第一章23 『大切な』
「ばにたす」
「ゔぁにたす、です。紅龍王様」
「ゔぁにたす、ゔぁにたーたむ?」
「そうそう。お上手ですよ」
二匹の紅龍が、草原の上に佇んでいた。
「でも、私を真名で呼ぶのはやめてください。命と同じくらい大切なものなので」
「だから、ふたりのときはそうよぶ」
「そのお気持ちだけ頂いておきます。今はキエリとお呼びください」
景色の美しさが、そんな何気ない会話を一生の思い出にさせる。
風に揺られる草花は朝露に濡れて、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。まるで深緑の宝石箱だ。地平線まで広がる空の水色が、その輝きをより美しく際立たせる。
遠くの方には石造りの家々が建ち並び、それに沿う形で、黄金色の小麦畑とオレンジの果樹園が色鮮やかな層を形成する。
ふと、井戸のそばで水を汲みにきた農夫の姿が見えた。
彼女の顔には大きな傷がついていたが、それでも幸せそうに微笑んでいる。その傷跡を埋めるような幸福が、ここにはあったのだ。
ここは自由国。新しくできた、転生者の希望の国。
「……美しい景色ですね」
「けしきでメシはくえないぞ」
「ふふっ! それは確かに」
冷めた表情でこちらを見上げる龍の子どもに、キエリは思わず吹き出してしまう。
ただ一つ、キエリ自身の命よりも大切な存在。
それがこの少女、紅龍王だった。
「われらには、あすくうメシのほうがたいせつだ」
「……ええ、わかっています」
先代の紅龍王も、その先先代も、全て蒼龍王に喰われてしまった。今や紅龍の頂点に立つのは、話すことすら覚束ない少女一人。紅龍の現状は絶望的だった。
長い歴史を通して、紅龍王と蒼龍王は、代が変わるごとに勝ち星を譲りあってきた。先代の紅龍王が負ければ、現代の紅龍王が蒼龍王を倒す……というように、互いの戦力を拮抗させることで、龍たちは蒼紅の均衡を保ち続けてきたのだ。
しかし今や、その均衡は影も形もない。
頬を撫でる冷たい風が、忘れたくなる事実を無理やりにでも思い起こさせる。
蒼紅の不均衡は、世界規模の寒波という形で現れていた。
「ゔぁにたす?」
「キエリです」
「……キエリ、どうかしたか?」
彼女の憂いを敏感に察知したのか、紅龍王が小首をかしげる。
これは、今の紅龍王様には重すぎる荷だ。そう考えたキエリは、いつもの微笑みを作った。
「なんでもありません。この世界に転生者の居場所ができたことを、感慨に思っていただけです」
「…………」
澄んだ瞳が、キエリをじっと見つめる。
「キエリは、てんせいしゃがきらいだったな」
「ええ。魔王の同類を許すことはできません」
「まおうはてんせいしゃ。でも、てんせいしゃはまおうではない」
「……?」
「まとめてかんがえるのは、よくない」
それは、龍の根源的な思想。
物事を紅か蒼かで考えがちな龍にとって、戒めのような考えだった。
「わかっていますよ。紅も蒼も、この世界を形作る大切なものです」
「そう。てんせいしゃも、いろんなひとがいるぞ。まおうも、きっといろんなまおうがいる。たいせつにすれば、きっとたいせつにしてくれる」
誰かを大切にすれば、誰かの大切になれる。
それが、紅龍王様の口癖だった。
――――
紅龍王様……。
紅龍王様に、会いたい。
「キエリ」
「…………」
何か、少し柔らかい、優しいものが頬に触れた。
「嫌な夢でも見たか? 泣いてたぞ」
ナカムラの、心配そうな顔。背後には黒焦げの森。
キエリは身を起こし、懐かしい記憶の余韻を振り払う。
「……ブーカは?」
「死んでない。でもお前の勝ちだ」
「また、起き上がるかも」
「心配すんな。遠くにちょうどいい穴があったから、埋めといた」
「……くふっ!」
凄まじく悪い笑みを浮かべるナカムラに、キエリは思わず吹き出してしまう。
その程度でドワーフが死ぬことはないだろうが、それにしたって、埋めるとは。そんなの見たことも聞いたこともない。
「ふふっ、ふふふっ!」
「そんなに面白かったのか?」
「ええ……本当にバカですね、ナカムラは」
「お前に言われたくねえよ」
もはや恒例になった口喧嘩だが、最初の時とは雰囲気が違った。
共に乗り越えた死闘と、紅龍王との思い出が、キエリの心を微かに変えたのだ。
「……あ、そうだ」
キエリが起きるのを手伝った後、俺は近くに置いていたリュックサックを拾い上げる。
ブーカを埋め、手持ち無沙汰になった俺は、キエリが起きるまで適当に周囲を散策していた。そこでたまたま見つけたのだ。
「危ないことをしますね。エルフに見つかったら捕まってましたよ」
「すぐ近くにあったんだよ。黒焦げの木の根元に、これだけ置いてあった」
それは、かなり不思議な光景だった。まるで後からそこに置いたかのように、無傷のリュックだけが、焼け跡に残っていたのだ。
「なんで燃えなかったんだろうな。不思議だ」
「当然です。私の髪が編み込んでありますからね」
