第三章
第三章
ユーリイ
1
焦げ茶色のレンガ造りの校舎を出て、駐車場に向かう。ユーリイは、腕時計をちらりと確認した。授業を早めに終わらせたので、ヘルパーのキャシーが帰る時間までまだ余裕があった。今なら、スーパーに寄って、買い物をしていっても大丈夫そうだ。
大学の教員用に指定されている駐車場に入り、自分の赤いフォードを見つける。ロックを解除し、ドアを開けて乗り込んだ。エンジンをかけると、しばらくして、スピーカーから、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。パッヘルベルのカノン。朝の続きだ。スイッチを回し、エンジンをかけた。
「ねえ、ユーリイ、とても不思議なの。お仕事をしていると、一日が、ほんとにあっという間に終わってしまうのよ」
外に出て仕事をし始めたヌアナが、ユーリイに口癖のように言っていた言葉だ。
こうやって毎日大学に通っていると、ヌアナの言葉が本当だったのだと実感する。講義を終え、買い物をして、急いで家に帰って、夕食の準備をし、ヌアナに食べさせて、片付けをし、彼女が寝入るまで付き添って、そしたらまた新しい朝が来る。朝食の準備をして、ヌアナに食べさせて、身支度をして大学に出かける。音楽を聴きながら、時折、空を見上げて、みんなのことを考えながら。
帰り際、同僚のレベッカに声をかけられた。同僚と言っても、ユーリイより五歳年上の女性だ。
「今日は講義が早く終わったのね。良かったら、これからバーに飲みに行かない?」
「ごめん。家で家族が待っているから。ケアが必要なんだ」
もう何十回となく誰かに言った台詞だ。そう答えると、大抵、二度と誘われなくなる。学生時代からそうだった。だからユーリイには、勤務後の時間をバーで共に過ごすような親密な友人もいなければ、もちろん、恋人もいない。それでも別に構わないと思っている。実際、今はヌアナの介護と仕事をするだけで精一杯だからだ。毎日はあっという間に過ぎる。ヌアナのことと、仕事と、またヌアナのことと。それに最近、気がかりなことがあった。
ヌアナの様子が変わってきている。いつも気が抜けない。主治医のマクミラン先生は特に変わったところはないと言っているが、ユーリイには分かるのだ。ヌアナが本来持っていた生気、圧倒的なオーラのようなものが、徐々に失われている。もしかしたら、彼女と一緒にいられる時間は、もうそう長くはないのかもしれない。ユーリイは急がなければならない。
スーパーの青果売り場で、カートを押しながら、ヌアナが好きなもの、食べられるものを選んでいく。彼女は、オレンジが大好きだ。ユーリイが皮をむいてあげると、一房一房をそれは嬉しそうに食べる。彼女の口も、ユーリイの手も、オレンジの果汁でぐっしょりと濡れて、べとべとになってしまうが、構わない。オレンジを口にした時の彼女の表情を見るのが好きだ。以前はヌアナがそうやって、ユーリイ達にオレンジを食べさせてくれた。ヌアナは、自分の爪にオレンジの皮が食い込むのも構わずに、オレンジの皮をむき続けた。房の薄皮を取り、ユーリイ達の口の中に、順番にぽんぽんと入れてくれた。まるで親鳥が虫を捕まえて、ピーピーと鳴きながら口を開けているひな鳥に餌をあげるように。みんなの口元がオレンジの汁でべとべとしてくる。みんなはニコニコしながら、舌を出して、ペロペロとそれを舐める。
バナナと南瓜にブロッコリー、ヨーグルトと牛乳、オレンジジュース、バターロール、クロワッサン、バター、豆腐、パンケーキ用の粉、チョコレートとコーヒー粉をカートに入れ、レジに進んだ。
家路に車を走らせながら、みんなで暮らしていた頃、ヌアナは、いつもどんな気持ちであのアパートに向かっていたのだろうと想像する。実際に六人で暮らしたのは、ほぼ一年間。彼女の帰りを待っていたのは、十歳のユーリイをはじめとした、五人の子ども達だ。中学校を卒業したのかも分からない彼女が、一年間、たった一人で五人の子どもを養ってきたのだ。それは彼女にとって、何とハードなことだったか。
そうだ、ユーリイは知っている。彼女はいつも一生懸命だった。ユーリイ達を可愛がってくれた。アパートに初めて来た時、アイナのオムツの中は、大便と小便でいっぱいだった。ヌアナは、自分の手が汚れるのも構わずに、アイナのお尻をシャワーで綺麗にしてあげた。ユーリイ達も彼女を手伝った。リコはまだ四歳ぐらいだったが、まるで小さなお母さんのようにアイナの世話をしてくれた。アオとレイは、いつも二人でふざけてばかりいたが、洗濯物を干して、畳むのは、驚くほど手際よくやってくれた。ユーリイは、四人の兄貴分として目を配った。
ヌアナは、外で仕事を始めると、少しずつ〈お土産〉を持って帰るようになった。毛布、レコードプレーヤー、絵本、アルファベットの本、数字の本。地図。茶色い地球儀。ヌアナが仕事で出かけている間、ユーリイは言いつけ通りに、しっかりと鍵をかけ、夕方には小さい音でレコードをかけて、ヌアナの帰りを待った。
最初にヌアナがアパートに連れて来たのは、アオだった。目も髪も黒くて東洋人のような風貌の男の子。がりがりに痩せていて、最初は何も喋らなかったが、慣れてくるとお喋りになった。次に来たのは、レイだった。金色の髪、青い目、おとなしくて優しい男の子だった。背中にひどい傷跡が残っていた。いつ怪我をしたのかと問うと、忘れた、と言って、それ以上、何も話そうとはしなかった。
リコが来たのは、それから一か月後か。アオと同じ黒い髪黒い目の女の子。来た時は異臭を放つ汚い服を着ていた。ヌアナが風呂に入れて身体と髪を洗ってあげたら、ごわごわになっていた長い黒髪が、絹糸のようにつやつやと美しくなった。最初は言葉も少なく、無表情だったが、次第に笑顔を見せてくれるようになった。どうでもいいことで騒いでばかりいたアオとレイが、リコを前にすると静かになるのが可笑しかった。ヌアナも、初めてやってきた女の子のリコを可愛がって、ワンピースやフリルブラウスなどを持ち帰って来た。白いドレスに身を包んだリコは、とても愛らしく、可愛らしかった。
最後に来たのは、アイナだった。くるんとした赤毛が丸い頭に生えていた幼児。まだ言葉もうまく話せなかった。ヌアナもユーリイ達も、いつもアイナの世話に追われた。常に目が離せないし、いつもオムツを汚し、なかなか一人でトイレに行けなかった。寝かしつけは特に大変で、夜泣きもしょっちゅうだった。
「小さい子には、ママが必要なの」自分もまだ小さいリコが、上手にアイナを抱っこして寝かしつけた。アオやレイが声をかけても、アイナは絶対に泣き止まない。ユーリイでも駄目だった。アイナは、ヌアナかリコでなければ駄目だった。
