第一章25 『素晴らしきグラティアナ』
地面にちらばった薬瓶の破片。そこには淡く輝く白濁した液体がこびりついていた。
「ははハ……」
足を踏み出すと、ピシッと音がして破片が粉々になる。
「光が、見えます! 見えません! 光が見えますッ!」
ローラーはよだれを垂らし、半狂乱に釘を振り回した。二度、三度、自分自身を突き刺すが、血は一滴も流れない。
その口を開くたび、音を鳴らすたび、空間が狂気に染まっていった。
何もかもが見えるし、何もかもが見えない。
穏やかに微笑むミストも、唖然とするリーフェンも、聖水の甘ったるい匂いに眉をひそめるキエリも、起き上がろうともがくナカムラも。
何も見えない。見える。見えない。見える。
「聖水……光……神、神の、神……」
聖水。
それはローラーの魔法で生成された、悪魔の万能治療薬。体の傷を瞬時に修復するだけでなく、心の傷まで過剰に治療してしまう。
一滴飲めば常人は廃人に。一瓶飲めば狂人すら廃人になる。
それを二瓶飲んだ。
「ああ、ア゙、ああああ゙あ゙あ゙ッ!!」
桁違いの多幸感。
真っ暗闇の視界。
閃光が迸る。
――手を、汚さねばならない!
輝きを目にすると、罪の意識が強くなる。もっと罪深く、もっと罪悪の罰を欲し、さらなる罪を重ねて己を汚し続けていたいずっとそうしていたい。この瞼をつなぐ糸を切り裂き光の世界を目にして汚れた己を見るその日が恐ろしい。吊るされ抉られ八つ裂かれる日が恐ろしい恐ろしい。その時までに罪を貯めるのだ。罰を受けるために手を汚し崇伐の咎で肺を満たす。私が手を汚すだけ救われるものがあるきっとある
「崇伐ッ……! あァ、あァ、甘美なる……めぐみ」
素晴らしき、グラティアナ
ローラーの「聖典」が輝きを放つ。
恍惚に入った彼の無意識が、至高の四体を呼び覚ました。
「あ……あ……あ゙」
羊皮紙の聖典は地に落ちると、輝きを徐々に失っていく。
「絶頂の身震いッ……! 素晴らしきグラティアナ!」
そして暗順応の向こう側から、宙に浮かぶ巨大な正四面体が現れる。
聖水の源泉、素晴らしきグラティアナ。
「こ、こんなのが……魔法?」
「悍ましい……!」
それを目にしたキエリとリーフェンは、吐き気のような不快感に身じろぎした。
砂鉄を凝集したような黒い側面には四つの眼球を持つ「目」が並び、それらは白目を剥いたり、どこか一点を見つめたり、しきりに周辺の人間と目を合わせようとしたり、揮発する黒い涙を流したり……とにかく統一感なくギョロギョロと動き回っていた。
四面体の天面は窪んでおり、そこには並々と満たされた発光する白い液体。聖水。
とろみのあるそれらはポタポタと四面体の下から滴り、ローラーの頭へと落ちていく。
その度に彼は声にならない歓声を上げ、身を震わせ、黒色の血を吐き出した。脳が快楽に破壊され、すぐさま修復される。
グラティアナに攻撃手段は存在しない。
ただ、全てを癒し、狂気に染める。
まるで狂気こそが人のあるべき姿だと言わんばかりに。
「うっ……」
生臭く甘ったるい匂い。こちらを一心に見つめる異形の目。辺りを漂い、体にまとわりついてくる黒い粒子。
度が過ぎた快楽を前に、脳髄が危険信号を鳴らしていた。リーフェンの喉奥から胃液の突き刺すような痛みが込み上げる。
こんなに歪な流れは、今まで見たことがない。
「誰が目を背けていいと言った?」
ミストがリーフェンの髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「悪い子だ。ほら、見なさい。これから面白いことが始まるはずだ」
「い、いやだ……!」
「ははは、いやだいやだ。そればっかりだな」
狂気を誘う水瓶も、残虐な遊びを楽しむ兄の顔も、見たくなかった。
「見ろ、リーフェン」
今度は頬を掴み、ぐいと引き寄せる。
ひときしり聖水を浴びたローラーが、ゆっくりとナカムラに近づいていた。
「お前が大好きな転生者は、これからどうなるのかな?」
「やだ……やだぁ!」
ローラーがまたがり、釘を振り下ろす。
――ドシュッ!
