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第三章9  『愛してる』

 気づくと俺は、長い廊下の中央に立っていた。


 プラスチック製の白い床材。均等に並んだドア。天井には白色蛍光灯。

 明かりがあるにも関わらず周囲は薄暗く、空気は鉄の表面みたいにヒヤリとしていて、ほのかに塩素のような匂いがした。



「ここは……」


 中世ファンタジーからかけ離れた光景。明らかに俺の知ってる異世界ではない。


 赤レンガの街並みから一転、目を覚ませばそこは現代風の廊下だ。まるで狐につままれたかのような気分だった。


 夢でも見ているのだろうか。現世に戻ってきたのかと一瞬思いはしたが、体にずっしりとのしかかる謎の倦怠感や、現実感のない不気味な雰囲気が、これは夢だという俺の考えを補強した。


 左手の壁には緑色の掲示板があり、数枚のポスターが画鋲でとめられていた。

 「飛び出し注意」と書かれた交通安全ポスター。指名手配犯の顔写真。などなど、どれも警察署とかでよく見かける類のものばかりだ。


「……あ」


 そこではたと思いだす。


 そうだ、警察署。


 俺はこの場所を知っていた。昔住んでいた家の近所にあった警察署だ。

 窓一つないこの廊下は、おそらくそこの地下だろう。高校の時に一度来て、息が詰まりそうな閉塞感を抱いたのをよく覚えている。

 別に夢で見るほど懐かしい場所でもないが……現世が恋しくなったのだろうか。自分でもよくわからない。


 あの時はどんな用事でここに来たんだっけ。それ以外のどうでもいいことは思い出せるのに、肝心のそこだけが記憶から抜け落ちていた。


「……」


 まあ、なんでもいいか。


 夢の中であれこれ考えたところで、どうせ起きれば全部忘れている。目が覚めるまで適当に散歩でもしよう。

 そう考えて俺は回れ右する。前は暗くて不気味だったので、とりあえず後ろへ進もうとした。



「おわっ!」


 その次の瞬間、思わず悲鳴をあげて飛び退いた。


 背後に謎の少女が立っていたのだ。


「おお、われが見えるか。にんげん」

「……キエリ?」


 口にしてからすぐさま「違う」と気がついた。


 黒髪で二本角が生えた少女。特徴はキエリとほとんど同じだったが、よく見れば(たたず)まいからしてまるで別人だ。


「そうか……キエリとあったのだな。これもわれらの()()()()ゆえか」


 老練の武士みたいな動作で頷き、角少女はよくわからない独り言をぶつぶつと漏らす。

 キエリの知り合いなのだろうか。見た目からして紅龍なのは間違いなさそうだが、だとして、なぜその紅龍が俺の夢に現れたのか。


「あんたは、誰だ? どうしてここにいる?」


 単刀直入にそう質問すると、角少女はピクリと肩を揺らし、それから不思議そうな表情でこちらを見上げた。


「いちどにたくさんを聞くな」

「す、すまん……えっとじゃあ、名前は?」

「りゅうはおいそれと名前をおしえない」


 なんだこいつ。勝手に人の夢に出てきてその態度はないだろう。


「そっちが名のれ。めうえのあいてには、それがとうぜんのれいぎだぞ」

「……俺はナカムラだ」

「いつわりの名か。まあ、あるいみではそれが真の名前でもある」

「……!」


 あっさりと偽名を見抜かれ、俺は思わずたじろいだ。


 そういえば、キエリと初めて会った時も速攻で偽名を見抜かれた。紅龍には名前を言い当てる能力でもあるのだろうか。


「つながりだ」

「……え?」

「おまえには、紅龍とふかいつながりがある。

 それは血、それは名前、それは歴史、それは心。

 紅龍はおまえのことならなんでもわかる。おまえもじきにわかるようになる」


 つまり、紅龍は俺の心が読める……ってことか?


「そのとおり。おまえは紅龍のたいせつで、紅龍はおまえのたいせつだ」

「……当然のように俺の心を読むのはやめろ」

「われがここにいるのも、そのつながりがあってこそ」


 少女は俺の苦言を無視すると、それから翼のように両手を広げた。



「われは、セクェーレナトゥーラム。またの名をアスカトレア。ひとは、われを()()()とよぶ」


 紅龍王……?