「リコはすごいね。アイナのママだね」
ユーリイが言うと、リコは嬉しそうに笑った。
ヌアナは、ユーリイの母ミーナの幼馴染だった。ヌアナにも母にも、家族はいなかった。二人は養護施設で育ち、十八歳になると社会に出された。ユーリイの母は、ドライブインでウェイトレスとして働き、そこにたまたまやって来た旅行者と恋に落ち、ユーリイを産んだ。母がユーリイを産んだ時、父親はもう母の側にはいなかった。だからユーリイは、自分の父親がどんな顔でどんな名前だったのか、どこから来て、どこに行こうとしていたのか、まったく知らない。それでも、母は気丈にユーリイを育ててくれた。頼れる実家も親類もない。たった一人、ヌアナだけが、母とユーリイを支えてくれた。二人は共に小さなアパートの一室を借りて暮らし、母が昼間働いている間は、ヌアナがユーリイの面倒を見てくれた。後にヌアナがまだオムツをつけたアイナを連れ帰り、育てることができたのは、この時の経験があったからだと思う。
ヌアナは不思議な人だ。初めて彼女を見る人は、そのあどけなさや屈託のなさに、彼女の精神年齢の幼さを想像するだろう。小柄で、同い年だった母の年の離れた妹のようにも見えた。母は、ウェイトレスとして外で仕事をしていたが、ヌアナには母と同じようなことをすることはできなかった。客から注文を取ったり、食べ物が載った皿をトレーに載せ、落とさずに素早くテーブルに運んだり、レジスターでお金の遣り取りを正確にすることは、ヌアナにはとても難しいことだった。
ヌアナの素敵なところは、その穏やかな優しさだった。彼女は、母のために部屋を整え、洗濯をし、ユーリイの面倒を見て、外で働く母の愚痴を聞いてやった。ヌアナは決して人の悪口を言ったり、責めたりしない。ただ静かに頷き、じっと耳を傾けて話を聞いてあげるのだ。そうすると疲れ切った様子の母は、だんだん元気を取り戻していく。孤独感に苛まれることも、見通せぬ将来を不安がることもなくなる。ただヌアナの手を取り、幼いユーリイを腕に抱くだけで、母の気持ちは安らいでいくようだった。
「ヌアナ、あなたがいてくれたから、あたしもユーリイも生きていくことができる。この世界に、たった一人でいい。自分のことを気にかけてくれる人がいれば、それだけで人は生きていけるのね」
母が涙を流しながらそう言っていたのを、ユーリイは今もよく憶えている。
だが、母とヌアナとユーリイとの三人のささやかな暮らしは、長くは続かなかった。それまで風邪一つ引かなかった母が、突然、病気に倒れ、あっけなく亡くなってしまった。ヌアナ二十七歳、ユーリイ八歳のことだった。
母の遺体は、地域の共同墓地に入れてもらえることになった。母が働いていたドライブインの店長が、葬儀の手配をしてくれた。
ヌアナは、雨が降りしきる中、傘もささずに、いつまでも母の眠る墓の前に佇んでいた。ヌアナの様子を心配した店長が、残されたユーリイの養育のことをヌアナに問うた。養育するのが難しければ、施設に預けるという選択肢もあるよ、と助言した。時折、自分の方に視線を向けながら話す、店長が言っていることの意味がよく分からず、ユーリイは、怖くて、ヌアナの手をぎゅっと握った。
それまで茫洋としていたヌアナの表情が、引き締まった。
「わたしは、この子の叔母です。この子は、施設にはやりません。わたしが育てます」
後で知ったことだが、母はいざという時のために、ヌアナを受取人として、自身に生命保険をかけ、その給付金は住んでいたアパートの家賃と光熱費に充てるよう、予め手配してくれていた。店長は幾ばくかのお金をヌアナに渡してくれた。ヌアナはそのお金を少しずつ大切に使ったが、あっという間に潰えてしまった。生きていくためには食べなければならない。食べるためにはお金が要る。お金を得るには働かなくてはならない。今までは母が働いてお金を得てくれた。でも、もうお金を稼いでくれた母はいないのだ。これから二人が生きていくためには何か仕事をする必要があった。
「ユーリイ、わたし、仕事をするわ」
パンを買うお金が無くなり、食器棚の隅にしまってあったクラッカーを、二人で分けて食べていた時だった。唇にクラッカーの白いかすをつけたまま、ヌアナが言った。
「仕事って、ママがしていたウェイトレスになるの?ヌアナ、そんなことできるの?」
ユーリイが訊くと、ヌアナは、ふるふると首を振った。
「わたしにはウェイトレスの仕事はできない。わたしにできることは何かをよく考えたの。ミーナが言ってたわ。わたしは人の話を聞くのが上手だって。わたしに話を聞いてもらうと元気になるって。だからわたし、人の話を聞く仕事をやってみようと思うの」
「人の話を聞いて、お金を貰えるのかな?」
子ども心に、ヌアナが無謀なことを言っているのが感じられた。だが、当のヌアナは、恐れを抱いていないようだ。
「分からない。でも、やってみる。外に出てみる」そう言って、ヌアナは、すくっと立ち上がった。買い物に行く時に持っていくビリジアン色のナイロンのトートバッグを手に、外に出て行こうとする。ユーリイは、慌てて後を追った。
「ヌアナ、待って、僕も一緒に行く!」
ヌアナとユーリイは、レーン通りの繁華街の一角に立った。ユーリイはヌアナに訊いた。「ねえ、ヌアナ、本当にやるの?お話を聞いてお金を貰うの?」
ヌアナは唇を引き結んだまま、重々しく頷いた。本気なのだ、とユーリイは悟った。それなら、ユーリイはヌアナを手伝わなければならない。ユーリイは目の前を通り過ぎる人々に向かって、声を張り上げた。
「皆さんのお話を聞きます!この人はすごい人なんです。この人にお話を聞いてもらうと、気持ちが楽になるって、僕のママがいつも言っていたんだ。だから、皆さんの悩みや心配事を、この人に話してみませんか?」
ユーリイの声に、通行している何人かが、不審な顔を向けた。ヌアナは前を見据えて、じっとその場に立っている。本気なのだ。本気でやるつもりでいるのだ。
「皆さんのお話を聞きます!お代は聞いてからで結構です!」
ユーリイは、さらに声を張り上げ続けた。だが、誰も立ち止まらない。しまいにはユーリイの声は涙声になってしまった。涙がどんどん零れてきて、ユーリイは顔を覆った。その時、頭に優しく手がかかった。
「坊や。泣かなくていいよ。じゃあ僕が話を聞いてもらおうか」
驚いて顔を上げると、仕立ての良いコートに身を包んだ初老の男性が、ヌアナとユーリイの前に立っていた。ヌアナが男性をじっと見つめた。
「この坊ちゃんが、一生懸命、お前さんを絶賛しているものだからね。試しにやってもらおうか。さて、話はどこで聞いてもらえるんだい?」
