間章 『出発の前夜(前)』
『まったく……借りなんて気にせず、とっとと行けば良かったんだよ』
『キエリからの受け売りでな。借りは必ず返すようにしてるんだ』
『……ふん。おかげであたしはスッカラカンさ。もう返せる物なんて何もないよ』
――――――
……あれは、要するに「もう十分もらった」という、カティアなりのお礼だったのだろうか。
ほう、と口から出る白い息。夜空に昇っていくそれをぼんやり眺める。
時刻はおそらく日付が変わった頃あたりだろう。どうにも眠れなかった俺は、夜のテント村を散歩しながら取り止めのない考え事に没頭していた。
「……」
小さい頃は、大人になれば何でもできるようになると思っていた。
でも逆だった。
人は歳を重ねるごとに不器用になる。プライドや信念がついてきて、知らないうちにがんじがらめになってしまう。
「……俺もきっと、そうなんだろうな」
夜闇の静寂に、独り言を溶かす。なんとなく感傷的な気分になっていた。
明日で出発だから、心がここで起きたことの精算をしようとしているのだろうか。思えばこうしてゆっくり考えるのも久しぶりだ。あまりにも忙しない毎日だったから。
「……ん?」
急に気温が上がったような感覚がして、俺は考え事をやめて立ち止まる。
右を見ると、そこには巨大な紅晶石があった。知らないうちに村の大通りに出ていたらしい。
昼間は獣人族がウロウロしていたこの通りも、こんな夜更け頃ではシンと静まり返っていて、人は見渡す限りどこにもいない。
静寂。満点の星空。夜の冷気。
そして柔らかく肌を暖める、熱。
悪くない。俺は不思議なワクワク感というか、居心地の良さを感じた。これが深夜テンションというやつか。
どうせなら少し暖まってから帰ろうかな。
そう考えて、俺は周囲に腰を下ろせるような場所がないかを探してみる。
少し歩くと、開けた十字路に出た。
紅晶石は走ればすぐにたどり着けそうな距離にある。かなり暖かいが、不愉快なほどではない。
そんな十字路の角の一つ、紅晶石がよく見える角度の位置に、手作り感のある木製のベンチがぽつんと置かれていた。
そこには、先客が一人。
俺と同じように、ぼんやりと星空を眺めていた。
「……眠れないんですか?」
キエリはこちらを見ずにそう声をかける。
「珍しいですね。あなたは寝るのも起きるのも早いタイプだと思っていましたが」
こんなに静かだから、おそらく足音で気づいたのだろう。
しかしなぜ俺だとわかったのだろうか。キエリはたまに俺への理解度が尋常じゃない時があるが、その理由はいまだに謎のままだ。
「まあ、少しな」
「……少し、なんですか?」
「別に大したことじゃない。変な夢を見たとか、そんな感じだ」
キエリがこちらを見る。
そして数秒してから、すすと隣に移動した。座れということなのだろう。
俺は彼女の気づかいをありがたく頂戴する。
「星を見ていると落ち着きますよ」
そこそこの間があってから、キエリはふと、何かをきっかけにそう呟いた。
「以前は、そうやって寝ていました。今日は何となくですけどね」
「……眠れない時期があったのか?」
「いつもです。夜になると、どうしても飢えを意識してしまいますから」
ああ、なるほど。
キエリが平然と振舞っているから忘れがちだが、龍の力が尽きるというのは、彼女にとって相当に苦しいことらしい。
人間の飢えと比べたら幾分マシと聞いていたが、まさか眠れないほどだったとは。俺が寝ていた間にも、キエリは毎晩こうして星を眺めていたのだろうか。
誰にも相談せず、たった一人で、飢えと戦っていたのだろうか。
キエリは……すごいな。
思わず尊敬の念が湧いた。
それを彼女に言葉として伝えるかどうか迷っていると、急に頬が熱くなる。恥ずかしさとかではなく、体の外側からきた熱だ。
何事かと思って目を向けると、キエリがじっとこちらを見上げていた。
「……」
「……?」
しばらく見つめあってみるが、彼女はなんの反応も示さない。変わらずこちらを見つめるだけだ。まばたきすらしていなかった。
「……どうした?」
俺が困惑しつつそう尋ねると、キエリはようやくふいと顔を背けた。
しかし、またすぐにこちらを見上げる。そしてゆっくり口を開いた。
「あなたの、おかげです」
「……俺?」
いきなり何の話かと戸惑ったが、会話の流れからして、おそらく紅晶石のことを言っているのだろうと察した。
その感謝はもう受け取ったし、そもそも俺だけじゃなくてリーフェンのおかげでもある。俺がそう伝えると、彼女は「それでも」と首を横に振った。
「この二日間、私は幸せな夜を過ごせました。苦しみも、恐怖も、不安もない。幸せな夜です。もう何十年ぶりかもわかりません」
興奮気味に早口で喋り、キエリは満面の笑みをこちらに向ける。その笑顔だけで彼女の「幸せ」とやらは十二分に伝わってきた。
「あなたに会えなかったら……初めて会った時、あなたが私を許してくれなかったら、きっとこうはならなかった。
あなたの優しさのおかげで、今の私の幸せがあるんです。だから、ありがとうございます、ナカムラ」
「それは……なんというか、感謝するには昔の話すぎないか?」
俺は、おそらく気恥ずかしくなったのだろう。
自分でもひどく無粋な返事だとは思ったが、キエリの素直な感謝を、そんなふうに茶化してしまった。
しかしキエリは特に気を悪くしたような様子も見せず、「そうかもしれませんね」と落ち着いた口調で返した。
「私たち紅龍は、赤色を大事にします」
「……赤色?」
「例えば、女は赤色で、男は青色です。精神は赤、肉体は青。大地は赤、大空は青……いろいろあります。