 紅龍王って、あの紅龍王か? キエリがずっと探していた紅龍の王様?


「ほかに紅龍王はいない。いっぴきだけだ」

「だから心を読むなって」

「そろそろじかんだ。いくぞ、ナカムラ」


 またもや無視。少女は俺の手を握ると、そのまま前方に向けて歩きはじめる。


 いろいろ聞きたいことがあった俺は足を止めようともがくが、その抵抗も虚しくズルズルと引きずられてしまう。

 ものすごい力だ。少女の身長は俺より頭ひとつ分は小さいはずなのに、引っ張られる感覚は、獰猛な雄牛かトラクターのようだった。


「どこに行くかぐらい教えてくれよ!」

「おまえもよく知ってるところだ」

「なんだよそれ! ちゃんと説明して……」


 突然、少女の足がピタリと止まる。


「いたっ!」

「おまえは、ここを知っている」

「急になんの……いやまあ、知ってるけどさ。ここは警察署の地下だろ?」

「そのとおりだ」


 少女はコクリと頷くと、促すように斜め上に目をやった。



 霊安室。


 鉄製の無機質なドアには、そんな三文字が書かれた一枚のパネルが貼り付けられていた。



「……ぁ」


 心臓が腹の奥にギュッと押しこまれるような感覚。

 全身に痺れるような緊張が走って、俺の頭蓋の中では「霊安室」「霊安室」「れいあんしつ」と同じ言葉が何度も何度も反響した。


 そうだ、俺はここを知っている。


 現世では片時もこの場所を忘れたことはなかった。なのに、どうして忘れてしまったんだろうか。ここは俺の人生の岐路(きろ)だったというのに。



「ひとは、なれるものだ」

「……?」

「こうふくも、くるしみも、たいせつも……いつもそこにあれば日常になる。ないものとおなじになる。そして、じきに忘れてしまう」


 背後から足音が近づいてくる。


 少女の手に、ギュッと力がこもった。


「おまえは歴史からなにを学んだ。それはきっと、ありふれたものではなかったはずだ」

「なんの話だか、俺には……」

「おまえはここでなにを感じた」

「……」

「思いだせ。われはそのためにここにいる」



 制服を着た「俺」が、横を通り過ぎる。


 それは霊安室の扉の前で立ち止まると、緊張で強張った背筋を一度脱力させてから、ゆっくりと扉に手を伸ばした。


「……忘れてなんかない。ここで感じたことは、昨日のことのように覚えてる」

「ならばなぜ、見ない」

「覚えてるからだ。いちいち見なくてもわかる」

「ちがう。おまえはくるしみからにげようとしている」

「っ……!」

「歴史を見ているようで、ほんとうは歴史なんて見たくないと思ってる。

 いたみを忘れたようで、ほんとうはだれよりもいたみをおそれている。

 いのちをたいせつにしているようで、ほんとうはいのちからにげている」


 視界の端で、テーブルに置かれた円筒形の壺と、それを前に呆然とする俺の姿が見えた。


 動悸が加速する。


 俺は無意識に後ずさった。


「にげるな」


 しかし逃すまいと少女に腕を引かれる。それが後ろめたさにも似た劣等感と、今にも爆発しそうな鬱憤を生み出した。


「にげたところで、なにもかいけつしない」

「逃げてねぇ……!」

「おまえには『答え』がない。かんがえを変えるか、気にしないようにするか、忘れるか。その三つだけだ。

 どれもにげている。なのにそのことすら気づいていない。気づこうともしない」


 知った風な口ききやがって。どいつもこいつも、なんで俺の精神ばかり追い詰めてくるんだ。

 ローラー、蒼龍、レッテルと続いて、今度は紅龍王かよ。もうカウンセリングじみたやりとりはうんざりなんだ。


 俺だって精一杯生きてんだよ。逃げたつもりなんて少しもない。むしろ誰よりも向き合ってきた。


 なのに、なんでそんなこと言われなくちゃ……ッ!



