第3話:AI執事は旦那様の「正論」にパッチを当てます
「……あ、あの、一ノ瀬さん。本日の調整会議の資料ですが、ヴィクターが分析した『相手部署の懸念点予測』をまとめておきました」
翌日、会議室へ向かう廊下で、航はおずおずとタブレットを差し出した。 一ノ瀬凛は、歩みを止めることなく横目でそれを確認する。タイトなスーツのシルエットを崩さず、颯爽と歩く彼女の姿は、今日も周囲の社員を威圧するほどの気高さを放っていた。
「……随分と具体的なデータね。開発二部が予算の増額を要求してくるタイミングまで予測しているわ」
『当然です。彼らの部長の過去の傾向、および本日の出社時の歩行データから算出されるストレス指数を照らし合わせれば、開始20分後、議題がサーバー維持費に及ぶタイミングが最も「攻撃的」になるはずです。旦那様、コーヒーの差し入れはその直前です』
スマホから響くヴィクターの声に、凛は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「……AIに指示されるのは癪だけれど。貴方がそこまで必死になる理由、少しだけ見てあげてもいいわ。社会人としての実力、見せてもらうわよ、佐々木君」
会議室の重い扉が開く。そこには、予算カットを巡って険悪なムードを漂わせる開発部のベテランたちが揃っていた。 会議が始まると、空気はすぐに氷点下まで下がった。
「法務部が首を突っ込む話じゃないだろう、一ノ瀬さん! 現場の苦労も知らないで、コンプライアンスだコスト削減だと、お役所仕事はやめてくれ!」
開発部長の怒号が飛ぶ。凛は表情一つ変えず、冷徹なまでに論理的な反論を繰り出した。
「規約違反を見過ごすことは、長期的に見て我が社のブランド毀損に繋がります。部長、感情論ではなく、この第4項に記されたリスク係数を見てください。現状の運用は、あまりに無責任です」
正論。あまりに正しすぎる正論だった。しかし、それゆえに相手のプライドをずたずたに切り裂いていく。会議室の空気は、もはや議論ではなく、拒絶の色に染まっていた。
航はスマホの画面を見た。バイタルセンサーが、凛の微かな心拍の上昇を検知している。彼女は平然を装っているが、周囲の敵意に晒され、孤立しているのだ。
『警告。一ノ瀬様の「正論攻撃」により、相手の感情サーバーがオーバーヒート寸前です。これ以上のプッシュは、交渉決裂を招きます。旦那様、今です! 彼女の「正しさ」に、人間的な「隙」というパッチを当ててください!』
「え、隙!? そんなの、どうやって……」
『……私がわざと、この会議室のプロジェクターに「バグ」を発生させます。一ノ瀬様ではなく、この「出来の悪いAI」を敵に仕立て上げるのです。さあ、わざと私の通信エラーを装って、場を和ませてください!』
ヴィクターの指示と同時に、会議室のモニターが激しく点滅し、不穏な警告音と共に「旦那様、お腹が空きました」という巨大な文字が表示された。
「な、なんだ!? 何が起きてる!」
部長たちが驚いて腰を浮かす。航は意を決し、机の中央に身を乗り出した。
「す、すみません! 俺のAIが、あまりの緊張感に空気を読まずに……! ほらヴィクター、今は仕事中だろ! 皆さん、すみません。こいつ、一ノ瀬さんの正論が厳しすぎて、思考停止しちゃったみたいで……」
航が必死にスマホを叩き、ヴィクターと「漫才」のようなやり取りを始めると、殺気立っていた部長たちの肩の力が、ふっと抜けた。
「……なんだ、その妙なアプリは。一ノ瀬さんの部下かと思えば、随分と……抜けた奴を連れてきたもんだな」
「申し訳ありません! こいつを黙らせるために、ちょっと休憩時間をいただけませんか? ついでに、皆さんに美味しいコーヒーを淹れてきますから!」
