第二章
第二章
ユーリイ
1
ほうれん草を水で洗い、泥がついた根元は切り落とす。リンゴ、バナナ、キウイフルーツは一センチ角に切る。それらと豆乳とはちみつをブレンダーに入れ、スイッチを押すと、あっという間にスムージーができ上がった。それを二つのグラスに注いだ。
五つの卵の殻を割り、砂糖、塩、胡椒、牛乳を加えて、箸でかきまぜる。熱したフライパンにバターを入れ、卵液を流しいれる。卵液がフライパンの中でぐつぐつと踊った。火を通した後、軽く混ぜ合わせる。フライパンの片側に寄せ、フライ返しを使って引っくり返す。長い三日月形になったオムレツを、フライ返しで半分に割り、用意してある皿に一つずつ載せる。レタスとスライスした胡瓜のサラダを添え、最後にオムレツの上にトマトケチャップをかける。イニシャルのNとYを書くようにかけるのが、昔からの二人の決まり事だ。
トースターに入れておいたパンが、バアンという激しい音と共に跳ね上がった。それをパン皿に載せた。全てをワゴンに載せ、サンルームに運ぶ。
サンルームは、既に朝日が差し込み始め、明るくて眩しい。窓際にしつらえたベッドの上で半身を起こして窓の向こうを見ている人物に話しかけた。
「朝ごはんの用意ができたよ。ヌアナ」
栗色の髪を三つ編みにして、両肩に垂らしたヌアナが、ゆっくりと振り返ってから、笑顔を向けた。
「ありがとう、ユーリイ」
ヌアナを抱き上げ、ベッド脇にある車椅子に乗せる。ユーリイの背が伸びて、腕力がついたのは言うまでもないが、こんなにも彼女の身体が小さくなっていることに驚く。小さくて、軽い。まるで子ども用の羽根布団でも抱えているような感覚だ。それに、気のせいだろうか、この数か月で、ヌアナの身体がどんどん軽くなっているような気がする。体重はそう変わっていない筈なのに。
ユーリイはしばらくの間、ヌアナの栗色の頭を上から見下ろした。
「ああ、美味しそうなオムレツね。とても上手に焼けているわ。なんてきれい。ピカピカの金色ねえ!」ヌアナが、目を細め、まるで子どもに向かって褒めるように言った。
「ビルが、産みたての卵を届けてくれたんだ。触ったら、まだ温かかったよ」
ビルは、近所に住む農家の主人だ。以前、彼の中学生の娘の体調が悪いのをヌアナが見てやり、今はすっかり元気になったのを感謝して、時々、産みたての卵や搾りたての牛乳を届けてくれる。
ヌアナは穏やかな笑みを浮かべた。
「そう・・。有難いことね。さあ、お祈りをして、いただきましょう。お料理は温かいうちが一番美味しいもの。今日も、みんなが健やかに過ごせますように・・」
そう言って、両手を胸の前で組んで、目を閉じた。ユーリイも席に着き、同じように目を閉じて両手を組む。今はいない、大切な家族を思う。
――どうか、今日も一日、みんなをお守り下さい。みんなも美味しい朝食が食べられますように。
ヌアナと二人きりで暮らすようになってから、一日も欠かしたことのない朝の祈りだ。
四人と別れた翌日の朝、見知らぬ町の小さな食堂で、ユーリイはヌアナと朝食を摂った。
改めて失ってしまったものの大きさを思い出し、皿に載ったトーストの上に涙を落とすユーリイに、ヌアナは言った。「ユーリイ、泣かないで・・」
「だって、・・みんながいない。アイナなんて、あんなにちっちゃかったのに・・」
「あの子達は大丈夫よ。つらくて怖い思い出も、もう忘れている。何にも憶えていない。これから、きっと、素敵な家族に出会えるわ」
ヌアナがユーリイを慰めるために言っているのは分かっていた。それでもつらかった。ヌアナが彼らにしたこと、何も知らないリコが、黙ってユーリイを見つめていたこと、アオが最後にユーリイに向かって叫んだ言葉が、今も耳の奥に残る。胸が引きちぎれそうになる。
「・・ヌアナは、つらくないの・・?みんな、全部忘れて、バラバラになっちゃうんだよ・・。こんなのって、ないよ・・」
拳を握って涙を拭っていると、はっきりとした声が聞こえてきた。
「つらくないわ」
ユーリイは、はっとしてヌアナを見た。ヌアナは、仕事をしている時のような、強い意志と威厳を湛えた表情で、ユーリイを見ていた。
「あの子達は、今もちゃんと生きている。理不尽に生命を奪われる可能性のある場所から離れられた。だからつらくない。悲しくないわ。わたしはむしろ、あなたの方が心配よ、ユーリイ。わたしと一緒にいることで、あなたの身に危険が及んだらと思うと」
「僕は大丈夫だよ。僕は自分の身を守れる。自分一人なら、何とかなる。そうだって分かっているでしょう、ヌアナ?」ユーリイの言葉に、ヌアナが微笑した。
「・・ええ、ユーリイ。分かっているわ。ありがとう、わたしの側にいてくれて」
パンに杏のジャムを塗り、ヌアナに手渡した。ヌアナは、くんくんとジャムの匂いを嗅いだ。「・・いい匂い。ユーリイ、杏のジャムを作ったの?」
「うん。研究室が入っている校舎の中庭で、杏がいっぱい成って、貰い手を探していたから、籠一杯、貰ってきたんだ」
「ジャム作りは時間がかかったでしょう?あなた、もうすぐ試験があるのではなかったかしら?」
自分のパンにもジャムを塗り、口に放り込み、ユーリイは頷いた。
「大丈夫。ジャム作りは、試験問題を作りながらできるものだから」
ヌアナはにっこりと微笑んだ。
「そう。あなたは何でもできるわね。一度教えたら、二度言う必要がない。お料理も家事も、何でもわたしよりも早いし、上手よ」
ヌアナの口元にジャムが残っていた。ユーリイは、それを白い紙ナプキンで拭ってやりながら言った。
「最初は何も知らなかった。全部ヌアナに教えてもらった。僕の先生は、ヌアナだよ」
「ふふふふ・・。そう、わたしがあなたの先生なのかしら?わたしは、中学校も出ていないのに。文字も上手に読めないし、単語もちゃんと綴れないのに?不思議ねえ」
ヌアナが嬉しそうに笑った。ユーリイは力強く頷いた。
「そう。僕は、この世の全てのことを、ヌアナから教わったんだよ。ヌアナがいてくれたから、暖かな部屋で共に休める幸せを知った。食べること、生きること、家族と生活すること、仕事をすること、お金を得ること、注意深くして、危険なものに遭遇したら逃げること、全てをヌアナから教わったんだよ」
ユーリイの言葉を、ヌアナはもう聞いていないようだった。彼女は、手にパンを持ったまま、日が差し込んでくる窓の方を見ていた。ユーリイは、小さく吐息して、スムージーの入ったグラスに手を伸ばし、ヌアナの前の食器を見つめた。
間違いない。ヌアナが摂取する食事の量が、先週より減ってきている。もともとそんなに食べる人ではなかった。いつも自分より、ユーリイにより多くの食事を分け与えてくれた。知らぬ間に胃が小さくなっているのかもしれない。それでもここ数年は、落ち着いた暮らしができるようになっていた。
彼女の仕事の理解者で、彼女によって命を救われた人物が、彼女とユーリイを庇護し、住まいを提供し、ユーリイに家庭教師をつけてくれた。学校に行かず、ずっとヌアナと共に過ごしていたユーリイは、家庭教師が驚く知力を見せた。
「彼こそは、ギフテッドだ!」
ユーリイは、短期間で新聞を読み、計算をし、難解な数式を解いた。一年で同年齢の学力に達し、瞬く間に追い越した。全米の有名大学からのオファーを断り、ユーリイが選んだのは、ヌアナと暮らすこの街から車で通える小さな大学の研究所だった。彼はそこで数学の研究をし、教授として教壇にも立っていた。
周囲はユーリイを天才ともてはやしたが、ユーリイにとって必要なのは、養母ヌアナと共に生きていくためのお金と時間だけだった。それ以外に欲しいものなど何もない。海外の名門大学からの招聘も、企業からの高額な報酬のオファーも、煩わしいだけだった。ヌアナと二人、静かに暮らすことができれば、それ以上は望まない。人と違う何かに秀で、他人の注目を浴びることの危険性を、ユーリイはヌアナとの生活を通じて、嫌というほど体験していた。
だから、ヌアナと二人で、こうして静かに朝食を摂れるだけで、十分なのだ。これ以上を望んだらいけない。
「今日は、授業があるの?」
紅茶に苺のジャムをスプーンで入れながら、ヌアナが訊いた。
「うん。十時から。今日はキャシーが来てくれるよ」
馴染みのヘルパーの名前を言うと、ヌアナの顔がぱっと明るくなった。
「キャシー!わたし、彼女が大好き!あの人の周りには、いつも向日葵が見えるもの!眩しくて、時々、泣きそうになる。温かい人。三つ編みも上手に編んでくれる」
そう言いながら、自分の両肩に垂れた三つ編みを摘まんだ。その様子は、まるで幼い子どものようだ。
「ヌアナがキャシーを気に入ってくれて良かった。僕も安心して大学に出かけられる」
「レナは、嫌い。大嫌い。だって、心の中に黒いものを持っているから。あの人が笑うと、心臓をつかまれたように胸が苦しくなる」
以前、急用で来られなくなったキャシーの代わりにやって来た別のヘルパーの名を口にした。ヌアナの顔が途端に、苦痛に歪んだようになる。息遣いが荒くなる。ユーリイは立ち上がって、ヌアナの側に寄り、その薄い背中を撫でた。
「うん。そうだったね。大丈夫、レナはもう、この家には二度と来ない。安心して」
「・・本当?レナはもう来ないのね?・・わたしの大事な子ども達を傷つけることはないのね?」涙目になって、必死に訊く。ユーリイは頷いた。
「うん。大丈夫だ。この家の子ども達は、みんな、元気でやっている。誰も子ども達を傷つけることはない。ヌアナは安心していい。なんの心配も要らないよ」
2
朝食後の食器を片付け、ヌアナの着替えと歯磨きを手伝う。ヘルパーのキャシーが来るのを待ち、留守番を頼んでから、ユーリイは車に乗って、大学へと向かった。
車で三十分の道程は、家からもそう遠くなく、ユーリイにとっては、程よい距離で、いい気分転換になっていた。
