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光の宝石箱  作者: roka-ha
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最終章 

     最終章

     ヌアナ

     

 <スネイク>に殴打され、脅されたヌアナは、降りしきる雨の中、傘もささずに、家路へと歩いていた。

 殴られた頬の痛みより、アパートにいる子ども達の身に危険が迫っていることを知り、恐怖で全身が震えた。

 それまで<スネイク>の支配下にあったヌアナは、圧倒的な悪意を持つ〈スネイク〉の前で、自分の意見を持つという行為を自ら封じてきた。だが、自分の大事な子ども達を殺すと脅され、初めて、心を動かした。

 心をひどく病んだ<スネイク>を止めることはできない。何とかしなくてはならない。このままでは、自分の大切な子ども達が傷つけられる。それだけは絶対にさせてはならない。けれど、<スネイク>の支配下から、どうやって逃れたらいいのか、ヌアナには分からなかった。

 ヌアナは、足を止め、涙を流した。どうしたらよいのか分からない。親友のミーナに相談したくても、ミーナはもういない。他人の過去を見て、その人と関わりのあった人の思いを感じ取ることができても、ヌアナは自分を救うことができない。自分の大切な宝物を守ってやることができない。とても小さくて、可愛らしくて、温かくて、大切なのに、大事に思っているのに、自分のせいで、あの子達の存在を、<スネイク>に知られてしまった。何の罪もないあの子達が、また理不尽に傷つけられてしまうかもしれない。自分のせいで。

 ヌアナは、歩道にできた水たまりの中に立ち、自分の太ももに、両手を置いた。知らずに唇の端から、声が漏れる。

「・・うっ、ううー、ううううー!」

 その時だった。

「ヌアナ・・?」

 自分の名を呼ぶ声が聞こえた。顔を上げると、どこかで見たことのある顔の男性が立っていた。誰だろう。いつ会ったのだろう。

「ヌアナ、だよね・・?ああ、僕はマイクだよ。いつだったか、つつじ公園で話を聞いてもらった」

 ヌアナは男性の笑顔を見た。彼の名は、マイク。ユーリイと一緒に話を聞いた、ヌアナの仕事の、初めてのお客さん。

「いったい、どうしたんだい。びしょ濡れじゃないか!あ、怪我をしているのか?・・ヌアナ?ヌアナ!」

 自分を心配してくれるその声を聞きながら、ヌアナは意識を失った。



 ヌアナが目を覚ました時、目の前には、中年女性の顔があった。知らない人だった。綺麗な青い瞳で、ヌアナを覗き込んでいた。

「・・ああ、目覚めたのね」と優しく笑った。

「ちょっと待っていてね。マイク!マイク!彼女が目覚めたわよ!」

 ヌアナはソファに横になっていた。びしょ濡れだった服ではなく、紺地に白い水玉模様のワンピースを身に着けていた。女性は言った。「ごめんなさいね。風邪を引いてしまうといけないから、わたしが着替えさせたの。わたしの服だからサイズが合わなくて悪いんだけど、びしょ濡れのままよりマシでしょう?」

 ヌアナが黙っていると、マイクが部屋にやって来た。

「ヌアナ、良かった!目が覚めて。このまま目を覚まさないようだったら、救急車を呼ばなくてはいけないかと思っていたんだ。本当に良かったよ」

 女性が立ち上がった。「わたしは温かいものでも用意してくるわね」

 女性が部屋のドアを閉めると、マイクは、横になっているヌアナの前に椅子を持って来て、腰かけた。

「ここは、僕の家だよ。君はカレント通りで意識を失ってしまったんだ。さっきの彼女は、ヘレンと言ってね。僕のパートナーなんだ。市立病院で看護師として働いている」

 ヌアナが黙って見つめていると、照れくさそうに言う。

「全て君のおかげなんだよ、ヌアナ。母の葬式の後で君に会って、亡くなった父と母の話を聞いてもらった後、僕はこの先、どう生きたらいいのか分からなくなってしまった。でも、君から、父の思いや母の思いを知って、前向きに生きようと思えたんだ。少なくとも、母は僕に、父を憎みながら、これからもずっと一人きりで暮らし、最後は母と一緒の墓に入って欲しいとは望んでいなかった。母は、僕に誰かを愛し、誰かに愛されることを望んでいたんだって、君に教えてもらった。もう六十を過ぎているけれど、それでも分かったんだ。だから、諦めないで、もう少し周りにも目を向けて、日々を楽しんでみようって思った。仕事仲間に誘われて、思い切ってパーティーにも参加してみた。そこで、十歳下のヘレンに出会ったんだ。こんな偏屈な僕と一緒にいても、落ち着くと言ってくれる女性にね。全部、君のおかげなんだよ。父の死にずっと囚われていた僕を、君は救ってくれたんだから」

 頬を上気させて話すマイクを、ヌアナは見つめた。自然に涙が溢れてきた。

 マイクが心配そうに言った。

「ヌアナ・・?いったい、何があったんだい?ヘレンが言っていた。君の身体には、暴行された傷跡がいっぱいあると。誰がそんなことを君にしたんだい?・・それに、あの子は今、どこにいるの?君と一緒にいた可愛い男の子。君のことを一生懸命、売り込んでいたあの子は、今、どこにいるんだい?確か名前は、ユーリイだったよね?」

