10. 頑張る男性陣(1)
ファーナー男爵は、王宮の廊下を歩いていた。
手には、折りたたんだ模造紙の束を持っている――コルネリアのものだ。
たまったから廃品回収に出そうと、部屋にまとめていたものを、持ってきたのだ。
ファーナー男爵は思い出していた。
最近、王都では「抽象画」と呼ばれる絵画が流行っている。
ファーナー男爵には、それの何が良いのかさっぱり分からない。
線とか、丸とか、よく分からない記号があるだけだ。
――でも、それなら、コルネリアの謎の文様だって同じはず。
ファーナー男爵は、知り合いの宮廷画家にそれを見てもらい、評価してもらう予定だった。
駄目でもともと、ちょっとでも評価が付いたらもうけ。
ファーナー男爵は何としてでもコルネリアに、新しい居場所を作ってほしかった。
別に、領地は甥を養子にして継がせれば良い。
コルネリアはコルネリアらしく、好きに生きていていいと思う。
だが、老いて死ぬ時まであの塔にこもっていると思うと――いささか胃が痛い。
「せめて、あの子に友達ができたら……」
呟いた時、曲がり角から歩いてきた人間とぶつかった。
頑丈な若者で、ファーナー男爵は尻もちをつく。
「申し訳ありません。ファーナー殿、お怪我はないですか」
若者はギルベルト・ツァールマンだ。
「ギルベルト殿。失礼しました」
「いや、こちらこそ申し訳ありません。立てますか?」
ファーナー男爵が立つのを助けながら、ギルベルトは、はっと廊下を見下ろした。
ファーナー男爵が持っていた模造紙と、ギルベルトが持っていた書類が、混ざってしまっていた。
「これは、ファーナー殿、申し訳ない……」
「いえいえ、こちらこそ……」
二人は慌てて書類をまとめると、顔を見合わせて苦笑する。
「では、失礼します」
「はい、こちらこそ」
そうして、二人は別れた。
***
ファーナー男爵に別れを告げると、ギルベルトは廊下から中庭に出た。
中庭をまっすぐ突っ切ると、目当てのテラスまで近道だからである。
芍薬の花壇の小路を歩いていると、小さな黄色の薔薇の生垣の中に、上半身を突っ込んでいる少女を発見した。
ギルベルトは眉間にしわを寄せる。
薔薇は棘が多い。
あんな風に体を突っ込んでは、肌が傷だらけになってしまう。
ギルベルトが近づいて来るのにも気づかずに、少女は何事かを叫んでいる。
「ヒルデお兄様! こんなところに居ては、駄目ですわ。早く出て来てください。ご本ならお部屋で読めばいいのです、もう――」
声や叫ぶ内容により、少女が誰かを察してしまったギルベルトは、額を押さえながら言う。
「よろしければ、そこをどいてください。俺が代わりますから――アポロニア嬢」
すると、少女は生垣から頭を出し、黄色の瞳でこちらを見た。
自慢の赤色の巻き毛は少し乱れ、顔や手が薄い引っかき傷だらけである。
彼女はアポロニア・アードルング公爵令嬢である。
アポロニアは一瞬顔をひきつらせた後、何事もなかったかのように優雅なカーテシーをした。
「お久しぶりですわ、ギルベルト様。兄がいつもお世話になっております」
「お久しぶりです、アポロニア嬢。お世話になっているのはこちらの方です」
それだけ言うと、ギルベルトは薔薇の生垣に上半身を突っ込んだ。
「ヒルデさん、ヒルデベルトさん。妹さんが困っていますよ、早く出てきてください」
ギルベルトの呼びかけに、小さな人影が起き上がって、生垣から出てきた。
「言われなくても、出るって。もう、読み終わったんだから」
そう言って、辞書のように分厚い魔術書を顔の前で振ると、少年はにこりと笑った。
黒いまっすぐな髪に、アポロニアと同じ知性を感じさせる黄色の瞳の、十三歳くらいに見える少年である。
黒くてだぶついた、古いローブを着ている。