前方の交差点の信号が赤信号に変わった。ブレーキを踏んだ後、カーナビゲーションのディスプレイ横のボタンを押した。何か音楽を聴こう。
よく晴れた朝、開いた窓からは、爽やかな風が流れてきて頬をくすぐる。今の気分は、オーケストラか、それともピアノか、ヴァイオリンか。ヌアナがロックやポップスを好まないので、ユーリイも自然とクラシック音楽ばかりを聴くようになっていた。
「・・やっぱり、これかな」独り言ちて、ボタンを押して表示させたのは、ヴァイオリンの〈パッヘルベルのカノン〉だ。朝の始まりにはぴったりの曲だ。
しばらくして、ヴァイオリンの音色が聞こえてきた。最初は、ふわりと優しく。真っ白な雪の上に、そっと足を踏み出すように。ユーリイは、車の窓を閉めた。
――追いかけっこみたいね。
可愛らしいリコの声が蘇った。リコもこの曲が大好きだった。ヌアナが仕事に出て、アパートに帰って来るのをみんなで待っている間、ユーリイはよくレコードをかけた。今考えると、仕事柄、言葉を駆使し、言葉に疲弊して帰るヌアナには、言葉を使わずに精神を癒してくれる音楽が必要だったのだろう。ヌアナは、たくさんのクラシック音楽のレコードのコレクションを持っていた。
家にはテレビやパソコンはなかった。代わりにラジオと旧式のレコードプレーヤーがあった。ニュースや天気予報は、いつもラジオで聞いていた。
ユーリイが、リビングに置いてある、くるくる回る黒いレコード盤の上に、そっと針を落として、〈パッヘルベルのカノン〉をかけると、アオとレイが遊んでいるのを眺めていたリコが、ぱっとユーリイの隣にやって来た。そのリコを追いかけるように、赤毛のアイナもついてきた。アイナはオムツをつけているので、彼女のお尻はいつもふくらんでいる。
リコは、黒いレコード盤が回る様をじっと見つめている。白い頬に、長い黒髪がこぼれてかかるのを、ユーリイは手を伸ばして耳にかけてやった。リコはにこりと笑った。
「わたし、この曲大好き。この曲が流れると、もうすぐヌアナが帰るって知っているもの」
まだ四、五歳くらいだったのに、リコの物言いは、時折大人びて聞こえた。隣でそれを聞いたアイナが、真似するように言った。
「あたちも、この曲、大好き!」
車の中が、ヴァイオリンの音色に満たされる。幾重にも重なったメロディーが、幼いリコが言っていたように、先のメロディーを追いかける。追いついて、共に高めていく。どんどん強く、大きく、空に広がっていく。
あの日の朝。問いかけるように、黒い瞳でじっと自分を見つめたリコ、安らかな寝顔だったアイナとレイ。それから、ヌアナが部屋から去った後、わずかに目を開け、ユーリイに向かって、「ユーリイ、馬鹿野郎!」と叫んだアオ。
ユーリイは瞬きもせずに、彼らを見つめていた。
常に寄り添って暮らした〈家族〉だった。誰よりも大切で、何としても守りたかった。だからヌアナの提案に頷いた。あの時は、そうするしかなかった。
普段のんびりとしていて、大きな子どものようなヌアナだが、何かを決断すると、その行動は迷いなく、早かった。ユーリイが止め、説得する余裕は与えられなかった。ユーリイ自身、あの時はそれが最善の方法だと頭では分かっていた。だが、心では納得していなかった。だからヌアナの圧倒的な力に対し、抵抗しようと試みた。ヌアナの力のほんのわずかな隙を探そうとした。それが成功したかどうかは、分からない。
この〈パッヘルベルのカノン〉は、長い間、聴くことができなかった。〈家族〉が六人揃っていた幸せな時と、突然の別れの時を同時に思い出してしまう。リコの黒い瞳、アオの非難の声が蘇ってしまうからだ。あの時アオは、最後に気づいたのだろうか。ヌアナとユーリイが彼らにしようとしていたことに。だとしたら、彼はなんて強靭な精神力を持った子どもだったのだ。
前の車のテールランプが赤く灯るのに反応して、ユーリイもブレーキをゆっくり踏んだ。こんな所で渋滞だろうか。構わない。こんな風に晴れて、空が美しく見える朝は、いくらでも空を見ていられる。
雲一つない空を見ていると思うのだ。この空は続いている、と。
ヌアナは正しい。あの身を引き裂かれるほどの思いは、あの時、必要なものだった。今はただ、空だけを見ている。
この空が続いた先に、みんなは無事で、今も生きている。
蒼
1
富士急行線の終点である河口湖駅のロータリーは、人の波でごった返していた。
八月の夏休みシーズンである。富士五湖を周遊する観光客と、富士登山を目的とした登山客が、駅舎の中を出たり入ったりしている。外国人客も多い。富士山五合目行きのバス停の前に並ぶ登山客の中には、Tシャツにスニーカー、小さなリュックという軽装備の者もいる。富士登山をノリでやろうとする人間を見ると、蒼は、「おいおい、そんな恰好で大丈夫か、富士山の頂上はものすごく寒いんだぞ」と言ってやりたくなる。
その軽装備の外国人登山客の後ろから、ひょっこりと背の高い白人男性の姿が見えた。一度、ビデオ通話で話したレイモンドだ。蒼は、近づいて声をかけた。
「レイモンド、こっち」
きょろきょろと首を巡らしていたレイモンドが、手を上げている蒼を見て、ほっとしたような笑みを返した。
「アオ!」
「山梨県にようこそ。改めて、初めましてかな。渡辺蒼だ」
手を差し出すと、レイモンドは、がっしりとした大きな手で蒼の手を握った。
「レイモンド・ケイナン。レイでいいよ。わざわざ迎えに来てくれて、ありがとう」
背が高く、身体も大きい。それでも威圧感を感じないのは、優しい顔立ちのせいかもしれない。短くカールしたブロンドに青い目、白い肌にピンク色の頬。恥ずかしそうに蒼を見ている。
駐車場に案内し、停めておいたミニクーパーの後部座席のドアを開け、レイモンドの荷物を入れた。
「アリガトウ」日本語で言って、ぺこりと頭を下げるのを、「どういたしまして」と返した。隆也と一緒に大学のクラブで合気道を習っていると聞いている。そのせいか礼儀正しい。日本の武道、恐るべし。蒼は、助手席のドアを開けて言った。
「じゃあ、乗って。まずはうちの宿に案内するよ」
観光バスを避けてロータリーを回りながら、二か月前に、鎌倉からやって来た莉子をこの車に乗せ、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖を周遊した時のことを思い出す。
あの場所にも案内した。莉子のことが気にかかりながら、蒼はまだその後、自分から連絡を取っていない。莉子から礼を伝えるメッセージに軽く応えただけだ。本当は、今すぐにでもまた会いに行きたかった。会って、色々と訊いてみたい。だが、その行動は、あまりにも唐突な感じがして躊躇われた。落ち着いて、情報を整理して、その上で会いに行くべきだ。だが整理する情報など、自分はそんなに持っていない。
助手席に座るレイモンドは、左手に広がる河口湖を見つめていた。
「湖、すごく綺麗だね」と子どものように言う。
「オハイオにも湖があるだろう。五大湖のうちの一つ。たしか、エリー湖だっけ?」
「ああ、僕が住んでいるコロンバスからは遠いから、僕は、エリー湖は見たことがないんだ」
「そうなんだ。そうそう、タカヤは元気にしてる?」
「うん。今頃、アメリカ中を言語学の教授と現地調査で歩き回っているよ。本当は一緒に来たがっていたけど、正月に帰ったばかりだから、無理だって」
隆也の話になると、表情が柔らかくなった。まだ緊張しているのだろう。隆也からは、レイモンドは外国に行くこと自体、初めてなのだと聞いた。どちらかと言うと、控えめで繊細な性格のようだ。
家業が客商売のせいか、蒼は、小学生の頃から、人を観察する癖がついていた。目の前にいる人が楽しんでいるか、何か気になることがあるか、本当は何を望んでいるのか、人が見せる仕草や発する言葉に、無意識に注意を傾けてしまう。
レイモンドの緊張をほぐすように、蒼は言葉を続けた。
「日本武道館はどうだった?合気道の先生が、演武をしたんだろ?」
「ああ、すごかった。ファンタスティックだったよ!」レイモンドは頬を上気させて言った。「少しは合気道を知っていたつもりだったけど、全然だった。師匠達の演武は、なんというか、空気が違っていた。本当に、大の男が鮮やかに吹き飛ぶんだ!」
「・・へえ、日本武道館って聞くと、俺にはライブのイメージしかないけど。まあ、確かに、そもそも武道する場所だったな」
レイモンドが子どものように感動している様子が、逆に新鮮だった。
車は、湖岸沿いのカーブが続く道を走って行く。レイモンドの緊張も少し解けてきたように感じた。
「あっちでは、タカヤが世話になっているようで」蒼の言葉に、レイモンドは首を振った。「ううん。世話になっているのは、僕の方。タカヤのバイタリティには、いつも刺激を貰っているよ。友達も多いし、こうして君のことも紹介してくれたし」
「まあ、確かにあいつなら、どこででもやっていけるな」
蒼は、幼馴染の陽気な顔を思い浮かべた。
「・・あのさ、僕、アオに会うの、すごく楽しみにしていたんだ」レイモンドが恥ずかしそうに言った。「タカヤからアオのことを、色々と聞いていて・・」
「色々って?」
「君に英語を教わったこととか、君の小さい頃の記憶のこととか」
「あいつ、そんなことまで他人に話していたのか・・!まったく、お喋りな奴だな」
プライバシーも何もあったものじゃない。だが、そもそも隆也にそれを話したのは、蒼自身だし、遠いアメリカのオハイオ州での学生同士の会話の一つなのだと思えば、別にプライバシーもへったくれもないかもしれない。しかし、こうして巡り巡って、自分の過去のことを知る人間が、目の前に現れたことを考えると、やはり、口は禍の元なのかもしれない。本当に大切なことは、誰にも言うべきではないのだ。心の内で、能天気な顔をした隆也に毒づいていると、レイモンドが困ったように声をかけてきた。
