第2話:AI執事は旦那様の「鉄の女」をデバッグします
「……無理だ。絶対に無理だ。一ノ瀬先輩が抱えてる課題なんて、俺みたいな平エンジニアが解決できるわけないだろ」
凛が去った後、航はデスクに突っ伏して絶望の声を漏らしていた。一週間。あまりにも短い執行猶予。 高校時代、野球部のマネージャーだった凛に「貴方のスイングは物理的に無駄が多い。練習メニューの組み直しが必要ね」と一喝されて以来、航にとって凛は「理屈で塗り固められた絶対に勝てない相手」の筆頭だった。あの頃の彼女は、補欠の一人一人まで完璧に管理し、一切の妥協を許さなかった。その徹底ぶりが、今の「法務部の鉄の女」としての地位を築いたのだろう。
『旦那様。そうやって背中を丸めていては、せっかくのCPUの演算速度も落ちますよ。……分析は既に終了しています。一ノ瀬凛様が抱える「社内コミュニケーション不全」とは、つまり彼女自身の「怖すぎる」キャラクターが原因です』
「身も蓋もないことを言うなよ、ヴィクター。あの人は、仕事に妥協がないだけなんだ。それに、俺なんかよりずっと会社全体のことを考えてる」
『妥協がないのと、周囲を威圧して情報共有を阻害するのは別問題です。法務部の定時退社率、および他部署からの問い合わせの「震え声率」は社内ワーストワン。……旦那様。私たちがすべきは、一ノ瀬凛というシステムに「親しみやすさ」という名のUI改修を当てることです。彼女が周囲に歩み寄るきっかけを、あなたが作るのです』
「……パッチ、ねえ。それができれば苦労しないよ」
航が溜息をついていると、隣の席で楽しそうにスマホを弄っていたろあが、くるりと椅子を回転させて身を乗り出してきた。
「佐々木さん、ヴィクター君の言う通りですよ! 一ノ瀬先輩、仕事は完璧ですけど、私生活のログが全然見えてこないミステリアスな人なんです。それって、逆に言えば『攻略の余地あり』ってことじゃないですか?」
「七瀬さん……。なんでそんなに楽しそうなんだよ。俺のヴィクターが、というか俺のクビがかかってるかもしれないんだぞ?」
「だからですよ! 私もヴィクター君には愛着ありますから。……ねえ、佐々木さん。まずは先輩の『日常』をデバッグしませんか? 実は私、こっそりリサーチしたんです。先輩、ランチタイムはいつも一人で屋上か、近所の無機質なサラダ専門店にいるんです。そこに、ヴィクター君の機能を使って『偶然』を装って突撃しましょう!」
ろあの提案は、航には自殺行為にしか聞こえなかった。あの氷のような視線に晒されながらサラダを食べるなんて、味がしなくなるに決まっている。しかし、ろあの瞳の奥にある、どこか「実験を急がせたい」というような、ビジネスライクな熱量に押され、航は頷くしかなかった。
――その夜。 航が疲れ果てて帰宅した後、静まり返ったオフィスで、ろあは一人、タブレットに向き合っていた。 画面には「L-Next:次世代AI被験体モニタリング」の文字。
「……ヴィクター、聞こえる? ターゲットと凛の接触ログ、全てL-Nextのメインサーバーに転送して。今回の目的は、AIによる『威圧的対象への懐柔アルゴリズム』の実証よ。航さんの感情を動かすには、これくらい強い刺激が必要だったの」
ろあの声は、昼間の明るい後輩のものとは一線を画す、若き社長としての冷徹さを帯びていた。
『了解しました、マイレディ。……ですが、一つ懸念事項が。旦那様のバイタルが、一ノ瀬様に対して「恐怖」よりも「憧憬」に近い反応を示しています。これはフェーズ2の変数として、予測に含めておくべきでしょうか?』
「……。勝手にしなさい。私はただ、データを集めてるだけなんだから。あんな鉄の女に、航さんが本気で惹かれるわけないでしょ」