端正な顔立ちをしているが、薔薇のとげによってできた数々の擦り傷と、盛大な寝癖が台無しにしている。
彼の名はヒルデベルト。
アポロニアの兄であり、アードルング家の次男である。
幼げな顔立ちの上に、きちんと立っても、背丈がアポロニアより五センチほど大きいくらいしかないので、もう十九歳にもなるとは、一見して誰も気づけない。
「ヒルデさん、本は室内で読む物です。生垣の中で読む物では、ありません」
「えー、通行の邪魔にならないように、ここを選んだのに」
「通行の邪魔にならない代わりに、ひどい不審者ですよ。ヒルデさんは立派な研究室をもらっているじゃ、ないですか」
ヒルデベルトは天才である。
国一番の難関である宮廷学校には、年齢が十六歳以上でない限り、入学受験ができない決まりがあるが、ヒルデベルトは才能が卓越しすぎていたため、特例で九歳の時点で受験が認められる。
あっさり一発合格。
さらに飛び級を重ね、学園長から「いい加減卒業してくれ。そして教師になれ」と無理やり卒業させられ、同時に教師に就任させられる。
当時のヒルデベルト、十三歳である。
現在では十九歳の若さで、宮廷魔術師筆頭と助教授を兼業する、一般人から見れば助走をつけて殴りたくなるレベルの天才である。
だが、学園長がヒルデベルトのために確保した大講堂は、全く機能していない。
何故ならヒルデベルトの授業が難しすぎるうえ、彼自身、教えるのが壊滅的に下手だからだ。
そもそも宮廷学校の学生は、選り抜きの優等生ばかり。
エリート意識を持つ彼らが、若いヒルデベルトに授業を教えられ、あまつさえそれが理解できないなど、屈辱でしかない。
そういうわけで、ヒルデベルトの授業を受講している生徒は、現在ゼロ人である。
だが、ヒルデベルトは落ち込まない。
授業時間は一人で勝手に魔術の研究をしているし、教師に与えられる小さな研究室を、家族や客人に邪魔されない自分の個室として堪能している。
学園長の尽力は、まったく意図しないところで、ヒルデベルトの魔術研究に貢献しているという。
「ギル君。君、僕の研究室と図書室の位置が、把握できてる?」
「はい、一応」
ギルベルトは脳内に地図を浮かべた。
宮廷学校は宮廷の隣に位置するが、宮廷学校図書室は、宮廷から見て反対側に位置している。
必然的に、学生は宮廷の塀をぐるりと回って、図書室に向かわなければならないため、学生にとっては不便だが、その位置取りだと宮廷に勤める文化人が、すぐに図書室に向かうことができる。
「そう。図書室から学校に向かうのは、あまりにも距離が開きすぎる。宮廷の敷地に侵入して、ショートカットをするとしても、そこまでの距離を借りた本を読むのを我慢して歩くのは、辛すぎる。お分かりかな」
「分かりません」
ヒルデベルトは、天才と何とかは紙一重を体現する馬鹿であった。
「ヒルデさん。本のことはいいとしても、これから殿下とお約束の時間ですよ。もし本を読み切れなかったら、どうするつもりだったんですか」
「あ」
「待ってくださいまし!?」
アポロニアが悲鳴を上げた。
「今日が王太子殿下とお話する日でしたの? 何をしてらっしゃるの! 本を読むのが止められないなら、せめてお約束の前の日からは、図書室に行くなって、わたくしは何度も――」
「ごめん、ごめんってニア。忘れてたんだ」
「忘れないでくださいまし!」
アポロニアは半泣きで、ヒルデベルトの背中をべしべしと叩く。
結構痛そうだ。
ギルベルトは苦笑しながら、ヒルデベルトの腕をつかんだ。
「アポロニア嬢。ヒルデさんは俺が責任を持って、連れて行きますから、安心してください」
その言葉に、ようやくアポロニアはほっとしたように微笑んだ。




