第二章14 『空』
絶氷。
そんな言葉があるかはわからない。しかしそう表現するのが、最もふさわしい。
心骨を断絶する氷点下。
「蒼龍……!」
「いかにも」
こちらにゆっくりと近づく。
その体には、キエリのそれとよく似た戦化粧が浮き出ていた。しかし蛇のような流線形ではなく、イバラのように刺刺しく、攻撃的な紋様。
一歩、また一歩と近づく。その度に気温が下がる。
「ほら、どうしタ。動ケ」
逃走か、闘争か。そんな判断すらできなかった。
熱を「動」とするなら、冷気は「静」の権化だ。轟音の代わりに無音を響かせて、万物を停止させる。
空気、音、時が止まった。ならばお前も止まれ。静止の圧力。
「あるいハ……紅龍の居場所を吐くカ?」
ぴたり、と、その足が止まった。
もう目の前にいる。再生が追いつかない。手先を起点に感覚が消えていく。
「この所、めっきり連中を見なくなっタ。おかげで蒼龍王様に捧げる首が足りなイ」
「…………」
「あの死に損ないどもから手を切リ、吾に従うのなラ、命は助けてやル」
口を開けると、舌先が痺れた。開けたそばから唾液が凍ったのだろう。
「あ……ぐ……」
声は言葉にならない。それに気づいた蒼龍が、「おオ」と言って冷気を弱めた。
「利口な男ダ」
「……」
「さア、吐ケ」
「ああ……」
――ゴッ!
「あ、ぐ」を「吐く」と勘違いした蒼龍の顔面に、思いっきり拳を叩き込む。
「歯ァ食いしばれ……氷ビーム角野郎!」
二発目を振りかぶる。が、それはできなかった。
「愚かナ」
手がくっついて、離れない。そう思ったのも束の間、接着面を起点として氷がピキピキと進行し、肩から先を完全に凍結した。俺は身動きが取れなくなる。
「無駄な足掻きダ。話しておけば、苦しまず死ねタ」
そう言って、蒼龍は俺の指に手を伸ばす。
ポキッ。
氷柱のように折れた。
喉がかすれた悲鳴を鳴らし、膝が揺れる。
「もっと大きな声デ、悲痛に哭ケ。さすれば紅龍が助けに来るかもしれン」
一本、一本。小指から順に折っていく。
「やはり、強く匂ウ……あの堅物が転生者を認めるとはナ」
蒼龍は独り言に夢中で、こちらの行動など微塵も気にしていない様子だった。苦痛に悶える俺の左手が、するりとポケットへ入ったことにも、気づいてない。
「其方には、何かあるようダ」
親指が、折れた。いや、自分から折った。
そこに力が加えられる直前で後方、指を犠牲に蒼龍から距離をとる。
「ほウ……?」
ポケットからジッポーを取り出し、火をつけた。
キエリは冷気に弱かった。なら、蒼龍は熱に弱いはず。つまり俺の魔法は効く。
「火よ――ッ!」
足を燃やす。熱を溜める。凝縮させ赤熱させる。
その熱を、蹴りの衝撃で弾き飛ばすイメージで――放つ!
「爆羅!」
決まった。
爆炎爆音。全てが前回以上。蒼龍にモロで直撃した。
「……それハ、なんダ?」
しかし、心底怪訝な表情。
俺の攻撃は決まったのではなく、避ける価値もないと判断された。蒼龍の口角が歪んだのを見てそれを悟る。
「ククっ! その粗末な小火が、爆羅?」
焼けるような痛み。手首を掴まれ、思わずジッポーを落としてしまう。
キィンという金属音が、氷壁の間を反響した。
「紅龍も堕ちたものダ」
「がッ……あああ゙ああ゙ァッ!」
「ククク……はははッ! こんな豚に、紛い物の技まで与えるとハ!」
手首から白い煙が上がる。
蒼龍はあえて冷気を抑えていた。俺の腕から感覚が消えない程度に。ちょうど再生と破壊が拮抗する程度に。
やがて、再生が敗北し始める。栄養が枯渇したのではなく、心が「もう再生したくない」と折れてしまった。
霜焼けを通り越し、凍傷、凍結。組織が壊死する。
「ぐッ!」
「弱イ……弱すぎル。人間から毛が生えた程度ではないカ」
こちらの微かな諦めを察知したのか、蒼龍は掴んでいた手首をゴミのように放り投げる。そして俺の腹を踏みつけた。
「精悍に見えたが、見紛いだったらしイ」
失望。ああ、なんだその程度かという、冷めた眼差し。
「く、そ……ッ!」
「さながら、よくできたハリボテだナ。本当の其方は空っぽダ」
その言葉に、俺の古傷が呼応した。
『なんか、何も無いんだな。お前って」
仕事を辞める前に、先輩から言われたセリフ。
何かあるように見せかけてるだけ。本当は教科書やネットの真似をしてるだけで、俺自身には何もない。空っぽだ。
『そう……かも、しれません』
何が悔しかったって、心底「その通りだ」と思ってしまったことだ。謝ることしかできなかった。
『はぁー。勉強だけのタイプか。医学部って聞いて、変に期待してた俺も悪いんだけどな』
勉強ができる自分に自信があった。でも勉強ができるだけ。新社会人になった俺は、自分がいかに独創性の欠けた模造品だったのかを痛感した。
痛感した。俺の生は全て無駄だったと。努力と学習はただの模倣の連続だったと。
生きることに、意味はない。
『……すいません』
『ま、がんばれよ』
「時間の無駄だったナ」
「……」
なんで、異世界に来てまで……
「……?」
「うるせぇな……ガタガタ喋んな」
もう、忘れたことにしてくれよ。
俺はこの世界で、新しい意味を見つけたんだ。
生きることではなく、生き延びることに意味を見つけた。
俺には、目標がある。歴史がある。
「力が、ある……ッ!」
「それが何ダ?」
――バキャン!
