第一章(続き)
アイーシャ
1
黄色いヨガマットの上に仰向けになる。
両手は自然に下げ、手の平を上向きにして、全身の力を抜き、重力に身を任せる。静かに、ゆっくり深呼吸をする。
ヨガの最後によく行われる〈屍のポーズ〉と呼ばれる「シャバーサナ」だ。アイーシャは、スタジオのコンクリート製の天井とそこから放たれるオレンジ色の灯りを見つめた後、そっと目を閉じた。意識を自分の身体に集中させる。次第に身体がぽかぽかとしてきて、何とも言えず、温かな、安らいだ気持ちになる。静かだ。自分が今いる場所が、ニューヨークのマンハッタンだとは思えなくなる。ずっとこうしていたい。ずっとこのままでいられたらいいのに、といつも思う。
アイーシャが、アシスタントとして勤務しているヨガスタジオは、ニューヨークの七番街のビルの七階にある。その日最後のクラスを見て、スタジオの床掃除をしてから、シャワーを浴びて、ロッカールームで着替える。
ロッカールームには、大きな鏡が置いてある。それに映る自分自身には目を向けず、着替えという動作に徹する。
「じゃあ、サユリ。また明日」執務室で事務をしていたオーナーの小柴小百合に、声をかけると、小百合が顔を上げた。
日本人の小百合は、小柄で、年齢は四十代前半と聞くが、少女のような愛らしさがある。まっすぐ伸びたつややかな黒髪、引き締まった筋肉、バレリーナのようにしゃんとした背筋。目元や口元のうっすらとした皺さえも自然のものとして受け入れているナチュラルメイク。赤毛の強い癖毛を腰まで伸ばし、アパートに帰るだけでもメイクを欠かさないアイーシャとは真逆と言っていい。
「お疲れ様。アイーシャ。今日は連続レッスン、大変だったわね」
にこりと笑う。本当に愛らしい。小百合の笑顔は、エレガントだ。今、アイーシャは十七歳だが、自分は二十年後も、現在の体形を維持し、こんな風に笑えるだろうかと、彼女の微笑みを見るといつも考えさせられる。外国人でありながら、ヨガスタジオ激戦地であるマンハッタンで成功している。彼女が専属コーチとして教えるプライベートレッスンには、大物女優や政治家の妻など、有名人も多く来ている。
「いいえ。別に・・」小百合の黒く強い瞳から目を背けるように言い淀む。
「・・ねえ、アイーシャ、最近、ちゃんと眠れている?」
心配したような声で小百合は続けた。
「たくさん眠らないと、元気が出ないわよ。それに食事管理も忘れないで。ただ痩せていればいいわけじゃないのよ。あなたは、もう少し食事の量を増やした方がいいわね」
アイーシャは、胸の中に苛立ちに似た何かが溜まっていくのを感じる。ああ、またいつものお説教か。心の内で身構える。蓋をする。
「・・はい。気をつけます。お先に失礼します」
あくまで礼儀正しく言って、ヨガスタジオのドアを開け、目の前で待機していたエレベーターに飛び乗った。そのエレベーターの内側にも、大きな鏡があった。だが、アイーシャは自分の姿を見ない。それでも、赤色の髪が目の端に一瞬見えた。
ビルを出て地上に立つと、そこはマンハッタンの夕方の喧噪で溢れていた。歩道を行き交う人の波、デートを楽しんでいるカップル、観光客、学生達、ビジネスマン。みんな大声で会話をしながら、足早に歩いている。ヨガマットを背負ったアイーシャの姿は、一瞬でその中に埋もれてしまう。ここはそういう場所だ。
地下鉄の駅に入り、階段を下りてホームに向かう。電車が通過したばかりなのか、ホームから、ゴオオオッという轟音が響き、強い風が流れてきた。ホームは、家路へと向かう通勤客で混雑していた。灰色のベンチには、杖をついた大柄な老婦人が座り、連れらしい中年の女性と何やらかしましくお喋りをしていた。アイーシャはその脇の壁際に立って、次の電車が来るのを待った。
「ねえ、ちょっと・・、見てご覧よ」
「まあ、細いねえ、骨が浮き出ているよ。細ければいいってもんじゃないのに・・」
ひそひそ声が聞こえてきた。ベンチに座る件の二人組が、自分を見て言っているのだ。人の悪口はすぐにそうと分かる。身近にいる人間から、長く言葉の暴力を受けて育ったアイーシャの鋭敏な聴覚は、たとえ遠くからでも、瞬時にそれをキャッチした。
音に注意を向けるのは、とても大切だ。何故なら、それは始まりに過ぎないからだ。言葉の暴力が、物理的な力を伴った暴力に発展していく過程を、アイーシャはその身をもって経験してきた。心を病んだ母。母が依存する男達。男達の幾人かは、事あるごとに、アイーシャに直接、手を上げてきた。悪意を持ってアイーシャに暴言を吐き、小さな身体を痛めつけた。弱い母は、男達の言いなりだった。男達がアイーシャを嫌えば、母もアイーシャを邪険にした。それでいて、男達に捨てられると、アイーシャにしがみついて泣いた。「可愛いアイーシャ、愛しているよ。お前だけだよ。あたしには、もうお前しかいないんだよ」
母の弱さが、心の病からきているのだと知ったのは、最近のことだ。そしてその始まりは、おそらく、彼女の夫、アイーシャの父親ジョセフの突然の死がきっかけだった。
三人で暮らしたイースト・ヴィレッジの狭いアパート。リビングのテレビ棚に飾ってあった写真には、五歳くらいのアイーシャを挟んで、まだ朗らかだった母アリーと父ジョセフが幸せそうに笑っていた。
父ジョセフは、交通事故で亡くなった。アイーシャの九回目の誕生日を祝うために買って来たバースデイ・ケーキに、蝋燭の数が足りなかったから、と近所のケーキ屋さんに蝋燭を貰いに行った帰り、信号無視で交差点を直進してきたトラックに撥ねられた。即死だった。病院の死体安置所で父の遺体と対面した母の心は、その瞬間に壊れた。
