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滝壺の淵

作者: 都築優

田舎でスローライフをしている。

仕事をやめ貯金で買った小さな古民家で何もせずにもう一年以上が経つ。

家の前のT字路が狭くて車が曲がれない。一台半ぶんくらいの隣家の駐車場がT字路の前にあって縹色の軽自動車がいつも止まっていた。その車をしばらくずっと見ないなと思って、近所の居酒屋———店主がその家のそばに住んでいるところで聞いたら、どうやら引っ越して今は誰も住んでいないのだとか。じゃあずっとパンイチで、気い遣いながら過ごしとったんですけど、大丈夫やったんですね。ああなんならフルチンでもいけんで。

今日は、さすがに———今棲んでいるこの場所は黒潮の海流が通る為、海風で千葉の勝浦と似た気温になる、那智勝浦という似た地名の土地もすぐ側にある。この夏他の地方が最高気温40度を記録する中、いつもたったの31度しかない海の恵みに愛された土地なのだが、今日はさすがに熱く午前11時には36度を超える予報だった。

じゃあ市民図書館にでも避難しようかと貧乏な中学生みたいな事を考えて用意をしていたらこのT字路に車が、駐車場を勝手に使って不慣れな様子で切り返し、バックしている。その様が、すだれ二重越しの開け放たれた掃き出し窓から見えた。

 すだれが掛かっていると昼間は外からは見えない。

 まあ私には関係のないことだ。そのまま作業をしていると普段から鍵をかけない勝手口のドアが開くのに、似た音がした。

 田舎暮らしで訪ねるものもいないので気のせいだろうとそのままでいたら、障子がぱんと開いて友人がバーボン瓶を片手に。

「おう、ひさしぶりやん」

「ノックしろや」

「おみやげや」

「ありがとう。でもそういうことじゃない。ワシいまフルチンやで」

「そら見たらわかる」

「暑いから、しゃあないやろがい」

平日なのに会社をサボって好き勝手してるらしい、それももう一月近くもの間。家族もいるのに、私の存在がなにがしかの悪影響を与えてしまったのだとしたら申し訳ないな、と少し思った。

身なりを整えて、家で現状を駄弁ったあとやはり暑いので涼しいところに行くことにした。でも「おっさん二人で川遊びはないだろ」と言い合ってはいた。奴は以前に何度か子供らを連れて日本で一、二を争う清流であるところのなんとかいう近くの川に泳ぎに来ていたからだ。ついでにうちでバーベキューなどをして。

パチンコ屋が近くには一軒ある。無料で涼めるのはこの辺ではあとは、図書館か川くらいだ。昼飯を食べるためにパチンコ屋の隣の商業施設に行ってマグロとタイの漬け丼を食した後、あなぎの滝という退魔忍みたいな名前の観光名所があるのを思い出し、国道ならぬ酷道と呼ばれる425号線を進んだ。くねくね道を30分、途中でグーグルミュージックが電波不通で途切れ、せっかくイニDセレクションを聴いていたのに興が削がれて前を行く廃棄物満載2トントラックにも道を塞がれ追い抜けず。不法投棄かなあ、と話していたら山奥に市営の焼却場があった。そのまた先、やっと着いて車を駐めてそこから山道を更に30分くらい登山が必要だ。入り口に、そういう看板が立っている。

熊に会ったら遺書の代わりに動画を残そうとスマートフォンを持って進んだ。「家には出勤してる事にしとるから、何かあったら大変や。あと最近子供が何か勘付いたみたいで、不安そうな顔してくる」「難儀やなあ」

途中、滝の手前で深い泳げそうな場所があり暑かったので水着に着替えてクールダウン。きゃっきゃっと、誰も見たくないシチュエーションが実現した。

「もうここまででええんちゃう」

「でももうちょいやで」

「しゃあないな行くか」

「ちょっと待ってな。濡れた足を乾かしてからでええか。この雪駄、この前片っ方の、左のソールが捲れてしもたんよ。ボンドで止めたけど、水に濡れたら右がそろそろやばい、乾くまで待って」

雪駄で登山する舐めた態度は置いておいて、剥がれたら下山も危うい。岩場の川沿いを、歩くというよりマリオの様に岩を飛び越えて進む。しんどいわ、仕事してた方がよっぽど楽やった、というのが友人の談。

女房子供にはずっと内緒にしているらしい。

診断書を提出したら異様に会社の上司がやさしくなったのがうける、とか。

「お金出とるならええやん」ホワイトじゃないか、私の所は出なかった。

滝に着いて、滝壺に潜ったらその場所はちょうど水の落ちてくる山が影になって進むほど暗くなって怖い。2mで引き返した。深度30mのスキューバダイビングだって出来る資格はあるけど、ここはダメだ。

———神聖な場所に、知らずに足を踏み入れてしまったような気がした。

うそやろ、と言って水中眼鏡を貸した友人も一瞬、1mくらいで戻ってきて怖えええええええと言った。透明度は高い。はるか奥の暗闇までが見通せる。進めば進むほど、水面だけ見ていては分からない領域が引き込んでくる。

たいして親しくもない間柄で決して踏み込んではいけない深淵。

何度も通い、心を許すようになるまでは、死を持ってして拒絶される、間違いなくそんな雰囲気だった。「知らんけど多分何人か沈んどんで」「まさか」水中眼鏡を持っていなければ気付かず、不用意に向こうまで泳いで淵に飲まれていたかもしれない。

水というものに対する本質的な恐怖の現れ、こんなところにそんな異世界があった。

死に急ぐ奴ならば、その先に何も気にしたりせず泳いで行ってしまうのだろうなあと思いながら手を合わせてなぜか賽銭を投げ込んで逃げ帰った。

水は冷たく36度の気温がもう全然気にならない、帰る途中で雪駄のソールが剥げた。やはり右側は寿命だった。山道獣道をどた靴雪駄でぺたんぺたんと登り降りして、接着剤でも持ってくれば良かったなと後悔しながら車までなんとか耐えた。

途中で杖にも使えないロールプレイングゲームの悪役のぶたにんげんとかが持っていそうな棒切れ、檜の棒にも満たない棍棒の、極上の形態をした奴を見つけたので拾って帰った。嫌いな奴がきたらこれでぶん殴ってやるためという名目の、凶器として。きっといつか使おう。

前に旅したインドでは食器洗いバケツの水を勝手に飲む牛を、屋台のおっちゃんがこんな棍棒でぶん殴っていた。わざわざ手頃な奴を用意して手近なところに置いているということは牛は常習犯だ。

なんでさぼってんの、って聞いたら去年無茶苦茶忙しい時期があって、今年は余っていてどこか忙しい部署の手伝いに廻された、あのときは誰も手伝いなんかこやんかったのに。

現代社会の闇やなあと言ったら単に俺がやる気ないだけやでと言われた。

道を戻り電波が通じるようになって、熊の出没情報を調べたら何気に3日前すぐその場所で目撃されていた。

剥がれた右も家に帰ってからボンドで止めた。

明日から行くわ、と彼は言って、そうしたらしい。

私は季節が移っても未だ何もしないまま、ただそこに棲んでいる。

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