呻き声が聞こえ、ナカムラの体が痙攣する。ローラーは続け様に何度も釘を振り下ろし、掘削するようにナカムラの体を抉った。
ローラーは時折、宙を見つめて硬直するが、マントに染みついた聖水を赤子のようにしゃぶるとまた動き出した。まるで糸が切れたかのように、狂笑を上げて釘を振り下ろす。
それを何度も繰り返す。永遠に続く。終わらない。
「いやだ、いやだやだぁ! やめて……!」
泣きじゃくり、必死で首を振って逃げる。リーフェンの心を恐怖、悲しみ、狂気が支配していく。
「結局、怖がるだけか」
ミストはキエリに動きがない事を確認したあと、リーフェンの頭を地面に叩きつけた。
「お前はいつもそうだ。うんざりだったよ。
私とソーンが喧嘩した時も、お前はどちらの味方もしなかった。ただ、玉虫色のことを言って、全員の反感を買うだけだった」
「ぅ……」
「エルフは誰にも従わない? 笑わせるな。お前は誰も敵に回したくないだけの、ただの臆病者。
本当は恐怖の下僕だった」
「うぅっ……う、うあ゙ぁっ!」
「本当はあの転生者など、どうでもよかったんだろう? とにかくここから抜け出して、どこか怖くない場所にさえ連れて行ってくれるなら、誰でもよかった」
「やめて! やめでぇ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさぃ!」
ローラーの釘がナカムラの肉を抉るように、ミストの言葉がリーフェンの心を抉った。
絶対の存在である兄の言葉が、事実としてリーフェンにのしかかった。「本来の自由なエルフの有方」という高尚な彼の皮を剥がし、その奥底に潜む、醜くてちっぽけな自分を引きずり出した。
本当の自分は、恐怖にも、兄姉にも、誰にも逆らうことができない。
「従います……」
「…………」
「兄さんに、従います……もう、わがまま言いません。だから、ゆるして……!」
「リー、フェン゙……ッ!」
伸ばしたナカムラの手は届くはずもなく、彼が喉から絞り出そうとした言葉も、肺を貫く釘によって遮られる。
ゆらりと立ち上がる、黒刀を握った影。
宵闇に溶け込むほど朧なそれが、今、次第に濃さを増していく。
「それでいい」
もう、気配を消す必要はない。
ミストの卓越した流れに溶け込む才能は、彼を無敵の透明人間へと変える。しかしその引き換えとして、彼は気配を消している間、流れを読むことができなくなってしまう。
本来は流れでわかるようなことも、わざわざ確認しないと気付けないのである。
だから、今やっと、彼は気づいた。
キエリが動き、ナカムラの元へと走り出していたことを。
「っ……ローラーッ!」
彼女に力は残っていない。そう警戒するべき相手じゃない。しかし、嫌な予感もした。
「おや、おや……」
ローラーはミストの警告に反応し、新たな獲物に顔を歪ませた。
何をされようが聖水で回復できるので、回避も防御も必要ない。釘を握り、どこを突き刺そうかと考えるだけ。
「ハァッ――!」
しかし、キエリはローラーの目前で立ち止まり、直角に曲がった。
彼女の狙いは別。
それは聖水の滴り落ちるアスペルソリウム。
「よせ!」
キエリは白濁した液体に手を伸ばす。
「うッ――!」
指先が聖水に触れたと同時。キエリの全身を、電撃のような快楽が走り抜ける。
口から「あッ」と悲鳴のような媚声のような音がこぼれ落ち、現実に絶望しそうなほどの喜びが溢れてくる。
顎を打たれて、そこから魂が後頭部に吹き飛んでいくような、絶頂。
キエリは欠片ほどに残った自我をかき集め、さらなる快楽を求める欲求を噛み殺し、横に飛び跳ねた。
ミストの黒刀が地面に突き刺さる。
「グっ!」
地面を転がり痛みを感じると、ようやく現実に戻った気がした。波のように引いていく快楽。
これで、体は万全に戻った。
聖水の回復力は凄まじく、キエリの肉体はありとあらゆる方面で修復された。龍の力もほんの微かだが回復している。
「微かで、十分……ッ!」
――第一龍態
キエリの角が伸び、熱を放つ。
即座に爆で地面を蹴り、爆発の衝撃で跳躍。
目指す先は、またもあのアスペルソリウム。
「いい加減ッ――!」
炎を纏って錐揉み。燃え盛る足を上空に掲げる。
「起きなさいッ!!!」
――ガゴォンッ!
キエリの蹴りはグラティアナの目の一つに直撃した。計十二の眼球は苦悶に喘ぐように、その瞳をギョロギョロと動かし、痛みと熱の出所を探す。
黒い正四面体の水瓶。聖水を貯めたそれが、キエリの攻撃でぐらりと傾いた。
その先にあるのは、ローラーと、ナカムラ。
――バシャァン!