ヌアナは何も言わない。ユーリイは慌てて、近くの公園を指差して言った。
「じゃあ、あそこのつつじ公園に行きましょう」
ユーリイとヌアナとその男性は、つつじ公園に入った。公園では、大きな噴水を囲うように置かれた白いベンチに、ベビーカーに赤ん坊を乗せた母親や、学生風の男女、スーツ姿の男性やらが、それぞれ座って午後のゆるやかなひと時を過ごしていた。少し離れた場所には、青いブランコや滑り台、ジャングルジムや砂場があって、保育園の先生に連れられて来ているらしいオレンジ色の帽子を被った幼児達が、歓声を上げて、それらの遊具で遊んでいた。
ユーリイの足元で、灰色の鳩が、首をひょこひょこと前に動かしながら、ウロウロと歩いていた。咄嗟に男性をこの公園に案内したのは、ユーリイがこの公園の他に場所を知らなかったからだ。母が働きに出ている間、ユーリイがヌアナと一緒に出かけたのは、スーパーと図書館とこの公園だけだ。お金がないのだから、カフェやレストランといった所には案内できない。レーン通りで声を張り上げながら、内心、誰もユーリイとヌアナに声をかけてくる人などいないだろうと思い込んでいた。実際にお客さんが現れたらどうするべきかを深く考えていなかった。ユーリイは自分の迂闊さを思い知った。ヌアナを当てにしては駄目だ。人の話を聞くには、どこか座る場所が必要だ。静かで、その人がリラックスできる場所。自分達にはお金がないから、お金がかからない場所。
きょろきょろと首を巡らすと、ちょうど遊具の置かれた場所を背にして大人の背丈ほどの植え込みがあり、その向こうで大木が枝を広げていた。歩いて行くと、その下に白いベンチが置いてあり、空いているのが見えた。やった。ちょうどいい。あそこなら、落ち着いて話が聞けそうだ。
「あそこにしましょう」とユーリイが指差すと、男性は、「うん、いいね」と微笑んだ。ヌアナを真ん中に座らせ、男性とユーリイも、白いベンチに腰を下ろした。
「・・さて、話を聞いてくれるというのは、こちらのお嬢さんだったね?」
男性の口元には小さな笑い皺が刻まれていた。
「坊やは言っていたね。この人はすごいんだって。この人に話を聞いてもらうと、気持ちが楽になるって」
ユーリイは頷いた。
「僕のママが、いつもそう言ってました。ヌアナには、ものすごいパワーがあるって」
ヌアナはじっと黙ったまま、男性の顔を見つめていた。いつもの、ゆったりと穏やかな空気をまとった彼女とは様子が違う。どうしたのだろうか。緊張しているのだろうか。これからどうやって、話を進めればいいのだろう。そもそも、ヌアナが急に外に飛び出したのを追いかけてきただけで、ユーリイ自身は、この後、どうしたら良いのかまったく分からなかった。
「僕の話を聞いてくれるかい?」男性はヌアナに向かって言った。ヌアナは、男性を凝視し、こっくりと頷いた。
「ただの昔話だよ」
男性は話し出した。
男性の名前はマイクと言った。
この街の生まれで、妹と弟がいた。小中高校と地元の学校に通った。この街は、昔から繊維工業が盛んだった。両親は、織機の修理工を営んでいた。学校から帰ると、家に併設された小さな工場で、父がランニングシャツ姿で仕事をしていたのをよく憶えている。まだまともだった頃の父の姿だ。
「おかえり、マイキー。今日は何の勉強をしたんだ?」
それが父のお決まりの言葉だった。
状況が変わったのは、いつからなのだろう。織機の自動化が進み、旧式の機械を修理していた両親の仕事は、あっという間に淘汰された。修理依頼が減り、収入が減った。それまで、その旧式の機械の動かし方さえ知っていれば、ずっと食べていける筈だった。父はそう周囲に言われてきたし、父自身もそれをする以外の選択肢は与えられなかった。家計が苦しくなっていくに従い、両親の表情には、不安と苛立ちが常に張り付いていた。父はささいなことで、声を荒げるようになった。懇意にしていた顧客が次々に倒産した後、家の工場の機械は動かなくなった。マイクが学校から帰って来ると、父は、ふて寝しているように、ごろりと横になっていた。
「おかえり、マイキー。今日は何の勉強をしたんだ?」と言うこともなくなり、濁った目でマイクをじろりと見るだけになった。
「それまでは、父は一滴も酒を飲んだことがなかったんだ。すぐに身体がふらふらしちまうからと言って。それが、時間を持て余していたんだろうな。町の酒場に寄り着くようになってしまった。仕事がなくなれば、金もないのに。分かるよね、酒代の借金ばかりが増えていった・・」
マイクは、ぽつぽつと言葉を続けた。ヌアナは、身体を強張らせて、じっとマイクの話を聞いている。
仕事を奪われることが、どれだけ大人の心を傷つけるかを、マイクは父の姿を見て知った。父は自信と自尊心を失い、自暴自棄になり、この状況を世間や家族のせいにした。
「お前らを養うために、俺は朝から晩まで、ずっと真面目に働いてきたんだ。・・それなのに、なんで仕事がなくなっちまうんだ。俺には織機の修理しかできないってのに。俺は、これから、どうすればいいんだ!」
普段は穏やかな父だったが、酒が入ると別人のようになった。顔は真っ赤になり、突然激高し、手に届くものを?み、投げつけてきた。靴、ゴミ箱、グラス、マグカップ、パン、テーブル、色んな物が父の手によって投げられ、庭に散乱した。
母は泣くばかりだった。母も同じだった。織物に関わる仕事をしていれば、一生、食べていかれる。母の母もそうやってきた。教育など余計なものは必要ないと、大学へは行かせてもらえなかった。旧式の機械のことならよく分かる。操作の手順も、調子が悪い時にどうすればよいのかも。だが、機械が止まってしまったら、母にもどうしようもなかった。家には、マイクをはじめとした三人の子どもがいる。子ども達には食事を与え、学校に行かせなければならない。
酒を飲んでいない分、母の判断は早かった。母は近くの食堂に働きに行った。野菜を切り、客に給仕し、皿を洗った。だが、母が外で働いて得た金を、父は自分の酒代に使ってしまう。家には、酒屋の親爺や、飲み屋の主人が、入れ代わり立ち代わりやって来て、母に父の借金を払うよう迫った。涙を流しながら金を払う母の足元で、父は空になった酒瓶を逆さにして瓶の底の酒を口に入れようとしていた。
父のその姿は、どう考えてみてもおかしかった。マイクの後ろには幼い妹と弟がいて、父の姿を何も言わずに見ていた。母もマイク達も、昨日から何も口にしていなかった。それなのに、この男はいったい、何をやっているのだろう。この男は何なんだ。そもそも、こいつはどうしてここにいるんだ?
