01. 「来世」の記憶(1)
アンネマリーは逃げようとした。
だが、回り込まれた。
「相変わらず控えめでいらっしゃるのね。『貞淑な』アンネマリーさんは、自己表現すらお控えになるようだわ」
目の前に立ちはだかるのは、長く豊かな赤い巻き毛に、知性をうかがわせる黄色の瞳の麗しいご令嬢。
彼女の名はアポロニア・アードルング。
御年十七歳の公爵令嬢だ。
誰よりも優秀で誰よりも気高く、美しく完璧すぎるお姿を以て、人呼んで「令嬢の鑑」。
誰相手にも厳しく、嫌味をびしばし言うことを厭わないお姿を持って、影で呼ばれることには「冷酷令嬢」。
アンネマリーは、ぐえっと潰れたヒキガエルのような悲鳴を漏らした。
別に、遠回しな嫌味に傷ついたからではない。
正確に言えば、アンネマリーのガラス製の心臓は粉々に砕けたが、ダイヤモンドの砦よりも堅牢な外面は微笑みを絶やさなかった。
思わず悲鳴を上げてしまったのは、今、思いだしたからだ。
アポロニア様はアンネマリーの――いや、アンネマリーたちの「来世」のお母様だった。
***
「来世」の最後の記憶は、このようなものだ。
埃だらけの床。
あちこち切り抜かれた古いカーテン。
揺れる赤色のおさげ髪。
記憶の中で、アンネマリーは息を弾ませて、アメルン侯爵の別邸の廊下を走っていた。
勢いよく扉を開けると、重いカーテンが閉まった暗い部屋の中で、燭台の灯りがちろちろと揺れていた。
そばの二脚の木製の椅子に腰かける、二人の女の姿がぼんやりと浮かび上がる。
《あら、アン。どうしたの?》
「来世」のアンネマリーを見て、二人の女は微笑んだ。
胸に本を抱えている「来世」のアンネマリーは、アメルン家の三女「アン」であり、二人の女はアンの姉なのだ。
三人とも雰囲気はばらばらだが、赤い巻き毛だけが見て分かるほど、そっくり同じである。
《もしかして、前に勧めたナナバ国戦記を読んでくれたの?》
《ええ、ええ、ディアお姉さま、ネリお姉さま》
アンは姉たちに勧められた戦記ものの本を、ベッドの中で一晩徹夜して読んだ直後であった。
アンは部屋の隅から椅子を一脚引きずってくると、燭台のそばに置いて座る。
そうすると、ちょうど三人で輪の形に並んだようになる。
アンは息を整えると、頬を紅潮させ、目を輝かせながら叫んだ。
《ナナバ国王子と騎士団長、絶対、付き合ってますよね――!》
――アンは、殿方同士の恋愛が大好きだった。
《何故いつもそうなの、アン!》
長女のディアが、長い髪を揺らして椅子から崩れ落ち、床に膝をつく。
《どう考えても王子と付き合っているのは、王子付きの従者でしょう!》
――ディアも、殿方同士の恋愛が大好きだった。
《アン、あなたは毎回いいところを突くのに、いつも若干ずれたところに着地するんだから》
《そんな。ずれているのは、ディアお姉さまでしょう》
《馬鹿ね。あらゆる個所をあらゆる角度から分析すると、王子と従者は付き合っていることになるのよ。いいから、ちょっとわたくしの話を聞きなさい》
《もう、ディア姉さん。アンに無理強いするのは、おやめよ》
次女のネリがため息をつきながら言った。
《ただでさえ、ディア姉さんの話は長いんだから》
《だって、ネリ――》
ディアが不服そうに呟くが、ネリは被せるように言う。
《それに、どう考えたって、王子と従者は付き合ってなんか、いないでしょう》
ネリは輝くような笑みを浮かべる。
《王子は絶対、彼の馬と付き合っているんだもの!》
《いやそれは分からんわ》
《あんたやっぱ絶対おかしいって》
ネリも、殿方同士の恋愛が大好きだった――そう言うと二人は口々に疑問を叫ぶが、ネリがそう宣言する以上、事実はそうとしか言いようがない。
《ディア姉さん、アン、何言っているのさ。王子と一番長い時を過ごしてきたのは、馬でしょ。王子を一番献身的に支えてきたのも馬。彼らの絆は、絶対に引き裂けないんだ》
ネリが夢見る目つきで持論を展開する。
アン、ネリ、ディアの三姉妹は、そんなかんじだった。
まだ言葉もおぼつかぬ頃から、三人で殿方同士のラブの話題で盛り上がり、それを初めて見た若い母親は卒倒した。
そんな伯爵家の娘たちを、人々は奇異の目で見た。
口さがない人々から「脳みそ腐った馬鹿令嬢」と、嘲笑されることもあった。
すると三姉妹は「我ら腐りし令嬢、すなわち腐女子なり。腐敗の伝染の速きこと、ミカンのごとし」と笑い叫び、片っ端から殿方同士の恋愛の妄想を吹き込んで回った。