「ごめん。勝手に君のプライベートなことを言って。でも、タカヤはお喋りな奴なんかじゃないから」
「いや、十分、お喋りだろう」断言すると、レイモンドは首を振った。
「違うんだ。これには理由があって。・・実は、僕も同じなんだ」
前方を走っていた大型トラックが、急ブレーキをかけた。蒼も慌ててブレーキを踏んだ。車体が前にがくんと傾いて揺れた。
「うわっ、ごめん。で、今、何て言った?」
レイモンドは真剣な顔で、蒼を見た。レイモンドは驚くべきことを口にした。
「僕も、小さい頃の記憶がないんだ」
「・・小さい頃って、幾つくらいの?」胸の中で、何かがカチッとはまりかけた。
「正確には、五歳まで。僕は養子なんだ。今の両親の家に来るまでの記憶が一切、ない。だからタカヤは、君のことを話してくれたんだと思う。僕と同じように記憶を失くしている君のことを・・」
後ろから、早く行けとクラクションを鳴らされた。蒼は、慌ててアクセルを踏んだ。
(・・何だよ、それ)
莉子に会って同類を見つけたと思ったのは、ついこの間なのだ。それからわずか二か月の間に、同じように幼少期の記憶を失くしている人間が目の前に現れるなんて。しかもアメリカ人だ。ここは日本。山梨の田舎だ。こんなの偶然過ぎるだろう。いったい、どういうことなんだ。
心臓が早鐘のように鳴るのを鎮めようと、蒼は前方を睨みつけた。
隆也の友達が、せっかくアメリカから来てくれたのだからと、両親は、レイモンドのために、富士山がよく見える部屋を用意してくれた。
「アオ、信じられないよ!こんな素敵な部屋に泊まれるなんて・・!」
東京では、ユースホステルの四人部屋で二泊したというレイモンドは、室内に案内されると、目に涙を浮かべて言った。
「ゆっくり過ごしていってね。日本の温泉は入ったことはある?早速、お風呂に入ってきたら?」母が勧めると、レイモンドは恥ずかしそうに俯いた。
「・・あの、日本の温泉では、水着は着ないんですよね?」
「水着どころか、タオルも入れては駄目よ」
「つまり、真っ裸で入ると・・」
「その通り」レイモンドの狼狽えた様子に、母は含み笑いをしながら、蒼の方を見た。「蒼、あなた一緒に入って教えてあげなさい」
「ええっ?」思わず声を上げる。レイモンドが、母と蒼を心配そうに見た。母は言った。「初めては、誰でも不安なものよ。せっかくアメリカから来てくれた隆也の大事なお友達なんだもの。隆也の友達は、あなたの友達よ。これが日本の温泉なんだ、最高に気持ちいいものなんだって、知って欲しいじゃない。今日は、あなたも大浴場に入るのを許します。日本の温泉文化を広めなさい。これは女将としての命令です」
敏腕女将には、誰も逆らえない。蒼は、抵抗するのを諦めてレイモンドに言った。
「ボスからの命令だ。俺も一緒に入るから、良かったらどう?郷に行っては郷に従えとも言うし、古代ローマ人も裸で風呂に入っているし。大浴場、すごく気持ちいいよ」
冗談交じりに言ってみる。レイモンドは、母と蒼を交互に見た後、青い目に決意を漲らせて、日本語で言った。「ハイ、ヨロシクオネガイシマス」
大浴場の脱衣所には誰もいなかった。着替えの入った籠が三個、棚に入っている。まだ早い時間帯なので、空いているようだ。
「脱いだ服はここに入れて。フェイスタオルは、中まで持って行っていいから。でも湯船には入れないで」言いながら、服を脱ぎ、下着を下ろしてから、タオルで腰を巻いた。ちらりと見えただろうが、まあ構わない。ここは温泉浴場なのだ。みんな裸だ。脱げば、みな一緒なのだ。レイモンドも頷いて、静かに服を脱ぎ始めた。
「入口はこっち。ああ、そこは滑りやすいから気をつけて」
入口の引き戸を横に動かすと、風呂場の蒸気が、むわっと溢れでてきた。入口近くのかけ湯場に置いてある柄杓で湯を入れて、足からパシャッとかける。
「まずは、このお湯を足からかけて。少しずつ慣らしていくのが大事なんだ。湯あたりしなくなる。そしたら、そこの洗い場で身体を洗ってから湯船に入るから」
「オーケイ」と、レイモンドは、真剣な顔で頷いた。
ボディシャンプーを泡立て、身体に滑らせる。ふと横を見ると、レイモンドが、隣で、一生懸命、髪を洗っていた。身体が大きいので、椅子が小さ過ぎるようだ。これからは、椅子も大小、取りそろえておくべきだな、と考えた。
「じゃあ、湯船に入ろうか。フェイスタオルは、その辺に置いておくか、あそこに入っている人みたいに、湯船に浸かっている時には冷たいタオルを頭に載せておくという手もあるよ。そうすれば、のぼせを防止できるし、湯船から出て移動する時、自分のものを見せびらかして歩かなくても済むから。その辺は、個人の自由だけど」
たっぷりと湯を張った湯船に足を入れて、少しずつ身体を沈める。隣で同じように身体を沈ませたレイモンドが、オオッと言うのが聞こえた。
「どう?」
「うーん、最高だ・・!」レイモンドの白い肌が、湯船の中でゆらゆらと揺れていた。長い手足を伸ばしている。もう顔が赤く火照っている。
しばらく黙って浸かった後、声をかけた。
「露天風呂もあるんだ。外に出ようか。今日は、富士山もよく見えるよ」
露天風呂には、他の客はいなかった。富士山が見える見晴らしの良い露天風呂の他、ぬるま湯に浸りながら座れる座湯や、湯が滝のように落ちてくる打たせ湯、ゴザの上に横になれるスペースも設けられている。最初は恥ずかしそうにしていたレイモンドも、だんだん裸でいる状態に慣れてきたようで、色んな湯に出たり入ったりしていた。大柄な彼が、タオルで股を隠しながら、出たり入ったりする姿が、小学生男子のようで、見ていて可笑しかった。
「アオ、なんだか、すごく解放された気分だ・・」
ゴザに寝そべり、隣で空を見ていたレイモンドが、うっとりと目を細めて言った。
「・・まあ、裸だし?」蒼が冗談で返すと、レイモンドは、くすりと笑った。
「温泉って、最高だね!こんなに素晴らしいものがあったなんて、知らなかったよ。アメリカじゃ、真っ裸になること自体、なかなかないことだから。それにお湯。こんな風にお湯を使えるなんて、本当に贅沢だよ。タカヤが、シェアハウスには、シャワーしか付いていないって嘆いていた理由がよく分かったよ」
「日本じゃ、一般の家庭でも、毎日、湯船に浸かるのが普通だから」
「そうなんだね。タカヤは、オハイオですごく我慢していたんだなって、今、分かった。僕、こんなに解放された気持ちになったのは、初めてかもしれない・・」
そう言いながら、うっとりとした様子で目を閉じて、うつ伏せになった。
「・・あのさ、脱衣所で脱いでいる時から気になっていたんだけど」
蒼が口を開くと、レイモンドが顔を少し上げた。
「あ、これ?そうだよね。見たらびっくりするよね?」
身体をねじって背中を見た。レイモンドの白くて広い背中には、まるで袈裟斬りされたような一直線の傷跡があった。古い傷のようだが、その範囲は大きく、痛々しい。
「鏡を見ないと、自分では見えないから、傷があること自体、普段はあんまり意識していないんだけど、こういう場所じゃ目立つよね。・・これはね、子どもの時の傷なんだ。僕が今の両親の元に来た時には、もうこの傷があったって聞いている。ただね、自分がどこでそんな怪我を負ったのかは憶えていないんだ。・・自分でも何となく分かるんだ。僕はたぶん、蓋をしたんだ。だって、子どもが背中を刃物で切られるなんて、普通じゃないだろう。そんな状況下にいた時のことを思い出したいなんて誰が思う?」
レイモンドの背中の傷は伝えている。幼かった彼がかつて味わった恐怖と苦痛を、そのままの形で。記憶がなくなっても、傷跡は決してなくならない。その傷跡から何かを読み解くことはできるかもしれないが、レイモンドはそれを望んではいないのだ。
(・・自分だったら、どう思うだろう?)
蒼は、レイモンドの背中を見ながら、自問した。
思いの外、長く風呂に浸かっていた。
部屋から持ってきた浴衣に着替えたレイモンドは、すっかりリラックスした表情に変わっていた。二人でお約束の牛乳を飲む。自動販売機から、蒼はコーヒー牛乳、レイモンドはフルーツ牛乳を選んだ。牛乳瓶の紙の蓋を指で摘まみながら、「初めてだらけだ!」と、レイモンドは子どものようにはしゃいだ。
大浴場を出て、渡り廊下を案内する。浴衣姿のレイモンドは、廊下の壁に飾られている写真を、まるで美術館に展示されている絵を見るように、ゆっくりと見ていった。
「富士山の写真が多いね」写真の下には、簡単な説明が日本語と英語で記してある。レイモンドは、写真を見ながら、その説明書きも丁寧に読んでいた。
蒼は少し離れた場所から、レイモンドの様子を見守っていた。
「あれ、この写真・・?」そう言ってレイモンドが立ち止まった。その前には、蒼が撮った例の写真があった。
「・・この写真、どこかで見たことがある気がする。どこでだったかな・・?」
首を捻っている。蒼は何も言わない。ただレイモンドの反応を見ていた。
レイモンドは、長い間、蒼の例の写真を見ていた。その後ろ姿を、濡れたブロンドの髪を蒼は見つめている。同じだ、と思った。以前、莉子が写真を見つめていたのと同じ。今、自分の中に、押さえられない気持ちの高ぶりが生まれているのを感じる。何だろう。これはいったい何だ?
その時だった。不意に、視界がぼやけた。
(・・何だ?眩暈か?)
乳白色の薄透明な幕を目の前に張ったような視界の向こうで、レイモンドがいる。まだ例の写真を見ている。その後ろ姿をレイモンドだと思うのは、髪がカールしたブロンドだからだ。そしてその隣に誰かがいた。
誰か?莉子?いや、あれは莉子ではない。背中まで黒髪を垂らした少女。背が小さい。あれは、子ども?
(何故、子どもが、ここにいる?・・何だ?何が起こった?)
