21. アメルン伯との邂逅(3)
あれ、と言って、フェリクスは今気づいたように、アメルン伯爵に笑いかけた。
「アメルン伯爵、お久しぶりです。連れを案内しようとしてくれていたんですね。ありがとうございます」
そして人懐っこい笑みを浮かべながら、ごく自然にアメルン伯爵からアンネマリーを引きはがす。
アンネマリーの腕から、伯爵の手が離れた。
「じゃあ、彼女は俺が預かりますね。そろそろ騎士の個人戦の時間でしょうか。良い演習会を」
アメルン伯爵はしばらく驚いたようにフェリクスを見ていたが、やがて皮肉気に笑った。
「驚きました、フェリクス君。君はもっと華やかな女性を、侍らせているものとばかり」
「いやいやー、そんなぁ」
フェリクスは軽やかに笑う。
「アメルン伯爵こそ、ダンスの素晴らしい方達と、親しんでいらっしゃるようですね。いやぁ、素敵なことです。俺にはとてもとても」
アメルン伯爵は一瞬忌々しげな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「学生さんは、たくさん仲の良い人をつくると良いですよ。連れの方と会えたようで、何よりです。僕はこれで」
そう言うと、踵を返す。
最後の一瞬、アンネマリーに「助けてやろうと思ったのに、恩知らずが」と、囁いていった。
「……あっちに空き教室あるから。座った方がいいよ」
去って行くアメルン伯爵を無表情で眺めながら、フェリクスは言った。
アンネマリーが真っ青を通り越して、真っ白な顔色をしているから、座ろうというのだろう。
「……何で、あの人は退散したんですか。ダンスの素晴らしい方とは」
「ああ、踊り子を囲い込んでるって、噂を聞いたもんだから。当てずっぽうだったけど、意外と効いたな」
フェリクスは何でもないことのように言う。
「とりあえず、一旦座ろうぜー。俺はあちこち回ったうえに、変な奴を相手にして疲れた」
そうしてフェリクスに引きずられるようにして、アンネマリーは教室に入った。
「で、あれって前の……っていうか、『来世』の父親だろ。何で対峙してたのさ。なんかあった?」
アンネマリーを座らせた後、フェリクスが反対側に椅子を置きながら、言う。
「いえ、本当に偶然です。たまたま会って、それで……」
「ふーん、それで目をつけられたと。アンネちゃん、いかにも都合よさそうだもんねー」
フェリクスがいつもの調子で言う。
「ていうか、何であんな所にいたの。田舎の騎士たちの、気安いいちゃいちゃを見に来たとか? 彼らなら、今から都会見物にって町に行っちゃったから、もういないよ」
アンネマリーは感嘆した。
こいつはいちいちアンネマリーの趣味にケチをつけるくせに、どうしてやたらと自分の趣味の方向性を熟知しているのであろう。
「フェリクスさんは? 何でこんな所にいたんですか」
「なーに? 俺が自分の学校にいちゃまずい?」
「そういうわけじゃ、ないですけど……」
アンネマリーは自分の指をせわしなく組み直していたが、やがて小さな声で聞いた。
「何で、助けてくれたんですか」
フェリクスは、アンネマリーが知る限りでは、臆病な人間である。
だから、幼い頃は一番の友人だった。
だが、フェリクスは立派な奴なのだ。
内心怯えているにも関わらず、果敢に人とかかわり、網目のような防御線を張りながら情報を集める。
宰相の補佐もしているくらいだ。
アンネマリーには、そんなことはできない。
アンネマリーは人が怖い。
いつでも誰かの陰に隠れて、目立たないように、誰の目にもうるさく映らないようにふるまう。
「貞淑」と呼ばれても、そのことが負い目のアンネマリーには、嫌味にしか聞こえない。
フェリクスは勇敢な奴なのだ。
だから、最初は確かに同じ壁のもとに、ひっそりと身を隠していた子供のくせに、いつの間にかフェリクスは日向を闊歩する身分となり、アンネマリーは日陰の雑草の脇に隠れる小石となった。
なのに、フェリクスはわざわざアンネマリーにちょっかいをかけに来る。
