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遺言の衝撃
介護施設内の空気が変わったのは、封筒の封が切られた瞬間だった。
生前“ミスタービル王”と呼ばれた資産家、滝沢喜三郎の通夜の翌日、事務室の簡素な丸机を囲んでいたのは、施設長、副施設長、そして数名の職員たち。
「では、読み上げます」
司法書士の高峰卓が淡々とした声で、滝沢の遺言書を読み上げていく。息子への配慮、孫への想い出、そして最後の一文。
――『私の全財産は、私に最もよくしてくれた施設職員一名に譲渡する』。
その言葉が読み上げられた瞬間、
「……え?」思わず、滝沢の最期を看取った介護士の三宅結花が小さな声を漏らした。
「ちょ、ちょっと待って……職員の“誰か一人”に、三億って……嘘でしょ?」隣にいたベテラン介護士の山根陽子が、信じられないという顔で繰り返す。
「名前は?」副施設長の杉山昇が、抑えた声で尋ねる。
高峰は無表情に首を振った。 「氏名の記載はありません。遺言執行者として、調査の上で決定します」
ざわめきと、互いを牽制するような視線。
そこには、目に見えない戦いの火花が、すでに散っていた。