 その名を聞いた時、ヌアナの全身がびくりと震えた。

「・・たす、けて・・」ヌアナは震えながら、マイクに言った。何とかしなくてはいけない。何とかして、子ども達を守らなくてはいけない。ヌアナは、強張った口を懸命に動かした。

「わたしの、子ども達が・・、危ないの。<スネイク>が、子ども達を襲うと言っているの・・。たすけて、たすけてっ・・!」

「<スネイク>って?・・もしかして、まさか、あのリューキ・ウルレヒトのこと?」

 マイクが不審そうな顔で言った。

「ヌアナ、君は、奴のところにいたのかい?道理で、最近、あのレーニア通りで姿を見ないと思っていたんだ。いったい、どういうことなんだい?順を追って話してごらん」


 ヘレンが持って来てくれたホットレモネードを時々、口に含みながら、ヌアナは、ゆっくりと、順を追って、<スネイク>との出会いから、<スネイク>の娘ドリスの駆け落ちと事故死、逆上した<スネイク>に、アパートにいる五人の子ども達に危害を加えると脅されていることを話した。

 マイクは、メモを取りながら、真剣な表情でそれを聞いていた。

「・・つまり、君のアパートには、今、ユーリイの他に四人の子どもがいるということなんだね。どうしてまた、そんなに・・。何故、警察に届けなかったのか。・・まあ、それはいい。君には色んなものが見えたのだろうから。でも、これを知ってしまった以上、僕は黙ってはいられないよ、ヌアナ。特に<スネイク>が絡んでいるとなれば、猶更だ。僕は君とユーリイ二人くらいだったら、この街から逃がしてあげられると思う。でも、さらに四人もの子どもがいるとなれば無理だよ。ヌアナ、おそらく時間はない。君は決断しなくてはいけない。君の子ども達を守るためには、君は子ども達を手放し、しかるべき施設に預けるしか方法はない」

 ヌアナは、マイクを見つめ、震えながら、言った。

「・・あの子達を、手放す?・・そんなの、いや、いやあっ・・!」

 マイクがヌアナの両肩に手を置いた。

「ヌアナ、気持ちはよく分かる。けれど、時間がない。<スネイク>のことは、僕もよく知っている。嫌な意味でね。常識の通じる男ではない。偏狭で、残忍で、執念深い。そして巨大な力を持っている。君は一刻も早くこの街から出て行くべきだ。奴から逃げるべきだ」

「・・でも、どう、やって・・?」

 ヌアナには分からない。これからどうしたらいいのか、分からないのだ。

「僕が力になるよ。君は、僕の大事な恩人だからね。子ども達のことも、僕が何とかする」ヌアナの手を優しく握り、マイクは言った。

「・・子ども達は、あの子達は、大丈夫なの・・?」

 震えながら訊くヌアナに、マイクは頷いた。

「約束するよ。必ず安心して暮らせる場所と家族を見つけるよ。<スネイク>の目をかいくぐって逃げ続けるのは無理だ。子ども達にとっては、逃げ隠れながら生活するより、ずっと安全なことだよ。僕の言っていること、分かるね、ヌアナ?」

 マイクの言葉に、ヌアナは、涙を落としながら、頷いた。

「・・あの子達が、これからも、無事で生きていけるのなら・・」


     ユーリイ

     1

 その夜、他の子ども達は、ヌアナの帰りを待ちきれずに、眠ってしまった。ユーリイだけが、ヌアナの帰りを待っていた。

 時計の針は、真夜中の十二時を回った。こんな風に遅くなるなんて、今までに一度もなかった。みんなの前では平静を装い、笑顔でいるよう努めていたが、心は不安で押しつぶされそうだった。ヌアナに何かよくないことが起こっているのは明らかだった。

 母が亡くなって以来、心は童女のままのようなヌアナのことを、自分はこれまで支えているつもりでいた。けれど、違ったのだ。自分はやはり子どもで、彼女に庇護されていたのだ。自分は、この安全なアパートの部屋にいるだけで、何もしていない。温かい食事も、洋服も、心地よい音楽も、本も、全て、ヌアナが外に出て仕事をして、用意してくれたのだ。

 一時過ぎに、マイクとヘレンに送られて戻ったヌアナの話を、ユーリイは黙って聞いた。〈スネイク〉に搾取され続け、暴行され、子ども達に危害を与えると脅迫されたこと。マイクに再会し、助けを求めたこと。マイクは、子ども達を手放し、できるだけ早く、この街から逃げるよう勧めていること。

 ヌアナはもう泣いていない。その茶色の目は真っすぐユーリイに向けられていた。

 何を反論しても、説得しようとしても、無駄なのはもう分かっていた。マイクの示してくれた道が、今の自分達にとって最善の道であることも。ユーリイは、子どもだから。子どもは、非力で、お金もなくて、大人がやることには抗えないから。

「・・それで、これからどうするの?」ユーリイが問うと、ヌアナは言った。

「明日の朝、朝ごはんを食べ終わったら、儀式をするからと言ってみんなをリビングに集めて。わたしが、みんなのここでの記憶を消す」

 ヌアナは記憶を消すことができる。ヌアナは嘘をつかない。ユーリイは、いちいち問い返したりはしない。

「みんなの記憶を消すって、どうしてそこまでしなくてはならないの?」

「あの子達は一度、親に捨てられている。とても痛くて、悲しくて、怖い思いを味わっている。このアパートから離れたら、あの子達はまた絶望しなければならない。もう二度と同じ思いは絶対にさせない。だから消す。記憶を真っ白にする」