ろあは少しだけ不機嫌そうに端末を閉じると、夜の街へと消えていった。彼女自身、この「実験」が思わぬ方向に舵を切り始めていることに、まだ気づいていなかった。
翌日の昼休み。航は、死刑台に向かう囚人のような足取りで、オフィスビル近くのサラダ専門店『グリーン・マトリックス』へと向かった。そこは、栄養価と効率を極限まで追求した、まさに凛のような「隙のない人間」にぴったりの場所だった。
「……いた。一番奥の、窓際の席。あんなにケールばかり食べてるのに、なんであんなに殺気立ってるんだ。あそこだけマイナス5度くらい気温が低くないか?」
『旦那様。怯えてはいけません。現在のあなたのネクタイは、私が選んだ「清潔感と信頼感を30%増幅させるスカイブルー」です。さあ、ヴィクター特製・対法務部コミュニケーション・プロトコル、発動です!』
航は震える足で、凛の向かいの席に立った。凛はボウルいっぱいの野菜を口に運ぼうとして、眼鏡の奥の鋭い瞳を上げた。
「……佐々木君。ここは貴方が来るような場所ではないはずだけど。揚げ物の定食屋なら、あちらの角にあるはずよ。ここは『効率を食べる場所』だから」
相変わらずの先制攻撃。だが、航はここで引くわけにはいかなかった。
「い、いえ。今日は先輩に……あ、いえ、一ノ瀬さんに。昨日の『有用性の実証』について、中間報告に伺いました。……ヴィクターの分析によれば、先輩の午後の仕事の効率は、今食べているサラダのドレッシングを変えるだけでさらに15%向上します」
凛の手が、ピタリと止まった。フォークに刺さったトマトが、危うく落ちそうになる。
「……なんですって?」
『旦那様、畳み掛けてください! 事前に彼女の体温、歩数、および今朝のタイピング速度から算出した、最適なマグネシウム摂取量を提示します。……さあ!』
「このドレッシングに含まれる成分は、午前中の会議で疲労した脳の神経伝達物質をリセットするのに、今の先輩には不十分なんです。こちら、私が持参したノンオイルの小袋……これこそが、ヴィクターの提供する『個別のコンディショニング・サポート』の実演です!」
周囲の客がチラリと航を見る。航の顔は茹でダコのように真っ赤だったが、凛は無言で航を凝視し続けた。 三十秒。一分。 沈黙の後、凛はゆっくりとフォークを置き、ふっと深く息を吐いた。
「……相変わらずね。野球部の時もそう。貴方、万年補欠のくせに『このバットの芯は物理的に3ミリずれている』とか、『グラウンドの土の硬さが昨日と違う』とか、理屈だけは一人前だったもの」
「え……覚えててくれたんですか?」
「忘れるわけないでしょう。お陰で私は、毎日グラウンドの土質データまで管理させられたんだから」
凛の口元に、わずかな、本当にわずかな「呆れ」を含んだ笑みが浮かんだ。 航の胸が、ドクンと跳ねた。それは美月に対して抱いていた「春のような憧れ」とは違う、夏のグラウンドで感じていた「焦燥と高揚」が混じり合ったような熱だった。
「面白いわ。AIが私の『効率』を測るというなら、少しだけ試してあげてもいい。……明日の午後。他部署との予算調整会議に、貴方もそのスマホを持って同席しなさい。そこで成果が出なければ、即アンインストールよ。……いいわね?」
「は、はい! ありがとうございます!」
航が勢いよく頭を下げた。一方で、店の外の街路樹の陰から、その様子を遠隔監視していたろあは、ストローをガリガリと噛みながら、不満げにログをスクロールしていた。
「……ヴィクター。あの二人の親密度、予測より上がるのが早すぎない? 航さんのバイタル、明らかに『恋する補欠』に戻ってるんだけど。これ、システムの異常じゃないの?」
『……マイレディ。それはシステムではなく、人間の「情緒」という仕様です。……次回の調整会議、波乱の予感がしますね』