母は、もともと心の弱い部分があった人だったのかもしれない。それを父ジョセフの明るさが支えていた。だがその支えを突然失い、母は崩れ落ちた。母は幾日も泣いていた。泣いて、喚いて、叫んだ。ジョセフの手の中に、黄緑色とピンク色の蝋燭のかけらがあったことを警察官から聞き、全てはアイーシャが悪いのだと責め立てた。母はアイーシャを罵り、髪を引っ張り、物を投げつけ、蹴った。だが次の瞬間、はっと気づいたように、アイーシャを涙に濡れた目で見つめ、「ごめんね、アイーシャ」と謝った。
「ごめんね、ごめんね。本当はそんなこと思っていないのよ。お前はあたし達の宝物だった。神様からの贈り物だと思っていた。それなのに、ママはひどい人だね。だからパパは、ママの側からいなくなっちゃったんだね」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪ませ、母はアイーシャをかき抱いて、何度も頬にキスをした。だが数日後には、自分の言ったこと全てを忘れてしまったように、アイーシャを打ち、罵るのだ。「お前なんかいなければよかった。そうすれば、ジョセフは死なずに済んだ。全部、お前が悪いんだ。お前がいなければ良かったのに・・!」
アイーシャは混乱した。まだ小学生だったアイーシャに、母の心を理解するのは難しいことだった。母の主治医は、アイーシャの小さな手を取って、慰めるように言った。
「ママが言うことを本気にしてはいけないよ。彼女は、本当は逆のことを言いたいんだよ。君をどこか施設に預けた方がいいとわたしが言ったら、君のママは何て言ったと思う?」母の主治医は、アイーシャの顔を覗き込むようにして、困ったような笑みを浮かべた。「君を放したら、自分は死んでしまう、と言ったんだよ」
九歳のアイーシャにとっても、それは同じだった。アイーシャにとって、母は自分の世界の全てだった。母がいなければ、どうしたらいいのか分からない。何を食べたらいいのか分からない。家で喋る人もいない。父と母と三人で暮らしたアパート以外に、自分の居場所があるとは思えなかった。だから、アイーシャは、母の主治医に言ったのだ。
「施設には行かない。あたしはママといる。ママと離れたら、あたしも死んでしまう」
母の調子は一進一退を繰り返した。母は薬を飲みながら、近くの花屋で働いた。機嫌がいい時もあった。そんな時には、キャロットケーキを焼き、店で余った生花を使って、アイーシャにコサージュを作ってくれた。服にピンで止め、「アイーシャの髪の色にぴったりだね。とっても素敵ね」と言ってくれた。母が笑顔でいてくれると、嬉しくて、アイーシャの心は浮き立つように軽くなった。
だが、母の心の調子が悪い時は最悪だった。母は暗い表情で、ベッドに寝たきりになり、食事の支度も、掃除も洗濯も洗い物もしない。アイーシャはお腹を空かせながら、アパートの前に座り、道行く人から小銭を貰って、近くのホットドッグスタンドに行って、ソーセージだけを挟んだ、一番安いホットドッグを買って空腹をしのいだ。
そのうち、母は男に依存するようになった。母の恋人達は、言葉を使うのがうまいだけの、軽薄な男ばかりだった。母の依存性は、母が付き合う男達を変えていった。男達は、母をアイーシャの目の前ではたき、罵った。アイーシャは、母を守ろうと男達に立ち向かうが、腕力では敵わない。男達の暴力がアイーシャに向くと、母は何故か男達に同調し、一緒に酒を飲んでアイーシャに手を上げるようになった。
アイーシャが高校生になる時には、命の危険を感じ、何度も家を出て、路頭を彷徨った。友人の家に泊めてもらい、教会の世話にもなった。それでも最後は、母が暮らすアパートへ戻った。
男が去った後、金も身体も搾り取られた母は、抜け殻のようになって、アパートの一室にいた。戻って来たアイーシャを見ると、子どものように声を上げて泣いた。
「アイーシャ、アイーシャ!ごめんね、ごめんね!ひどい母親だね、あたしは。でも、分からないの。あたしは、自分がどうすればいいのか分からないんだよお・・!」
アイーシャにとりすがって嗚咽する。アイーシャは、母の肩を抱いてやった。知らぬ間に、アイーシャの背は母を追い越していた。アイーシャは驚いた。自分はもっと小さかった筈だ。そう、あれは九歳の誕生日だったではないか。
父ジョセフがケーキの箱を持って帰って来た時、アイーシャはジョセフの胸の中に飛び込んだ。「パパ、お帰り!」「おーう。アイーシャ!お誕生日おめでとう!大きくなったなあ。パパの大事な、可愛いアイーシャ。君は、世界で一番幸せな女の子になるんだぞ!」
今もまだ憶えている最後のジョセフの言葉。大きな温かい腕、明るい笑顔。幸せだった。安心できる場所だった。その場所を失ってから、アイーシャは必死で母を守ろうとした。病で苦しむ母の代わりに家事をし、食事の支度をした。母が男達を連れて来た時は、邪魔をしないよう、息をひそめるようにして時を過ごした。男達が母を殴る時は、自らが身体を張って母を庇った。絶望と恐怖に打ちひしがれながら、母の側を離れなかった。家を出ても、結局はこうやって母の元に戻って来た。
だが、ずっと同じことを繰り返してきた時間の長さを、アイーシャは、その時、初めて認識した。このままでは駄目だ、と思った。母は一人では生きられない。誰かの助けが必要なのだ。アイーシャでは駄目なのだ。アイーシャが側にいても、母は同じことを繰り返すだけだ。母も自分もこうやって泣きながら抱き合うだけだ。こんな風に苦しんで、泣いて、痛い思いをして。でもそれは、父ジョセフが望んだ姿だろうか?