マイクの中の優しかった父親の姿は、もうそこにはなかった。目の前にいる男は、だらしなく、弱く、話も通じない、およそまともとは思えない男だった。このままでは、母も自分達も駄目になる。マイクは、目の前の男を睨みながら思った。
「ウオオオー、酒はどこだあ?どこに隠したあ?」男は大声を上げながら、据わった目をして、きょろきょろと首を巡らした。母はうずくまり、声を震わせて泣いていた。
「おい、おかあ。酒を出せーっ!」
「・・もう、どこにもないの。お酒を買うお金なんか、もうないのよ。もういい加減にしてよ、あんた。子ども達が見ているんだよ・・」
「なにおう・・?」母を見た後、男は、マイク達に濁った目を向けた。妹と弟が、マイクの脚に取りすがった。
「おい、ジロジロ見てんじゃねえ、このガキども。ぼうってしてねえで、酒を持ってこい。金がないなら、どっから取って来い!」
父の怒鳴り声に、マイクの堪忍袋の緒が切れた。
「・・もう、出て行ってくれない?」マイクは言った。
「はあ、何だって?」
「ここには、酒はない。酒を買うお金もない。だからあんたはもういる必要はない。酒が欲しいなら、もう出て行ってくれよ。ここは、あんたのいる場所じゃない」
「・・なんだとお・・」父の白目が黄色く濁っている。マイクはそれを見ると吐き気がしてきた。こんなのは父ではない。一緒に自転車に乗って、釣りに出かけた、あの朗らかに笑っていた父とはまったく違う。
「このガキ、親に向かって何を言って・・」
「父さんは、もう死んだんだ」マイクは、父を睨んで言った。「あんたは、俺の父さんなんかじゃ、ない。朝から晩まで酒、酒って、何やってんだよ!いい加減にしろよ!酒に逃げているんじゃねえよ!」
「うるさいっ!黙れっ!」獣のような咆哮を立てながら、父の拳がマイクの顔に叩き込まれた。避ける余裕はなかった。母が悲鳴を上げながら、父の背に取りすがった。
「あんた、やめて、やめてっ!お願い、もう、やめてえ!」
「うるせえ!どけ!」父は母の手を振りほどき、母の背中を何度も蹴りつけた。
マイクの口の中から血が溢れてきた。殴られた際に、歯で口の中を切ったようだった。鼻の穴からもぬるっとした血が流れてきた。
マイクは父のシャツを?み、懸命に引っ張った。「やめろおっ、母さんに手を出すな!おい、お前達も止めるんだ!」妹と弟に声をかけると、二人も父の脚に取りすがって泣きながら叫んだ。「お父ちゃん、やめてえ!もうやめてよお!」
父はうおおおっと咆哮を上げながら、身体を大きく振り回した。妹と弟が、ころころと庭に転がった。それを見た母が悲しげな悲鳴を上げた。
マイクは、庭に転がっていた空の茶色の酒瓶を握りしめ、思いきり地面にたたきつけた。ガシャン!という音が響いた。母も父も妹達も、驚いたようにマイクを見た。
「・・あんたは、俺の父さんじゃない。ここには酒はない。あんたは出て行け。ここはあんたの家じゃない。もう戻って来るな!俺の父さんは、死んだんだ。もういないんだ。あんたが殺したんだ。あんたは、俺の父親じゃない。あんたが俺の父親なら、あんたはもう死んだんだ。なあ、もう、死んでくれよ。何で生きているんだよ。あんたはいない方がいい。もういない方がいいんだ・・」
血まみれになったマイクの姿を、父はじっと睨んだ。やがて小さな吐息を吐くようにしてから、ゆっくりと立ち上がった。
「・・こんな所、出て行ってやる」脚を引き摺りながら、父は出て行った。
父の水死体が見つかったのは、翌日の朝だった。知らせを聞いて、母とマイク達は、遺体が発見されたというカーセル川の下流に向かった。母は病院に運ばれた遺体を見て、自分の夫であると確認した。目撃者によると、父は、いつもたむろしていた酒場で酒を飲んだ後、酒瓶を持ってカーセル川の川べりに座り込み、また酒を飲んでいた。ずいぶん長い間、その場にいたらしい。父の死が自殺なのか事故死なのかは分からなかった。誰も父が川に入る瞬間を見ていなかった。
警察官は、マイクの腫れあがった顔を見て、訊ねた。
「その傷は、お父さんにやられたのかい?」
マイクは首を振った。「いいえ。ここにいるのは、父さんじゃない。僕の優しかった父さんは、もうとっくにいなくなっていた」
マイクの答えに警察官は何も言わなかった。母が涙に濡れた目でマイクの方を見るのが分かった。マイクはそれを見ない振りをした。
「いずれにしても、これからは君がお母さんを支えていかなくてはならないね。頑張るんだよ、坊や」警察官は、マイクの肩にぽんと手を置いて言った。
マイクは頷いた。もちろん、そのつもりだ。あの酔っ払いさえいなくなれば、家の中に平和と静寂が訪れるのだ。もう何も壊れない。もう誰もあの男の嫌な怒鳴り声に怯えることもない。誰も傷つかない。借金も増えない。ようやく家族が幸せになれる。そう思った。
コートの下に黒いスーツを着ているマイクは、ふうっと息をついて、ヌアナとユーリイを見た。目尻が少し下がった。
「それからは、我ながら頑張ったと思うよ。新聞少年をして、ミルク配達をして、妹と弟の面倒も見て、もちろん、勉強も頑張った。母が言うんだ。安定した暮らしを送るには、やっぱり学歴が必要なんだって」
マイクの両親は、織機の仕事しかできなかったから、行き詰ってしまったのだ。世の中に絶対なんてない。もし父が、もっと勉強をし、他の特技、適性、選択肢を知ることができていれば、話は違っていたかもしれなかった。
マイクは、働きながら、一生懸命、勉強した。そんな姿を見て、学校の先生も応援してくれた。成績は学年で一番だった。先生が見つけてくれた奨学金に応募して、大学も行くことができた。
大学に入るのと同時に司法試験の勉強を開始し、一発で弁護士試験に受かった。合格発表の日、母と妹弟は、家にシャンパンと大きなケーキを用意して、マイクが帰るのを待っていてくれた。
マイクが部屋に入るのと同時に、クラッカーがパンパンと鳴り、紙吹雪が舞った。
「マイク、おめでとう!」「お兄ちゃん、弁護士なんてすごいや。おめでとう!」
家族の祝福の声を聞いて、マイクの目にようやく涙が浮かんだ。
母は気づいただろうか。マイクはずっと泣くことを忘れていたのだ。父の遺体が見つかった時も、葬列の際にも、涙は一滴も出なかった。父が暴れ、獣の咆哮のような声を出し、家中を滅茶苦茶にする壮絶な日々を送るうちに、身体の中の涙を流す機能が壊れてしまった。もう生きている間に、涙を流すことはないのだと思い込んでいた。
それなのに、マイクの目からは涙が出ていた。母はマイクの頭を撫で、ぽろぽろと涙を落とした。「ようく、頑張ったね・・。マイク。本当によくやったね・・」