紅龍は赤いものを、蒼龍は青いものを大事にする。それが龍の考え方の基本なんです」
今夜のキエリの話は、いつになく取り止めがない。
「えっとつまり……何が言いたい?」
「龍にとって、『過去』は赤色です。だから私たちは過去の出来事を大事にします。
歴史や伝統。約束。受けた恩。全て赤色で、大切なもの。どれだけ昔なのかは関係ありません」
「ああ、なるほどな。俺が思ってる以上に、さっきの話はキエリにとって重要なことだったと」
「そうです」
キエリは俺の返事に手応えを感じたのか、満足げに頷いた。
それから、遠慮がちにこちらを見る。「おかしな話ですが」と前置きする彼女は、少し困ったような顔をしていた。
「その……知って欲しいんです」
「……キエリのことを?」
「そうではなく……いえ、そうかもしれません。
私はわかりにくくて、面倒くさい龍だから、いつもあなたを困らせてしまいます。でも、私も自分がよくわからなくて……空回りばかりで」
「キエリ……」
「だからせめて理解してもらえれば、あなたの困惑を減らせるかもしれないと思ったんです。私が何を考えていて、どんな龍なのかを、知ってほしい」
「キエリ、ちょっと」
「でも、あなたのことも知りたいです。だって私は、よく考えれば何も……!」
「キエリ!」
「……あ」
ようやくキエリもハッとした。
彼女の角と耳先が一気に赤くなり、強烈な熱気がブワッと立ちこめる。
「わ、わた、わたし……すごく恥ずかしいこと、言いましたか?」
「……言った」
濁そうかと思ったが、いい言い方が思いつかなかったので率直にそう答える。
「は、はぁ……はわ、はわわ……」
キエリは銃弾を喰らったかのようにのけ反った。
「また私は、暴走して……!
俺は頭を抱えるキエリに、ふにゃっとした苦笑いを浮かべてみる。これでも精一杯のフォローのつもりだった。
「消えてしまいたぃです」
「いやでも……あの、いい感じに気持ちは伝わってるからさ」
「そんな適当なこと言って……っ!」
キエリが立ち上がったので、恒例の情緒不安定ブチギレモードに入るのかと身構えたが、そうはならなかった。
「……」
立ち上がったまま停止するキエリ。
何かをグッと堪えている様子だ。心配になって尋ねてみると、噛み殺したような声で返事がきた。
「もう、力が戻ったので、怒鳴りません」
「そ、そうか……えらいぞキエリ。さすがだ」
やがて、彼女はしぼむように腰を下ろした。
力が戻ったおかげで、感情のコントロールも多少はできるようになったらしい。
なんだか少し寂しいような気もするが、この冷静なキエリこそが彼女本来の姿なのだろう。感情に振り回されて苦しんでいるキエリを見るよりは、「ちゃんと我慢できました」と誇らしげなキエリを見る方がずっといい。
「さあ、ナカムラ」
「……ん?」
「わかりますよね?」
わからない。
こういう所は相変わらずキエリだ。わかりにくくて面倒くさい。
「私は恥ずかしい思いをしたのです。だからあなたも何か話しなさい」
「えー……恥ずかしいことをか?」
「まあ、そこは何でもいいです。許してあげます」
力が戻って器も大きくなったみたいだ。よく観察すると色んな変化があって面白いな。
「ですが、ちゃんと私が『聞いてよかった』と思えるような話にしてください。じゃないと不公平ですから」
「えー……」
なにが不公平なのかよくわからないが、いちいちツッコむと面倒なので流そう。
と言っても、俺に話せるようなことは何もない。
前世の話をしようかとも思ったが……かなり暗い話ばかりだし、今それをやると空気がお葬式になりそうだ。いつか話すことにはなるだろうが、それはまたの機会にしておこう。
「話っていうか、相談なら一つあるんだが……それでもいいか?」
「…………まあ、はい」
ものすごく不服そうだ。
でも許可は貰えたので、俺はキエリの前に手のひらを差し出した。
「……?」
彼女は不思議そうにそれを握る。
「……いや、何してんの?」
「手を繋ぎたいのかと」
「違うわ。当然のようにやるなよ、すっげえビックリしたんだけど」
前のキエリなら絶対にその発想には至らなかったはずだが、いつの間にやら、すっかり俺に心を許してしまったらしい。
リーフェンしかり、俺の仲間は距離感が変なやつしかいない。
「この手を見ててくれ」
「……生命線が短いですね」
「へえ、異世界にも手相はあるのか……って、違えよ。ちょっとボケるのやめろ」
「ボケてません」とまた不服そうになるキエリを無視し、俺は精神を集中させる。
何度か練習してコツは掴んだ。もう軽く念じるだけでも、それはできるようになっていた。
手を閉じ、開く。
するとそこには、龍の刻印が入ったジッポー。マジックさながらに無から出現した。
「……!」
「俺はジッポー製造機だったらしい」
「そう、ですか……気づきましたか。いえジッポー製造機は違いますけど」
その反応を見るに、キエリは知っている上で伏せていたようだ。
「もしかして、これは知らない方がよかったやつか?」
「…………」
キエリは無言で考えこむ。
「もしそうなら、俺も気にしないようにするけど」
「……いえ、別に知っても問題ないことだとは思います。ただ私ではなく、クロタコに聞くべきかもしれません」
「クロタコに? それはどういう……」
その時、ニュッと、細くて白い腕が俺の左右に現れた。
なんとなくそんな気はしていた。
このタイミングで、急に出てきそうだなと。
「なにイチャイチャしてんの? うちも混ぜてや」
「……抱きつくな、クロタコ」
キエリの熱が、チクッとした種類のものに変化したような気がした。