 淡々と話すヌアナに、ユーリイは食ってかかった。

「・・でも!でも!それじゃあ、僕達が一緒にいたことも消してしまうの?ヌアナのことも?僕のことも?みんなで一緒に音楽を聴いて、ゲームをして遊んだことも、マフィンを食べたことも、全部消さなくてはいけないの?」

 ユーリイの問いに、ヌアナは静かに頷いた。「これからのあの子達のため。あの子達は、新しい家族に出会う。マイクが必ず見つけてくれると約束してくれた」

 ヌアナはユーリイに向き直った。ヌアナが言おうとしていることを察し、ユーリイは言った。

「僕はヌアナと一緒に行くよ。どこに行ったって大丈夫だよ。僕は親に捨てられていない。だから僕の記憶を消す必要はないからね。ヌアナは、僕のたった一人の家族なんだから!」

 ユーリイを見つめるヌアナの目が見開かれた。ヌアナは手を広げ、ユーリイを抱きしめた。

「・・ユーリイ、ありがとう。ごめんね。ごめんね」

 ヌアナの言葉に、ユーリイは自分が涙を流していることに気づいた。


     2

 翌朝、早くに目覚めたアイナが、何かを言いながら、ヌアナのベッドに向かい、ヌアナを見つけて、その隣に潜り込んだ。ユーリイは一睡もできないまま、他の子ども達が立てる寝息と寝返りの音をただ聞いていた。

「今日の朝ごはんは、特別なパンケーキを作ろう。リコ、手伝って。男の子達は、お皿とジャムとシロップを並べて」

 ヌアナが言うと、みんなが歓声を上げた。アイナがヌアナの横で言う。

「アイナね、アイスクリーム乗っける。もうおなか、こわさないから。特別だから」

 ヌアナがアイナの頭にそっと手を置いて微笑んだ。

「うん。アイスクリームも乗っけよう」

「じゃあさ、俺はチョコレートソースも!」とアオが言うと、「それじゃあ、僕はベーコンも!」とレイも言う。

「今日は特別だからね!」二人合わせて言って、同時に吹きだした。

 リコが問うように、ヌアナを見る。「ヌアナ、いいの?」

「いいよ。昨夜、みんなで仲良くお留守番してくれたご褒美。今日は特別だから、好きなものをトッピングしよう。リコ、パンケーキをたくさん焼こう。さあ、卵と牛乳、ケーキミックスを用意して」

「うん!」リコは、嬉しそうに頷いて、長い黒髪をゴムで一つに結わえ、エプロンをつけた。



「みんな、おなか一杯になった?今から、儀式をするよ」

 みんなの皿の上のパンケーキがなくなったのを見て、ヌアナが言った。

「儀式って、なあに?」リコがユーリイに訊いた。

「なんだろうね。リビングに行ってみようか」ユーリイは、知らない振りをした。

 ヌアナから前もって聞かされていたものの、実際に、ヌアナがどうやって、みんなの記憶を消すのか、ユーリイにも見当がつかなかった。

「さあ、こっちに来て。みんなで輪になって、仰向けに寝転んで。昼間からゴロゴロするのって、気持ちいいよ」

 ヌアナに言われるがまま、みんながテーブルから離れた。リビングにあったソファは、脇に寄せられていた。

 リコ、レイ、アイナ、アオの順に腰を下ろす。ユーリイは、最後にリビングに入り、アオの隣に腰を下ろした。左隣にはリコがいて、ユーリイの顔を見て、にこりと笑って言った。「気持ちいいんだって。すごく楽しみだね」ユーリイは頷いた。

 ヌアナが入ってきて、みんなの中心になる位置に座った。

「さあ、みんな、まずは練習してみよう。目を閉じて。そう、アイナもね。めめをつむるのよ。わたしがこのベルを鳴らしながら、数をかぞえるから。一緒に息を吸って、ゆっくり吐くの」

 ヌアナが手に持っていた銀色のベルをチリーンと鳴らした。左隣のリコが素直に目を閉じた。それを見て、レイもアイナもアオも目を閉じた。

 チリーン、チリリーン、チリリーン。

「いち、に、さん、し、吸って。ご、ろく、しち、はち、吐いて。とても上手ね。さあ、横になって。呼吸は繰り返して。いち、に、さん、し・・」

 ヌアナは少しずつ座る向きを動かしながら、リコから順に顔を覗き込むようにして、数をかぞえていった。

 ユーリイは、その声を聞きながら、天井を見上げていた。キッチンの窓から、眩しい光が差し込んで、輪になって横になる子ども達の身体を優しく照らしている。涙が出そうになって、ぎゅっと目を閉じる。

 みんな、元気で。どうか幸せで。

 そっと目を開けると、ヌアナがレイの方を向いているのが分かった。

 チリーン、チリリーン、チリリーン。

「いち、に、さん、し、・・」

 ヌアナの声が聞こえる。そうだった。ヌアナはもともと、そんなに多くの数をかぞえることはできない。十の位の計算も苦手だ。彼女はもともと、片手で数えるだけで十分だったのだ。五人の子ども達がいるだけで、それだけで良かった。それ以上は何も望んでいなかった。

 ヌアナはただ、彼女ができることをしただけだ。人の話を聞いてあげること。時に自分の生命力を削りながら、目の前の人間を癒すこと。みんなヌアナに話を聞いてもらった後は、涙を流して感謝していた。話を聞いてくれて、ありがとう、と言ってくれた。

 それなのに、何故?どうしてヌアナは、子ども達を手放さないといけないのか。

 どうしてヌアナは、子ども達の全ての記憶を消さなくてはならないのだろう。

 心の内で叫ぶ。おかしい。そんなのおかしい!

