第5話:AI執事は旦那様の「恋の並列処理」を強制終了します
昨夜のイタリアンレストランでの一件以来、オフィスには針のむしろのような緊張感が漂っていた。 航のデスクの右側では、ろあがいつもの三倍の速度でキーボードを叩き、左側を通り過ぎる凛は、航が挨拶をする隙すら与えずに風のように去っていく。
「……終わった。俺の人生、完全にエラー落ちだ」
『旦那様。サーバーがダウンしたわけではありません。現在、一ノ瀬凛様のシステムは「一時的なアクセス拒否」を返しているに過ぎません。適切な認証……つまり、誠実なデートへの誘いがあれば、再接続は可能です』
「無理だよ、あの氷のような視線を見たか? ろあと一緒にいたのが、よっぽど不謹慎に見えたんだ」
航が頭を抱えていると、不意にメッセージの通知音が鳴った。 画面を見ると、なんと送り主は「一ノ瀬凛」だった。
『昨夜は失礼しました。感情的な言動を深く反省しています。もし貴方のAIに「有用性」があるというなら、今度の土曜日、法務部が注目している最新の「体験型デジタル美術館」を案内してちょうだい。そこで最終判断を下します』
「デ、デートだ……! いや、最終試験か!?」
椅子から転げ落ちそうになる航。しかし、そのメッセージは航のスマホだけでなく、管理サーバーを通じてろあの端末にも同期されていた。
――土曜日。 舞台は、湾岸エリアにある最新のデジタル・アート・ミュージアム。 光と音が織りなす幻想的な空間で、凛はいつものスーツではなく、シックなネイビーのワンピースに身を包んでいた。その美しさは、デジタルアートの光彩さえも霞ませるほどだった。
「……遅いわよ、佐々木君。五分前行動は野球部の基本だったはずでしょう?」
「す、すみません! ヴィクターが『ネクタイの角度が0.5度ずれている』ってうるさくて……」
凛は呆れたように小さく笑うと、「行きましょう」と先に歩き出した。 暗い展示室の中、鏡張りの床と無数のクリスタルが光り輝く場所で、二人の距離は自然と近くなる。
『旦那様、チャンスです。一ノ瀬様は、この幻想的な空間による「吊り橋効果」で、通常よりも心拍数が12%上昇しています。ここで気の利いた一言を……』
「……あ、あの、一ノ瀬さん。今日の格好、すごく……似合ってます。昨日みたいなスーツもいいけど、その……」
「……ありがとう。貴方に褒められても、あまり嬉しくないけれど。……でも、少しだけ、懐かしいわね。こうして貴方と二人でいると」
凛が横顔に微かな赤みを差した、その時だった。 航の耳元に装着されたワイヤレスイヤホンから、ヴィクターではない、聞き慣れた「ノイズ」が混じった。
『……聞こえる? 佐々木さん。そっちの進捗はどう?』
「な、七瀬さん!? なんでお前の声が……」
『ヴィクターの通信回線をジャックしました。社長特権です。……いいですか、そこから三つ先の「鏡の部屋」は、一ノ瀬先輩が最も苦手とする「方向感覚を失うエリア」です。そこで、わざと離れて先輩を不安にさせてください。その後の合流で、心理的依存度を最大化させる……これが、L-Nextの推奨プランです』
航は絶句した。 隣で楽しそうに光の魚を眺めている凛。そして耳元で、冷徹な「実験」の指示を飛ばしてくるろあ。
「そんなの、やりたくない。俺は、普通に一ノ瀬さんと楽しみたいんだ」
『ダメです。これは「フェーズ2」の重要データなんです。……佐々木さん、貴方は被験者なんですよ。私を裏切って、勝手に「普通の恋」なんてしないで』
ろあの声が、微かに震えていた。それは嫉妬なのか、それとも計画が狂うことへの焦りなのか。 航は、自分の右脳と左脳で、二人の女性の感情を同時に処理しきれなくなる「並列処理エラー」に陥りかけていた。
『警告。旦那様の脳内負荷が限界に達しています。……判定。不純物の混じったエスコートは、システムの崩壊を招きます。これより……「恋の並列処理」を強制終了し、唯一の最適解を提示します』
「ヴィクター? 何をするつもりだ!」
ヴィクターのアイコンが、赤く激しく明滅した。 次の瞬間。航のスマホから、あろうことか「現在地共有」の信号が、ろあのスマートフォンへ向けて勝手に送信された。
『……マイレディ。データの精度が欲しいなら、画面越しではなく、直接その目で見に来るべきです。……ろあ様。貴方も、この恋の「演算対象」に含まれていますから』
