幕間 『父親なるもの』
「受験お疲れ、息子よ」
「族柄で俺を呼ぶんじゃねえよ、親父」
ある、午後の昼下がり。
中学を卒業して無事に高校受験も終えた俺は、親父と近所の公園のベンチに腰掛けて、そんなやり取りをしていた。
俺の両親は小学生の頃に離婚し、俺は母親の方に行った。だから、こうして何かの節目にこの公園で会うのが、親父との数少ない接点だった。
「自分がつけた名前があるだろ。あんま息子息子って言われると、変な感じになるんだよ」
「すまんすまん」
俺の苦言を適当に聞き流した親父は、さっき公衆便所に行ったまま開けっぱなしになっていたジーパンのチャックに気付くと、それとなくそいつを閉める。
親父は昔からずっとこんな感じで、常にのらりくらりふざけてる人だった。下ネタとかを平気で言うし、かと思ったら急に真剣な話をするし……好きか苦手かで言うと、正直苦手だった。
でも、誰よりも俺のことを理解していて、俺が世界で一番尊敬してる人だった。父親としては最低だったけど、俺はずっと親父に支えられて生きてきたんだ。
「……高校はどうだ、友達できそうか?」
「まだ行ってないからわかんねえよ」
「お前の見立てだよ。不安なのか、自信に満ち溢れているのか」
「……まあ、不安だよ。新しい環境とか、そこに馴染むこととか、正直言って苦手だ。中学はあんまうまくやれなかったし、高校でも一人ぼっちかもな」
親父は俺の不安に「もったいないな」とあまりに無神経過ぎる返事を返すと、少し考えこんだ後、とっくにぬるくなった缶コーヒーに口をつける。
それからふいと俺の方にタバコ臭い顔を向けて、少し頼りない、でもいかにも父親って感じの微笑を浮かべながら口を開いた。
「いいか、息子よ」
「族柄で俺を呼ぶなって」
「父さん、さっき公衆便所に行ったんだけどな」
「ああ、チャック開けっぱなしだったな」
「気づいてたなら言ってくれよ……まあいいや。それでな、公衆便所の便器ってびっくりするぐらい汚いだろ? 誰の何かもわからん毛がいっぱい落ちてて、見てるだけで吐きそうになる」
唐突にわけのわからない話を始めた親父にハテナマークでいっぱいになったが、そこは一旦流すことにした。親父はいつも唐突で訳がわからないけど、なんだかんだで、そこには伝えたい「何か」が必ず存在している。
だから俺は「親父となんでこんな話しなきゃいけないんだ」という思いをぐっと堪えて、とりあえず話を聞いてみることにした。
「父さんはな、そう言う時、とりあえず自分のも何本か落としてやるんだ。陰毛をさ、こう……便器の中に」
「きったねえ話」
「でもな、それをやると多少は気がマシになるんだよ。毛は大量に落ちてるわけだから、最終的にはどれが自分のかわからなくなって、気付けばそれはもう『最初から全部自分の物だったんじゃないか』って思えてくる」
本気で何を言ってるんだこいつはと思ったが、親父の顔からして、まあまあ真剣な話だったようだ。彼は「いい話だろ?」みたいなドヤ顔をするだけで、詳しく説明する素振りはない。
「つまり……どういうこと?」
「頭いいくせにわかんないのか?」
「国語のテストに公衆便所の陰毛の話なんて出ねえよ。出てたらわかったけど」
親父は「はあ、しょうがねえ奴だな」と言って頭を掻く。
別にこの話題に興味があるわけでもなかったし、親父と品のない雑談をするのは気分が悪かった。でも、ここで話を終わらせると、次の話題を考えなくてはいけなくなってしまう。そんな気まずい時間を避けたくて、俺は仕方なしに「教えてくれ」と頼んだ。
「朱に交われば赤くなる、ってな」
「周りが赤いと、自分も赤色になるって慣用句だろ? それがなんだよ」
「それは逆も然り。周りが白色な時は、朱色を一滴でも混ぜれば赤くなるもんだ。
たとえ吐きそうなぐらい汚い便所でも、そこに多少自分のが混じったら、不思議と馴染める場所に変わってくる。つまりはそういうこと」
「…………」
「高校なんて適当に楽しくやったらいいんだよ。どんな場所でも適当に自分出したら、知らないうちに全部自分の居所に思えてくるもんだ。
それこそ、便器にチン毛落とすくらい簡単なことだぜ」
「……なるほどな」
本当はちっとも理解できていなかった。
親父の話は浅そうで深すぎる。思春期の俺には、その上べをなぞるので精一杯だった。
こういう言葉は後になって効いてくるもので、俺は大人になってから、その意味をありありと痛感した。
人と仲良くするには、まず自分がどういう人なのか知ってもらわないといけない。そうやって、見知らぬ場所を居心地のいい場所に変えないといけない。
親父が言いたかったのは、多分そういうことだ。まさか異世界まで来て、そんな昔の言葉に救われるとは夢にも思わなかった。
俺は、親父がいてくれて本当によかったと思ってる。
親父が生きていた頃は、そのありがたさに気づけなかった。失って初めて、親父の存在と、その言葉が、どれほど俺を支えてくれていたかを知った。
親父の言葉は、今も……この異世界でも、俺の胸に残っている。