 数をかぞえるヌアナの声がすぐ近くで聞こえてきた。アイナは、特に何もせずとも眠ってしまったらしい。アイナはまだ小さい。記憶を消す必要もないのだろう。今、ヌアナはアオの方を向いている。アオの記憶を消そうとしている。ヌアナのことも、ユーリイのことも、みんなで一緒に過ごした時のことも、全部消そうとしている。

 ユーリイは、強く唇をかんだ。そんなのおかしい。


 深い眠りに沈んだ四人をヘレンに託し、ヌアナとユーリイは、マイクが運転する車で空港に向かった。航空券はマイクが既に手配してくれていた。マイクは、ヘレンが用意してくれた荷物をヌアナに手渡して言った。

「とにかく逃げるんだ。西へ。西へ。落ち着いたら、連絡してくれ。僕も状況を知らせるよ」

 ヌアナは頷き、「ありがとう」とマイクに言った。

「礼を言うのは、僕の方なんだよ。ヌアナ、君に会わなければ、僕はこんな風に誰かのために動こうなんて思う人間になっていなかった。ただ黙って、死ぬまで仕事をしていただろう。子ども達のことは心配しないで。決して、〈スネイク〉に見つからない方法で、新しい家族を見つけるから」

「どうか、あの子達を、お願いします」ヌアナは、その場に跪いて叩頭した。マイクは驚いた顔をしたが、手を差し延べてヌアナを立たせた。

「さあ、立って。君は、君とユーリイの命を守るんだよ。何としても、無事に生き延びて、また会おう。ユーリイ、彼女をよろしく頼むね」

 こっくりとユーリイは頷いた。



 あれから十五年が経った。

 ヌアナとユーリイは、マイクに言われた通りに、西へ、西へと移動し、住まいを変えていった。

 マイクから、子ども達の養親が無事に見つかり、それぞれの家庭に引き取られていったことを知らせる手紙を読んだ後、ヌアナは、その手紙を燃やし、マイクとの連絡を絶った。

「彼のためでもあるし、子ども達のためでもあるし、わたし達のためでもある」とヌアナは言った。その表情は、ようやく安らぎを得たような、安堵の表情だった。

 子ども達のために、それまでの記憶を奪った日を境に、ヌアナは、持っていた能力の多くを失った。仕事の度に、彼女自身の体力と精神力を消耗させていたから、もともと限界が来ていたのかもしれない。

 幸いユーリイは学力が高かったので、高校も大学も、学費は全て奨学金で賄うことができた。今では、仕事もしているので、二人で暮らしていくために、ヌアナはもう仕事をする必要はなくなった。ヌアナは病気がちになり、よく風邪を引くようになった。今年に入ってから、ベッドにいることが多くなった。

 生まれてから、ヌアナとずっと一緒に暮らしてきたユーリイには分かる。彼女の命の灯はもうすぐ消えようとしている。

 両親の顔を知らず、乳児院で育ち、病死した友人の母替わりとして、ユーリイを育ててくれた人。ユーリイと、寄る辺なき四人の子どもを育てるために、自分自身の生命力を、精一杯、削って仕事をしてくれた。そのために自らの身を危険にさらし、寿命を縮めることになってしまった。けれど、ヌアナは何も言わない。ただ、ユーリイの言うことに優しく微笑んでいる。

 ユーリイは、成人した後、ヌアナに内緒でマイクに連絡を取ろうと試みたが、彼は既に亡くなっていた。そして彼がヌアナに約束していたように、マイクは、四人の消息を完全に消すことに成功していた。どのようなツールを使っても、ユーリイは、四人の子ども達があの後、どうなったのかを辿ることはできなかった。


 ヌアナが眠るベッド脇に座り、ユーリイは考える。

 もうすぐ、ヌアナは逝ってしまうだろう。

 何も言わずに。彼女が何のために命を削ったのか、どれだけの人の話を聞き、心を読み、苦しみから救ったのか誰にも語らずに、ひっそりと一生を閉じる。

 時間はない。間に合うだろうか。

 いや、諦めるな。まだ分からない。できるかもしれない。最後まで諦めるな。

 弱気になっている自分を奮い立たせるように、ユーリイは、立ち上がった。

 目を閉じているヌアナに言った。

「・・ヌアナ、待っていて。僕が、きっとみんなを連れてくるから」


     莉子

     