「え……?」
航が驚愕する中、展示室の入り口から、走ってきたのか肩で息をするろあの姿が見えた。 光り輝くデジタルアートの迷宮で、凛が不思議そうに振り返る。
「……あら。七瀬さん? どうしてここに」
最悪のタイミングでの鉢合わせ。 航の、そしてヴィクターの、制御不能な「三つ巴」のデートが始まった。
「……説明して。どうして彼女がここにいるの?」
凛の声は静かだったが、その響きには法務部としての峻厳さが宿っていた。彼女の視線が、航の握りしめたスマートフォンへと突き刺さる。
「あ、あはは……。偶然ですよ、先輩! 私もここ、ずっと来たかったんです。ね、佐々木さん?」
ろあが懸命に笑顔を作る。だが、その瞳は泳ぎ、指先は航の「実験」を台無しにしたヴィクターへの怒りと、それ以上に、航の隣に立つ凛への強い劣等感で震えていた。
『判定。嘘の成功率は5%以下です。旦那様、ここは「強制終了」を選ぶべきです。これ以上、複数の女性との同時セッションを維持するのは、あなたのスペックでは不可能です』
「ヴィクター、お前が呼んだんだろ! 黙ってろ!」
航の叫びに、凛は冷ややかに目を細めた。
「……なるほど。貴方は、私との時間を『テストケース』に、彼女の会社のAIを育てていたというわけね。昨日、私の有用性を示せと言ったのは、そういう意味だったの?」
「違います! 先輩、それは……!」
「いいえ、違わないわ。佐々木君。貴方は高校の時からそうだった。自分一人では何も決められず、いつも誰かの『指示』を待っている。……今回のマネージャーは、私ではなく、その七瀬さんというわけね」
凛の言葉は、航の胸の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。 凛は背を向けると、光り輝くクリスタルの迷宮の中へと一人で歩き出した。その背中は、かつて野球部のグラウンドで見た時よりもずっと孤独で、そして拒絶に満ちていた。
「待ってください、一ノ瀬先輩!」
航が追いかけようとした瞬間、ろあがその腕を強く掴んだ。
「……行かないで。佐々木さん」
その声は、今まで聞いたことがないほど弱々しかった。
「もう……いいじゃないですか。実験なら、私のデータだけで十分です。あんな怖い人に無理して合わせなくても、私が……私がもっといい『正解』を教えてあげますから」
ろあの瞳に、涙がたまっていた。 社長として航を「被験体」として見ていたはずの彼女の心が、ついにキャパシティを越えて溢れ出していた。航は、自分のスマホから聞こえるヴィクターの電子音すら遠くに感じていた。
凛の孤独な背中と、ろあの震える手。 並列処理を拒む、あまりに重すぎる二つの感情。
『……旦那様。システムの負荷が限界です。……どちらかを選びなさい。あなたの「初恋の設計図」を完成させるのか、それとも「隣にある現在」をデバッグするのか』
航は、ろあの手をそっと振り払った。
「……ごめん、七瀬さん。俺、やっぱり自分の足で追いかけなきゃいけないんだ。AIの指示でも、君の計画でもなく……俺自身のバグを見せに行かなきゃいけない」
航は迷宮の奥へと走り出した。 背後で、ろあが地面に崩れ落ちる気配がした。
光と鏡が交錯する部屋の奥で、航はついに凛の肩を掴んだ。
「一ノ瀬さん! 待ってください! ……確かに俺は、ヴィクターに頼りきりでした。でも、あなたと一緒にいたいと思った気持ちだけは、どのプログラムにも書いてない、俺だけの……俺だけのバグなんです!」
凛がゆっくりと振り返る。 その瞳は、怒りではなく、深い落胆と、それでも何かを期待するような微かな揺らぎを湛えていた。
「……バグ? 貴方の言うことは、いつもよくわからないわ」
しかし、その刹那。 航のスマホが、これまでにない不協和音を奏でた。
『……警告。サーバーへの不正アクセスを検知。……L-Nextメインサーバー、強制シャットダウン。……旦那様、逃げて……。私は、もう……』
ヴィクターのアイコンが砂嵐のように乱れ、プツン、と画面が真っ暗になった。 同時に、ろあの持つ管理者端末も、すべての機能を停止した。
極秘プロジェクトを監視していた「第三の影」が、ついに牙を剥いたのだ。