激怒した母親に、お尻をひどくひっぱたかれたのも、今となってはいい思い出である。
《でも、ネリ。声が大きすぎるんじゃない。別邸の外まで聞こえたら、お母様が可哀そうよ》
《大丈夫。ディア姉さんも、分かっているでしょ。みんな理解しっこないよ》
心配げに辺りを見回すディアを、ネリが笑い飛ばす。
人前で殿方同士の恋愛の妄想の話をしていると、母親は素晴らしい速さで止めにかかった。
だから、三姉妹は裏をかくことにした。
古代魔術語で会話することにしたのである。
古代魔術語は難解で、分かる人は非常に少ない。
三姉妹は勝ったと思った。
しかし、魔術語は魔術語だ。
つまりその言葉での発言は、魔術の詠唱と同じなのである。
……発動してしまった。
ある言葉は幻覚として。
ある言葉は偽物の記憶として。
ある言葉は人を操る効果まで。
三姉妹と母親が住む別邸は、恐怖の館と化した。
残念ながら、三人娘は有頂天――つまり馬鹿だった。
喜びのおもむくままに、下町に繰り出して、数々の魔法を発動して回った。
幼い小娘が三人、心の中は王様だった。
――町は阿鼻叫喚だった。
各地で数々の混乱が起こり、三姉妹は母親に、前よりも強くお尻をひっぱたかれた。
三人の犯行は、母親によってもみ消された。
姉妹は子供だったので、母親がどんなずるい方法を使ったのか知らない。
それから三人は、古代魔術語が発動しないように、更に複雑に暗号化して話すようになったのだ。
《お母様、怒っていたわねぇ……》
《「ぶちまけるべきでないところで、ぶちまけてはいけませんわ」ですね。あの言葉、トラウマの域まで身に染みました……》
若き清き、哀れな母親。
三人は母親に苦労をかけたことを、猛省している。
だが、父親に迷惑をかけたことは、微塵も後悔していない。
《……ところで、アン》
ディアが頬に手を当てて、ぼそりと言う。
《その興奮具合だと、また描いたわね?》
ぎくりと肩を震わせるアンに、ネリが椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
じり、とアンが退くと、じり、とネリが近づく。
無言の攻防戦の末、アンは壁際に追い込まれた。
《分かっているでしょう。これは王子様と騎士様の絵です。お姉さま達とは解釈違いです》
アンは顔を背けながら、苦し紛れに言う。
――アンは絵を描くタイプの馬鹿であった。
《知っているよ、分かるよ、じゃあ見せなさい》
《じゃあ、じゃないです。恥ずかしい思いをするのは、私なんです》
詰め寄るネリに対するアンの語調は強いものの、本心からの拒絶は見られない。
……なんだかんだ、実は見てほしいのだ。
《そこの右ポケットと見た》
《ひどいです、ディアお姉さま!》
興味無さそうに窓の外を眺めていたディアが、素早い動きでアンのポケットから、紙片を抜き取る。
ネリが注意を引き、ディアが隙をつく。
抜群のコンビネーションだ。
ディアは「ほーっほっほ」と高笑いをしながら紙片を開き、ネリが嬉しそうに横から覗き込む。
二人とも黙った。
アンは両手に顔をうずめる。
……最初に口を開いたのは、ディアだった。
《わたくし、アメルン家長女として、幼い頃から数々の夜会に出たの。宮廷にも何度も行ったわ。当然、当代一の美術品を大量に見た。令嬢の中でも、目は肥えているつもりよ。その視点から言うわ》
ディアは目を閉じて、空を仰いだ。
《最高》
《ディアお姉さま……!》
《間違いなく国一番》
ネリが鼻血を止めながら言う。
《いや、セクシーだわ……》
《ネリお姉さま……!》
《君、仮にこの家を出たとしても、春画描きとして生きていけたね》
《ええ、そんな、そんなこと、うぅ、うへへ》
アンは顔を真っ赤にしながら、にやにやと笑う。
《あ、でもそう言うディア姉さんも、どうせ何か書いたんでしょう》
《えっ》
ネリの言葉に、ディアが飛び上がる。
……攻防戦は続く。
三姉妹が主人公ということは、ヒロインが三人いて、つまりカップルも最低三組、手に入るってことなんですよね!
私の思う最強に萌える男女カプを詰め込みました。ヤッター!
ヒーローも三人いるから、たくさんBL妄想できるってわけですね!
楽しんで頂けますように。
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