03. 考えなしのアンネマリー(1)
その瞬間まで、アンネマリー・ブッケル伯爵令嬢は、気弱で地味な普通の少女だった。
「相変わらず、控えめでいらっしゃるのね。『貞淑な』アンネマリーさんは、自己表現すらお控えになるようだわ」
何故かアポロニアのその言葉が、もどかし気に光るその黄色の瞳が、アンネマリーが全てを思い出すきっかけとなる。
記憶が、大河の氾濫のようにあふれ出す。
ディアの無理やりな笑顔も、ネリの痛みに耐えるような微笑みも――こぶしをぶつけ合った感触すら、鮮やかに手の上に戻って来る。
三人で、来世を誓ったあの最期。
「いや、これ『前世』じゃん」
「はぁ?」
「なんでもありませんですはい」
うっかり呟いてしまったせいで、アポロニア嬢は――若きお母様は怪訝な顔をして、こちらをねめつけている。
逃亡経路を探そうと、アンネマリーは辺りを見渡した。
豪奢な鏡づくりの壁板には、アンネマリーの姿が映っている。
「来世」のアンは華やかな赤毛に、アポロニアゆずりの黄色の瞳を持っていた。
しかし今世のアンネマリーは、栗色の髪に緑色の眼、丸眼鏡と、目立ちもパッともしない容姿である。
アンネマリーは額に手を当てて、状況の整理を始める。
――つまり、幸運なことに三姉妹の黒魔術は成功した。
「先ほどから、どうしましたの。汚い悲鳴を上げたかと思えば、脈略のないことを言って。『貞淑のブッケル伯爵家長女』の名が泣きましてよ」
「貞淑のブッケル伯爵家長女」とは、アンネマリーの社交界での通称である。
ブッケル家の家訓は「貞淑」であり、代々優れて夫を支えた淑女が生まれたと、評判の家である。
要はどれだけ舐めても大丈夫、という意味であろう。
心外である。
アポロニアはそんなことを言いながら、扇で上品に口元を隠して、オホホと笑う。
信じがたい……!
アンネマリーは目の前の令嬢を凝視する。
鮮やかな赤毛も、迫力のある黄色の瞳も、すべてがお母様のものである。
だからといって、何をどう間違えば「令嬢の鑑」と呼ばれたお母様が、こんなバチクソ嫌味の「冷酷令嬢」になるのか。
いや、逆に「冷酷令嬢」が「令嬢の鑑」なお母様になったのか。
それは褒められたことではある。
なんにせよ、大好きな母親の黒歴史など、今一番見たくないものである。
「持病の癪が……っ、失礼いたします」
「あ、え、ちょっと」
まだ何か言い足りない様子のアポロニアを置いて、アンネマリーは脱兎のごとく会場を逃げ出した。
その日はとうとう、アンネマリーが飛び出していった扉を、アポロニアが眉を寄せてしばらく無念そうに見つめていたことには、気付かずじまいだった。
***
屋敷に帰ったアンネマリーは、まず自室に向かった。
机の引き出しの中には、大量の殿方同士の恋愛、略して「殿方同士ラブ」の春画がある。
もちろん、アンネマリー特製である。
振り返れば、天井まで届く本棚には、殿方同士ラブの香りを感じられるアンネマリーの愛読書が、これでもかと詰め込まれている。
アンネマリーは目を閉じて思い返し、悟った。
アンネマリーとして生まれた時から、アンネマリーはこんな感じだった。
過去に巻き戻ったことで、消えたはずのアンの魂は、アンの「前世」の身体であるアンネマリーに引きずり戻されていたらしい。
「何かの誤差」が起こった――過去に小さな影響が出始めたのである。
「……私、生きてます」
一拍後、アンネマリーはへなへなとその場で腰を抜かした。
最悪、黒魔術によって魂までも消えることを、想定していたのだ。
いやむしろ、存在ごと魂も消えると思い込んでいた。
来世を誓い合ったのも、姉妹と笑ってお別れするための冗談であった。
まぁ、今いるのは「来世」ではなく「前世」だが。
「しかし、今世の私もたくさん描きましたね」
引き出しから自作の春画を取り出して、しげしげと眺める。
「意外とよく描けています……いいえ、冷静になりたい、誰かの意見が欲しい……」
――ぶちまけるべきでないところで、ぶちまけてはいけませんわ――
愛しき母の声が、反射的に脳裏を打った。
とたんに、母を想う胸と昔ぶっ叩かれた尻に、鋭い痛みを感じる。
「すみません反省します反省します反省します」
アンネマリーは引き出しに絵を突っ込みながら、呻いた。
記憶がなくとも魂に刻み込まれた、母の教え。
この教えがあったからこそ、アンネマリーは誰にも言わず、密やかに活動していたのである。
アンネマリーは口を閉ざす。
しばらくのあいだ黙り込んで、目を瞑って、検討する。
やがて、叫んだ。
「あの『冷酷令嬢』? 本当にあの意地悪かつ性悪のアポロニア様が、私のお母様だって言うんですか!?」
アポロニア様はアンネマリーの天敵であった。
会うたびに地味だの冴えないだの嫌味を言われて、ガラスハートのアンネマリーは、パーティーが終わるたびに寝込んでいた。
「認めない、というか、認めたくない」
叫びながら、アンネマリーはベッドに倒れこもうとして、化粧が付くことを気にして一旦思いとどまり、しかし気にしている状況でもないと思い直し、シーツと布団の隙間に潜り込んで、じたばたともがく。
しかし、アンネマリーは気付いていた。
「来世」の母親は優秀で、プライドの高い人だった。
そしてそれだけに、ライバル意識を強く燃やす人だった。
そのうえ、アポロニアはまだ十七歳である。
未熟なのだ。
「来世」の母親が仮に未熟な若者であれば、同世代ならジャブ代わりに嫌味くらい言うだろう。
ありありと目に浮かぶ。
「だからって、これはちょっと、ひどくないですかぁ」
シーツに顔をうずめたまま、アンネマリーはぼやく。
その時、扉が軽い音を立てて開いた。




