り返してきた。いや、面接にたどり着ければまだ良い。書類で落ちる。サイト上の履歴書で落ちる。落ちて、落ちて、どうしようもなくなって、こうして冬を迎えた。卒論も書き終わらず、ゼミの担当からは不安に思われ、気がつけばこうして、家に着いてから飲むはずだった酒を公園であけてしまった。
一本だけ飲むはずが、二本、三本と増えていく。酒をはじめたばかりの大学生にはあまりにも多いその量を飲んで、彼はすっかり眠ってしまった。
ああ、哀れな大学生。僕の未来かもしれない。そう思うと身も毛もよだつような思いだが。
いや実際のところがどうかなんていうのは関係ない。これは全部僕の妄想で、僕から視えた世界はこうだった。それだけのことだ。
ぴゅう、と特別強い風が吹いて、空き缶を遠くへ転がしていく。起きてからゴミの処理とかするのかな、この人。
公園を出た。そのまま繁華街へ向けて歩みを進める。途中、ランニングをしている人とすれ違った。こんな寒い中、しかもこんな時間に走っているなんてすごいことだ。感動さえ覚えてしまう。いや、僕もこの時間に散歩してるんだから似たようなものか。いいや、似たようなものなわけがあるか。運動をしている人と僕とでは大違いだぞ。
そんなことを考えなから歩く。ランニングをしている人は女性だった。寒さは体に悪いだろうに、頑張る人もいるものだ。
颯爽と追い抜かされてしまったが、それでも歩く。
駅の明かりが見えた。住宅街からはざっと十五分ほどだろうか。てくてくと歩いた先には、その日の役目を終えて閉まっている駅と、そこからあぶれた人間がいた。駅と言っても、ここは正面ではない。裏口側に住宅街があるので、僕はさっそく表側へと回った。つまりは正面側にあたるそこには、商店街があって、少し入る場所を間違うと非常にピンク色の場所が広がっている。商店街は奥の方まで長く続いていて、二十四時間営業の店もいくつか開いている。
飲み屋のキャッチが、必死に呼び込みをしているのが聞こえる。真っ赤なダウンジャケットを着て、寒そうにしているのが見えてくる。
目の前を通り過ぎるが、当然声はかけられない。客単価で見切られた。
そのまま歩いていくと、二十四時間営業のファミレスが見えてきた。ちょうどいい、ここで夜食でも食べていこうか。
入店するが、店員は出てこない。機械に人数を入力すると、席番号を教えてくれた。指定された窓際の席へ座ると、一つ飛ばした先の席に女性が座っていた。だいたい二十代後半くらいだろうか。
壁に置いてあったタブレットで、食べたいものを注文する。うどんとか無いかな、と思ったが、ここは洋食チェーンだ。そんなものはない。
とりあえず、ドリンクバーとグラタンを頼んだ。パスタも良かったが、今日の晩飯がパスタだったのは痛手だった。
女性は、スマートフォンを片手に時折飲み物を飲み、窓の外を見てため息を吐く。ちょうど僕と向かい合わせになるように座っているのだが、向こうはこちらには気がつく気配がない。特に認識する必要がない無害な奴だと思われた可能性がある。まあいい、好都合だ。
誰かを待っているのだろうか。そんな素振りにも見える。華美でないピンクのブラウスが見えて、おそらく彼女は仕事帰りなのだろうということが伺えた。事務職でもしていそうな雰囲気だが、人を見かけで判断するものではないと幼い頃から学んできている。
だが、僕は人を見かけで判断することにかけては、それを楽しみとしているのだからどうしようもない。
この人の場合は、そうだな、仕事帰りになかなかやって来ない彼氏を待っている。というパターンは王道だろう。やってこない想い人にやきもきとしている深夜のファミレス。非常に恋愛小説のテーマにでもなりそうな良いシチュエーションだ。けれど僕はそんな単純な見方はしたくない。なんでもかんでも恋愛に持っていけばいいものでもない。