世界がぐるりと回る。視界がキラキラと眩しい。その眩しさに耐えきれず、蒼は目を閉じた。
「・・オ、アオ・・?大丈夫・・?」
瞼を開けると、目の前にレイモンドの青い目があった。蒼は渡り廊下の床の上に横になっていた。すぐ近くにレイモンドが座っていて、その大きな手の平で、蒼の頭を支えていてくれていた。心配そうな顔でじっと蒼を見つめている。
「・・レイ」何とか声にすると、レイモンドが、ほっとしたように息をついた。蒼の頭の下にはまだレイモンドの手の平があって、その部分だけが温かかった。蒼は、ゆっくりと上半身を起こした。
「・・ごめん。もう、大丈夫だから。びっくりしただろ」
「うん。アオ、急に倒れたんだ」
「久しぶりに大浴場に入ったから、湯あたりしたのかもしれない。でも、こんなの初めてだ。俺、どうしてこうなったんだろう・・」
レイモンドの表情が柔らかくなった。
「僕が写真を見ていて振り向いたら、こっちを見ていた蒼の顔が真っ青だったんだ。そしたら急に倒れてきたから、慌てて身体を支えたよ」
「・・うん。・・それから、どうなった?」
「目が白目になって、手がぴくぴく震えていた。少し鼾のような音も聞こえた」
最悪だな、と蒼は思った。温泉旅館の息子が情けない。客に心配させてどうする。
「ほんとにごめん」
「謝ることないよ。湯あたりって、本当にあるんだね。ガイドブックにも書いてあった。僕もこれからは気をつけるよ」慰めるように言うレイモンドの優しい顔を見ていたら、意識を失う一瞬の間に目にした光景を思い出した。そうだ。確かに見たのだ。二人の子どもの頃の姿を。あれはおそらくレイモンドと莉子だ。
にわかには信じがたいが、確かに見えたのだ。カールした金髪の少年と長い黒髪の女の子の後ろ姿が。どうして二人は後ろ姿だったのだろう。二人は何を見ていたのか。
2
翌日、レイモンドのリクエストで、鳴沢村にある紅葉台に登ることになった。ガイドブックで調べておいたらしい。レイモンドはしきりに恐縮していたが、蒼はこうやって車を出して旅館の宿泊客に付き合い、周辺を周って出かけるのは好きだ。案外、旅館の仕事は、自分に向いているのかもしれないなとも思う。
母が二つ作ってくれた弁当をそれぞれリュックに入れ、まずは紅葉台の麓まで車を走らせた。
昨夜の風呂の一件があったせいか、実際に会って、まだ一日しか経っていないのに、互いに打ち解けた感じになる。レイモンドがリラックスしているのが感じられる。車中では、隆也のことや互いの大学の話で盛り上がった。
赤信号になり、車を停止させた。笑い合った後の沈黙が訪れた。
「・・何か、音楽でも聴く?と言っても、俺、最近、洋楽は聴いてないんだけど」
そう言いながら、オーディオボタンを指で押していくと、
「これは何?」とレイモンドが訊いてきた。彼が指差したのは、パッヘルベルのカノンだけを集めたオムニバスCDのデータだった。<Canon>とタイトルが付いている。
「ああ、これ?」と蒼は笑った。古い音源だ。父か母が聴いていたものを一つにまとめて、一枚のCDに取り込んだ。
「これは、俺が子どもの頃、夜中に目覚めて、夢遊病者みたいに動き回るのを困った両親が、たまたま持っていたパッヘルベルのカノンの曲を、俺が寝る前に聴かせてみたら、ぴたりと奇行がやんだという、魔法のCDから取ったものさ」
「・・へえ、そんなことがあったの」と、レイモンドが目を丸くした。
「うん。と言っても、俺も憶えていないんだけどね。まだサンフランシスコにいた頃だと思うから。聴いてみる?」
レイモンドが頷くので、再生ボタンを押す。
少しの間を置いた後、スピーカーから、ピアノの音が聞こえてきた。本来はヴァイオリンとチェンバロで奏でられるパッヘルベルのカノンだが、このCDでは、ヴァイオリンだけでなく、ピアノやコーラス、アコースティックギター、さらにボサノバ風にアレンジしたギターなどでも演奏されている。最初のカノンは、ジョージ・ウイストンのピアノだ。もう何百回となく聴いてきた、蒼の身体に沁みついている音だ。
目を細めて聴いていたレイモンドが、ぽつりと言った。「・・いいね。ここの美しい緑にぴったりだ。・・それに、なんだろう。なんだか懐かしい気持ちになる」
「俺も同じだ」
おそらく両親は、この曲を何度も繰り返し、蒼に聴かせたのだろう。今夜はぐっすり眠れるように、と願いを込めて、まるで睡眠薬を与えるように。だから、この曲を聴くと、不思議に落ち着いた気持ちになる。優しく、大丈夫だよ、と言われているような、何か大きなものに見守られているような空気に包まれる。
紅葉台の麓の駐車場に車を停めて、二人で展望台まで歩き始めた。
小学生の秋の遠足の時に来て以来だ。あの場所を探して、この周囲も回ったが、湖面からは遠いこの紅葉台には立ち寄っていなかった。
舗装されていない道を、レイモンドとゆっくりと登る。合気道で鍛えているせいか、彼の背中は大きく、足取りは安定している。息も切れていないようだ。蒼と目が合うと、にこりと笑った。「結構、キツイね」
「全然、そうは見えないけど。向こうで山に登ったりしてた?」
「いや。犬の散歩兼、ジョギングが趣味というか、日課なんだ。ピーグル犬を飼っている。僕の住んでいる街は、基本、平らな地形だから、どこまでも走って行ける。行き過ぎると戻るのが大変だけど」
「そうなんだ。その点、俺達、山梨県民は柔だよ。車の移動が主だから。ちょっと歩いただけでも、すぐに疲れちまう。高校までは、自転車通学だったから、まだ体力はあったけど、車の免許を取ると、もう駄目だな。文明は人間をスポイルする」
「ああ、それはオハイオでも一緒だ。それでも、こっちの人はスレンダーな人が多いよ。オハイオの人はビッグだよ。気をつけないと、知らない間にビッグになっちまう」
悪戯っぽく笑う。それを見ながら、蒼は不思議な気持ちになる。
いくら隆也の友達で、予めビデオ通話で話していたとしても、実際に会ったのは、たった一日前なのだ。何故か分からないが、一緒にいて楽だ。時折訪れる沈黙も、まったく気にならない。沈黙さえも、心地よい。莉子と一緒にいた時に似ていた。
(・・莉子)
蒼は、鎌倉にいる莉子のことを思い出した。六月の梅雨晴れの日曜日、たった数時間、一緒にドライブした宿泊客。彼女のことは一目見た時から、気になっていた。背中まで届く綺麗な黒髪。家族の中で、一人だけ、心をどこかに置き忘れてしまったような、所在なげな様子だった。だが、実際に言葉を交わしてみると、ただか弱いだけではなく、強い意志を内に秘めている人だと分かった。
莉子は、自分と同じように幼い頃の記憶を失くしていた。そして、今、隣で歩いているレイモンドにも同様に幼少時の記憶がない。
二人出会えば、偶然。三人揃えば、必然、と何かで読んだことがあった。確かに、話ができ過ぎている。まるで、誰かが、蒼に何かを促しているかのようだ。
何を?蒼が動くことを?どこへ?何に向かって?
しばらく登っていくと、木々の向こうに、開けた平地が見えてきた。駐車場になっていて、車が数台止まっている。白い建物が建っていた。あれが展望台のようだ。建物の中から観光客らしい人が出てきた。展望台に上がるのは、どうやら有料らしい。
「展望台に登ってみる?」
「もちろん」
料金を払って、建物の中にある階段を上がった。緑色のコンクリートで覆われた展望台は、太陽の光を吸収して、さらに暑かった。
「わお!」先に進んでいたレイモンドが、歓声を上げた。
「すごい!富士山がこんなに大きく見える!アオ、見て!麓の緑がまるで海のようだよ。ああ、なんて綺麗なんだ。信じられないよ!」
蒼はレイモンドの隣に立った。
「まあ、日本語では樹海っていうからね」
「ジュカイ?」
「そう。漢字で書くと、木々の海原ってね。ここから見ると平和だけど、あそこは物騒な場所でね。遊歩道を外れて森に入ると、迷って遭難する恐れがある。だからこそ、その中に自ら足を踏み入れようとする人間もいる」
蒼の言わんとすることを理解したようで、レイモンドの顔が、かすかに陰った。
「・・そうなんだ。あそこは、ただ美しいだけの場所じゃないんだね。ここから見ると、あんなにも美しい緑色をしているけれど、その下で、今も苦しんでいる人がいるかもしれないんだね・・」
風が吹き、レイモンドの金髪を揺らした。レイモンドは、眩しそうに蒼を見ていた。
「・・あのさ、アオ。正直に言うと、合気道の師匠と一緒に日本に行けるかもしれないって聞いた時、僕は一番に君のことを考えたんだ」
「俺?」自分の胸を指さす蒼に、レイモンドは頷いた。
「うん。君のことは、タカヤからいつも聞いていたから。僕と同じように記憶を失くしていて、でもそれを受け入れず、思い出す努力をしているって」
「あいつ、そんなことまで話していたのか」呆れて言うと、レイモンドはとりなすように言った。「タカヤは君のことがすごく好きなんだ。君のことを尊敬している。だから僕に話してくれたんだ。僕が、君とは正反対だから」
レイモンドは俯きながら、足元を蹴る仕草をした。
「僕は、何も知りたいなんて思わなかった。血が繋がっていなくても、僕の父と母はオハイオにいる。それだけで十分だと思っていた。コロンバスで生活して、大学に通って、愛犬と一緒にどこまでも平らな街を走って、川を眺めて家に帰る。これからもそんな感じで生きていければ十分だと思っていた。自分の本当の両親がどこの誰で、どうして自分がコロンバスで暮らすようになったのか、背中の傷はどこで負ったのか、何故、自分はコロンバスに来るまでの一切の記憶を失ったのか、そんなことは僕にとっては、無意味なものだ。ずっとそう思ってきた。でも、タカヤから君のことを聞いてから、何かが引っかかったような気持ちになったんだ。今まで夢なんて見なかったのに、春くらいから、頻繁に夢のようなものを見るようになった。でも、どんな夢なのか思い出せない。この辺が」と言って、レイモンドは、胸の真ん中をそっと手で押さえた。