 蒼が運転するミニクーパーに四人乘って、海岸沿いにあるアイーシャが泊るホテルに向かった。

 フロントデスクの前に立つ男性が、アイーシャに笑顔を見せた。

「この人達は、あたしの友達よ。ちょっと部屋を使うわね」アイーシャが言うと、男性は、口元に笑みを浮かべ、「どうぞごゆっくり」と礼儀正しく英語で言った。

 アイーシャの後について、莉子、蒼、レイモンドは、エレベーターに乗った。莉子は左手首につけた腕時計を見た。

「今、四時十分よ」

「大丈夫。間に合う」アイーシャが笑顔を見せた。

 カードキーをドアの確認スペースにかざし、ドアを開け、莉子達を招き入れると、アイーシャは部屋の奥の窓にかかっているレースのカーテンを開けた。途端に、眩しい午後の光と海と空の明るい青色が目に入ってきた。

「ワオ、綺麗だな」レイモンドが感嘆の声を上げた。アイーシャが言った。

「レイ、ゆっくり海を眺めるのは後ね。レイ、アオ、ここにあるテーブルと椅子をベッドの方に動かしてくれる?そうすれば、ここに四人、座れると思うから」

「オーケイ」と、蒼とレイモンドが早速、テーブルを動かし始めた。ベッド脇に置いてある四角い黒色の目覚まし時計の針は、四時二十分を示している。

「どうするの?」莉子がアイーシャに訊くと、アイーシャは少し首を傾げた。

「瞑想しよう。みんな、輪になって座って」

 時間は刻々と過ぎていく。レイモンドも蒼も、アイーシャの指示に従った。互いに顔を合わせるようにして、小さな円を作り、絨毯の上に座った。

「坐禅とは違うから、座り方は何でもいいの。あぐらでも正座でも。骨盤が安定して、背骨が伸びていて、余分な力を抜くことが大切」

 莉子は、目の前のアイーシャの座り方を真似る。右の足を左の腿の上にのせる半跏趺坐だ。手は、親指と人差し指で輪を作り、手の平を上に向けて、両膝の上に乗せる。

 室内は静かだった。部屋に冷気を送るエアコンが動く音がわずかに聞こえてくる。

「あたしが呼吸の先導をするから、最初はそれに合わせて。だんだん呼吸が落ち着いてきたら、もう自分のペースで大丈夫だから。ただゆっくり呼吸を繰り返せばいいから。自分の呼吸だけに集中していて」

「目は瞑った方がいいのかな?」蒼の問いに、アイーシャは言った。

「どちらでも。開けている場合は、半眼がいい」

 ちらりと時計を見る。時計の針は、四時二十五分を指していた。

「じゃあ、始めよう。息を吸って」

 莉子はそっと目を閉じた。鼻で大きく息を吸う。

「吐いて・・」アイーシャが、まるでため息のように、フウウウウーッと、息を長く吐く音が聞こえてきた。

「吸って」

 再び息を吸う。普段呼吸をする時よりも、長く大きく。

「吐いて・・」

 深呼吸を繰り返す。次第に、アイーシャの声が聞こえなくなっていた。莉子は、目を瞑りながら、呼吸をすることだけに集中した。それでも、一人でないと感じる。目を閉じていても、右にレイモンド、左に蒼、目の前にアイーシャが座っているのを知っている。互いに深呼吸を繰り返している。今という時を共有している。

(・・わたし達、どこから来たのだろう・・)

 息を吸いながら、考える。

 どうして今、ここにいるのだろう。そう考えながら、息を吐ききった時だった。

 遠くで、鈴の音がかすかに聞こえたような気がした。チリン、と。

「呼吸を止めないで。繰り返して!」

 アイーシャの鋭い声が聞こえてきた。莉子は、乱れかけた呼吸を、再び繰り返した。吸って、吐いて。吸って、吐いて。ゆっくり、長く。それだけのことなのに、気持ちが安定してくる。不思議な気持ちだ。ずっと不安だったのに、家族にわだかまりを持って、いつも落ち着かなかったのに、ただ座って深呼吸を繰り返すだけで、こんなにも安らいだ気持ちになれるなんて知らなかった。

 きっと、一人ではないからだ。たった一人じゃないから、こんなにも安らいでいられるのだ。瞼の下にふわりと涙が浮かんだ。

 再び、チリリーン、という鈴の音が聞こえてきた。


 目を瞑っている筈なのに、目の前に何かが見えてきた。

 明るい陽射しの下、五人の子どもが円を描くようにして横たわっていた。

 みな裸足で、足を中心に向け、頭を外側に向けていた。子ども達は一様に眠っているように見えた。すやすやという寝息が聞こえてくるようだった。

 子ども達の足元にうずくまる人の姿があった。女性だ。子ども達とは対照的に、肩で息をし、ひどく疲弊して見えた。肩に垂らした栗色の髪は、激しい息づかいと共にかすかに震えていた。泣いているような、呻き声が聞こえる。だが、青白い顔には涙は見えない。

 女性が、両手で体重を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。生気を失ったような目で子ども達の様子を眺める。唇は引き結んだままだった。そっと子ども達の身体を踏まないよう、身体を丸めて動き出した。

 その時。ドアの近くで横になっていた一人の子どもの身体が、音もなく動いた。女性と同じ栗色の髪の男の子だった。女性はその子を見つめてから、何も言わずにドアの向こうへと姿を消した。

 起き上がったその少年は、立ち上がり、女性と同じように、静かにドアまで歩いていった。ドアの前で振り返り、しばらく他の子ども達が横たわるのを眺めている。彼の目は、先程の女性と同じように静かで、そこには何の感情も読み取れない。