自分は、今、世界で一番幸せな女の子だろうか?
自問した後、アイーシャは決意していた。母から離れ、自立しよう。母には、他人の助けが必要なのだ。専門的なケアが。このままでは、母も自分も駄目になる。それでは、アイーシャのために蝋燭を貰いに行って死んでしまった父が、あまりにも不憫だ。
母とアイーシャは、別に暮らすことになった。母は福祉団体が紹介してくれた専門医療施設へ。アイーシャは、あらたにアパートを借りて仕事を探すことにした。高校は中退した。母は、最初は抵抗したが、主治医とアイーシャに説得され、頷いてくれた。
「ママ、あたしはママが笑う顔を見ていたいの。パパもそうだと思う。ちゃんと治そう。ママが淋しいと思った時は、あたしはいつでもママに会いに行く。いつでも連絡してくれれば、飛んでいくから」
アイーシャの顔を食い入るように見つめる母の顔は、幼子のようにも見えた。
2
グリニッジ・ヴィレッジにあるアパートに戻ったアイーシャは、階段を上がり、三階の自分の部屋のドアの前に立った。
パンツのポケットから、鍵を取り出す。カラカラと鈴の音がした。鍵には、真っ赤な天狗の顔をかたどったキーホルダーがついている。天狗の顔自体が鈴になっていて、鍵を手にする度に鈴の音が鳴る。これは、小百合から貰ったものだ。小百合の実家がある日本の鎌倉という街にある寺のものだそうだ。
「厄除けのお守りよ。女の子の一人暮らしは物騒だから、付けておいて」と渡された。
天狗には、白い眉と髭がある。額には皺があり、鼻が突き出ていて、その目は金色だ。天狗の頭の上には、金色の小さな楕円形のプレートがついていて、何やら漢字が記されている。睨まれているようで、キュートとは言い難いが、慣れてくると不思議に愛着も湧くもので、今はすっかり馴染んでいる。鈴が付いているのは、確かにそこに鍵があると分かり、便利である。
ドアを開け、中に入ってから、すぐにドアをロックした。部屋の灯りを点す。ベッドに机、本箱、ミニキッチンにシャワー室がついた、小さな部屋だ。アイーシャは、荷物を机の上に置いて、ベッドの上に仰向けになった。ギシッと床が鳴った。
今日は朝からセッションが続いたので、さすがに全身が疲れていた。客商売は神経を使う。客の身体に直接触れるし、クレームの多い客から、面と向かって、愚痴や文句を言われたりもする。小百合のように常に口元に微笑を湛えていることはまだできない。時には目の前の客に、イライラとした感情を抱いてしまう。
目を閉じ、ゆっくり深呼吸を繰り返す。だが、いくら深呼吸を繰り返しても、疲労は取れない。実質的なエネルギーが必要だ。何かを食べなくてはいけない。
アイーシャは、起き上がり、キッチン入口に置いてある小さな冷蔵庫を開けた。しゃがみ込んで中を覗く。固くなったチーズ、ヨーグルト、いつ買ったか憶えていない豆腐、端がピンク色に変色しかけているカットレタスの袋があった。みな、不味そうだ。
冷蔵庫を閉めて、近くに置いてある籠を漁った。コーンスープの素が入った箱に、グラノーラ・バーが三本あった。アイーシャは、グラノーラ・バーを一本手に取り、袋を破いた。そのまま、口を開けて噛みつく。ゴリッと音がした。
「もう、固いよ。歯が欠けちゃう・・」と独り言ちた。帰る途中で買って来た、ミネラルウォーターが入ったペットボトルの蓋を開け、ごくごくと飲んで、パサパサしたグラノーラ・バーを胃の中に流し込んだ。その途端、胃の中が、すうっと痛くなった。最近はいつもそうだ。夕食を摂った後、何故か分からないが、胃が痛くなる。時には立っていられないほどで、そういう時はベッドに入り、呻き声を上げながら、寝返りを繰り返す。
「・・これじゃあ、ママといた時の方がマシだったってわけ?」
そんな筈はなかった。母と母の恋人との生活は、地獄のようなものだった。アイーシャは常に彼らの気配と機嫌に気を遣い、朝には、彼らのためにパンを焼き、スクランブルドエッグを作り、オレンジジュースを用意した。食べ物を残したことなどない。またいつ食べられるか分からないのだ。目の前にあるものは、残さず平らげた。彼らが残したものも、アイーシャは迷わず口に入れた。幸い病気になることはなかったが、神経をすり減らし続けた暮らしから脱した後、アイーシャの身体には多くの反動が起こった。まず食事が摂れなくなった。いくら食べても太れない。夜、何度も目覚める。ぐっすり眠れない。夢の中に、母や母のかつての男達が現れて、口々にアイーシャを罵る。
「何をやっているんだ?このトロい奴め。何でも食っちまう、いじきたない雌豚め!」
アイーシャは、その度に叫び声を上げて目覚めた。小さな部屋に確かに一人きりでいる安堵感と孤独感で、アイーシャは布団の中で、いつも小さく身体を丸めた。
アイーシャをヨガスタジオに誘ってくれたのは、高校時代の友人だったフェリシアだった。彼女は、所謂、普通の家庭の娘だったが、アイーシャの境遇を知っても、そこから目を背けて離れていったりしなかった。彼女の両親も善良な人達で、アイーシャは度々家を出て、彼女の家に泊まらせてもらい、彼女の父親の紹介で、母が現在世話になっている医療施設に入ることができた。
「アイーシャ、ヨガをやってみない?わたし、マンハッタンですごく人気がある日本人インストラクターのスタジオに、体験レッスンに行くことになったの。一緒にどう?」
ニューヨーク大学に入学したフェリシアは、ある日、アイーシャをヨガレッスンに誘ってくれた。アイーシャは、高校を中退後、アパートの近くの不動産屋でアルバイトをしていた。体験レッスンの日は、不動産屋の定休日だったので、アイーシャは頷いた。
