第4話:AI執事は旦那様の「相棒のバグ」を検知します
「……佐々木さん、今のままじゃ一ノ瀬先輩とのデート、百パーセント失敗しますよ」
翌日の昼休み。航は、会議室での成功の余韻に浸る間もなく、ろあによって会社の非常階段へと連れ出されていた。 ろあの表情は、いつもの明るい後輩のそれとは少し違っていた。瞳の奥に、事務的で、どこか焦燥を含んだような鋭い光が宿っている。
「え、失敗? でも、一ノ瀬さん、あの後はすごく優しく接してくれるし、昨日も『助かったわ』って……」
「それは『仕事仲間』としての評価です! 恋愛対象としてのスコアは、依然としてレッドゾーンなんですよ。……ヴィクター君、現在の佐々木さんの『凛先輩専用・魅力パラメータ』を出して」
『了解しました、マイレディ。……判定。旦那様の「有用性」は上昇しましたが、「男としてのときめき指数」は、誤差の範囲内にとどまっています。一ノ瀬様にとって、旦那様は依然として「手のかかる、放っておけない補欠の後輩」というカテゴリから脱却できていません』
「……。手厳しいな、相変わらず」
航は肩を落とした。自分でも薄々気づいていたことだ。凛と話せるようになったのは、あくまで「仕事」という共通言語があったからに過ぎない。
「だから、特訓です! 一ノ瀬先輩を正式にデートに誘う前に、もっとハイレベルな予行演習が必要なんです。……今日の定時後、空けておいてくださいね」
ろあの言葉は、もはや提案ではなく「社長命令」のような響きを持っていた。
――その日の夜。 航はろあに連れられ、少し背伸びをした雰囲気のイタリアンレストランの前にいた。凛が好みそうな、落ち着いた、それでいて洗練された店だ。
「いいですか、佐々木さん。今日の練習テーマは『主導権の奪還』です。先輩のペースに飲まれず、貴方がエスコートするんです。……さあ、私のエスコートから始めてください」
ろあはいつものカジュアルな服ではなく、少し大人びたワンピースに着替えていた。その姿に、航は一瞬だけ言葉を失う。
「……七瀬さん、なんか今日、雰囲気違うな」
「……。練習ですから、形から入るのが大事なんです。ほら、ぼーっとしない!」
練習が始まると、航はヴィクターの指示を受けながら、必死に「エスコート」をこなした。椅子の引き方、メニューの勧め方、会話の広げ方。しかし、対面に座るろあの様子が、どこかおかしいことに航は気づき始めていた。
彼女はいつもなら、航のミスを「バグ発見!」と笑い飛ばすはずだ。しかし今日のろあは、航がエスコートするたびに、視線を泳がせたり、グラスを握る手に力が入りすぎたりしている。
『……警告。ターゲット「七瀬ろあ」に、予期せぬ挙動を検知しました。旦那様、彼女のバイタルデータが、練習の限界値を超えて上昇しています』
不意に、ヴィクターがテーブルの上で声を上げた。
「ヴィクター? 七瀬さんが、どうかしたのか?」
『……データは嘘をつきません。マイレディ、貴方の心拍数は現在、一分間に百二十回。これは「指導役」としての緊張感ではなく、明らかな「動揺」および「恋愛対象への反応」と酷似しています。……マイレディ、貴方自身がデバッグを必要としているのではありませんか?』
「……っ! ヴィクター、シャットダウンしなさい!」
ろあが激昂した。その顔は、レストランの間接照明に照らされて、隠しきれないほど真っ赤に染まっている。
「な、七瀬さん……。今の、本当……?」
航は困惑してろあを見つめた。彼女は、あくまで自分の恋を応援してくれる「相棒」のはずだ。ヴィクターの開発者側の人間として、自分を実験台にしている、合理的なビジネスパートナーのはずだった。
ろあは、震える手で冷たい水を一気に飲み干すと、大きく深呼吸をした。 数秒の沈黙。彼女は、自分の胸に手を当て、ゆっくりと熱を逃がしていくように目を閉じた。
「……失礼しました。ヴィクター君、音声感度の設定が狂ってるみたいですね。明日、私が自ら修正しておきます」
目を開けた時、そこにはいつもの、冷静な「指導役」としてのろあの瞳が戻っていた。
「……今の発言は、プログラムのバグです。佐々木さん、気にしないで。……私が、貴方を好きになるなんて、そんなの『計画』にはないことですから」
その言葉は、航に向けて言ったのか、それとも自分自身に言い聞かせたのか。 ろあは、いつもの完璧な笑顔を作り直した。しかし、その笑顔が、航にはどこか悲しい「仮面」のように見えていた。
「さあ、練習を続けましょう。一ノ瀬先輩は、今の貴方の隙を見逃さないほど、鋭い人なんですから。空気が冷える前に、メインディッシュの攻略に移りましょうか」