母にぎゅっと抱きしめられて、マイクは心から安堵した。これで安心して働ける。もっと金を稼ぐことができる。アルバイトや片手間の仕事ではない。ちゃんとした仕事だ。何かあったら、法律という知識と武器で自分と家族を守ることができる。妹や弟にも好きなことをさせてやれるだろう。
法律事務所に就職してからも、マイクは朝から晩まで働き続けた。誰よりも早く事務所に行き、夜遅くまで残って裁判の準備をした。地道な調査作業を厭わず、コツコツと証拠を積み上げ準備していくことで、彼はどんな難しい裁判にも勝つことができた。気づくと彼の元には仕事の依頼が殺到し、彼は益々仕事に忙殺された。収入は増え、彼は家族のために広い一軒家を買った。妹と弟を大学まで出し、彼らは独立したのち、それぞれ伴侶を得て結婚した。家には、年老いた母とマイクだけが残った。
「マイク、もうそんなに頑張らなくてもいいんだよ」
母はよくそう言ってくれたが、マイクは安心できなかった。もっと働いて稼いでおかなければ、安心できない。いつ何時仕事ができなくなるか分からない。弁護士になれば安心できると思っていた。だが違った。マイクは知っていた。生真面目で優しかった父が、酒によって別人のように変わってしまったことを。人間は弱いものなのだ。努力と培った知識を使って、必死に仕事を続けてきたが、この頭がずっと明晰なままでいる保証など、どこにもないのだ。マイクはそれを父の姿を通して知っていた。自分が働けなくなったら、母はどうなる?いざという時のために、蓄えはあればあるだけ欲しい。自分がいつかどうにかなっても、安心できるよう、もっと働かなくてはならない。もっと、もっと、もっと。
そうやって働き続けて四十年。気づくとマイクは六十歳を過ぎていた。
初老になったマイクは、黙ったまま話を聞いているヌアナとユーリイに言った。
「今日はね、そこの教会で、母の葬式があったんだ・・。妹や弟達の家族も一緒に集まってね。母とはずっと一緒に暮らしたよ。最後の一か月は病院の世話になったけど、静かに、苦しまずに逝ったよ・・。僕にありがとうって言ってくれた。何度も、何度もね・・。僕は嬉しかった。僕がこれまでやってきたことは報われたと思ったよ。・・でも、母が亡くなる間際に言ったんだ。自分が死んだら、遺体を、お父さんのお墓の近くに埋めて欲しいって・・」
マイクは、母がもう長くないことを主治医から知らされた時、秘かに母のために墓地を用意した。丘の上の見晴らしの良い場所だ。自分もいずれそこに入れるように、母をひとりぼっちにしなくて済むように、自分の分の墓地も一緒に手配した。生前、まだ母が元気だった時に、母にもそれは説明しておいた。母は優しく笑って頷いていた。
なのに、何故、死の間際にそんなことを言うんだ。何故、家族をこんなに苦しめたあの男の側に行きたいなどと言うのだ。マイクは、母の気持ちが理解できなかった。
「妹と弟は、母さんの希望通りにしてやろうと言うんだ。二人はまだ小さかったから、忘れているんだ。あの男が、母や僕達にどんな苦しみを与えたのかを・・」
それでも最愛の母の最期の願いだった。マイクは腑に落ちないまま、かつて父と呼んだことがある男が眠る墓地の管理者に連絡を取り、母のための墓地を購入した。隣とまではいかないが、近くの墓地を購入することができた。
葬儀は、妹と弟の子ども達がはしゃぎ回る中で行われた。妹と弟は涙を流しながら、白い百合の花を母の墓石に手向け、そっとマイクの肩を抱いた。
葬儀が終わった後、みんなで一緒にレストランで食事でもどう?と誘われたが、伴侶も子どももいないマイクは、子ども達が騒ぐ中で食事をする気にはなれなかったので、断った。
「そう。じゃあ、わたし達は食事をしてから帰るわね」妹は首を傾げるようにしてから、マイクに言った。
「兄さん、今まで母さんの面倒を見てくれて、本当にありがとう」
マイクをハグした。
「わたし達はフィラデルフィアに帰るけど、どうか身体を大切にね」
「・・そうやって、さっき、妹達と別れたところなんだ。僕はこれから家に戻る途中だった。やりかけの仕事があるからね。急いで帰らなくちゃいけない。来週も忙しい、仕事の予定が詰まっているし、ゆっくり食事をしている暇なんてないんだ。・・でもね、どうしてだか、急に足が動かなくなってしまったんだ・・」
家族を支えるためにずっと生きてきた。でもマイクには、もう支える家族はいなくなっていた。マイクの健康を心配し、彼のために、夜、温かいココアを作ってくれた母は、もういない。母は逝ってしまった。誰も家で彼の帰りを待つ者はいない。それなのに、彼はまだ働かなければならない。いったい、何のために?誰のために?
「僕はもう、いつからあの場所に立っていたのか分からない。ただ、どうしても足が動かなかったんだ。胸が苦しくて、苦しくて、自分が何のために生きているのか、これからどうしたらいいのか分からなくて、どうしようもなかったんだ。その時に、君のよく通る声が聞こえてきたんだよ」
マイクは、ユーリイに目を向けて、弱々しく笑った。
「この人に話を聞いてもらうと、気持ちが楽になるって言っていたね・・。そうだね、確かに、その通りだ。誰かに父のことを話すなんて、今まで一度もなかったからね・・」
その時だった。それまでずっと黙ってマイクの話を聞いていたヌアナが、ふっと顔を上げて、マイクを真っすぐ見た。口を開いた。
「あなたは両親に愛された。あなたの父はずっと悲しかった。仕事が続けられなくなったこと、妻や子ども達に八つ当たりをしてしまうこと、それでもどうにもできなかった。自信がなくて、恥ずかしくて、苦しくて、お酒を飲んでいる間だけは、それを忘れられた。悪い人があなたの父にどんどんお酒を飲ませた。お酒は、あなたの父の健康な心を奪った」
突然のヌアナの豹変ぶりに、ユーリイもマイクも声を失った。ヌアナは続けた。
「あなたに家を出て行けと言われた時、あなたの父は少しほっとした。これ以上、そこに留まったら、自分は家族にもっとひどいことをしてしまうかもしれないと思ったから。でも悲しかった。どうしたらよいのか分からなかった。だからまたお酒を飲んだ。あなたの父がカーセル川の川べりで考えていたのは、家族のこと。朗らかだった妻、小さくて可愛いあなたの妹と弟。そしてあなたのこと。母を守り、妹と弟を守るために、自分に立ち向ってきた、頼もしく成長したあなたのこと。その時に身体が傾いた。自殺ではない。あなたの父は、あなたのことを考えながら川に落ちた」
マイクは、ヌアナを凝視していた。ヌアナは続けた。
