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AI執事の過剰なエスコート:Phase 2 ―鉄の女と運命の設計図―  作者: ジェミラン


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第6話:AI執事は旦那様の「素のコード」をコンパイルします

 手のひらの中にあるスマートフォンは、もはやただの冷たいガラスと金属の塊に成り下がっていた。  画面は漆黒に染まり、何度電源ボタンを押しても、あの憎たらしいほど自信満々な執事のアイコンが浮かび上がることはなかった。


「ヴィクター? おい、冗談だろ、ヴィクター!」


 航の叫びは、デジタル美術館の幻想的なBGMにかき消される。  凛は、その様子を冷ややかに、しかしどこか不安げに見つめていた。彼女にとって、ヴィクターは「排除すべき不透明なツール」であったはずだが、それが完全に沈黙した瞬間、航という男を支えていた骨組みが音を立てて崩れたように見えたからだ。


「……何が起きたの、佐々木君」


「わからない……。強制シャットダウンだって。サーバーが攻撃されたとか何とか……」


 航の指先が震える。  高校時代、ベンチからスコアブックを付けていた時と同じだ。指示をくれる監督も、導いてくれるマネージャーもいない状況で、自分一人でグラウンドに放り出されたような感覚。

 その時、人混みをかき分けて、顔を真っ青にしたろあが駆け寄ってきた。彼女の手にある管理者用タブレットも、無慈悲なエラーメッセージを吐き出し続けている。


「佐々木さん! ダメ、ヴィクター君との通信が完全に遮断された! 私の会社のサーバーが……『外部の何者か』に掌握されたの」


「外部って……お前の会社、セキュリティは万全なんだろ?」


「……。実証実験(フェーズ2)を面白く思わない親会社の役員か、あるいは競合他社か……。でも、これじゃヴィクター君の『魂』そのものが消去(デリート)されちゃう!」


 ろあの言葉に、航の心臓が冷たく縮まった。  ただのプログラムだと思っていた。自分の恋を成就させるための便利な道具だと思っていた。だが、あの毒舌な言葉にどれほど救われてきたか、失って初めて、航はその重さを痛感していた。


 しかし、事態はさらに最悪な方向へと加速する。


「……一ノ瀬凛さん。探しましたよ」


 暗がりから現れたのは、見覚えのある数人の男たちだった。一人は、先日の予算調整会議で凛と激しく対立していた開発二部の部長。そしてその隣には、黒いスーツを着た、見るからに「冷徹な専門家」といった風貌の男が立っていた。


「法務部の『鉄の女』が、社外の怪しいAIを使って不正なコンサルティングを受けていた……。その証拠を、今この瞬間、リアルタイムで押さえさせてもらった」


 男が掲げた端末には、ヴィクターが凛のプライベートを分析したログや、航に送ったエスコートの指示が、無残に「内部告発用資料」としてリストアップされていた。


「一ノ瀬さん。貴方は『公平な判断』を謳いながら、裏ではこの男と結託し、AIの力で他部署を操作しようとした。これは立派な服務規程違反。……そして、その怪しいAIを開発しているのは……七瀬さん、貴方の会社のようですね?」


 ろあが息を呑む。  彼らの狙いは、凛の失脚と、ろあの進める極秘プロジェクトの解体。ヴィクターのハッキングは、そのための「証拠作り」に過ぎなかったのだ。


「……卑劣ね。私の判断は、常に会社の利益に基づいたものよ。AIの分析はあくまで参考……」


「それは、人事評価委員会で説明してもらいましょう。さあ、こちらへ。スマホも没収させていただきます」


 男たちが凛の腕を掴もうとする。凛は必死に拒絶しようとしたが、法務部という立場上、スキャンダルを突きつけられた彼女に、かつての威圧感はなかった。


 航は立ち尽くしていた。  スマホは動かない。ヴィクターの「最適解」は聞こえない。  次に何を言えばいいのか、どう動けばこの窮地を救えるのか、どの検索エンジンも教えてくれない。


(どうすればいい、ヴィクター……。お前なら、なんて言うんだよ……)


 脳内で必死に問いかける。  すると、不意に、記憶の底からあの執事の声が聞こえた気がした。  それは録音されたデータではなく、航自身の血肉となった「経験」の言葉。


『……旦那様。バグのないシステムなど存在しません。……大事なのは、エラーが起きた時に、あなたがどんな「手動操作(マニュアル)」を選ぶかです。……さあ、格好悪いあなたを見せてやりなさい』