アンネマリーには、彼にはもっと有意義な生活習慣があると、思わずにはいられない。
それは例えば、彼が傷つかないための防御線を張る時間だったり、社交界という戦場をくぐるための下準備の時間であったり、ゆっくり休息を取る時間である。
アンネマリーは、フェリクスに自分を大切にしてほしいのである。
かつての友を応援しないわけがない。
関わったって一分の得もないアンネマリーなど気にせず、彼は心地よくベッドで休むべきなのである。
「じゃあ、アンネちゃんは何であの時、助けてくれたの?」
フェリクスは、頬杖を突きながら言った。
「あの時?」
「えっと、変声機で追っかけ事件」
「ああ」
アンネマリーは答える。
「そりゃあ、友達だからです」
それを聞いて、フェリクスは安堵のような、諦念のような、微妙な目をして言った。
「じゃあ俺も、友達だから助けた」
アンネマリーの胸に、ほわりと暖かいものが広がった。
アンネマリーは俯いて、目が潤むのを隠しながら言う。
「お、お前よぉ」
「うんうん」
「そんなに立派になっちまっても、私を友達だと思ってくれんのかよぉ」
「当然だろ。俺はそんなはくじょーな男じゃないよ」
「うん。私たちゃぁ、何十年たっても、何百年たっても友達だぁ」
「……そうね」
アンネマリーはずびっと鼻をすすりながら言う。
「さっきは、結構やばかったです」
そして、深々と頭を下げた。
「助けてくれて、本当にありがとうございます」
「いえいえ、どういたしましてー」
――助けてやろうと思ったのに、恩知らずが――
頭をあげようとして、アンネマリーはぴたりと動きを止めた。
「助けてやろうと思ったのに、恩知らずが」
「え、何?」
「そう、アメルン伯爵に言われたんです。去り際に」
「え、困らせてた方だよね、アメルン伯爵……」
フェリクスは眉をひそめる。
「何というか……その人、大丈夫?」
「少し待ってください。何か、引っかかるんです」
――わざわざ助けてやったのに、この恩知らずが――
頭にガンガンと警鐘が鳴る。
「わざわざ助けてやったのに、この恩知らずが?」
「何それ」
「いや、聞いたことがあるんです、あの人がそう言ったのを……」
――「令嬢の鑑」だなんだと、周りにちやほやされて、鼻にかけて。こんな女だと知っていれば、僕は――
アンネマリーは頭を押さえながら、立ち上がった。
「昔、お母様といっしょに、蹴られたことがあるんです」
フェリクスは瞬きも忘れて固まった。
アンネマリーはそのことには気づかずに、頭を押さえたまま混乱する。
「その時に……え、なんで? 『助けてやった』って、何のこと」
頭に警鐘が鳴る。
背後にお母様が立っていた。
目に見えたわけではない。
ただ、感じ取った。
アポロニア様だけど、アポロニア様ではない。
古くて粗末な、所々つぎの当たった服を着た、額に傷の残っている「アポロニアお母様」だ。
彼女は言った。
動きなさい、アン。
放置しては、いけない。
「あの人まだ、いますかね」
「え、あの人ってアメルン伯爵のこと? ちょっと、何考えてるの」
フェリクスの叫びも聞かず、アンネマリーは走り出した。
フェリクスには一度、説明すべきだ。
分かっている。
だが、どうしても止まれない。
アンネマリーは教室を飛び出して、渡り廊下を走り抜け、アメルン伯爵が消えた方向に突っ走る。
あの男を探す。
走っているうちから、体中から血の気が引いていく。
手先がかたかたと震え出す。
こんな状態で、まさに先ほど無様にも動けなくなった相手に、もう一度会いに行く。
あまりにも無謀すぎて、自分でもどうかしているとしか思えない。
そもそも、会って何を聞き出すのかすら、まとまっていない。
だが、どうしても止まれない。
こういう時はどれほど怖かろうが放置してはいけないと、どうにも曲げられないほど、固く信じているのだ。
アンネマリーの根幹は、「来世」のアンであった時代から、「止まるな」と叫び続けている。