確かに、絹のような髪質だ。糸に使えないこともなさそうだが……自分の髪を背負うことに、違和感はないのだろうか。
そんなことを考えていると、キエリがリュックの中から、ずるりと小瓶を取り出す。
「よかった。中身も無事そうですね」
小瓶の中は茶色っぽい液体で満たされていて、そこには種々の野菜がギッシリと詰められていた。キエリが瓶を振ると、底にたまっていた沈殿物と共に、中の野菜がぐるぐると回る。
「ふふふ……」
「……何やってんの?」
「これ、好きなんです」
「野菜が瓶の中で回ってるのを見るのが?」
「落ち着きますから」
独特な感性だ。あまりつっこまないでおこう。
「…………」
何の気なしに周囲を確認する。人の気配はないし、あたりにあるのは燃え尽きた炭だけ。
しばらくはゆっくりできそうだなと、キエリの方に向き直った。
「むぐ」
その口に、何かがねじ込まれる。
正面には満面の笑みを浮かべたキエリ。
「食べなさい」
二つ目。やや大きめのブロッコリーが、俺の口内に残った、僅かなスペースを占領する。
「ふぁめろ」
「あなたのためです。もうずいぶん能力を使いましたし、今のうちに回復しておきましょう」
「ふぉれふぁえふぁふはひほ」
「もちろん自分のためでもありますよ? 私はもう戦えないので、頼りになるのはあなたぐらいですから」
なんで理解できるんだよ。
そうつっこむ暇もなく、また野菜がねじ込まれる。
「美味しいでしょう?」
「すっはい」
「そうなんですよ。ケットゥという、龍の伝統的な料理です。あなた達の間ではピクルスと呼ぶそうですね」
「へっふ?」
「ケットゥです」
「へっふう」
「違う、ケットゥ。真面目にやってください」
真面目にやってるわ。
キエリが次々野菜を入れてくるせいで、まともに喋ることすらできない。
しかし確かに、そのケットゥとやらを食べると、力が湧いてくる気がした。
パンやスープなどとは比べ物にならない。伝統的な料理なだけあって、ケットゥは栄養も豊富なのだろうか。
「あたしにもくれよ」
「いいですよ」
キエリがブーカの口の中に、ケットゥを放りなげた。
「……」
「……」
「……⁉︎」
そして二度見。
「おお、うまい!」
俺は即座にキエリを押しのけブーカの前に立つ。
ニコニコしながらケットゥを頬張る彼女からは、特に敵意を感じない。……が、油断はできない。
「お前……どんだけしぶといんだよ」
一気に野菜を飲み込む。脳内のアドレナリンが凄すぎて、もはや喉の詰まりなどどうでもよかった。
「しぶとさがあたしのチョーショだぜ!」
またいつもの、ペカっ!とした笑顔。近くで見るとギザギザの歯がかなり威圧的だった。あと口が臭い。
「……俺が言うのもアレだけどさ。あの状況でまだ元気って、お前ほんとに人間か?」
「あたしはサイキョーのドワーフだからなー」
「そもそも、あなたは何が目的なんですか?」
「転生者のサイキョーぶっ飛ばすんだよ……たしか、なんとかミカドってやつ」
キエリを見つめるが、彼女も何の話だかわからないらしく、首を横に振った。
「俺は……そのなんとかミカドじゃないけど」
「ンなことはわかってんだよー。オマエは頼まれたから相手しただけ。もう疲れたし、ジューブン楽しんだから満足だ! ゴチソーサマ!」
「頼まれたというのは……誰に?」
「あ」
ブーカが口を開ける。意外とちゃっかりしたやつだな。
「仕方ないですね……」
キエリが瓶からいくつか野菜を取り出し、それをブーカに放りなげる。
直後、ブーカの首が伸び、バクバクバクっ!と野菜をたいらげた。目にもとまらぬ早業だ。パン食い競争なら確実に優勝だろう。
「それで、誰に頼まれた?」
「あいつだ」
「え?」
あいつ、と言われても、指差すほうには暗闇しかない。
「悪い子やなあ、ブーカ」
いや、その影の一部。薮のようなシルエットだった何かが、突如人型になり、こちらに姿を現した。
「ぜんぜん言うこと聞けてへんくせに、余計なことだけ喋って……」
――パァンパァンパァン!
三発の銃撃。
クロタコの古風なハンドガンから硝煙が上がり、ブーカが崩れ落ちる。
「うちがボコせって言ったんは聖教会やろ? ただでさえ頭悪いのに、耳も悪いん?」
「クロタコッ……てめえ!」
――パァン!
また銃撃。彼女は涼しい顔で仲間を蜂の巣にした。
「うちは犬が好き。よく吠えて、よく暴れるアホな犬が大好き」
起き上がったブーカの肩を、黒い革靴が踏みつける。
「でもな、言うこと聞かへん犬はいらん」
「ッ……!」
ブーカは数秒ほどクロタコを睨みつけていたが、やがて根負けしたのか、心底悔しそうにバタリと倒れた。
「ええ子やね。わんわん」
クロタコは銃をしまい、こちらに両腕を広げる。
「ああ、ごめんごめん。これは何かの間違いやから、なかったことにしてくれへん?」みたいなことを言いそうな、様子。
「……いや、やっぱ無理か。どうせこうなるんはわかってたし、別にええけど」
そう結論づけて、見惚れるほど美しく、ゾッとするほどに怪しい笑みを浮かべた。
「ともあれ、無事で何より。勇者サマ」