「あなたの母は、夫を愛していた。子ども達を愛していた。夫が変わってしまったこと、それを留めることができない自分を憎んでいた。あなたが自分と母親の墓地を用意したと聞いた時、あなたの母は、自分が何を望んでいるのかを知った。自分は夫の側で眠りたい。駄目な人だったかもしれないけれど、夫と自分は愛し合って結婚し、子どもが三人生まれたのだ。あなたは母を支え、懸命に勉強し、働いてくれた。あなたを解放しなくてはならない。父親への憎しみから、家族のためだけに生きる人生から。だから母は夫の墓の近くに埋葬されることを望んだ。かつては優しかった、愛しい夫。あなたはその二人の元に生まれたのだと伝えるために。そして、母のために用意されていたもう一つの墓地は、これからあなたが大切な人と出会い、その人と過ごしていく中で、活用して欲しい。それがあなたの母の最期の願い」
一気にそう言った後、ヌアナは、ぴたりと沈黙した。
マイクは呆然とした顔で聞いていたが、ふっと息をついた後、弱々しく笑った。その目には、涙が溢れていた。
「・・ふふふ、すごいね。あなたは、超能力者かい?それとも大嘘つきかい?・・僕はもう六十二歳だよ。もうおじいさんと言ってもいいんだよ。これから、どうやって大切な人と出会うって言うんだい・・?」
ヌアナは何も言わない。彼女が言うべきことは、もう何もないのだと、マイクにも、側で見ているユーリイにも分かった。
マイクは頷いた。「・・そうか。そうだね。未来のことは、誰にも分かるわけないものだね・・。それは自分で考えて、自分で動けということだね。そうか、母さんは、だから僕と一緒の墓に眠るのは嫌だと言ったんだね。・・あれは、僕の、僕のためだったんだね・・」
マイクは、肘で顔を隠すようにしながら、嗚咽した。
2
初めて仕事をした日の夜、ヌアナは高熱を出して、一晩中、ひどくうなされた。ユーリイは、かつて母がユーリイにしてくれたように、氷枕を用意し、ヌアナの額に冷たいタオルを載せて、様子を見守った。母がいなくなった今、ユーリイの家族は、ヌアナだけだった。このままヌアナが、母のように亡くなってしまったらと考えると、恐ろしく、ユーリイは、不安で、怖くてたまらなかった。
ヌアナは苦しそうに息を吐きながら、時々、譫言のように何かを言っていた。じっと耳を澄ませていると、「母さん、泣かないで」「大丈夫、僕がいるよ・・」と誰かに話しかけるように呟いていた。前日にマイクから聞いた話が、ヌアナの頭の中を駆け巡っているように思えた。ヌアナは、時折、吠えるように口汚い言葉を吐いたかと思うと、次には、ひっそりと泣いた。その様子を、ユーリイは震えながら見守った。
翌朝、ユーリイが目を覚ますと、ヌアナがベッドの上で半身を起こしていた。
「おはよう、ユーリイ」にっこりと微笑む。昨夜の苦しんだ様子が嘘のような晴れやかな表情だった。
「・・ヌアナ、大丈夫?もう苦しくないの?」
ユーリイの問いに、ヌアナは不思議そうな顔をして言った。
「どうしたの、ユーリイ。夕べはよく眠れなかったの?悪い夢でも見たのかな?」
ユーリイは、何が何だか分からなくなった。ヌアナの額に手をつけてみると、熱はすっかり下がっていた。
「ねえ、ヌアナ、昨夜のことを憶えている?マイクから話を聞いた後、マイクにハンバーガーを買ってもらって、二人でアパートに帰ってそれを食べた後、ヌアナは急に具合が悪くなってしまったんだ。僕はとっても心配したんだよ」
「マイク?・・マイクって、誰?」ヌアナが首を傾げた。
「マイクは、昨日、ヌアナが話を聞いてあげた人だよ!ヌアナが話を聞いてくれたから、心が楽になったって、泣いていたじゃないか」
「そうなの?・・よく、憶えてないわ。バッグを持って、外に出かけたのは憶えているけど」
「・・そんな」ユーリイは混乱した。どうやら、話を聞くためにアパートを出たところで、ヌアナの記憶は途切れているようだった。マイクと会い、つつじ公園に行って、彼の話を聞いたことを、ヌアナは忘れてしまっていた。信じられない。昨日のことなのに。
確かに、昨日の出来事は、ユーリイにとっても、夢のように思えた。ヌアナは、まるで別の人格が乗り移ったかのように、堂々と振舞っていたし、普段の彼女が使わないような難しい言葉も使っていた。ひょっとして、マイクと出会ったことも、彼の話を聞いたことも、全てユーリイが見た夢だったのだろうか。
いや、違う。本当にあったことなのだ。ユーリイは顔を上げて言った。
「そうだ、ねえ、ヌアナ、トートバッグの中を見てみて。昨日、別れ際、マイクが何かをヌアナに渡していたのを見たよ。話を聞いてくれたお礼だよって言っていた。ヌアナはそれを、トートバッグの中に入れていた」
「わたしのバッグ?」
スーパーで貰ったビリジアン色のビニールのトートバッグが床に置いてあった。ヌアナはそれを大切に使っていて、出かける時は必ずそれを持って行く。ユーリイはトートバッグを?んでヌアナの元に持って行った。ヌアナはバッグの中に手を入れて探った。二つ折りに折られた紙があった。開いてみると小切手だった。千ドルと記載されていた。ヌアナとユーリイは、その小切手を眺めた。
「千ドルって書いてあるよ!ヌアナ、やっぱり昨日のことは、本当のことだよ。ヌアナは、お仕事をしたんだ!千ドルなんて、ママだって稼ぐのは大変だった筈だよ!ヌアナ、すごいや!」ユーリイの歓声に、ヌアナは、嬉しそうに笑った。
「・・そうなのかしら、わたし、お仕事をしたのかしら。よく憶えていないけど、ユーリイがそう言うのなら、きっとお仕事をしたのね。わたし、誰かの役に立ったのね。それなら嬉しい・・!」
「うん。マイクは、ヌアナに話を聞いてもらって、泣いていたよ。初めは暗い顔だったけど、別れる時は、優しい顔になっていて、何度も、ありがとうって言っていたよ」
「・・そう。それなら、とても嬉しい」
ヌアナは、にっこりと微笑んだ。
あの時、とても嬉しい、と言ったヌアナの無邪気な笑顔を、ユーリイは、今もはっきりと憶えている。
それまで、ずっと誰かの庇護下でしか生きることができなかったヌアナが、初めて自分で稼いだ金だった。しかも報酬は高額だった。ヌアナがその額を要求したわけではない。マイクが自発的に支払ってくれたのだ。ヌアナの仕事に、それだけの価値があったと認めてくれたのだ。
それからも、ヌアナは街に出て、客の話を聞いた。
ユーリイも付いていった。もちろん、誰にも声をかけられずに終わる日もあった。物乞いと間違えられて、十ドル紙幣を手渡されたこともあった。それでも、何度かに一度は、話を聞いて欲しいという客が現れ、ユーリイは、マイクの時と同じように、つつじ公園の白いベンチに案内して、客とヌアナを座らせた。
客の年齢もその話の内容も様々だった。ある女子中学生は、学校のクラスの雰囲気が悪く、学校に行きたくないのだとヌアナに訴えた。みんなグループを作って行動していて、気持ち悪いのよ、と。彼女は、学校ではずっと一人でいるとのことだった。