 横になっている子ども達の一人一人に視線を送り、ドアの方に身体を向けようとした時だった。

「ユーリイ・・!」

 はっきりと声が聞こえた。

 少年の背中がびくりと震えた。少年は驚きの表情で、声がした方を勢いよく振り返った。少年の隣で眠っていた筈の黒髪の男の子が、歯を食いしばるようにして、顔を上げようとしていた。

「・・ユーリイ、待てよ。・・お前、なんでこんな。こんな、こと・・」

 栗色の髪の少年は黙って、黒髪の男の子の顔を見た。黒髪の男の子が、悔しそうに呻いた。

「・・馬鹿、野郎・・。なんで、一人で・・。ユーリイ、馬鹿野郎!」

 黒髪の男の子はそう叫ぶが、圧倒的な睡魔からは逃れられないようだった。怒りに満ちた目は閉じられ、彼はがっくりと力尽きたように、その場に倒れ込んだ。

 ユーリイと呼ばれた少年は、両手の拳を強く握ったまま、その様子をただ黙って見ていた。やがて、先程の黒髪の男の子の口から寝息が聞こえてきた時、少年はドアを開け、部屋から出て行った。


 閉じていた莉子の目から、涙が溢れる。

 知っている。みんなのこと、ちゃんと憶えている。

 真ん中に座っていた女性は、ヌアナ。ヌアナの後に出て行った少年は、ユーリイ。

 ヌアナとユーリイを知っている。一緒に暮らした友達を知っている。

 あれは、お遊びの儀式じゃなかったのだ。莉子達の記憶を消したのは、莉子達を庇護してくれたヌアナその人だった。莉子は、ユーリイから聞いていて知っていた。ヌアナには秘密の魔法が使えることを。ヌアナはその魔法を使って、外でお仕事をしているのだと。

 優しくて穏やかで、子どものように歌い、笑う人。莉子達のために外で働いて、パンや甘いチョコレートを買って来てくれた人。大好きだった。みんな大好きだった。アオもレイも、アイナも、ユーリイも。ずっと一緒にいたかった。それなのに、どうしてヌアナは、わたし達の記憶を消してしまったの?どうして突然、わたし達を置いていなくなってしまったの?

 どうして、どうして?

 溢れてくる思いに胸が絞めつけられる。さっき聞いたアオの叫び声を思い出す。そうだ。ユーリイはどうして、あの時、莉子達と共に眠っていなかったのか。何故、ヌアナと共に出て行ってしまったのか。

 ユーリイ。リコの優しいお兄さん。いつもパッヘルベルのカノンのレコードをかけてくれた。リコ達に文字と計算の仕方を教えてくれた。今、やっと思い出せた。

 目を閉じたまま、莉子は思わず声にする。

「・・ユーリイ、どこにいるの?あなたは、今、どこにいるの?わたし、あなたに会いたい。あなたとヌアナに会いたいよ・・」

 涙が溢れてくる。もう自分が今、どこにいるのか、何歳なのか分からなくなっていた。


 それからどのくらいの時間が経ったのだろう。リビングで眠っていた子ども達は、全員、起き上がっていた。互いに顔を見合わせながら、ヌアナとユーリイが出て行ったドアを見ていた。

 その時だった。閉じた筈のドアが、再び音を立てて開いた。

 部屋の中に入って来たのは、栗色の髪と灰色の目を持つ背の高い青年だった。一目で、その青年は、大人になったユーリイだと分かった。

 ユーリイは、微笑んでいた。そして唇を開いた。莉子が憶えている澄んだ少年の声ではなく、大人になった低く太い声で。

「ヌアナが、もうすぐいなくなる。みんな、会いに来て。ヌアナに会いに来て」


     彼女の宝物


 ユーリイがドアをノックして開けると、ベッド脇に椅子を置いて座っていたキャシーが、振り返って笑顔を見せた。

「来たのね!ちょうど良かった。今、意識が戻ったところよ」

 ユーリイは、後ろに続く莉子達を振り返った。

 空港に到着した莉子、蒼、レイモンド、アイーシャの四人を車で迎えに行ったユーリイは、この家に向かう車中で、ヌアナの現在の容態を話しておいた。ひどく衰弱していて、意識が混濁していること、せっかく来てもらったが、もしかしたら、もう間に合わないかもしれないこと。

 キャシーが、莉子達を迎え入れる。

「さあ、みんな入って、近くに来て、よおく顔を見せてあげて!」

 ヌアナの耳元で語りかけた。「ヌアナさん、ヌアナさん。素敵なお客様が来ましたよ。ヌアナさんに会いに日本から飛行機で来てくれたんですって!」

「日本・・。お客、様・・?」

 ぼんやりとした表情で、仰向けになっていたヌアナが、喘ぐように呟き、ゆっくりと顔を傾けた。その目が、驚いたように見開かれる。

「ヌアナ・・!」

 叫びながらヌアナの元に最初に駆け寄ったのは、アイーシャだった。

 ヌアナは、信じられないものを見たように、目を大きく開いた。ぼんやりとしていた茶色の瞳が強く光った。震える声で言う。

「ア、・・イナ・・?」

 アイーシャの隣に立つ莉子、蒼、レイモンド、一人一人をじっと見る。ゆっくりと首を振った。

「ああ、リ・・コ、アオ、・・レイ?・・どうして・・?どうして、あなた達がここにいるの・・?わたしは、また、夢を見ているの・・?」

「夢じゃないよ、ヌアナ。僕がみんなにヌアナに会いに来てって、お願いしたんだ」

 ユーリイが言うと、ヌアナは、再び軽く首を振った。ぽろぽろと涙を落した。

「・・ユーリイ、あなたなの・・?あなたが、やったの・・?駄目よ・・!わたしの側にいたら、この子達が危険な目に遭ってしまうの・・。だから、わたしは、離れなければならないの・・」