致死量を遥かに逸脱した、聖水の滝。ローラーですら回避を試みたそれが、全て、ナカムラへと降り注ぐ。
「もう……むり」
聖水に浸かるナカムラとローラー。
唖然とするリーフェンとミスト。
黒い粒子となって消失していくグラティアナ。
聖水の雨……自分の炎で、また燃え始めた森。
一つ、一つを確認する度に、唇を噛みちぎって繋いだ意識が、解れるように消失していく。
――ドサリ
すぐそばの炎に抱かれるように、キエリは倒れた。
そして、代わる形で立ち上がる、ナカムラ。
「くっ、はははっ」
背骨から脳幹を貫く不愉快な快楽に顔を歪ませ、不安定な笑い声をあげる。
万全となったナカムラの再生能力は、聖水の快楽と真正面から拮抗した。極度のエクスタシーで崩壊するナカムラの自我を何度もリセットし、彼を平静へと引き戻そうとしたのだ。それが彼を殊更に混乱させたが、再生能力は意思と関係なく作用する。
短時間での死と再生。牢屋でキエリに焼かれた時の、あの状況によく似ていた。
快楽、不快。怒り、喜び。痛み、回復。意識消失、回復。死、回復。自我崩壊、回復。
相反する二つ。破壊と再生が渾然一体となり、ナカムラは悟りのような、形容し難いトランス状態に入った。
「ふ、ふ……はははは!」
その狂気に呼応するように、ローラーもまた起き上がった。
そして互いに、一瞬、見つめ合う。
「潰すッ!」
「崇伐ッ!」
――ゴッ!
本能に刻まれた敵。無我の境地から放たれた、力任せの殴り合い。創意工夫も技術もない。ただ動物のように飛びかかって、相手の顔面をできるだけ強く殴る。
「ぐッ……ガァッ!」
だが、片や戦闘のプロで、片や一般人。たとえ理性の欠けた肉弾戦だったとしても、その実力差は歴然だった。
ローラーの掌底が顎に入り、ナカムラは思わず後退する。勝負は決まったかに思えた。
しかし、その時。
「……ッ!」
勢いを取り戻した炎。三日月の浮かぶ夜空。満天の星。
全てが、鮮明に写った。
ナカムラの正気が戻ったのだ。
それは唯一、ナカムラがローラーに勝る部分。
覚醒直後にフル回転した彼の思考回路が、奇跡的に最善のアイデアへと行きついた。
「ああッ! クソがッ!」
何への怒りかもわからず怒鳴り声をあげ、彼は自分のTシャツを引き破る。ギュッと握ると白濁した液が滴り、また痺れるような何かが走るが関係ない。慣れた。
振りかぶり、そのTシャツを、投げる。
狙いは地面に転がる、炎よりも赤い……
「ブーカッッ――!」
――バシャっ!
それはギャッと悲鳴をあげ、逆再生した映像みたく飛び起きる。
至近距離から四発の銃撃を喰らったブーカ。しかしその程度では死なない。不貞寝を決めこんでいたのだ。
「あ、なん……」
いったいどこのゲボ野郎が……。そんな思いで握ったのは、白い液体が滴る布切れ……
「あっ、お? おおあおおおッ⁉︎」
そして、ブーカの全身に電撃が走る!
「あひゃっ! ナニコレ! なにこれェ⁉︎ アヒャヒャヒャ!」
ブーカ大パニック! 人生初の快楽ッ!
「遊ぼうぜ! ブーカァ!」
「うん!」
パンと鳴らした手のなる方へ、ブーカ走る!
さながら犬! 何が何だかわからないが、とりあえず呼ばれたからそいつを殴る!
「ウラァァァァァーーーーッッッ!!!!」
そして、横に避けたナカムラの先には、ローラー・ペグ・ロイギラファ。
ガシュッ――ズゴァァンッ!!
地鳴り。
地上最強のドワーフの拳は、ローラーの顔面を真正面から捉えた。彼の頭が圧倒的パワーで後方へ吹き飛び、慣性力に遅れた体が、慌ててそれについて行く。
二度、三度、ローラーの体が地面を跳ね、転がる。
「なっ……⁉︎」
その先には、ミスト。ナカムラの狙いは極めて正確だった。
――ドゴォッ!
跳ね上がったローラーの背中が、ミストの胴に凄まじい速度で衝突。
あまりに一瞬かつ予想外の出来事すぎて、ミストは避けるという発想すら湧かなかった。
「ガはっ……!」
あばらが折れ、衝撃をモロで喰らった肺は風船の如く萎縮した。彼の口から、意識の一欠片が血痰に混じって吐き出される。
――バギャァン!
二人まとめて木に激突。
しかしまだ終わらない。その幹をへし折り、さらにもう一本へ激突。それもへし折り、炎の向こう側へと二人は消え……最後に、ズゥンという地響き。
「…………」
本気出したら、あんな威力になるのか。
先ほどの戦闘を思い出し、ナカムラは思わず冷や汗を流した。そして満足げに気絶するブーカを尻目に、「当たらなくてよかった」と心の底から安堵する。
「な、ナカムラ……」
目を丸くして座り込むリーフェンに、彼は人差し指を拳銃みたく突きつける。
「そこで見てろ、リーフェン」
これからは俺のターン。
片方はやった。でももう片方は、この程度で止まるような奴じゃない。
「聖教会を、ぶっ潰す……ッ!」




