幕間 『クロタコ』
うちはいつもの、黒い円の中にいた。
そこは音も、空気も、匂いもない。
その無はうちに安らぎを与えた。そして小窓の向こうに見える景色を、より鮮明にさせた。
その日の小窓には、一人の女兵士が映っていた。
年はうちと同じくらい。金色がキラキラと輝く、きれいな髪の女の子だった。
彼女は足から血を流し、木陰に小さくうずくまって、視線をしきりに左右へ揺らしている。いつ訪れるかもわからない死に恐怖している。
最初は、そんなふうに見えた。
不安、恐怖、焦り……鮮明な小窓の風景は、向こう側の彼女と同じ感情を自分に与えた。不安で手汗が滲み、恐怖で指先が震え、焦りが胸の鼓動をうるさく鳴らした。
小窓がグラグラと揺れる。
うちは気持ちを落ち着かせるために、五分ほど止めていた息をようやく吐き出した。そして吸い、また止める。
ふと、女の視線が横に向いた。
その線をなぞるように、ゆっくりと小窓を動かす。
薮が微かに動いている。そこに誰かがいるようだ。
女は薮の方を見つめて、喉笛をつかまれた小動物のような顔をした。そして何かを叫んだ。狼狽し、冷静さを失った、刻明な有様。
「……」
ゴクリと、何かを飲みこむ音。
女は涙を流して、腕を必死に振り回して、何か同じことをずっと叫び続けていた。
――来ないで
彼女はそう叫んでいた。
やがて唇を噛み締めて、腰の方に手を伸ばそうとした。
タァーン……
銃声。
小窓がブワリと浮き上がり、宙を舞う血液と、一丁のハンドガンを映した。
すぐさま小窓を横へずらす。
タァーン
また、ブワリと浮き上がった。
硝煙の香りが鼻腔を撫でた。地面に落ちた薬莢の音が、鼓膜を引き裂きそうなぐらいにうるさかった。
それが、今でも嫌に、印象に残っている。
「……着弾」
隣から声がしたが、それはうちの耳に入らなかった。
いや、一度入りはしたのだろう。しかしそれは脳みそを素通りして、反対側へと抜けていった。
「……」
小窓の向こうでは、5、6歳ほどの小さな男の子が、血を流して倒れていた。
彼の近くには包帯と、白い布きれがついた、木の、棒……
「…………ぁ」
嫌な音が、口から嘔吐のように漏れ出した。
小窓がガタガタと揺れて、光が散乱して、滲んだようにボヤけて歪んだ。
男の子の姿は見えなかった。無意識がシャットアウトした。彼は包帯と白旗を持っていた。それが何を意味するのか理解したくなかった。
でも、なぜか女兵士の姿はよく見えた。口をこれでもかと開き、残った方の腕を伸ばして……
「――――!」
絶叫。
半狂乱な、無音の叫びが。つんざくような、その音が。
とうとう、うちの鼓膜を破ってしまった。
ぷつりと糸が切れて、二度と震えることがなくなった。ぽっきり折れて曲がって、二度と直立することがなくなった。
その事実がうちの胸の奥に落ちた時、小窓の景色は、いつの間にか驚くほどに鮮明になっていた。
「ソヨン……」
「……」
「その、これは――」
タァン!
うちの指が命令もなく引き金を滑り、大きな音を鳴らした。まるで全てをなかったことにして、消し去るように。
しかしなおも鼓膜は揺れず、心は波立たず、小窓の闇は濃さを増すばかりだった。
絶命する女兵士。その前に落ちたハンドガン。枝葉に付着した血液。赤く濡れる白旗。包帯。子どもの死体。
傷口を撫でてその痛みを確認するように、現場の一つ一つを小窓に映した。それでも動かなかった。何も感じなかった。
その時初めて、うちは自身の全てが「無」に変わってしまったのだと、悟った。
私はクロタコ
罪の重さで折れた骨を、折れたままにして生きていく。
深海の暗闇に身を窶し、息を殺して生きていく。
うちの寝床には、まだ、光がささない。
たとえその日が来ようとも、気づくことはないだろう。