ろあの声は、驚くほど平坦だった。先ほどまで真っ赤だった頬は、レストランの空調に冷やされたのか、今は透き通るような白さを取り戻している。ヴィクターの「告発」という致命的なエラーを、彼女はあたかも存在しなかったかのように、記憶のフォルダから削除してみせた。
「佐々木さん。エスコートで一番大事なのは、技術じゃなくて『余裕』です。相手に、この人といると時間がゆっくり流れる……そう思わせなきゃダメなんです」
「余裕、か……。俺に一番足りないものだな」
「ええ、足りてません。だから、こうしてください」
ろあはテーブルを回り込み、航の隣に座った。そして、航の震える右手に、自分の手をそっと重ねる。彼女の指先は驚くほど細く、そして熱かった。
「こうやって、相手の呼吸に合わせるんです。ヴィクター君、旦那様に『凛先輩の想定される呼吸周期』をフィードバックして」
『了解しました。……旦那様、七瀬様の心拍がまだ安定していませんが、提示される「模範データ」は一ノ瀬様の平均値に近似しています。……さあ、同調を開始してください』
航は言われるがまま、重なったろあの手の温もりを感じながら、深呼吸を繰り返した。 ふと、ろあが顔を上げ、航をじっと見つめる。その距離は、昨日の凛との距離よりもさらに近い。
「……佐々木さん。一ノ瀬先輩は、貴方の『真っ直ぐなところ』を評価してます。でも、それは危うさの裏返しでもあるんです。……だから、もしデートで困ったら、いつだってヴィクター君を通じて私を呼んでください」
「七瀬さん……」
「私、プロデューサーですから。自分の『最高傑作』が、不格好に転ぶのは見たくないんです。……だから、ね」
ろあは一瞬、泣きそうな顔をしたが、すぐに茶目っ気のある笑みに変えて航の肩を叩いた。
「さあ! 練習はここまで。今日の食事代は、将来の『モテ男・佐々木航』への投資ってことで、私の経費で落としておきます。その代わり、明日中に先輩を正式にデートに誘うこと! いいですね?」
「……。わかったよ、七瀬さん。ありがとう」
航は立ち上がり、会計を済ませるろあの背中を見つめた。彼女が「相棒」として振る舞えば振る舞うほど、航の胸には、名状しがたい違和感……「何かが間違っている」という感覚が、小さなノイズのように蓄積されていった。
レストランを出ると、夜の街には冷たい冬の風が吹き抜けていた。 二人は駅へと続く大通りを並んで歩く。
「……あ、そういえば佐々木さん。ヴィクター君の新機能、もう試しました? 『周辺環境スキャンモード』。凛先輩との待ち合わせ場所の下見に使えるはずですよ」
「ああ、まだ使ってないな。やってみるよ」
航がスマホを取り出し、ヴィクターを起動しようとした、その時だった。
『……警告。至近距離に、既知の個体を検知しました。……検索。合致率98.7%。……旦那様、正面を見てください』
ヴィクターの声が、今までにない緊張感を伴って響く。 航が顔を上げると、そこには、街灯に照らされた銀縁メガネと、凛としたスーツ姿があった。
「……佐々木君? それと、七瀬さん」
一ノ瀬凛だった。彼女は仕事帰りなのか、大きな鞄を手に、怪訝そうな表情でこちらを見つめていた。 航の手は、いまだにろあの服の袖を少しだけ掴んでいた。
「い、一ノ瀬先輩! これは、その……」
「……こんな時間に、二人でイタリアン? ずいぶん、熱心な『自己啓発』なのね」
凛の声は、冷たかった。しかし、それは昨日のような「仕事の厳しさ」ではなく、どこか刺すような、尖った響きを含んでいた。
ろあは、航の腕からそっと離れると、いつもの完璧な営業スマイルで凛に向き直った。
「こんばんは、一ノ瀬先輩! 実は、佐々木さんの『AI活用術』のブラッシュアップに付き合っていたんです。……先輩に、もっと喜んでもらうために」
「……。そう。……でも、夜遊びが過ぎて明日の仕事に支障をきたすようなら、私はそのツールの『安全性』を疑わざるを得ないわ。……失礼するわね」
凛は、航の返事を待たずに、カツカツと速い足取りで去っていった。 後に残されたのは、凍りついた航と、暗い瞳をしたろあ、そして空気を読まないヴィクターの声だけだった。
『……バイタル解析完了。一ノ瀬様、嫉妬率82%。旦那様、今のあなたに必要なパッチは、謝罪ではなく「追走」です。さあ、追いかけなさい!』
「え……? 追うって、何を……!」
航は呆然と凛の背中を見つめる。 フェーズ2。恋の設計図は、プログラムを超えた人間の感情によって、取り返しのつかない「バグ」を孕み始めていた。