「くるしみとたたかえ。つよくなりたいなら、にげるな」

「だから、逃げてねぇって言ってんだろうが!」



 ――――


「親父……」


 霊安室の冷たいテーブルに置かれた骨壺が、俺の知っていた親父の姿だとは思いたくもなかった。


 目の前の光景を受け止めることができず、俺は気を紛らわそうと、必要もないのに制服のネクタイを締め直した。


「ご愁傷様です」


 立ち合いの警官が弔辞を告げる。


 その口調が嫌に落ち着いていて、俺は無性に腹立たしくなった。



「なんで、こんなに遅れたんですか……」


 八つ当たりなのはわかっていた。しかし(たかぶ)る感情を抑えることができず、俺は責めるような言葉を警官の彼にぶちまけた。


「教えてくださいよ。なんで俺は、壺に入った灰なんかとお別れしなきゃいけないんですか」

「……」


 警官は露骨に顔を曇らせる。

 その時は俺の八つ当たりに腹を立てているのだと思っていたが、後になって思えば、それは彼の正義感の表れだったのだろう。


「君はまだ若いし、こんなことを伝えるのもどうかと思うんですが……」

「いいから、教えてください」

「……持ち物が、盗まれていたんです」

「……は?」


 高校生の俺にはとても理解できない事実だった。


 この世に死体から盗みを働くような見下げ果てた人間が存在していたなんて、想像すらできなかったのだ。それこそ中世世界ぐらいでしかあり得ないような事だと思っていた。


「お父様のご遺体は、文字通り身ぐるみ剥がされたような状態でした。それで身元の確認が遅れ、このような形に」


 もう、それ以上のことは少しも耳に入らなかった。


 壁越しに聞こえてくる話し声のように、くぐもった音声となって片耳から片耳へと素通りしていった。



 ――――


「俺は逃げてねぇ!」


 叫び声が廊下を反響する。


 親父が死んだ時、俺は本当の意味でからっぽになった。親父はそれだけ俺にとって大きな存在だった。


「でも、信念は残った……!」


 そう。俺には信念がある。


 俺は死体を絶対に傷つけない。


 死体はただの肉の塊じゃない。命の欠片だ。大切な思い出がたくさん詰まっていて、それを傷つけたり物を盗んだりする行為は、遺族の思い出をまるっきり破壊してしまう最悪のことだ。


「俺は前に進んだ! 苦しみを乗り換えたんだよ!」

「ゆえに、おまえはいのちもたいせつにする」

「また心を……!」

「しんねんのある心は、なによりもうつくしい」


 ドサッと、音がした。


 少女が俺に近づき、引き寄せるようにして抱きついたのだ。


「われら紅龍はそんなおまえを愛している。おまえのうつくしい心が、キエリやわれをひきつけるのだろう」


 少女の熱が胸に伝わる。


 獣人村を出る時、キエリと話した、あの夜の熱に似ていた。

 体を芯から暖めて、心を癒すような熱。痛みはなく火傷することもない。


 少女はかなり長い間そうしていた。

 数分、いや、数十分は経ったかもしれない。彼女は俺が落ち着いたのを見計らうと、やがてスッと離れて、今度は俺の手先を暖めるかのように両手を握った。



「でもな、ナカムラ。しんねんはくるしいものだぞ」


 たしなめるような優しい口調。


「しんねんには二つの答えしかない。すててしまうか、つらぬきとおすか」

「……」

「どれもくるしいことだ。だが、そのどちらでもないことは、もっとくるしい」


 俺は、その事実をよく知っていた。


 ローラー、ソーン、カティア。俺が今まで出会ってきた人は、みんな自分の信念で苦しんでいた。しかし、彼らはそんな信念に折り合いをつけて、自分なりの道を見つけた。


 しかし、かくいう俺はどうだろうか。


 いつか自分の信念と葛藤したとき、俺は「答え」を出すことができるのだろうか。



「おまえには答えがひつようだ。さもないと、しんねんに殺されてしまう」

「それが、お前の伝えたかったことか……紅龍王」

「そうだ。くるしみにそなえろ。おまえがゆがむすがたを、われは見たくない」


 視界が徐々に不鮮明になっていく。それに相対する形で、俺の思考はみるみる鮮明になっていった。


 じきに目が覚めるのだろう。


「おわかれのじかんだ」


 少女が名残惜しそうに呟いた。そして、最後にもう一度と俺に抱きつく。


「ほんとうは、もっとたのしい話がしたかった」

「紅龍王……」

「忘れるな。われもキエリも、おまえのみかただ。おまえをずっと愛している」


 やがて視界が真っ白に染まる。


 目が覚める直前、ポツリと一言、「キエリをたのむ」という声が聞こえたような気がした。

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