「妙にざわざわして落ち着かないんだ。日本に行けると聞いた時、真っ先に君に会いに行きたいと思った。だから富士山を見たい、タカヤの故郷を見てみたいっていうのは、口実で、本当は、僕は、ただ君に会って、話を聞いてみたかったんだ」
自分を真剣な目で見つめるレイモンドの青い瞳と、さっき思い出していた莉子の濡れたような黒い瞳が蒼の脳裏で交差した。何かが胸に引っかかる。レイモンドも同じように言っていた。ああ、まただ。何かが?めそうなのに。また消えてしまう。駄目だ。逃がしては駄目なのだ。今、目の前にはレイモンドがいる。かつて莉子が自分の目の前にいたことにも、きっと意味があるのだ。あったのだ。それを逃がしてはならない。
「・・アオ?」レイモンドが心配そうに訊いてきた。蒼は手を軽く上げた。
「・・ごめん。大丈夫。そういうことなら話は早い。レイ、いつまで日本にいる予定だっけ?」
「帰りは、八月十日出発の予定だけど」
「じゃあ、急いだほうがいいな。ちょっと待っていて、莉子に連絡してみるから」
「リコ?」目を丸くするレイモンドに、蒼は頷いた。
「驚くべきことに、同じように十五年前までの記憶を失くしている人間を、俺はもう一人知っている。彼女は、鎌倉という、ここからおよそ六十マイルの街に住んでいる。東京からそう遠くない。彼女が望むなら、俺は彼女に君を会わせたい」
蒼の意図を図りかねている様子のレイモンドに、蒼は言った。
「タカヤの言った通りさ。俺はずっと記憶を取り戻そうと必死だった。自分の身に何が起こったのかを知りたかった。幼い頃の記憶を持たない俺にとって、自分の感覚は絶対だ。俺はいつでも自分の感覚を信じている。昨日、風呂に入った後、ぶっ倒れる時に、見えたんだ。小さな子どもが二人いた。一人はブロンドの男の子で、もう一人は黒髪の女の子だった。俺の勘が正しければ、たぶん、あれはレイとリコだ。俺達はもしかしたら、以前どこかで、会っているのかもしれない。実際に富士山の絵なのかどうかは分からないけど、何か山の絵が額に入れられて壁に飾ってあった部屋に、俺達はいたのかもしれない」
驚いた表情を浮かべるレイモンドの前で、蒼はスマートフォンを取り出して、莉子に電話をかけた。
アイーシャ
1
成田空港から特急電車を使って東京駅を経由し、およそ二時間。途中、無数のビルで埋め尽くされていた車窓の景色は、やがて戸建ての家々が並ぶ緑溢れる景色に変わった。
JR鎌倉駅に降り立ち、アイーシャはまず、重いスーツケースを引き摺りながら、小百合が予約してくれたホテルに向かった。
「駅から荷物を持ってホテルまで歩くのは大変だから、タクシーを使うのよ」と小百合から予め言われていたので、素直に従った。ニューヨークの黄色いタクシーとはまったく違う、真っ黒なタクシーは、ピカピカに光っていて、自分には不釣合いな気がして、乗る時、少しだけ勇気が要った。
ガイドブックとインターネットを検索して改めて知ったのだが、小百合の故郷である鎌倉という街は、八百年前、日本の政治の中枢となった場所だ。その影響で、今も歴史ある社寺が多く残っている。東京から程近く、近くには海水浴ができる遠浅の海岸もあるので、夏になると観光客と海水浴客とでごった返すそうだ。
アイーシャが乗ったタクシーが、駅のロータリーから出るだけでも大変だった。観光客と海水浴客と分かる恰好の人々がロータリーを行き交い、闊歩している。黒塗りのタクシーは、その度にお上品に停まった。これがニューヨークだったら、運転手は、高々とクラクションを鳴らし、「そこをどきやがれ、くそったれ」と悪態をつくだろう。
タクシーは、大通りに出てしばらく進む。石造りの白くて大きな鳥居(これもガイドブックで知った。神社の門だそう)の脇を通り過ぎると、眩しく光る海が見えてきた。海だ。太平洋だ。
「わあ、綺麗・・!」と思わず言葉を漏らした。
海岸通りは、ビーチサンダルを履いた水着姿の人で溢れていた。砂浜には、木造りの小屋が、所狭しと設置されている。遠くにキラキラと光って見える海面には、多くの人の頭が浮かんでいた。わずかに開いたタクシーの窓から、波の音と人の歓声が入り混じる。道行く人の姿は色々だ。家族連れ、カップル、友人同士という感じの六人の男女グループが、海パンと鮮やかな赤や水色のビキニ姿で楽しそうに声を上げて通り過ぎた。
(・・ああ、そうか、今は夏休みだものね)
高校を中退し、既に働いているアイーシャにとっては、長い夏休みを満喫する若者達は、別世界の住人だ。彼らは、楽しげで、うんざりするくらい明るく華やかな空気をまとっている。歩道を歩いていた親子連れを見ていたら、五歳くらいの女の子と目が合った。小百合と同じ黒い瞳の女の子だ。思わず笑んで軽く手を上げると、その女の子は嬉しそうに笑い返し、「バイバーイ」と言ってくれた。それに気づいた母親がアイーシャを見て微笑した。渋滞する中、タクシーがゆっくりと進む。太陽の光に反射して眩しい車の列を眺めながら、ここでこうしてタクシーに乗っているアイーシャも、外から見れば、夏休みを満喫している外国人観光客に見えているのかもしれないなと思った。
ホテルに到着し、チェックインを済ませた後、アイーシャは、用意されていた部屋に入った。海の眺めが素晴らしい部屋だった。少し窓が開いており、白いレースのカーテンが、外から入る風にかすかに揺れていた。
「素敵な部屋・・!」アイーシャは独り言ち、荷物を床に置いて、美しく整えられたベッドの上に飛び乗った。大きな白い枕に顔をうずめる。初めての海外旅行、初めての日本。小百合に与えられたミッションを遂行するために、ここ鎌倉までやって来た。マンハッタンのアパートを出てから、約二十時間かけて、ようやく安全な場所で、身体を横たえることができた。
(すごいね。アイーシャ!やればできるね!)
父の交通事故死以降、母に構ってもらえなかったので、アイーシャは、自分で自分を褒める癖がついていた。日本は安全な国だと聞いてはいたけれど、完全に安全な場所などある筈ない。誰がアイーシャの荷物やバッグを狙っているかは分からない。アパートを出てから、このホテルに着くまで、アイーシャの身体は緊張で固くなっていた。
枕に顔をうずめながら、今日は、こうやってベッドの上でゆっくりしようと思った。
翌日、気持ち良く目覚めて、大きな窓のカーテンを開けた。太陽の眩しい光と青い海が目の中に飛び込んできた。時折、波の白い飛沫が上がっている。ベッド脇に置いてある黒い置き時計を見ると、まだ六時前だった。波打ち際に海水浴客はいないが、海の中でサーファー達が、波を待って浮いているのが見えた。
「あたしも、やろう!」アイーシャは、昨日、ベッド脇に置いておいたスーツケースを開け、折りたためるヨガマットを取り出して、窓際の床に広げた。海を見ながら、ヨガポーズのシークエンスである太陽礼拝を行う。
レッスンでも、数えきれないくらい繰り返しているから、身体が自然に動く。まずは山のポーズから。鼻で息を深く吸い、頭を上に向け、腕を思いきり伸ばす。一連の十二のポーズを五回繰り返し、最後の山のポーズに戻った後、目を閉じたまま、深呼吸を繰り返し、心と身体の状態を確認した。大丈夫。落ち着いてきた。ここは、日本。今日は、小百合から与えられたミッションがある。まずはそれをやり遂げよう。
目を開けると、先程の眩しい光景が、再び目の中に優しく飛び込んできた。
ホテルで朝食を食べた後、アイーシャは、小百合から預かった荷物をトートバッグに入れて、ホテルを出た。荷物の中身は何なのかは知らされていない。小百合は、それを実家に届けて欲しいのだと言った。とても大切なものだから、航空便や船便では送りたくないのだと。
アイーシャは海岸沿いを歩き出した。
小百合の実家は、この海岸沿いを歩いて二十分程かかるようだ。江ノ電という黄緑色と黄色の可愛い電車に乗ることもできるが、せっかく海沿いのホテルに滞在しているのだから、海を横目に散歩がてらゆっくり歩いて行くことにした。
気持ちの良い風が吹き、アイーシャの髪を揺らす。歩いていると、時折、右横を通り過ぎる車の中から声をかけられた。
「ヘイ、レイディ!乗ってくかい?」
英語だ。車から、サングラスをかけた白人男性が笑顔を見せた。
「ノー、サンクス」アイーシャは手を上げた。男性も笑顔で手を上げ、車は陽気な音楽を鳴らしながら通り過ぎた。彼が乗っていたのは、日本車のホンダだ。彼は日本に住んでいるのだろうか。それでも、アイーシャを見て、日本人ではないと思ったのだろう。
(当然か。こんな髪の色だものね)
人にすれ違う度に改めて感じる。ここの多くの人の髪は黒か焦げ茶色で、瞳も黒い。みんな、小百合と同じだ。ここは、日本だから。小百合は日本人だから。アイーシャのような赤毛のカーリーヘアをしていれば、それだけで目立ってしまうのだ。ニューヨークであれば、そんな風に思うことはないのに。
(不思議なことね。あたしは、あたしでしかないのに・・)
メモに書いてある地図を見ながら、小百合の実家に辿り着いた。
家々が整然と並ぶ住宅街の中にある、白を基調とした瀟洒な一軒家だった。門の脇にある呼び鈴を押すと、六十歳ぐらいの婦人がドアから顔を出した。アイーシャを見て、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「アイーシャさん?小百合ちゃんから聞いているわ。いらっしゃい、どうぞ入って」
日本語だったので、自分と小百合の名前しか聞き取れなかったが、歓迎してくれているのは分かった。アイーシャは会釈をして、促されるままに門の中に足を踏み入れた。
「靴は脱いで下さいね」
足元を指差された。日本では、玄関で靴を脱ぐことは予習済みだ。アイーシャは頷いて、スニーカーを脱ぎ、婦人が用意してくれたグレーのスリッパに履き替えた。
「どうぞ、こちらに。あなた、アイーシャさんがいらっしゃいましたよ!」
通されたリビングには、革張りの大きなソファがあり、銀髪の男性がちょうど腰を浮かせたところだった。小百合の父親だろう。婦人とは年の差があるようだ。七十代半ばといったところか。意志の強さを感じさせる目元が、小百合とよく似ていた。