「だってさあ、トイレまで一緒に行くのよ!子どもみたい」
ヌアナは何も言わず、穏やかな表情で頷くだけだった。彼女は話すだけ話したら、すっきりしたのか、さっぱりとした表情になって、「聞いてくれて、ありがと」と言い、五ドル紙幣をくれた。
女の子が去った後、ユーリイは近くのマクドナルドに行って、バニラ味のシェイクを二つ買って来て、ヌアナに手渡した。
「今日はヌアナ、何も喋らなかったね」
「・・今日は、何も見えなかったから」ヌアナは小さく言って、シェイクのストローを口にくわえ、唇を尖らせて美味しそうに飲んだ。
アパートに戻ってからも、ヌアナの様子は普段と変わることなく、初めて話を聞いたマイクの時のように、具合が悪くなって記憶がなくなることはなかった。仕事の回数を増やしていくうちに、どうやら客の話の内容と、その時にヌアナに何かが見えるかで、帰宅後のヌアナの様子が変化することが分かってきた。
ユーリイは、一緒にヌアナの話を聞いて、客の様子が変わる様を度々、目の当たりにした。彼女の語る言葉に、客は驚愕し、身震いし、時にはらはらと涙を流した。
ヌアナが見ているものは、何なのだろうか。どうしてヌアナには、その人が語ることに寄り添い、何かを見ることができるのだろうか。後で聞いてみても、しばらく経つと、ヌアナはよく憶えていないと言う。ユーリイには訳が分からなかった。
ヌアナは、週に何度か街に出て、仕事をした。数をこなすうちに慣れてきたのだろうか、仕事の後に高熱を出してうなされることもなくなった。客から貰うお金は、少しずつ増えていった。
ある日、一緒に出かけようとユーリイが支度をしていると、「もうユーリイは来なくていい」と言われた。「どうして?」と訊くと、「子どもが聞く話ではないから」とヌアナは答えた。「ユーリイは、まだ子ども。子どもがまだ知らなくていいこともある。少しずつ知っていけばいい。お客さんも、ユーリイが側にいると、全てを上手に話せない。だから、これからは、ユーリイはアパートでお留守番をしていて」
経験を重ねることで、ヌアナはたくましく成長しているようだった。気づいた時、彼女は、ユーリイの母が死んだ時に、ぽろぽろと涙を零していただけのか弱い人ではなくなっていた。様々な人と触れ合い、会話を交わし、その内面に触れることで、彼女自身の表情や立ち居振る舞いも変化していった。ヌアナはユーリイを養い、仕事の帰りには、ユーリイのために本や鉛筆やノートを買って来てくれた。
そんなヌアナを頼りに思うと同時に、ユーリイは、いつも不安に感じていた。
彼女が仕事中に見ているものがどんなものなのか、ユーリイには分からない。初めてマイクの話を聞き、その晩、高熱を出してしまったように、実は目に見えないところで、ヌアナの心身の健康は損なわれているのではないだろうか。本当は、この仕事は、ヌアナにとって良いものではないのではないか。
だが、そんなユーリイの小さな不安を吹き飛ばしてしまう出来事が起こった。
ある日、仕事に出かけたヌアナが、男の子を連れて帰って来たのだ。
「ヌアナ、どうしたの?この子」
アパートの部屋の戸口に立つ男の子を見て、思わずユーリイは大声で言った。
五歳くらいか。黒い髪に黒い瞳。東洋人と思われる顔立ち。顔も、半ズボンから覗く脚もひどく汚れていた。男の子は、黙ってユーリイを睨むように見返した。
「帰るお家がないと言ったから、一緒に来る?と訊いたの。そしたら、うん、て言うから連れてきたの。さあ、入って。お腹が空いたね。夕ご飯にしよう」
ヌアナは、男の子に声をかけた。男の子は、相変わらず険しい表情のまま、部屋の中に、ゆっくりと歩を進めた。
ユーリイが、男の子に、ダイニングテーブルの前の椅子に座るように勧めると、男の子は無言で腰かけた。
「ヌアナ、ちょっと来て」ユーリイは、上着を脱いでハンガーにかけているヌアナを引っ張って、寝室まで連れて行った。「・・あの子、どうするの?犬や猫じゃないんだよ。簡単に連れて来たりしては駄目だよ。あの子の親が探しているよ」
ヌアナは、思慮深そうな顔をして言った。「あの子には親はいない。あの子はストリートで暮らしている。あの子を虐める大人がいる。そこはとても危険」
一気に言うヌアナを、ユーリイは息を詰めて見た。
「・・あの子がそう言ったの?」
「あの子は何も言わない。言わなくても、見れば分かる」
その頃には、ユーリイも、ヌアナに他人の過去や心の内の思いを読み取ることができる不思議な力が備わっていることは分かっていた。その人が言わなくても、実際に目に見えていなくても、ヌアナには色々なことが分かるのだ。
「あの子をずっとアパートに置くの?」ユーリイが訊くと、ヌアナは、しばらく考えるようにしてから言った。「まず、夕ご飯を食べよう。それからお風呂に入れよう。一晩、ゆっくりと眠って、それからあの子に訊く」
ユーリイは頷いた。確かに、あの男の子に今、必要なのは、その三点だと思った。
「分かった。じゃあ、何かあったかいものにしよう」
ダイニングに戻ると、男の子は椅子にじっと座ったままだった。ユーリイは、お湯を沸かし、マグカップにフリーズドドライの卵スープのキューブを入れ、お湯を注いで、スプーンでかきまぜ、男の子の前のテーブルに置いた。
「どうぞ。熱いから火傷をしないようにね」
マグカップからは、白い湯気が立ち上る。その向こうで、男の子の黒い目が、次第に大きく見開かれた。確認するようにユーリイを見る。
「どうぞ、ゆっくり食べて」
男の子は、ぎこちなく手を伸ばした。その手の甲には、痛々しい傷跡があった。スプーンで黄色いスープをすくう。舌を火傷したのか、男の子が、あっと顔をしかめた。
「ふーして。ふー」ヌアナが、唇を尖らせて、息を吹きかける真似をする。男の子は、ヌアナを見てから、スプーンですくったスープに、ふーっと息を吹きかけた。ゆっくりとすする。
「どう?おいしい?」ヌアナが訊ねると、「・・おいしい」と男の子の唇から声が漏れた。ユーリイとヌアナは顔を見合わせて笑った。ユーリイは立ち上がった。
「パンを持ってくるね」
夕食の後、男の子を風呂に入れた。バスタブに溜めたお湯は、たちまち黒く汚れ、男の子の身体から出ていた臭いは、何度目かのシャンプーの後、ようやく消えた。彼は唇を引き結んだまま、何も言わなかった。ヌアナと一緒に風呂に入れながら、男の子の裸を見て、ユーリイはヌアナが言っていたことを理解した。男の子の身体には、殴られた跡のような痣が無数にあった。彼が置かれている環境は、ユーリイが想像できないくらい過酷なものだったのだ。
男の子は、ひどく疲れていたのだろう。ユーリイのベッドで、まるで死人のように眠った。寝顔を見ると、唇や頬の丸みがまだあどけない。ユーリイより何歳か年下だと思うが、こんなに小さいのに、そんな過酷な状況に置かれている子どもがいることを知り、ユーリイは大きな衝撃を受けた。