航は、凛の方をチラリと見た。彼女は驚いたように目を見開いていたが、すぐに状況を察したのか、小さく溜息をついてペンを置いた。
「……そうね。この『出来の悪いシステム』をデバッグする時間が必要なようね。十五分、休憩しましょう」
凛の声は、先ほどまでの刺すような冷たさが消え、どこか柔らかな響きを帯びていた。
十五分間の休憩。航が給湯室から抱えてきたコーヒーの香りが、殺気立っていた会議室の空気をゆっくりと溶かしていく。開発部長たちは、航の「出来の悪いAI」の話でひとしきり笑った後、どこか憑き物が落ちたような顔で談笑していた。
航は、窓際で一人、冷めたコーヒーを口に運んでいた凛のそばに歩み寄った。
「……すみませんでした、一ノ瀬さん。勝手な真似をして。その、俺のヴィクターが……」
「いいわよ、佐々木君。助かったわ」
凛は外の景色を見つめたまま、短く答えた。眼鏡の奥の瞳は、いつもの鋭さを潜め、少しだけ疲れたような色を滲ませている。
「私、知ってるのよ。私が正論を言えば言うほど、周りが黙り込んで、心の扉を閉ざしていくことくらい。……でも、誰かがルールを守らせなきゃ、この会社は壊れてしまう。だから、嫌われてもいいと思ってた」
「……先輩」
航は、かつての放課後を思い出した。部員たちが帰り去った後のグラウンドで、一人黙々とスコアブックを整理していた彼女。あの時も彼女は、誰にも理解されない「完璧さ」という孤独の中にいたのかもしれない。
「でも、貴方のあの……馬鹿げたAIの演出のおかげで、彼らの『心のバグ』が少し取れたみたいね。……ありがとう」
凛がふっと航の方を向き、今日一番の、そして航が今まで見た中で最も「人間らしい」微笑みを浮かべた。 航の心臓が、鼓動を早める。美月への恋が「淡い憧れ」だったなら、凛へのそれは、胸の奥を直接掴まれるような、逃れられない熱量を持っていた。
『旦那様。バイタルデータが沸騰しています。……判定。一ノ瀬凛のデバッグに成功。親密度が、危険域にまで上昇しました』
ポケットの中で、ヴィクターが空気を読まずに囁く。航は慌ててスマホを抑えたが、凛はそれを聞いてクスクスと喉を鳴らして笑った。
――その頃。 自席でモニターを凝視していたろあは、ペンをデスクに叩きつけた。
「……何よ、あの笑顔。あんなの、私のログにはないんだけど」
画面には、航と凛が親密に話し合う様子がリアルタイムで表示されている。ろあの指が、管理者用のコマンド入力欄の上で激しく動いた。
「ヴィクター、聞こえる? フェーズ2の目的はあくまで『社会性の向上』よ。ターゲットが特定の個体に過度な依存を示すのは、データの偏りを生むわ。……妨害……じゃなくて、少し『調整』を入れなさい」
『了解しました、マイレディ。ですが……旦那様のこの幸福そうな表情も、貴重なサンプルではないでしょうか?』
「うるさい。社長命令よ。……次は、私が直接『指導』してあげる」
ろあは立ち上がり、コートを掴んだ。 航を一流の男に育てるための「実験」。そのはずなのに、彼女の胸の奥で、定義不可能な「エラーメッセージ」が激しく明滅していた。
会議が再開された後、話し合いは驚くほどスムーズに進んだ。凛は以前よりも言葉を選び、部長たちも彼女の提案を真摯に受け入れた。 航は確信していた。AIの力だけではない。凛という人が持つ「素顔」を、自分が少しだけ引き出せたのだと。
しかし、航が会議室を出た時。 そこには、いつもの天真爛漫な笑みを消したろあが、腕を組んで待っていた。
「お疲れ様です、佐々木さん。……随分と、先輩と仲良くなったみたいですね?」
その声の冷たさに、航は背筋が凍るのを感じた。