「ああ、よく来てくれたね、アイーシャ」
父親の口からは、流暢な英語が流れてきたので、アイーシャは少しほっとした。
「こんにちは、初めまして。アイーシャ・マーフィーと言います。サユリのヨガスタジオで働いています。今日は、サユリから預かったものをお届けに来ました」
うんうん、と父親は頷き、英語がよく分からないらしい婦人に訳して聞かせた。
アイーシャは、早速、トートバッグから、赤地に小さな黄色いリボンがあしらわれた紙袋を取り出し、テーブルの上に置いた。婦人が紙袋に目を遣ってから、夫の方を見た。父親は開けてご覧、という風に頷いた。婦人は紙袋にそっと手を伸ばした。
中から出てきたのは、幾つもの手紙や写真のようだった。その中に、小百合の五歳になる息子クリスの写真もたくさんあった。生まれたての赤ちゃんの時のもの、日本の男の子のように着物を着たものもあった。
「まあ、これは・・」婦人は、そう呟いて、一心に写真や手紙を眺めていた。クリスの赤ちゃんの頃のものだろう、水色のインクの足型が押された紙を手に、婦人は静かな涙を流した。父親が優しく彼女の肩をさすった。
「ごめんなさいね・・、人前でこんな・・。お茶を淹れましょうね、待っていてね」
婦人は立ち上がった。アイーシャは何と言っていいのか分からずに、父親を見た。父親は、クリスの写真を見つめてから、アイーシャに訊いた。
「サユリから、何か事情を聞いているかい?」
アイーシャは首を振った。「特に詳しくは・・。これを実家に届けて欲しいと言われました。大好きだったおじいちゃんの法事があるから、本当は家族で日本に行きたかったけれど、ミシガン州に住んでいるご主人のお父さんの心臓の手術と重なってしまい、行かれなくなってしまったと」
「そうかね・・」
婦人が、トレーに紅茶が入ったカップを載せて持って来てくれた。ソーサーには、小さなメレンゲクッキーが三つ載っていた。
「こうしてサユリが君を寄越したのだから、サユリは君をとても信頼しているのだろうね。日本まで来てくれた君には、わたし達とサユリのことを知る権利があるね」
アイーシャは首を振った。「ご事情を話していただく必要はありません。あたしは、ただの従業員ですから。サユリからも特に何も言われていませんし」
「アイーシャ」父親は穏やかに言った。「もし嫌でなければ、聞いて欲しいんだ。サユリは、そのために君をここへ寄越したのだと思うから。わたし達と娘サユリの話を」
そう言って父親は話し始めた。それはアイーシャが想像すらしていなかった日本での小百合の姿だった。
小百合は、鎌倉で生まれ育った。彼女の実母は、もう亡い。小百合が十八歳の時に病気で亡くなった。父親は医者で、個人病院の院長として働き、日々、忙しくしていた。
小百合は一人っ子だった。母親は病院の跡継ぎとなる小百合に期待をかけていた。幼稚園受験から小学受験に至るまで、小百合の生活は、本人が望もうと望むまいと、全て母親の支配下にあった。母親は、小百合に過剰に干渉し、あらゆることに口を出した。塾通いから、ピアノ、英会話、スイミング、習字、乗馬。空手。病院の跡継ぎに相応しい人間になるよう、仮になれなくても、立派な跡継ぎとなる伴侶を見つけられるよう、小百合は徹底的に母親の監視下に置かれた。
父親と母親の不仲も、娘への過干渉に拍車をかけた。母親は夫に対する自分の不満や鬱憤を、小百合を自分の思い通りに動かすことで晴らそうとした。
「わたしは、もともとは看護師として、この人の病院で働いていたの・・」
父親の隣に腰かけた小百合の継母は言った。それを父親が英語に訳した。
「時々、奥様に連れられて病院にやってきた小百合ちゃんの姿をよく憶えているわ。お人形さんのように可愛らしくて、とても礼儀正しかったのを憶えている」
だが、母親の自慢の娘は、思春期に入り、自我の目覚めと共に、心身の調子を崩していった。過食、不眠、倦怠感を訴え、次第に学校に行けなくなってしまった。
「情けないことに、そんなサユリの状況を知って、彼女に真っ先に手を差し延べたのは、わたしの父だったんだ。そう、彼女が大好きだと言っていたね・・」
父親が自嘲げに言った。
一線を退き、病院経営にも一切口を出さなかった祖父が、この家に乗り込んで来て、父親と母親の前に仁王立ちになり、一喝した。
「お前達は何をやっていたんだ!この先、小百合はわしが預かる。お前達は一切、関わるな。娘の危険な状態が分からないお前達に、この子を養育する資格はない。お前達自身を何とかしろ!」
祖父は小百合を自分の家に引き取った。その後、しばらくして、小百合は日本の高校を自主退学し、アメリカへと旅立った。
その後、母親が病気で亡くなった時も、父親が今の継母と再婚した時も、小百合は帰国しなかった。小百合がアメリカの大学を卒業後、ニューヨークで、ヨガインストラクターとして働いていることは、人づてに聞き知った。
祖父が亡くなった時、小百合は初めて日本に帰国した。日本を離れてから十三年が経っていた。小百合は三十歳になり、アメリカ人男性と結婚していた。
父親と継母は、久しぶりに会った小百合を見て驚いた。
「これがあの痩せて静かだった小百合ちゃんなの?とびっくりするくらい、健康的に見えたわ。ご主人と一緒で、とても幸せそうだった。わたし達の結婚のことも、おめでとうと言ってくれたの」と継母は言った。
それでも、小百合にとって、この鎌倉の家は、つらい記憶を呼び起こす場所なのだろう。それ以降、小百合がこの家に戻ることはなかったし、電話や手紙の遣り取りといったこともやんわりと拒絶されている。孫が生まれたことも、知ったのは人づてだった。
「アメリカで幸せに暮らしているのなら、それで良いと思っている。それで十分だとね。それ以上を望んだら、バチが当たってしまうからね。それでもね、望んでしまうんだね。自分の祖父の十三回忌があると知ったら、もしかしたらサユリは帰国してくれるかもしれない。その時には、孫のクリスも連れて来てくれるかもしれないとね・・」
父親は微笑してから、にっこりと笑っているクリスの写真に目を落とした。
ひっそりとした家の中は、壁時計が時を刻む、カチカチカチという針の音だけが耳に届く。遠く異国に暮らす小百合のことを思い、悔いや後ろめたさを胸の奥に秘めながら、この二人はこうやって、静かに日々を送っているのだろう。
アイーシャは、目の前の老夫婦に何と言ったらいいか、言葉を探した。何でも持っていると嫉妬すら感じていた小百合のつらい過去を知り、小百合の父親と継母のつらそうな表情を見ると、何を言ったらこの人達を慰めることができるのだろうかと考える。小百合の本当の心の内は分からない。自分は小百合ではないから。でも自分をここに寄越したのは彼女だから、アイーシャは自分が考えたことを話してもよいのかもしれない。アイーシャは顔を上げた。
「・・あの、サユリは、ここに、家族三人で来る予定でした。でも、ご主人のお父さんの手術が入ってしまって、予定をキャンセルするしかなかったんです」
「それは、分かっているよ。病気ならしょうがない。父君を優先すべきだ」父親は穏やかに言った。アイーシャはようやく理解した。この人達は小百合が鎌倉に帰って来る機会を、長い間ずっと待ち続けていたのだ。だがその機会は失われてしまった。
それでも思う。小百合も彼らも、ちゃんと生きている。自分の父親のように死んではいない。会おうと思えば、いつだって会える筈だ。
「もし良かったら、お二人がニューヨークにいらっしゃいませんか?」
アイーシャの言葉に、二人は驚いた顔をした。
「お話を伺って、サユリのつらい過去、お二人との関係については理解しました。正直言って、驚いています。ニューヨークでのサユリは、若くして成功したヨガインストラクターです。優しくて、従業員のあたしの健康もいつも気遣ってくれます。日本でそんな経験をしていたなんて、想像もしていませんでした。サユリが忙しくて帰国できないのなら、お二人がニューヨークにいらっしゃればいいのだと思います」
「でも、わたし達は・・」継母が涙ぐんで言葉を切った。アイーシャは言った。
「過去は修復できませんけど、未来は変えられます。あたしも似た経験をしています。あたしの場合は、母親と母の彼氏からの直接的な身体的暴力と言葉による暴力でしたけど。母は彼氏と別れて、今は医療施設で暮らしています。母から殴られたり、罵られたりしたことは忘れていませんが、やっぱりあたしは、母が好きです。母から離れて自活して初めて、心からそう思えるようになりました。サユリは、あたしをここに寄越す時、この荷物はとても大切なものだから、航空便などを使いたくない、と言っていました。サユリは、お二人のことを嫌ってなんかいません。それだけは断言できます。あとは、サユリとお二人がこれからどう動くかによります。待っているだけでは、時間がどんどん過ぎていくだけです。それは勿体なさすぎます」
九歳の誕生日に、突然、事故で逝ってしまった父ジョセフの笑顔が浮かんだ。そうなのだ。今という時間は永遠ではない。家族であっても、ずっと一緒にはいられない。いつか必ず別れの時はやって来る。だから、会いたいと思ったら、会いにいけばいい。伝えたいことがあったら、伝えるべきなのだ。相手がこの地球のどこかに存在しているうちに。
それから四十五分程、小百合のヨガスタジオの話やニューヨークのことなどを話した。打ち解けてきたのか、継母も、ぽつぽつと英単語を使って、積極的にアイーシャに話しかけてきた。二人共、穏やかな表情になっていた。
帰り際、父親が言った。
「アイーシャ、今日はありがとう。君に教えられたよ。わたし達は、過去ばかり見ていたんだとね。サユリはちゃんと過去から飛び出て、今という時間を生きていたんだね」
玄関でスニーカーを履いていると、視界の先に、壁に掛かった赤いキーホルダーが目に入った。あれが、何故、あんな所に?