 涙を落としながら言うヌアナの小さな手を握り、ユーリイは言った。

「ヌアナ、もう大丈夫なんだ。あれから十五年が経つ。〈スネイク〉は、五年前にフロリダで死んでいる。マイクは、約束を果たしてくれた。みんなにちゃんと家族を見つけてくれた。今日は、四人がヌアナに会いに来てくれたんだ」

「そうよ、あたし、ヌアナに会いに来たのよ」アイーシャがヌアナの手を取った。

 ヌアナがアイーシャをじっと見つめた。次第にその顔が、苦しそうに歪む。

「ああ・・、アイ、ナ。・・小さなアイナ・・。ああ、なんてこと・・!ごめんね、ごめんね。あなたが、つらい思いをしている時に、守ってあげられなくて・・」

 すすり泣くヌアナの細い肩を、アイーシャは抱いた。

「泣かないで、ヌアナ。謝らないで。あたしは、パパとママに可愛がってもらったよ。ちゃんと幸せだった。あなたがオムツ姿のあたしを拾ってくれたおかげなのよ・・」

 アイーシャが立ち上がると、蒼が、ヌアナの側に足を踏み出した。

「ア、オ・・」

 蒼はヌアナに笑いかけた。「やっと会えた。ユーリイから話は聞いたよ。俺、ずっとこの日を夢見ていた気がする。ずっと、ずっとだよ・・」

 蒼の言葉に、ヌアナは、涙を拭いながら頷いた。

「・・そう、ね、アオ。あなたは、とても強い子だったから・・。そう、あなたは日本の富士山の近くにいるのね。女神がいる神聖な山、そこの麓にあなたは暮らしているのね・・。それから、レイ。あなたは、大きな川の側にいるのね・・」

 ヌアナの手を握りながら、レイモンドは優しく笑って、ハグした。

「サイオート川だよ。僕は、オハイオで暮らしているよ」

「そう。ご両親は、あなたをとても大切にしてくれているのね」

「うん。ヌアナが僕達を守ってくれたおかげだよ」

 レイモンドが、隣にいた莉子を引き寄せた。ヌアナの目が、莉子を見つめる。

「まあ、リコ・・。なんて大きくなって・・!」

 莉子は、自分が何て言ったらいいのか、分からなかった。

 ユーリイから事情を聞いたものの、完全に記憶を取り戻したわけではない。まだ一つ一つのパズルのピースを当てはめている感覚なのだ。それでも輪郭が浮かび上がる。大切だった人達の顔が浮かんでくる。確かに、かつて一緒に時を過ごした人達の顔だ。目の前で涙に濡れた目で、自分を食い入るように見つめる人に、莉子は言った。

「記憶を失くしていたことで、自分の家族にわだかまりを持っていたの。自分は両親の本当の子じゃないって分かっていたから。でも、みんなに会って、ヌアナに会って、自分が、どれだけ周りの人に大切にしてもらったかに気づいたの。・・ヌアナ、わたし、あなたにまた会えて嬉しい。みんなとこうして会えたことが、すごく嬉しい」

 綺麗な気持ちだけではない。自分をこういう状況に置いた運命に対して、言いたいことは山ほどある。それでも、目の前で、目を大きく見開き、懸命に自分を見つめるヌアナを見ていたら、莉子はそれ以上のことを言っても仕方がないのだと知った。時は過ぎたのだ。過ぎてしまったのだ。

 ヌアナは莉子の顔をじっと見つめ、莉子の頬に手を触れて言った。

「・・そう。リコも日本にいるのね。それに、可愛い弟がいる」

 莉子は頷いた。「うん、まだ六歳よ。お姉ちゃん、お姉ちゃんって、いつもうるさいの」

 莉子の愚痴に、ヌアナは、「ふふふ」と笑った。

「・・それに、あなたは、たくさんの祈りの場がある街にいるのね」

「うん。神社やお寺がたくさんあるの。そこで、アイナにも会ったのよ。本当に偶然だったの」

 莉子は、側にいたユーリイを見て言った。

「アイナとレイが、夢を見て、目覚めていた時間。わたしとアイナが坐禅中にアオの声を聞いた時間。あの時間に意味があるんじゃないかと考えたのは、アイナなの。みんなで一緒に瞑想する場所を提供してくれた。小さなアイナのおかげで、ユーリイとコンタクトが取れたの」

 ヌアナが、うんうんと頷いて、ユーリイを見た。

「ユーリイ・・」

 ユーリイは静かな表情をヌアナに向けた。

「ユーリイ、ありがとう。本当に、ありがとう。それから、・・ごめんね」

「どういたしまして、ヌアナ。どうして謝るのさ。ヌアナが謝ることなんか、何一つないんだよ」

 ユーリイは、明るく言った。



 ユーリイは、一人、玄関を出て、庭に佇んでいた。

 庭は、かつてヌアナが元気だった時に育てていた木々や草花が、その枝葉を広げ、好き勝手に大きくなっていた。

 もうすぐヌアナの命の火は、燃え尽きるだろう。ずっとヌアナから離れて暮らしていた四人とヌアナとの大切な時間を邪魔したくはなかった。ユーリイは、ずっとヌアナと一緒に暮らしていられたのだから。