かすかに持ち上がった体が、再び氷に沈んだ。
あともう少し。もう少しでジッポーに届く。そんなところで、圧倒的な力にねじ伏せられた。
「再生など、実にありふれた能力ダ。ごまんと見てきタ。それこそ不死身のような手合いすらナ。其方はせいぜい、中の下」
あと、もう少しで……!
「再生できるだケ。龍の真似事ができるだケ。痛みを人より恐れないだケ。底の浅い自分を大きく見せるのが上手イ」
うるせぇ。喋るな。
「もう、興味がなくなっタ」
黙ってろ――ッ!
手に、冷たい感触。
触れた。
「ガァァァアアアッッ‼︎」
フリントを回転。意気を込めて、望みを立てる。
「火よ!」
成功、不成功。わからない。しかし背中の圧が弱まった。この機を逃さず、次の魔法を唱える。
火よ。荒巻きて、俺の四肢を燃やせ。
そして噴出せよ。
「赫閃――ッ!」
赫閃。
ナカムラが放ったそれは、龍の言葉で紡がれた技名だ。しかし、紅龍の技ではない。
「赫閃……?」
それが蒼龍を狼狽させた。
爆羅や灼煉なら反応できた。だが、そんな技など聞いたこともない。
とはいえ、どうせ大した物では……
その考えへと行き着く前に、ナカムラの足がめり込んだ。
あまりの速度。蒼龍は目で追うことすら叶わない。
――パァン!
衝撃音。鈍い音ではなく、破裂するような音。
炎を四肢から噴出し、超音速の蹴りを叩き込む。それがナカムラとキエリが開発した新技、赫閃だった。
ジェット噴射という転生者独自の発想。それをキエリが取り入れ、紅龍の格闘術へと融合させた。つまり完全なオリジナルだ。蒼龍の知識にあるはずがない。
「グッ!」
当然、ナカムラも無事では済まなかった。空気抵抗に耐えきれなかった足が四散し、姿勢を崩した彼は噴射の勢いのまま氷壁に激突する。
「でも、当てた……!」
何度か練習はしたが、超音速まで出したのは初めてだ。
衝突の直前に加速。足が空中分解する前に当てる。無理でも再生でゴリ押す。そんな、あまりに無鉄砲すぎる挑戦をした。
しかし当てた。成功したのだ。
対面の氷壁に亀裂が走ったのを見て、ナカムラは底知れない達成感で満たされる。
「俺には、力が、ある……!」
効率よく再生。楽して再生。
口にキノコをねじ込む。ここに来る道中で、念のため採取しておいた物だ。生で食べられるのかは知らないが、粉々の足が治るならなんでもいい。力には栄養が必要だ。
そうだ、ジッポーは……。
力といえば。そう考えて右手を見た。
それは変わらずそこにあった。龍の刻印が入った、イカついデザインのジッポーだ。霜で手にくっついているが、それを無理やり剥がしてフリントを回すと、問題なく点火した。
だが、おかしい。
自分の右手にはジッポーが握られている。
なら、あそこに落ちているのは何だ?
「ジッポーが……二つ?」
右斜め前。ゆっくりと再生していく足先から5メートルほど離れた場所に、光を反射して輝く銀色の金属が落ちている。
龍の刻印。表面には霜が張っている。どう見ても同種、あるいは同一のジッポーだった。
「空っぽの分際で……根性だけはあル」
ピシッと音がして、氷壁のヒビが消えた。蒼龍が壁に手をつき立ち上がっていたのだ。
事態は予断を許さない。ナカムラは複雑な考えを後回しにする。
今はとにかく、この性悪氷ビーム角野郎をなんとかする。
ナカムラは膝を叩いて起き上がった。