「これ、あたしも持っています!」赤い天狗のキーホルダーをバッグから取り出して、二人に見せた。「サユリに貰ったんです。厄除けのお守りだから、いつでもあたしを守ってくれるからって言って」
アイーシャから受け取ったキーホルダーを見つめていた継母の目に、再び涙が浮かんだ。「これは、わたしが小百合ちゃんに送ったものなの・・。建長寺の半僧坊のお守りよ。どういう経緯だったのか憶えてないけど、わたし、主人と小百合ちゃんと、一度だけ、建長寺を訪れたことがあったの。その時の小百合ちゃんは、まだ小学生くらいで、何も喋らなかったけど・・。とても勝手だけれど、わたしにとっては、主人と小百合ちゃんと一緒に時を過ごした大切な思い出の場所だったの。・・そうなの、こうやって、小百合ちゃんから、あなたの手元に渡っていたのね・・」
2
JR鎌倉駅からバスに乗って十分程で、建長寺にたどり着いた。
大きな寺だ。人気のある観光スポットなのだろう。前を歩いていた何組かの人達が、その寺の門の中に吸い込まれるように入って行った。アイーシャもその後ろについて歩いた。
ニューヨークの夏も暑いが、ここ日本の鎌倉の夏もかなり暑い。何より湿気がすごい。涼を求めて由比ガ浜海岸に海水浴客が大挙して押し寄せるのにも納得がいく。ニューヨークヤンキースのキャップを被り、黒いTシャツ、ベージュのクロップドパンツという恰好だが、歩いているうちに、どんどん額から汗が流れ出た。
受付で拝観料を払って中に入ると、すぐ目の前に巨大な建築物が建っているのが見えた。あれは山門。世俗の世界と仏道の世界の境にある門だそうだ。
「うわあ、大きい・・!」思わず声が出て、見上げてしまう。山門は、その下が通り抜けられるようになっている。日陰になっていて、少しほっとする。背負っていたリュックから、ミネラルウォーターが入ったペットボトルを取り出し、ごくごくと飲んで、一息ついた。
広大な寺院だ。目の前に立つ仏殿も、その脇に並ぶ木々も大きい。ガイドブックによると、この建長寺は、1253年の創建で、日本で最初の禅宗寺院だそうだ。建物自体は、江戸時代に再建されたというが、山門と仏殿の間に並ぶビャクシンは、創建当時に植えられたと伝えられ、樹齢は約七百六十年に及ぶという。
昨日、小百合の実家を辞する時、小百合の継母がアイーシャに言った。
「アイーシャさんも、ヨガの勉強をしているんでしょう。それなら、建長寺に行くといいわ。毎週金曜と土曜の午後に坐禅会が開かれているの。予約は不要だし、誰でも参加できるから、きっと良い経験になると思うわ」
受付で確認すると、三時半から坐禅会が行われるということだった。まだ一時間半程時間があった。受付で貰ったパンフレットの地図を見ると、建長寺の境内はずいぶんと広いらしい。せっかく来たのだ、例の天狗のお守りが売っているという、一番奥の半僧坊まで歩いて行ってみることにした。
暑いせいか、多くの観光客は、仏殿や、その後ろの法堂の日陰で休んでいた。アイーシャは一人、庭園脇の細い道を進んだ。確かに暑いが、周囲に緑が多くあるせいか、不快ではない。木漏れ日が眩しく、アイーシャは、サングラスを取ろうとリュックを下ろした。お守りの天狗の鈴が、リュックのポケットの中でかすかにカラカラと鳴った。
その時、後ろから、一人の少女が歩いて来るのが見えた。日本人か。小百合と同じ真っすぐで長い黒髪に麦わら帽子を被っていた。白い涼しげなブラウスに紺のスキニージーンズをはき、赤いトートバッグを肩にかけている。歳は自分と同じくらいだろうか。
立ち止まってリュックの中を探っているアイーシャを見て、少女は軽く会釈をするように、頭を傾けてから通り過ぎた。とても綺麗な子だ。何よりも、背中まで届くほどの真っすぐな黒髪が、サラサラと絹糸のようで美しい。少女は勝手知ったる道を散歩しているように、どんどん奥に進んで行った。彼女も半僧坊まで行くつもりなのかもしれない。アイーシャはリュックを背負い直し、少女の後について歩き出した。
しばらく歩いて行くと、青銅色の鳥居があった。鳥居は神社の入口を示すとガイドブックに書いてあった。お寺の敷地内なのに、ここからは神社の領域なのだろうか。仏教だとか神教だとか、日本の宗教のことはどうも分からない。先程までの巨大な建物が一直線に並ぶ整然とした寺院の重厚な雰囲気とは異なる。山に向かって歩いている。何よりもとても静かだ。緑が眩しい。自然で溢れている。何だろう、ここは。
目の前の少女は、次の鳥居をくぐり、石段をゆっくりと登っていく。アイーシャも同じように石段を登った。なかなかきつい。息が切れてくる。
石段を登り切った先に開けた広場があった。何とも異様な景観が現れた。
何体もの石像が、まるでアイーシャを見張っているように見下ろしていた。仏像とは違う。何だろう、あれは。人間と鳥が混ざったような姿。嘴があって、背中に羽根がある。これは、どこかで見た。
「あ!」とアイーシャは声を上げて、リュックから赤い天狗のキーホルダーを取り出した。そういうことか。このお守りは、この場所から来たのだった。この石像は、天狗を表しているのだ。
頭上に木造の建物の姿が見えてきた。どうやら、あそこがゴールの半僧坊という場所らしい。階段を上がりきり、ハアハアと息を切らしながら、振り返る。ずいぶんと高くまで来たようだ。見晴らしが良い。社殿の前でキャップを脱ぎ、手を合わせた。
社務所の前に休憩所があって、何人かが木のベンチに座って休み、眼下に広がる景色をスマートフォンで撮影して楽しんでいた。アイーシャの姿を見ると、素知らぬ顔をして目を背ける。まるで、自分は何も見ていませんと言っているように。これも、日本に来て分かったことだ。どうもアイーシャは、日本人にとって異質な存在らしい。ニューヨークにいたら分からないことが、場所を変えれば分かることもある。たぶん、この赤毛のカーリーヘアのせいだろう。これだけダークヘア率が多いなら、目立ってしまうのは無理もない。アイーシャは気にせず、彼らの脇を通り抜けた。
その向こうで、例の少女が立っていた。アイーシャの方を見ている。目が合った。何故か、胸がどきりとした。
「ハイ」思わず英語で言ってしまうと、少女は笑顔を見せた。
「ハイ。ここまで来ると、さすがに暑いね」流暢な英語だった。
「あなた、日本の人だよね?英語がすごく自然。どこの出身なの?」
思わず訊いてしまう。すると少女は、悪戯っぽく笑った。
「ここが地元なの。父がアメリカ人よ。あなたは?どこから来たの?」
「あたしは、ニューヨークのマンハッタン。そうか、ダディがアメリカ人なのね、どうりで英語が流暢なわけだ。あ、あたしは、アイーシャって言うの」
手を差し出すと、少女はにっこり笑った。
「リコよ。アイーシャは、一人で来たの?日本へは観光?それとも留学とか?」
「一人よ。仕事というか、お使いで来たの。職場のボスが日本人で、彼女に頼まれてこの鎌倉に来たの。もともとは彼女が来る予定だったんだけど、急用で行かれなくなって、それであたしが代わりに。飛行機代とホテル代は出すからって言われて」
「それはまた、すごいお使いね!」リコは驚いたように目を大きくした。漆黒の髪と同じ色の瞳は、色白の彼女の肌によく映える。
「うん。その用事は昨日、無事に終わったの。その時に、今日、ここで坐禅会があるよって教えてもらって、体験しに来たの。あたし、ニューヨークで、ヨガインストラクターのアシスタントをしているから」
「へえ、ヨガインストラクター、すごおい」リコは言った。
「それにしても偶然だね。わたしもこれから坐禅をするつもりなの」
「一人で?」
「うん。一人で」とリコはこっくりと頷く。
不思議な少女だ。大抵の女の子は、誰か友達と連れ立って歩いている。お洒落をして、楽しそうにお喋りをしながら。けれど、リコは一人でいることが苦ではないらしい。それとも地元の人だから、そんなことに頓着していないのだろうか。
「ねえ、アイーシャ、もしまだ元気があればの話だけど、もっと上まで登ってみない?あと十分程階段を上がると展望台があるの。そこの眺めは、ぜひ見て欲しいな」
リコが奥に続く道を指差して言った。目の前の景色だけでも十分に素晴らしいし、ここまで登って疲れてもいたが、地元の人がそう言うのだ、ここは見ておくべきだろう。
「オーケイ」そう言って、アイーシャは、ヤンキースのキャップを被りなおした。
確かに石階段が設置されていたが、その傾斜は、ほとんど登山と言ってよかった。
右側には木々が斜面に生い茂っているが、左側には視界を遮るものがなく、自分がどんどん山の上に登っているのが実感できる。リコが履いている黒いニューバランスのスニーカーの踵を眺めながら、アイーシャは、懸命に歩を進めた。
「もうすぐ展望台なんだけど、実はこの位置が一番のお薦めなの」
リコが足を止めて言った。アイーシャは視線を上げ、背筋を伸ばして周囲を見回した。
さっき見てきた寺院の建物の水色の屋根が、はるか遠く下に並んで見えた。それを囲う圧倒的な緑の木々、どこまでも続く山々、遠くに見える鎌倉の街並み、その向こうに海が光って見え、右手には美しい三角形の山が見えた。富士山だった。
「信じられない・・!なんて美しいの。こんなの、あたし初めて見るわ・・!」
うまく表現できない。ただ、自分が確かに地球の大地の上に立っていると実感できた。あまりに高くて、転げ落ちそうで怖いけれど、自分の足でここまで登って来たという自信が、アイーシャをその場にしっかりと踏み留まらせていた。
世界は広く、複雑な形と色をしている。そして自然はこんなにも美しい。不意にニューヨークの施設で暮らしている母を思い出し、アイーシャの目に涙が浮かんだ。母にこの景色を見せてあげたいと思った。でも、写真や動画を撮って見せても、伝えられない。この場にしっかりと足を踏みしめて立たないと、この感動は味わえない。
その場所から数十歩上がったところに、リコが言っていた展望台があった。展望台と言っても、双眼鏡が設置されているわけでもなく、直径数メートル程の円形の平地があるだけだ。二人並んで立つ。リコがアイーシャを見て、にこりと微笑んだ。
「どう?登る価値はあった?」
「リコ、ありがとう、教えてくれて。来られて良かった。・・すごく感動したわ」
月並みな表現しかできない自分が歯がゆいが、ここではもう言葉は必要ない。ただ、こうやって風を浴び、感じるだけで十分だ。それしかできない。
リコは黙って、富士山がある方角を眺めていた。その横顔は静かだが、彼女が心の中で何かを真剣に考えているのが分かった。アイーシャは黙ってその横顔を見ていた。リコを見つめていると、以前、どこかで似たような状況があったような気がしてきた。
その時だった。誰かが目の前にいた。
(・・え、誰?)
アイーシャは息を呑んだ。リコの黒髪、長い睫毛、黒い瞳、自分にはないその強い色彩を身体に持った少女を見つめている子どもがいた。子どもというより幼児だ。二、三歳くらいだ。小さな頭に赤い毛。くるくると、どこまでもカールした髪。あれは、誰?あれは、あたし?でも、どうしてあんなに小さいの?
目をぎゅっと閉じてから再び瞼を開くと、子どもの姿は消えていた。一瞬の幻影に、アイーシャは目をこすった。さっきのは、何だったんだろう。
そんなアイーシャをリコが見ていた。
「・・さっき、涙が出ていたけど、大丈夫?」
見られていたようだ。
「・・ああ、うん。感動しちゃって・・。母親に見せてあげたいなあって思ったの」
「お母さん?」
「うん。同じニューヨーク市にいるんだけど、事情があって、今は別々に暮らしているの。一緒にいる時は、暴力暴言の嵐で最悪だったけど、離れて暮らすと、そういう最悪の記憶が和らいでいくのよね」
気遣うようなリコの表情に、アイーシャは肩をすくめて言った。
「あたし、虐待されていたの。母の彼氏と母に。もともとそういう傾向のある人だったのかもしれないけど、父が交通事故で亡くなってから、母は依存心が異常に強くなって、恋人ができてからは、恋人に依存した。だから母の彼氏がお酒を飲んで、あたしに暴力を振るえば、母も一緒にお酒を飲んで、あたしに手をあげた。あたしは家を出て、母は彼氏と別れて入院したの。治療が必要だからって。今は医療施設で暮らしている。あたしが日本に行くって聞いた時は、びっくりした顔をしてたな・・」
話していると、また涙がふわりと溢れてきた。
「え、何だろう、やだな。あたし、こんな所で・・」アイーシャは、しゃがみこんで、両目から流れ出てくる涙を拭った。どうしてこんなに涙が出てくるのだろう。しかも、ニューヨークから遠く離れた日本の山の上で、出会ったばかりの日本人の女の子の前で。土の上にぽたぽたと涙が落ちて、地面に黒い染みを作った。涙で滲んだ視界に自分の白いスニーカーが見えた。その側には、リコの黒いスニーカーがあった。
不意に、頭がふわっと温かくなった。リコが、アイーシャの隣に跪いて、アイーシャの頭をゆっくりと撫でていた。まるで子どもをあやすように、慰めるように。
その時、どうしてその言葉が出たのか、アイーシャには分からない。リコの顔を目の前にして、その言葉は自然に口をついて出てきた。「・・ヌアナ?」
「あなた、ヌアナなの・・?」
リコは驚いたように目を見開いた。アイーシャの顔を覗き込むように見つめた後、小さく頭を振って言った。
「ううん。わたしは、ヌアナではないよ」
莉子
今日は、午前中に横浜にある心療内科の診察を受けに行った。昼食後、家には戻らずに、坐禅会に参加するために建長寺までやってきた。坐禅は、心療内科の先生の勧めで始めた。最近は、毎週のように通っている。
どこかで見たことがあるように思ったのは、半僧坊までの道を歩いている時だった。
ほっそりとした後ろ姿、ほどよく筋肉がついた綺麗な脚、背中をふわりと覆うカールした赤い髪。知人ではない。莉子の知り合いで、こんなにも燃えるような鮮やかな色の髪の子はいない。それなのに、どこかで見たことがあるように思えた。どこでだっただろう?