 間に合った。四人がヌアナと再会できて良かった。

 あの儀式の前夜。ヌアナから、四人の記憶を完全に消し去るつもりだと聞かされた時、ヌアナの決意を前に、ユーリイは、成す術がなかった。四人の記憶を消し、マイクに後を託して、ヌアナとユーリイは、街を離れる。十歳の子どもだったユーリイに、他の選択肢を考え出すことはできなかった。

 けれど。儀式の最中、一人、また一人が、ヌアナの力によって眠りについていくのを、目を閉じて眠ったふりをして聞きながら、ユーリイは、最後の最後で、ヌアナに反発した。

 このまま四人が、ヌアナとユーリイと過ごした日々を忘れてしまうことに、どうしても納得がいかなかった。一緒に過ごした時をなかったことにしてしまうのか?ヌアナが四人をどれだけ可愛がっていたか、四人を養うために、どれだけの生命力を削って仕事をしてきたか、ユーリイはヌアナの側でずっと見てきたのだ。

 だから、ユーリイは、ヌアナのために、能力を使った。

 それが、何だったのか、その時まで知らなかった。今も、この能力が何なのか、その仕組みはよく分かっていない。ユーリイ自身も、ヌアナと似た能力を持っていた。ヌアナの側にいたせいだろうか。その理由は分からない。

 あの時はただ必死だった。懸命に願い、祈った。身体中が燃えてしまうように、熱くなった。

 ヌアナの放つ圧倒的な力をかいくぐって、ユーリイが四人に施した暗示。願い。

 四人が、いつか再会し、過去を振り返り、ヌアナとユーリイに会いたいと望んでくれたなら、意思疎通のための道を、必ず作り出す。完全に記憶を消させない。ほんの痕跡でも残す。思い出させる。

 本音を言えば、ヌアナのためだけではなかった。自分のためでもあった。憶えていて欲しかったのだ。無事で生きて欲しい。でも、自分のことを忘れないで欲しいと願った。十歳の自分の我が儘だった。

「・・ユーリイ」

 呼びかけられて、振り向いた。蒼と莉子が庭に出て、こちらに向かって歩いて来た。

「・・レイとアイナは?」訊ねると、蒼が答えた。

「ヌアナの側にいるよ」

 蒼が、ユーリイの前に立った。痩せいていて小柄だった黒髪黒眼の少年は、今やユーリイに並ぶ背格好になっていた。

「キャシーから聞いたよ。ユーリイが一人で、長い間ヌアナをずっと介護してくれたんだってな。・・俺さ、どうしてか分からないんだけど、あの時、最後に分かった気がしたんだ。ヌアナが俺達に何かをしようとしたこと。お前が、一人で何かを背負おうとしていたこと。だから、言ったんだ」

「・・馬鹿野郎って」

 ユーリイが言葉を引き取った。蒼と顔を見合わせる。互いに笑みが漏れる。

「・・うん。よく憶えている。アオは強かった。ヌアナの力に対抗しようとしていた。ヌアナも必死だった。だから僕は、咄嗟にアオの抵抗力を利用しようって思ったんだ。あの部屋の壁に掛かっていた富士山の絵を転写し、隣にいたアオにそのイメージを送ったんだ」

 蒼は溜息をつくように言った。

「結局、ほとんど忘れちまって、俺は、何もできなかったけどな・・」

 ユーリイを見て、優しく言った。「ユーリイ、ありがとう」

「え」

「たった一人でヌアナを見てくれた。ありがとう」

「礼なんて・・」そう言いながら、ユーリイは驚いた。自分の目から涙が流れていた。涙なんて、四人と別れた時以来、もうずっと流れていなかったのに。

「あ、れ・・、なんだ、これは・・?」

 戸惑うユーリイの身体を、蒼がそっと抱き寄せ、力強く抱きしめた。

 涙にぼやけた視界に、こちらを見ている莉子の姿が見える。大好きだった女の子。一緒にレコードを聴いて、本を読んであげた。いつも、ユーリイのすぐ側にいた。すぐ側で笑っていた。小さな可愛らしい女の子だったのに、まるで別の人間のように変わった。本当はずっと側にいて、その成長を見守っていたかった。

「・・ユーリイ」

 莉子が手を伸ばし、ユーリイの腕に触れた。その指の温かさに、ユーリイの身体は、知らず震えた。

「約束して。もう二度と、黙ってどこかに行ったりしないで」

 蒼が、少し離れて、ユーリイと莉子を見守っていた。

 時を逃してはならない。思いと言葉は、相手に伝えられなくてはならない。

 ヌアナが、彼女の生命力を削ってやってきた仕事を通じて、ユーリイに教えてくれたことだ。

 ずっと思ってきたこと、心に秘めた思いを、今、ようやく口にできる。

 ユーリイは、涙を拭ってから、莉子を見つめた。

 長い間、胸の内で溜めてきた思いを、今、言葉にし、音にして、相手に伝える。

「うん。約束する。君は、僕にとって、一番大切な女の子だから」


                                  




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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