フェリシアが連れて行ってくれたのが、小百合のヨガスタジオだった。
それまでヨガのことはあまりよく知らなかった。ダンスやエアロビクスとは違う種類のトレーニングだと思っていた。動画サイトで眺めていても、ヨガマットの上でじっとしているだけで、何をしているのか、いまいちよく分からない。これのどこがいいのだろう、と疑問に思ってさえいた。
Tシャツにショートパンツ姿、ヨガマットもタオルも持って来ないアイーシャを、小百合は笑顔で迎えてくれた。
「ヨガは初めてなの?あなたの初めてを共有できて嬉しいわ。楽しんでいってね」
なんて綺麗な人なの、とアイーシャは思った。真っすぐ伸びたつややかな黒髪と神秘的な黒い瞳が印象的だ。小柄ながら、スタイルがいい。痩せているのとは違う。背筋がぴんと伸び、立ち姿が美しい。
小百合の体験レッスンが始まった。フェリシアは、何度か別のヨガスタジオでレッスンを受けたことがあるらしい。小百合の指示を難なくこなしていた。
アイーシャは、スタジオで借りたピンク色のヨガマットの上で、四苦八苦していた。そもそも身体がガチガチに固かった。少し身体を伸ばしただけで、ふくらはぎが痛い、足がつる。背中に激痛が走る。それに呼吸がうまくできない。吸って、吐いて、と言われるが、長い呼吸ができず、かえってハアハアと浅い呼吸になってしまう。
「アイーシャ、無理しなくてもいいのよ。できる範囲で大丈夫。リラックスして。自分のペースで。誰とも比べる必要はないのよ」
小百合は、アイーシャの肩に手を置いて、優しく言ってくれた。
次第に身体がぽかぽかしてきた。ヨガマットの上に身体を横たえていると、不思議な安心感のようなものが身体の中から沁み出てきた。
(なんだろう・・、この感じは?)
ゆったりとした空気。誰もが無防備な姿で、胸を上にして横たわっている。脚を上げ、尻を突き上げ、腕を回転させる。
「ここで、息を吸って・・、吐いて・・」まるで子守歌のように聞こえてくる小百合の声、アイーシャはゆっくりと息を吸い、吐いていった。ただその繰り返し。身体の向きを変え、脚を伸ばしたり、曲げたりしながら、呼吸を繰り返す。
「じゃあ、最後ね。横になって」
身体を横たえ、両脇に自然に置いた手は、手の平を上に向ける。目を閉じていると、不意に何かが身体の中から込みあげてきた。涙だった。静かに呼吸しながら、アイーシャは、涙を流し続けた。
その後、アイーシャは小百合のレッスンに通い始めた。フェリシアは、ボーイフレンドとのデートが忙しくなり、足が遠のいていった。
今思えば、あれは、アイーシャが自分自身の身体と対話した初めての瞬間だった。静かな安全な場所で、これまで、自分自身と向き合うことのなかったアイーシャの身体は、固く、色んな部位が歪んでいた。それを治していくのには、時間も忍耐も必要だった。小百合の指導は初めての時と変わらない。ゆったりと優しく、それでいて身体の歪みは的確に指摘する。
アイーシャは、ヨガに夢中になった。ヨガ関係の本や雑誌を購入し、勉強した。分からないことは、どんどん小百合に質問した。
ある日、ヨガスタジオで、アシスタントのポジションを募集していると知って、真っ先に事務所に向かった。
「ここで、アシスタントとして働かせてください」
事務所のデスクで書類を広げていた小百合は、驚いたように顔を上げ、アイーシャをじっと見つめた後、言った。「ヨガのアシスタントは、お客様の心と身体に直接触れることになるから、かなりきついわよ」
「大丈夫です」と即答すると、小百合はかすかに首を傾げるようにして微笑した。
「そうね、あなたほど熱心に通って来てくれる人はいないものね・・。うん、いいわ。でもひとつだけ条件があるの」
「何ですか」
「わたしからのアドバイスをちゃんと聞いて欲しい。今まではあなたはお客様だったから、あなたの生活のことに立ち入ったりはしなかった。でも、これから従業員となるのなら、それが仕事に関わることだったら、わたしはあなたの生活にも口を出すことがあると思う。健康管理とかね。耳が痛いわよ。それを素直に聞く耳を持てるかしら?」
小百合の言葉に、アイーシャは頷いていた。
「大丈夫です。アドバイスでも何でも受け入れます。ここで働かせてください」
それから不動産屋でのアルバイトとヨガスタジオでの仕事の掛け持ち生活が始まった。レッスンの合間には、アイーシャと別のアシスタントに、小百合が講義をしてくれた。「お客様」だった頃よりも、小百合の顔つきも口調も厳しくなった。
ヨガは、心と身体を整えてくれる。他のアシスタントと一緒に、小百合のレッスンの補助をしながら、お客様の様子を見ていると、それを実感した。日中、忙しなく働いてきたのだろう、スーツ姿でスタジオに入って来た時は、ピリピリとした空気を全身にまとっていた女性が、ウェアに着替えて、ヨガマットの上で身体を丸め、両手を合わせて深呼吸している時は、落ち着いた凛とした表情になっていた。この女性は、心と身体を整えたのだ。それは、近くで見ていても、驚くべき変化だった。
どうしても心と身体が整わない人もいる。何度言っても、その通りにやらない。身体もゴチゴチに硬く、きょろきょろと周りの人の動きばかりを気にして、自分の身体に目を向けない。挙句、うまくいかない苛立ちを、アイーシャや他のアシスタントのせいにする。人から嫌悪される表情を目の前で見せられるのは、きつかった。母の恋人や母から受けた暴言の数々が、一瞬で蘇ってしまう。それでもそこから逃げられない。彼女は「お客様」だからだ。お金をいただいている以上、小百合とアシスタントには、彼女に心と身体を整えてもらい、満足して帰っていただかなければならないのだ。