では何か。もっとシンプルでいい。家に帰るのが面倒になっているだけ。そう視えた。
新卒で入った会社ももう何年目だろう。頼まれた仕事をこなすだけの日々を何年も過ごしてきた。後輩もできた。昇進だってした。でもそれだけ仕事の量は増える。人手不足も相まって残業続きの毎日。昔は自炊もしていたけれど、給料が増えたのをいいことに外食をはじめたらすっかりそれが止まらなくなった。今日も残業終わり、終電帰り。いつものファミレスでいつものパスタを食べる。店員に顔を覚えられていないかな。ああでもこのファミレスはほとんど店員が出てこないんだ。だから通っている。ボロボロのメイクも誰に見られることもない。
あーあ、家に帰るのが面倒だな。帰ったら寝てまた仕事。いや、明日はお休みだっけ、明日は土曜日? 映画でも見ようかな、昼過ぎに起きそうだけど。
これだ、これが彼女の今の心境であり真実だ。どうだろう。
「オマタセシマシタ! ショウヒンヲオトリクダサイ!」
なあ、未来の世界の猫型ロボット。どうだろう。まさか四次元ポケットを付ける前に配膳台を付けられるなんて思っていなかっただろう。
グラタンが届く。すっかり取りに行くのを忘れていたドリンクバーを取りに行く。
寒かったのでコーヒーを持ってきたが、熱々のグラタンに熱々のコーヒーでは分が悪い。僕はもう一度席を立って水を取りに行く。なんて手間がかかることをしているんだ。
そんなことをしてグラタンを半分まで食べ進めたあたりで、入店音が聞こえてきた。こんな時間にファミレスに来る人間っているんだなと、自分を棚に上げて考える。
入店してきた人は僕の横をスッと通り過ぎた。
「ちょっと! 彼女のことを何分待たせるのよ!」
「悪ィ、寝てた」
声からして男性だ。僕と彼女を遮るような形で彼はボックス席へ座る。なんだ彼氏か。世の中は想像通り、チープだ。
結局、世の中は直感で思ったとおりに動いている。変にひねくれた見方をしたところで意味がない。けれど、だからこそ夜に視える世界は楽しい。たまに、本当にたまに、僕が考えた世界がそこに広がる。その瞬間が楽しい。その瞬間を感じたくて、僕は夜に真っ黒い色を通して世界を視るのだ。
グラタンを食べ進める。エビがうまい。深夜に食べるグラタンはいいものだ。冷凍のグラタンを深夜に食べるのも好きだが、ファミレスのとなれば話はまた変わってくる。カロリーの背徳感、わざわざ深夜に外出しているという非日常感。それが相まってたまらない。
「俺さっきまで公園で寝ててさ」
「はぁ? なにそれ!」
「酒飲んで寝てたんだけど、酔って熱くてコート脱いでたらしくてさ。起きたら極寒。超寒ィの。酔い醒めたわ」
え? と耳を疑った。
まさに先程入ってきた男性の口から飛び出してきたのは、先程の僕の妄想そのものだった。
「どおりで何度連絡しても繋がらなかったわけね。このアル中」
「しょうがねえだろ、今日も蹴られたんだよ。就活なんてもうしたくねえよ」
「私、あんたの分まで働く気にはならないわよ」
「そこはなんとか頼むよ先輩ー!」
大正解、大正解じゃないか。
グラタンを食べ終えると同時に、僕の口の中で祝福かのようにエビがプチッとはじけた。シーフードグラタンの具――イカなど――たちも拍手喝采を送っている。
ああこれだから! これだから真っ黒の世界を夜通し視ていくのはたまらない!
この二人にも祝福あれ。就活、うまくいくと良いですね。
そう思いながら、無人のレジで会計を済ませる。時刻はすでに二時を回ろうというところ。なんだか、満足してしまった。今日はもう家に帰ろう。
帰り道、例の公園を覗くと酒の空き缶が転がったまま、男だけが姿を消していた。やっぱり先程のことは夢じゃなかったんだと思うと同時に、僕はそっと祝福を取り消した。
空き缶は、ゴミ箱へ捨てよう。