翌朝、一緒にコーンフレークを食べながら、ヌアナは男の子に訊いた。
「ここに、一緒に暮らす?」
男の子は、ゆっくりと頷いた。
「名前を教えて」ヌアナが訊くと、男の子は何も答えなかった。言いたくないのか。何か事情があるのだろう。おそらくそれも知っているヌアナは、男の子の顔をじっと見つめてから、言った。「アオ。アオにしよう。あなたの名前は、アオね。わたしはヌアナ。この子はユーリイ。仲良く暮らそうね、アオ」
ヌアナ、アオとの三人暮らしは、二か月程続いた。
最初は口数の少なかったアオは、一緒に過ごすうちに、少しずつ笑顔を見せ始め、饒舌になり、時にはユーリイと口喧嘩をすることもあった。けれど、自分の両親や、このアパートに来る前のことは一切、口にしなかった。ユーリイもあえて訊かなかった。
ユーリイには、妹や弟がいなかったので、アオと一緒にいるのは新鮮なことだった。ヌアナが仕事で出かける時は、アオと二人で、アパートの部屋の中で過ごした。塗り絵、トランプ、工作をしたり、ミニカーをテーブル一杯に並べて走らせたりした。アオとはいくらでも遊べた。アオも楽しそうだった。誰かが部屋の中にいるって、少しうざったいけれど、いいものだと思った。ユーリイがそれをヌアナに伝えると、
「ユーリイが嬉しいと、わたしも嬉しい」とにっこりとした。
ヌアナは、その後、相次いで子どもを連れて来た。アオと同じくらいの歳の金髪の男の子、それからアオと同じ黒髪黒眼の女の子。ヌアナは金髪の男の子をレイと名づけ、女の子をリコと名づけた。
ヌアナによると、どちらの子もアオと同様に、安心して眠る場所がない子なのだと言う。ユーリイももう、いちいち驚かなかった。ヌアナがそう言うのなら、きっとその通りなのだろう。
レイとリコも、徐々に新しい生活に慣れていった。
3
ユーリイが家に着くと、ちょうどヘルパーのキャシーが、帰り支度をしているところだった。車のエンジンを切ってから、買い物袋を家の中に運ぶ。
キャシーがユーリイを見て、ほっとした顔をした。
「ユーリイ、帰って来てくれて良かったわ。ヌアナさん、ちょっと微熱が出ていて、食欲がないみたいなの。一人にしてしまうのは心配だったから」
「ありがとう、キャシー。これ、良かったら、持って行ってください」
余分に買っておいたリンゴが入った袋を手渡すと、キャシーは、「あら、悪いわね。ありがとう」と嬉しそうに受け取った。
「あのね」と内緒話をするように、ユーリイに言った。「ヌアナさんね、少し心配なのよ・・。眠っている時、よく譫言を言うの。まるで誰かに話しかけているみたいに。あなたの名前と、他の名前も。ちょっと待っていて、メモしたから」
キャシーは、ズボンのポケットに入れた白い紙を取り出して、ガサガサと開いた。
「・・ええとね。リコ、ア、オかな。あと、・・レイ、アイ、ナ。それからミーナ。ヌアナさんの兄妹とか親戚なの?全然、会ってないの?・・なんだかね、見ていてつらそうなのよね。時々、名前を呼びながら涙を流しているの・・。もし、できれば、ここに名前を書いた人達を呼んで、今のうちに会わせてあげた方がいいかもしれない。こういうタイミングって大事だから。いつかそのうちと思っていたら、間に合わなくなってしまうことも多いのよ」
ユーリイは黙って頷き、キャシーを玄関まで見送った。
寝室に入ると、ヌアナは眠っているようだった。
枕元のランプの灯りを調節して、薄暗くする。ベッド脇に置いた椅子に座り、手を伸ばして、ヌアナの額にそっと置いた。確かに熱い。呼吸もいくぶん荒い。瞑った目元には涙がたまっていた。ユーリイは指でそれを拭った。
キッチンに戻って、薬缶に水を入れ、湯を沸かす。コーヒーフィルターを折って、サーバーに載せた後、コーヒー粉を計量スプーンで入れた。薬缶から湯を注いで、コーヒーをおとす。その間に、買って来た物を冷蔵庫や棚の中にしまった。ヌアナがいつでも食べられるように、オレンジはカットし、タッパーに入れておく。片付け終えると、ちょうどコーヒーが淹れ終わったところだった。棚の中からベルギーチョコレートを取り出し、ソーサーの上に載せ、それを持って、ヌアナの寝室に向かった。
ヌアナが普段使っている肘掛け椅子に座る。カフェテーブルにコーヒーカップとソーサーを置き、淹れたてのコーヒーの最初の一口を味わう。
最近のユーリイが、最もリラックスする瞬間だ。仕事から戻り、ヌアナの様子を確認し、ようやく息をつく。ヌアナは目を瞑ったままだ。さっきよりも表情はやわらかくなっている。キャシーが帰る前に飲ませたという薬が効いてきたのだろう。症状を改善するためではなく、苦痛を和らげるための薬だ。
主治医のマクミラン先生からも、ヌアナの状態が良くないことは説明を受けていた。はっきりと余命宣告をされたわけではない。それでも、ユーリイの目にも、ここ数か月で、ヌアナが徐々に衰弱していっていることは明らかだった。
(時間は、あまりないのかもしれない)
ヌアナを見つめたまま、ユーリイはぼんやりと考えた。
急げ、と自分の内にいる誰かが告げている。正攻法ではみんなを探せない。
ヌアナは、徹底的に、意図的に、みんなとの関係を絶った。みんなと共に過ごした痕跡を消し去った。
世界には、庇護者を失った子どもは、ごまんといる。アメリカでは養子縁組も活発だ。みんながあの後、どうなったのか、今、どこにいるのか、ユーリイには知る由もない。
この地で暮らすようになった当初、時折、ヌアナに訊ねた。
「ねえ、ヌアナ。みんなは元気でやっているのかな?」
ヌアナは頷いた。
「もう大丈夫よ。みんな新しい家族が決まって、とても優しくしてもらっている」
「僕達のこと、もう憶えていないのかな」
一緒に過ごした約一年間のことを、彼らは本当に完全に忘れてしまったのだろうか。ほんの少しでも、記憶の片隅にでも、残ってはいないだろうか。
ヌアナは、ユーリイの頭にそっと手を置き、言った。
「ごめんね、ユーリイ」
それがヌアナの答えだった。
あの別れの日の前夜、ヌアナは、みんなの記憶を完全に消し去るつもりだと言った。そうユーリイに説明した。つらい過去を持つ彼らのために、それは、必要なことなのだと、泣いて反対するユーリイを説得した。安全な場所を奪われる恐怖と悲しみを、二度も味あわせてはいけないのだ、と。
そう言われた時、ユーリイには、それが最善かどうか分からなかった。彼らとの別れは、あまりに突然過ぎた。心が張り裂けそうだった。理解が追いつかない。何も言えず、泣きながら頭を振り続けるユーリイに、ヌアナは繰り返した。
「ごめんね、ユーリイ。ごめんね、ごめんね」
第四章に続きます。