小百合が、接客業はきついと言っていた意味はすぐに分かってきた。そもそもヨガは本来、どこででもできる。家の中で動画を観ながらでも、公園の芝生の上でも。それをせずにこうしてわざわざスタジオに通って来るという人は、小百合のヨガが好きだからという人もいるだろうが、自分自身ではどうやったらいいのか分からない、あるいは、自分ひとりでは続けられないから通ってくるのだろう。
小百合から、初めてアドバイスを受けたのは、アシスタントとして働いて一か月が過ぎた頃だった。
クラスを終え、片付けをしていると、小百合から声がかかった。
「ねえ、アイーシャ、着替えが終わったら、ちょっと事務所に寄ってちょうだい」
私服に着替え、化粧をしてから事務所に向かった。小百合がアイーシャを見て、にこりと笑った。「ここに座って。お茶かコーヒー、どっちがいい?」
「コーヒーでお願いします」
「オーケイ」
窓際にあるミニキッチンに向かい、小百合はフィルターを折り、ドリッパーにフィルターをセットしてから、コーヒーの粉を計量スプーンで入れた。薬缶を持って、お湯を注ぐ。コーヒーのふくよかな香りが事務所全体に広がってきた。
「はい。どうぞ」アラビアのパラティッシの白と黒を基調としたカップとソーサー。その上に、小さなチョコレートが載っていた。小百合を見ると、悪戯っぽく笑った。
「今日は疲れたでしょう?ダイエットしていても、こういう日は、甘いものはお薬よ」
例の「お客様」のことを言っているのだ。最近は、露骨にアイーシャの悪口を言いふらしている。「あたし、別にダイエットをしているわけではないですし、あの人のことも何も気にしていませんから」
小百合の言いたいことは分かっていた。そもそもあの「お客様」は、明らかに太り過ぎている。だから腕を前に伸ばしても、ぷるんとした自分のお腹の肉が邪魔をして、足に手が届かない。苦しいし、痛い。できないことが恥ずかしいし、苛立たしい。だから、その鬱憤を側にいるアイーシャのせいにする。アイーシャの言うこと、動作、全てが気に食わないのだ。挙げ句、今日は、アイーシャの身体について色々と言い立て始めた。
「あなた、?せ過ぎていて、まるで骸骨みたい。気持ち悪いのよ!」と。
それを面と向かって言われた時、アイーシャは頭の中が真っ白になった。この巨体の女は何を言っているんだろう。意味が分からなかった。何故、自分が赤の他人に、こんな風に敵意を向けられなければならないのか。自分の身体のことをいちいち言われなければならないのか。
(・・ママでも、ママの彼でもないのに)
猛烈に腹が立った。この女が、いつも派手な洋服を着て、悪趣味な宝石で耳や指を飾り立て、重そうなブランドバッグをぶら下げてスタジオにやって来ているのも知っている。贅沢で栄養価のある物を際限なく食べ、食べ過ぎて、ぷくぷくと太り、それを改善することもしない。それでいて側にいるアイーシャが目障りで仕方がないのだ。
「もう、マクレガーさんのレッスンの時には、あなたは出なくていいわ」と小百合が言った。「あなたも苦痛でしょう?他のレッスンにシフトを変更するから」
「あたし、あの人、嫌いです。あんな人、いくらヨガをやったって、何も変わるわけない。だって、心が醜いんだもの」
「アイーシャ」小百合がたしなめるように言った。「それでも、わたし達のお客様なのよ。あなたへのお給料も、マクレガーさんが払ってくれるレッスン代から出ているのよ。それに、どんなお客様でも、わたし達は自分が持てる全ての力を注いでレッスンを提供する義務がある。このスタジオに来て良かったと思ってもらわなくてはならない。それがプロというものよ。最初に言ったわよね、この仕事はきついと」
小百合が言った通りだった。小百合は、アイーシャがアシスタントのポジションを希望した時、確かにそう言った。そしてアイーシャは、それを受け入れた筈だった。
「ごめんなさい。サユリの言う通りだわ。言葉が過ぎました」
謝ると、小百合は真剣だった顔をふっと和らげた。
「マクレガーさんの話はこれで終わりね。今度はわたしからのアドバイスというか、お節介。・・アイーシャ、あなた、ちゃんと眠れている?ご飯は食べているの?鏡の前で自分の姿をよく見てみて。痩せていればいいってわけではないのよ。あなたはファッションモデルでも、バレリーナでもないのだし。いい?一番大切なのは、健康よ。身体が元気でないと、心も弱っていくのよ」
小百合の黒い瞳に見つめられ、アイーシャは俯いた。
自分の身体が、?せ細っていることは認識していた。こうやって身体の線がはっきり分かるウェアを着て、毎日鏡の前でポーズを取っているのだ。嫌でも分かる。自分の身体は痩せ過ぎている。食べようと意識はしている。だが、食べられないのだ。胃がむかむかするし、無理に食べようとすると、吐き気をもよおす。
「分かっています。ちゃんと食べるように努力します」
「本当は、努力するようなことではないのだけどね・・」小百合が困ったように笑う。
「でもね、やっぱり心配なの。太り過ぎも痩せ過ぎも良くないの。バランスの問題ね。程々がちょうどいいの。睡眠は十分に取れているの?」
「・・はい」
「取れていないのね」小百合がアイーシャの嘘を見抜いたように溜息をついた。
