12. 頑張る男性陣(3)
ヒルデベルトは、衝撃を受けた。
「ヒルデさん……?」
「複雑怪奇、変幻自在、何よりも繊細で、誰よりも大胆……」
周囲を気にも留めず、ヒルデベルトはぶつぶつと呟きだす。
「ちょっと、ヒルデさん。どうしたんですか」
「炎の文様……カイナ暦のやつだし……あ、ここでウンディーネの召還を使うの? 信じられない……」
ヒルデベルトの眼は、暴風雨のように目まぐるしく模造紙の魔法陣の上を動く。
次の言葉を読み解く期待で、心臓が痛いほど波打つ。
脳の回転に体が耐え切れず、鼻血がつーっと口元に落ちて、ヒルデベルトは無意識に舐め取る。
ヒルデベルトは、ここ数年なかったほどの興奮と集中力を以て、魔法陣を解読した。
「ここがこうなって、こうなって、えっ、これが……こう、ええ、正気なのかよ……」
ヒルデベルトの口元が緩む。
幸福だった。
最後まで解読したくないとすら、思った。
それほどまでにその魔法陣は新鮮で、老熟していて、つまり素晴らしかった。
残念なことに、ヒルデベルトの明晰な頭脳は一直線に、最後の一本の線までたどり着いた。
「……え?」
王太子がたずねる。
「ヒルデ君、どうした?」
ヒルデベルトから笑みが消えた。
興奮が消えた。
目の光も消えた。
「全部……中和した……」
「は?」
「すべての言葉が、文様が、その線の一部まで、美しく、完璧に、中和しあった! 何の効力もない魔法陣だったんだよ、この野郎!」
――それは、ヒルデベルトの人生一番のがっかりであった。
組み込まれた全てが、全てを完璧に打ち消し合って、中和した。
例えて言うなら、1+1のような簡単な式に、膨大で複雑な途中式を書いて、最後の答えが1+1に戻るようなものだ。
これではこの魔法陣に何の効果もない。
人類史上最大級の無駄だ、とヒルデベルトは思った。
「とりあえず、鼻血拭いてくださいよ……」
「何だよ、この作者! 変態だ、天才だ、いーや、やっぱり変態だ!」
「ヒルデさんが、そこまで言うとは……そんなにすごい陣だったんですか?」
「評価の付けようもないよ。だって何にも起きないんだもの」
「それは魔法陣ですら、なくないか……?」
「そんな訳がない、これは確かに魔術だ。見てくれ、見ればわかるから。いやむしろ見るな。僕がこの陣を独り占めしたい」
「いや、俺たちだって、そんなにすぐ読めるわけがない。だって魔法陣ですよ……」
侃々諤々の大騒ぎの中で、テラスの扉が開いた。
「失礼いたします……」
現れたのは、ファーナー男爵だった。
ファーナー男爵は、ギルベルトの顔を見ると、ほっと顔をほころばせる。
「ああ、やはり、あなただ。私が持っていた紙と、混ざりましたよね……?」
ヒルデベルトは飛び掛かるようにして、ファーナー男爵の襟元をつかむ。
「ヒルデさん、落ち着け、やめなさい――」
フェリクスが叫んだ。
「ねえ、この陣描いたのお前?」
ヒルデベルトの問いに、ファーナー男爵は目を白黒させて言う。
「ち、違います、うちの娘で――」
「娘? 何歳? 宮廷学校の何年卒? 今は学生じゃないでしょ。僕こんな生徒知らない」
「じゅ、十七歳で……」
「うっそ年下? じゃあ学生だってわけ。くそ、僕としたことが、こんな天才見落とすとは……」
「きゅ、宮廷学校どころか、家庭教師を雇ったこともありません」
「はぁ? じゃあ、ぜんぶ独学だっていうの……?」
ヒルデベルトはしばらく呆然とした後、くっくっくっと笑いを漏らす。
「ねえ、会わせてよ。そちらのお嬢さんに」
ヒルデベルトは言った。
有無を言わせぬ気迫だが、どこか懇願するような響きがあった。
***
話し合いが終わった後、テラスを出た王太子エアハルトは、中庭でうろうろしている令嬢を見つけた。
「アポロニアさん、何をしているのかい?」
アポロニアははっとした顔をして、数多の淑女の中でも、際立って美しいカーテシーをする。
「王太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
「ごきげんよう。誰か、探してるのかな」
エアハルトの問いに、アポロニアは居心地悪そうに目線を下げると、右手を開いて差し出す。
掌の上で丸い金色のボタンが転がっていた。
「さきほど薔薇の植え込みで、ヒルデお兄様のボタンが落ちているのを見つけたのです。付けあげたいけれど、もうどこにも見当たらなくて」
「ああ……さっき、ファーナー男爵を引きずって行ったな……」
「お兄様が? 引きずられるのではなく、引きずって行くのは珍しいですわね」
アポロニアは首を傾げる。
エアハルトはふと思いついて、呟いてみた。
「クラウディア・ツァールマン嬢が、騎士団合同演習会に行くらしいよ。珍しいね」
「えっ」
アポロニアはぱっと顔を輝かせた。
「あの勉強しかしないクラウディアさんが、遊びに行くなんて、これはチャンスだわ。この間に猛勉強して差をつけて、今度こそわたくしが首位の座を――!」
しかし、アポロニアは顔を曇らせる。
「いえ、あの勉強しかしないクラウディアさんが、遊びに行く? これはおかしい。何もないのに、あのクラウディアさんが、ああいう場に出かけるなんて……」
アポロニアの目がギラリと光った。
「あの人、そこでも勉強する気だわ」
「それは、どう、だろうなぁ……」
「こうしては、いられません。わたくしも騎士団合同演習会に行って、クラウディアさんが何を勉強する気なのか、見定めないと」
王太子エアハルトは、苦笑しながら言う。
「君にとって、クラウディア嬢……あと、アンネマリー嬢は……」
「ライバルです!」
アポロニアは顔を輝かせながら言った。
「クラウディアさんは、知識欲。アンネマリーさんは、人当たりの良さ。どちらも、わたくしには真似できない、天性の才能を持っています」
そこで、アポロニアはぐっと渋い顔をする。
「でも、アンネマリーさんは、才能を全く活かそうとしない。貞淑だとか何とか、口当たりの良い言葉で、あんなに舐められているのに、反論すらしないのですわ。自分で自分を守る気のない方って、見ていて苛々します」
「それで、嫌味を言っちゃうとか?」
エアハルトの言葉に、アポロニアはうっと言葉を詰まらせる。
「……、都合が良い人としか、思われていないのに、ちゃんと傷ついているのに、アンネマリーさんは、少しも怒らないのです。何とかして、アンネマリーさんは舐められていい人じゃないってこと、アンネマリーさん自身に気づかせないと」
「発破をかけるのが、悪いこととは言わないけれど。すくなくとも人を助けるのに、いつも有効なことではないよね」
アポロニアは歯を食いしばって、俯いた。
「……肝に銘じますわ」
ふわふわの赤毛がぷるぷるとゆれ、反省、の二文字が頭上に浮かんで見えるような気がする。
エアハルトは微笑んで、その様子を見ていた。
アポロニアは「冷酷令嬢」として有名だが、存外熱くて、非常に素直な少女なのだ。
そして、本質はとても善良だ。
それが他の男に、それもフェリクスの話に聞くような、ひどくつまらない男にとられるなんて、全く面白い話ではない。
エアハルトは赤い髪のつむじを見ながら、そう思った。