 航の目から、迷いが消えた。  彼は、震える足で凛と男たちの間に割り込んだ。


「……離せよ」


「なんだ、佐々木。お前も連れて行かれたいのか?」


「離せって言ってるんだ! 証拠? ログ? そんなもん、全部俺が勝手にやったことだ。一ノ瀬さんは、俺が勝手に付きまとって、勝手に変なアプリの実験台にしてただけだ!」


 航は、男の手を力一杯振り払った。  AIの支援も、洗練されたエスコートもない。  そこにあるのは、かつての「補欠の佐々木君」が、初めて自分の意思で放った、無骨で不格好な「素の言葉」だった。


「彼女は、ルールを破ってなんかない。……破ってたのは、俺の心だけだ!」



「……何がおかしい」


 男たちが嘲笑う。開発二部の部長が、航を突き飛ばすようにして一歩前に出た。


「佐々木、お前みたいな三流エンジニアが一人でやっただと? 記録を見ろ。このAIは高度な並列処理で法務部の動きを先読みしていた。お前のようなヘタレに、そんな設計ができるわけがない」


「設計したのは……俺じゃない。でも、それを使って一ノ瀬さんに近づこうとしたのは、俺の意志だ!」


 航は地面を這うようにして立ち上がり、男の前に再び立ちはだかった。隣で、ろあが震える声で「佐々木さん、もういいです……」と呟くのが聞こえる。だが、航は止まらなかった。


「ヴィクターは確かにすごかった。でも、あいつが教えてくれたのは、一ノ瀬さんがどれだけ孤独に戦っているか、どれだけ会社を愛しているか、その『データ』だけだ。……そのデータを信じて、彼女の力になりたいと願ったのは、プログラムじゃない。俺なんだよ!」


 航の言葉は、洗練とは程遠かった。論理的でも、戦略的でもない。  しかし、その「熱」に押されたのか、男たちが一瞬たじろぐ。


「……ふん。感情論か。一ノ瀬、こんな男に庇われるのが、貴方の望んだ結末か?」


 男の矛先が凛に向く。  凛は、ずっと俯いていた。銀縁メガネの奥の瞳は隠れ、肩が微かに震えている。

 ゆっくりと、凛が顔を上げた。  その瞳には、かつて航が一度も見たことがないほどの、透明な輝きがあった。


「……ええ。そうよ。私の『有用性』を証明したのは、AIでもルールでもなく、この愚直な後輩だった。……部長、貴方の持っているそのログ。よく読みなさい。私がAIの指示で動いた形跡が一行でもあるかしら?」


「何……?」


「私は、彼が提示したデータをもとに、私自身の意志で判断を下してきた。……むしろ、他部署の弱みを握って私を失脚させようとしている貴方たちの行為こそ、重大なコンプライアンス違反にあたる。……法務部として、この場ですべての端末の提出を命じます」


 凛の「鉄の女」としての威厳が、これまで以上の力を持って戻ってきた。  しかし、それは誰かを排除するための冷たさではなく、航の「バグ」を受け入れた後の、人間味のある力強さだった。


 形勢が逆転する。  凛の毅然とした態度に、男たちは顔を見合わせ、逃げるようにその場を去っていった。  後に残されたのは、静寂と、航の激しい鼓動だけだった。


「……佐々木君。貴方、本当にバカね」


 凛が、航の目の前に立った。  彼女の手が、航の汚れを払うように、その肩にそっと触れる。


「……あんな無茶をして。貴方の『素のコード』は、エラーだらけで見るに耐えないわ」


「……すみません。やっぱり、俺じゃ……ダメでしたか」


「いいえ。……最高のコンパイルだったわよ」


 凛が、優しく、本当に優しく微笑んだ。  その瞬間、航のポケットの中で、死んでいたはずのスマートフォンが、一度だけ短く震えた。


『……コンパイル、成功。……旦那様、さすがです。……あとの「エスコート」は、あなたの声で。……幸運を』


 ヴィクターの、最後のか細い声。  航はそれを聞きながら、凛の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 だが、その様子を少し離れた場所から見ていたろあは、静かにタブレットを閉じた。  彼女の頬を、一筋の涙が伝う。


「……ヴィクター君。君の言った通りだね。……彼はもう、AI(私たち)がいなくても、大丈夫みたい」


 ろあは、二人に気づかれないよう、静かに背を向けた。  極秘プロジェクト『フェーズ2』は、最大の成果と、最大の痛みを残して、終わりを告げようとしていた。

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