「お医者さんには診てもらってる?必要なら睡眠薬を処方してもらいなさい。眠るのって大事よ。食事と同じくらい」
「はい」小百合のアドバイスに、アイーシャはそう返事するしかなかった。
母と離れ、一人で暮らして半年が経つ。これまでずっと、母や母の恋人が立てる物音や声に神経を使いながら過ごしてきたせいか、最初はいつも落ち着かない気分だった。こんな風にずっと静寂でいられるわけがないと疑っていた。
眠れない日も多い。ベッド脇のテーブルに置いたテーブルランプは、常に灯りが灯っている。暗闇の中で眠ることなど怖くてできない。以前は、布団の中で丸くなり、ひたすら夜明けがくるのを待ったが、今はヨガがあった。どうしても眠れない時は、レッスンで最後にするポーズを布団の中で取った。仰向けのまま、腕と足を広げ、ゆったりと呼吸を繰り返す。屍のポーズ。自分は屍だと思えばいい。何も考えず、ただ呼吸だけを繰り返す。そうすると少しだけ楽になれる。眠れなくてもいい。何も考えず、ただ呼吸するだけでいい。そのうちに眠くなるから、心配しなくていい。そう考えたら、少しだけ気持ちが楽になった。
呼吸を落ち着かせながら、アイーシャは天井を見つめた。スタジオの事務所で、小百合とした会話を思い出す。
?せていればいいなどと、決して思っていない。小百合のようにすらりとしていながら、バランスよく筋肉のついた脚に憧れるし、お客様のふっくらとした二の腕や太ももにも眩しいくらいの豊かさを感じる。母も痩せていた。ろくに料理も作らず、酒ばかり飲んでいたのだ。痩せるに決まっている。医療施設で暮らすようになって、いつもこけていた母の頬に肉がつき始めた。顔色もよくなった。そうするとずいぶんと印象が変わってきた。
春くらいから、不思議な夢を見て、目覚めることが多くなった。自分はいつも保育園のような所にいる。他にも子どもが何人かいるような気がするが、はっきりとは分からない。目覚めて時計を見ると、時計の針は決まって三時から三時半ぐらいを指している。まだ真夜中だ。その後、眠れずに枕の上に頭を乗せて天井を見上げている時、頭の隅に、一人の人物の姿が浮かんだ。
ゆるいウェーブのかかった栗色の髪の女性だ。だが母ではない。母よりずっと小柄で、頬がふっくらとしている感じがする。はっきりと顔が見えるわけでも、手足が見えるわけでもない。輪郭というか、イメージだ。だが、不思議なことに、アイーシャは、その輪郭のようなものの存在を自然に受け入れていた。スタジオに来るお客様以外で、アイーシャが知る女性は少ない。母、小百合、他のアシスタント達、友人のフェリシア。フェリシアのママ。医療施設の看護師の幾人かくらいだ。でも、その誰でもない。
(誰なんだろう・・?)
そんなことを考えながら、アイーシャはまどろむ。身体が眠りの中に沈んでいく。やがてその人物のことも意識しなくなる。深い眠りの中に落ちていく。
3
「アイーシャ、お疲れ。最近調子がいいみたいね」
レッスンを終え、ロッカールームに入ると、既にシャワーを浴びたらしいアシスタント仲間のサリーが、下着をつけながら声をかけてきた。
「お疲れ様、サリー。うん、気分はいいかな。サリーがマクレガーさんのレッスンの担当を代わってくれたおかげだよ。実は、あれでかなりストレスが減った。ありがとう」
正直に話すと、サリーはにやりと笑った。「どういたしまして。人間って、相性っていうものがどうしてもあるから、気にしないようにね。わたしにはマクレガーさんは、あんまり色々と言わないんだよ。不思議だよね。まあサユリのベストな采配だね」
サリーは、アイーシャより十歳年上で、大柄で、腕に筋肉もついている。性格もサバサバしていて明るく大らかだ。マクレガーさんは、彼女のこういうところが気に入ったのかもしれない。
「本当は、どんなお客様でも、気持ちよくレッスンを受けてもらうのがプロだけど・・」
アイーシャの言葉に、サリーがからからと笑う。
「理想ではね。でもわたし達、所詮アシスタントだから。経営者はサユリ。サユリに従うのみよ」上着を頭から被ってから、アイーシャの肩を軽く叩いた。
「まあ、あなたのそういう生真面目なところ、嫌いじゃないけどね。ここに通って来る人の目的も人それぞれってこと。出かけて来るのが目的の人もいるってわけ。みんながアイーシャみたいにヨガスタジオのアシスタントになるつもりはないってことよ。そこにいること自体を楽しむのもありなんだよ。じゃあね、お先」
そう言って、柑橘系のフレグランスの香りを振りまきながら、軽やかに出て行った。
アイーシャはウェアを脱ぎ、タオルを持ってシャワールームに入った。熱いシャワーを頭から身体に注ぐ。疲れた身体がゆっくりと覚醒していくのが分かった。ボディシャンプーを手の平で泡立て、肩から腕に滑らせる。白い泡が乗る。気持ちが良かった。
雨のようなシャワーを浴びながら、サリーとの会話を振り返る。
確かに最近、気分がいい。よく眠れているおかげなのかもしれない。睡眠をたっぷりと取れると、動きも活発になる。自然に食欲も湧いてくる。気持ちが明るくなってお客様との遣り取りにも余裕が生まれる。
(すごいな・・。全部、つながっているんだ)
もちろん、いつも快眠というわけにはいかない。週に何度かは相変わらず夜中に目が覚めてしまう。でも、最近は、いつもゆったりとした気持ちで、あの人のことを考えることにしていた。頭の片隅に浮かぶ女性。その人のことを考えると、懐かしいような、安心するような気持ちになる。母とも、小百合とも違う人。
(・・ひょっとして、前に会ったことがあるのかな?)