半僧坊の展望台で言葉を交わした。彼女は英語を話した。名前はアイーシャ。彼女にぴったりの名前だと思った。彼女もまた坐禅を体験するために、建長寺に来ていた。
勝上嶽まで登ろうと誘ったのは何故だろう。もともと誰かと連れ立って歩くのは、あまり好きではない。半僧坊まで歩くのも、勝上嶽まで登るのも一人がいい。静かなのがいい。誰かと、楽しい振りをして、お喋りしながら登る気にはなれない。まだそういう気分ではない。だから坐禅会が行われる金・土曜日のうち、観光客で混む土曜日ではなく、平日の金曜日をわざわざ選んで来たのだ。それなのに、自分からアイーシャを勝上嶽の展望台まで誘ってしまった。あそこは、とっておきの場所で、誰にも知られたくないと思っていたのに。何故だろう。
坐禅会が始まる時間になり、かつては、住職の居室だったという方丈に集まった参加者達を前に、建長寺の僧侶が坐禅についての説明を始めた。今日の参加者は三十名程だった。
日本語は分からないと話していたが、座布団を折り、莉子の隣に座るアイーシャは、真剣な表情で僧侶を見つめている。ヨガインストラクターのアシスタントをしていると言っていたから、坐禅についての予備知識はあるのだろう。莉子は、前を向き、坐禅に集中することにした。
坐禅は、二か月前、富士五湖旅行から戻ってから始めた。家族と訪れた河口湖畔の旅館で、莉子の心を動かした写真を撮った蒼と出会い、ずっと抱えてきた苦しみを聞いてもらった。記憶のことを、初めて他人に打ち明けた。あの日から、靄のかかったような状態から、少しだけ脱したような感覚があった。
蒼とはライン交換をし、鎌倉に戻ってから、ドライブのお礼を伝えた。蒼は「どういたしまして」と返してくれた。だが、あれから蒼からの連絡はない。最初は、すぐにでも彼から何か連絡がくるかもしれないと、勝手に期待していたので、落胆した。同時に、莉子は、知らぬ間に蒼という存在に寄りかかろうとしていた自分に気づいた。
それでは駄目なのだ。他人を当てにしてはいけない。自分のことに集中すべきだ。睡眠と栄養をしっかり取り、身体を動かし、体調を整え、まずは前を向こう。今日、一日を大切に過ごそう。できるだけ大学に通おう。両親やダニエルと過ごす時間をもっと大切にしよう。好むと好まざるとに関わらず、いずれ別れの時は来るのだ。そうだ。ずっと一緒にはいられない。家族と過ごす時間にいつか終わりが来ることを、莉子は知っていた。
毎週のように建長寺に通い、勝上嶽に登ると、歩くだけでグラグラとしていた身体が、次第に鍛えられていった。勝上嶽の展望台からは、天気が良い時には、小さいが、富士山の姿を見ることができた。あの裏側の麓に、蒼がいる。ライン交換をしたのだから、きっとそのうち、また会えるだろう。自分から連絡を取ってもいいのだ。その時に、もっと元気な自分でありたいと思った。だから、今は、自分の心身を鍛えていこう。
坐禅が始まった。方丈の背後には、池の周りに緑を配した禅庭園が広がっている。開け放たれた障子の向こうから、風が流れるように吹いてきた。莉子は目を半眼にし、ひたすら鼻呼吸を繰り返した。本当はただ呼吸に集中すべきなのだが、莉子は坐禅の最中、いつも様々なことを考えてしまう。これを煩悩と言うのだろうか。ゆっくりと息を吸い、吐き出す。ただ繰り返す。警策を持った僧侶がゆっくりと目の前を通り過ぎた。
それは、突然だった。何の前触れもなかった。
半眼で畳の縁を眺めていると、脳裏に何かが見えてきた。
誰かがしゃがみ込んでいた。どうしたのだろう。泣いている?ふわふわとした赤い髪。あれはアイーシャ?さっき、勝上嶽で、ニューヨークにいるお母さんを思って泣いていた。白く細いうなじが見えた。あの時、莉子は手を伸ばし、思わず頭を撫でてしまった。まるで子どもにするみたいに。
呼吸が乱れた。再び、鼻から大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。吸って、吐く。吸って、吐いて。
身体の奥から、何かが聞こえてきた。耳を澄ませる。かすかな音。これは、鈴の音?
チリリリン、と鈴の音のような澄んだ音が聞こえている。誰かが何かを言っている。莉子は眉をしかめ、考える。・・これは何?坐禅をしていて、こんな風に感じることは今までなかったのに。何かを考えることはあっても、いつももっと安らかで落ち着いた気持ちになれるのに、何故、今日はこんなにも雑念に囚われるのか。
ゆっくり息を吸って。吐いて。吸って、吐いて。
誰かが、莉子に語りかけている。優しく励ますように。
――大丈夫。何も怖くない。何の心配も要らない。自分の身体の中にある温かいものを、ただ感じて。ただ感じるだけでいいの。そうすれば、大丈夫。もう何も怖くない。
莉子は深呼吸を繰り返しながら、誰かが莉子に言っていた、自分の中にある温かいものを探した。温かいものって何?それは何のこと?それを自分に教えてくれたのは誰?
鈴の音が響く。チリリリン、チリリリン。小さな音。いつまでも続く音。それを鳴らしているのは、誰?こうして目を閉じている自分を見ているのは、誰?
莉子は、知っている。その鈴を鳴らしていた人のことを。何故なら、その人が自分を守ってくれたからだ。自分を守り、抱き上げ、パンを分けてくれた。一緒にお風呂に入り、髪を洗い、櫛ですいてくれた。歌を歌い、一緒に踊った。みんなで。
耳の奥で、誰かの声が聞こえてきた。けれど、聞き取れない。
(何?何を言っているの?)
呼吸を忘れると、何もかもが消えてしまうような感覚に囚われた。駄目、これは大切なものだから、失ってはいけない。
莉子は、深呼吸を続けた。吸って。吐いて。吸って。吐いて。
――ユーリイ・・!
その時、耳の奥で聞こえたのは、誰かの叫び声だった。子どもの声だ。切迫したような、懇願するような声音に、莉子ははっとして、半眼にしていた瞼を開けた。
周囲の人々は坐禅を続けている。庭園から通り抜ける風は変わらず、方丈の中は、静寂に満ちていた。隣で坐禅をしていたアイーシャにそっと目を向けると、アイーシャもまた驚いたように目を開けていた。わずかに顔を傾け、こちらを見る。
その時に分かった。あれは、空耳じゃない。莉子とアイーシャは、今、同じ声を聞いたのだ。
坐禅会は終了した。すっきりと穏やかな表情で出て行く人々に紛れるように、莉子とアイーシャは無言で外に出た。もう閉門時間を過ぎていた。総門の脇の出口から出た後、莉子はアイーシャに思い切って訊いてみた。
「アイーシャ、あなたも聞こえた?誰かが叫んでいたの」
アイーシャは、蒼白な顔のまま、立ち止まって莉子の顔を見た。
「最初は鈴の音が聞こえた。誰かが、大丈夫だよって言っていたの、聞こえた?」
「・・うん」アイーシャは頷いた。かすかに唇が震えていた。
「あれを聞いたのは、わたし達だけみたい。いったい、どういうことなのかしら?」
「・・ねえ、リコ、ヌアナを知らない?」突然、アイーシャが言った。
「ヌアナ?さっきも勝上嶽でそう言っていたね。分からないわ、誰なの?」
「・・あたし、九歳で父を交通事故で失くした時、ショックのせいか幼児期の記憶を思い出せなくなっちゃったの。ヌアナは、あたしが幼児の時によく呼んでいた名前だったんだって。母はお世話になっていた保育園の先生の名前なんじゃないかって言ってた」
アイーシャの言葉に、莉子は言葉を失う。ここにもいた!莉子だけではない。目の前の少女もまた幼い頃の記憶を失っていた。それに。
「・・ヌアナ」と口に出して言ってみた。
不思議な名前だ。ハワイ語のような優しい響きだ。口にすると、胸の奥が何やら動く感覚はあるが、よく分からない。何かが思い出せるわけではない。いつもそうなのだ。昔のことを思い出そうとすると、真っ黒な壁にぶつかってしまう。心の内で押そうとしても、乗り越えようと思っても、びくとも動かない。そういう堅固な壁だ。だが、莉子はもう諦めない。さっき、確かに聞いたのだ。聞こえたのだ。
「最後に誰かが叫んでいたの、聞こえた?男の子の声。確か、ユーリイって言ってた」
「聞こえたわ。焦っているような、怒っているような感じだった」
アイーシャが、真剣な顔で莉子を見た。「あたし達・・」震える声で言う。
「何かつながりがあるのかしら・・?」
「坐禅をしている時、頭の中で、あなたみたいな赤毛の小さな子が見えた気がしたの。ほんの一瞬なんだけど。それにわたし、あなたにどこかで会ったことがあるような気がするの」
「あたしもそうよ!」アイーシャは叫んだ。「さっき連れて行ってもらった展望台に立っていた時、赤毛の小さな女の子が見えたのよ!自分でも信じられないけど、あれは、あたしなんじゃないかって思った。・・あとね、あたし、どうしてなのか分からないけど、昔から長い黒髪の人に、自然に目がいってしまうの。だからリコがあたしを追い抜いて行った時から、リコのことがずっと気になっていたの」
お互いに目を合わせる。不安げで、戸惑ったような青い瞳。きっと自分も今、同じような表情をしているのだろう。これはいったい、どういうことなのだろう。自分の身に何が起こっているのか。
どうすればよいのだろう。こんな時、どうすればいいのか。誰に相談すればいい?そもそも、何をどうやって相談すればいい?
「・・あ」
声を上げて莉子は顔を上げた。トートバッグの中のスマートフォンを取り出して、画面を見た。画面は真っ黒だ。午前中に心療内科で診察があったので、スマートフォンの電源を切ったままにしていた。電源ボタンを押し、起動させる。パッと明るくなった画面を見て、目を見張る。
ラインメッセージの着信と通話着信記録が残っていた。送信者は、渡辺蒼。
たった今、莉子が相談相手として顔を思い浮かべた人の名前だった。
第三章に続きます。