目を瞑って髪を洗いながら、アイーシャは考えた。
アイーシャには、幼児の頃の記憶がない。父の交通事故の衝撃と、その後の母との生活の変化があまりにも過酷だったので、昔を振り返るという行為を、アイーシャは半ば無意識に避ける傾向があった。そのせいか、幼児の頃の記憶がまったく思い出せない。母は、昔、食品加工会社で働いていたと聞いたことがあったから、アイーシャは小さい頃、保育園に預けられていたのかもしれない。それなら、あの人は、アイーシャの保育園の先生だったのかも。今度、母に訊いてみよう。
髪をドライヤーで乾かすと、アイーシャの赤色のカーリーヘアは、左右にふわりとふくらんだ。
「アイーシャの髪は、とってもゴージャスな髪ね。あなたのチャームポイントよ」と小百合は褒めてくれるが、この髪は大嫌いだ。指にからまりやすく、髪を乾かすのも時間がかかるし、ブラシを入れるのも、ゴムでまとめるのも一苦労だ。いちいち髪に引っかかって、ブラシの歯を何度、駄目にしたことか。
ローションで顔を整えた後、眉を描いてお仕舞にする。帰る時には、以前のように念入りに化粧をしなくなった。わざわざ飾らなくてもいいと思えるようになった。これも最近の変化だ。
ロッカールームを出て、いつものように、事務所にいる小百合に挨拶をしに行くと、
「ああ、アイーシャ、今日もお疲れ様。ちょっと、話というか、お願いしたいことがあるの。今から時間を貰えるかしら」と呼び止められた。
促されるままに、赤いソファに座る。小百合は、こういう時、必ず、コーヒーかお茶を丁寧に淹れてくれるので、アイーシャは秘かにそれを楽しみにしていた。目の前のテーブルに出されたのは、鮮やかな緑色のお茶だった。
「日本のグリーン・ティよ。緑茶の産地の静岡に住んでいる友達が送ってくれたの。グリーン・ティを飲んだことある?」
「いいえ」あまりにも美しい色のお茶に目を見張る。まるで絵の具で作ったようだ。
「新茶よ。今年の春に摘んだばかりの茶葉ってこと。飲んでみて」
湯気を立てている緑色のお茶を一口、飲んでみると、強い茶葉の香りが広がった。コーヒーや紅茶とは全然、違う。まろやかな味だ。
「すごく美味しい」そう言うと、小百合は微笑んで、頷いた。
「緑茶を飲むと長生きするらしいわよ。緑茶には抗菌作用があるからかしらね。昔の中国や日本では、そもそもお茶は高級な薬として扱われていたしね。日本に茶礼を広めたのは、禅仏教のお坊さんだし」
「へえ・・」アイーシャは、丸い茶碗を手の平で包んだ。小百合は、いつもこうやって、アイーシャに色々なことを教えてくれる。「禅仏教って言うと、坐禅とかの?」
何かの雑誌で読んだことがある。坐禅は、禅仏教の修行の一つで、ひたすら座って瞑想することだ。ヨガにもつながっている。
小百合も、緑茶を口に含んで頷いた。「そうよ。それでね、ここからが本題。ねえ、アイーシャ、今度、日本に行ってみない?」言ってから、首を傾げた。
「・・ああ、こういう言い方の方が正しいわね。わたしの代わりに日本に行って来て欲しいの」
小百合は事情を話した。
一か月後の八月、十二年前に亡くなった小百合の父方の祖父の法要が予定されている。小百合を可愛がってくれた祖父だったので、小百合もそれに合わせて、家族と共に日本に帰国するつもりでいた。小百合にはアメリカ人の夫との間に五歳の息子がいる。
「でもちょうどそのタイミングに、ミシガン州に住んでいる夫の父が、心臓の手術を受けることが決まって、日本に帰るのが難しくなってしまったの。義父は一人で暮らしているから、わたし達は手術に立ち会う必要があるの。飛行機もホテルも、キャンセルすればいいんだけど、せっかく予約したし、もしアイーシャの都合が良ければ、お使いをお願いしたいの。わたしの実家に行って、渡してきてもらいたいものがあるの」
小百合のヨガレッスンは、日本でも人気がある。アシスタントとして働き始めてすぐに、海外で行われるワークショップにも同行できるよう、パスポートを用意しておくように言われ、取得しておいた。
「どう?日本に行ってみない?海外旅行は初めて?」
「初めてどころか、旅行をしたことも、マンハッタンを出たこと自体、ありません」
母と母の恋人達から受けた心理的、身体的虐待については、小百合には伝えてある。その時に受けた右の二の腕に残る傷跡は、ウェアでも隠しきれないし、高校を中退したアイーシャは、自活するために、正直になり、他人の援助を得る必要があったからだ。
小百合は笑顔で頷いた。「そう。それなら、ぜひ行ってらっしゃい。ここで働き始めてから、無遅刻無欠勤で頑張ったあなたへの、わたしからのご褒美だと思って、少しゆっくりしてらっしゃい。ああ、お使いはよろしくね。実家は、鎌倉にあるの」
「カマクラ?あの、以前、貰った天狗のキーホルダーのお寺のある場所ですか?」
パンツのポケットの中をまさぐる。天狗の顔の丸い感触があった。
小百合が頷く。「ええ。東京からそんなに離れていない街よ。八百年前に政権があった場所で、今もたくさんのお寺や神社が点在していて、歩き易い街よ。あなたは一生懸命ヨガを勉強しているから、禅寺を訪れてみたらどう?そうそう、抹茶を飲めるお寺もあったわね。日本の素敵なところがいっぱい詰まっている街よ。行く前に色々と調べておきなさいね」
地下鉄の車内で、アイーシャは、小百合から手渡された飛行機とホテルの予約票をリュックから取り出して、眺めた。突然の豪華な夏休みに、胸がドキドキしている。
本を買わなくては、と思った。日本のこと、禅や仏教のことはよく分からない。少しは勉強して行かなくては。それに、せっかくだから、何か母にお土産を買って帰りたい。何がいいだろうか。
(ママだって、日本のことなんて、きっと、何も知らないよね・・)
そう考えて顔を上げ、腕時計で時間を確認した。この時間なら、まだ施設は面会可能だ。直接、母の元に行って話そう。このワクワク感は、電話やメールでは伝わらない。
最寄りの駅で降り、施設までの長い坂道を駆け上がる。以前は、歩くだけでも息切れがしてつらい坂道だったが、ヨガを始めてから、すっかり筋力も体力もついてきた。
滑り込むように施設の玄関に入ると、ちょうど夕食後だったのか、食器を片付ける音と共に、ソースのような甘い香りが廊下に残っていた。母の住む部屋まで急いだ。
母は部屋で、一人掛けのソファに座り、ぼんやりとしていた。アルコールを絶った母は、物静かな人になっていた。
「まあ、アイーシャ!どうしたんだい?」
突然現れたアイーシャに、母は、目を丸くして言った。
「ママ、あたしね、日本に行くの!」
「日本?え、それは、どういうこと・・?」
少し不安げな顔をする母に、アイーシャは小百合からのご褒美について、丁寧に説明した。リュックから、飛行機とホテルの予約票を出して、母に見せる。
「ねえ、ママ、鎌倉って街のこと、知らないよね?東京の近くにある街だって。あたし、そこにサユリのお使いに行くことになったの。あと一か月しかないから、色々と勉強しなくちゃ。今度、ニューヨーク市立図書館にも行ってみるわ」
アイーシャの説明を聞いて、母はようやく状況を飲み込んだらしい。痩せた頬に笑顔が浮かんだ。
「そうかい。それは、良かったねえ!海外旅行なんて、すごいじゃないか!」
「うん。あたしも最初はびっくりして、どうしようって思ったんだけど。今は、すごく嬉しい。ものすごく楽しみになってきた」
「でも、海外旅行は、お金もかかるんだろう?お金はあるのかい?」
母親らしく費用の心配をする。アイーシャは母に笑顔を向けた。
「言ったでしょう。飛行機代とホテル代は、小百合が出してくれるって。あと必要なのは食事代かな。それならここで暮らすのと変わらないわ。ママ、あたし、ちゃんと働いているのよ。お金の心配はしないで。それでね、日本のお土産、何がいいかしら」
「お土産と言われても、あたしは日本のこと、何にも知らないんだよ・・」
困ったように笑う母に、アイーシャも頷いた。
「うん。そうよね。あたしも一緒だもの。あたしもサユリに会うまでは、日本のことなんて何も知らなかった。ヨガを始めるまで、アジアのことや、身体や心のこと、何にも知らなかった。・・じゃあ、今度、スマートフォンで日本観光のサイトを一緒に見てみよう。今日はもう遅いから、とりあえず報告だけしておきたかったの」
母はアイーシャの手を握った。「そうかい。日本かい。気をつけて行っておいで」
「うん、ママ」
その時、アイーシャは、次に母に会ったら尋ねたかったことを思い出した。
「そうだ、今度ママに会った時に、訊こうと思っていたんだ」
「何だい」
「あたしが小さかった頃のことよ。あたしね、パパの事故の影響か、ちっちゃい時の記憶がないの。ママは、あたしが生まれてから、すぐに食品加工のお仕事をしていたって言っていたよね?その間、あたしは保育園かどこかに預けられていたの?」
母が唇を閉ざし、じっとアイーシャを見つめた。
「・・そうだね。お前は、赤ん坊の時から、ずっと保育園に預けてもらっていたね・・。あたしは、働かなくちゃいけなかったからね」
「そうか、やっぱりそういうことね」「何がだい?」母の目が真剣になる。
「最近、夢を見るの。うまく言えないんだけど、たぶんあたしがすごく小さかった頃の夢だと思う。他にも子どもが何人かいるの。それで、保育園の先生みたいな人がいて、あたし達にご飯を用意してくれるの。あたし、夢の中のその人のことが気になっていて・・。どこかで見たことがあるような気がするんだけど、はっきり思い出せなくて、それでママに訊いてみようと思っていたの」
「・・」母は、黙ったまま、膝の上に置いた手の平を握ったり、広げたりしていた。かさかさに乾いた唇がかすかに動く。それを見て、アイーシャは、今度、リップクリームを買って来てあげようと思った。
「あたしは・・」母がかすれた声で話し出した。「あたしも、大昔のことだから、保育園の先生のことは、あんまりは憶えていないんだよ。あの頃は、朝から晩まで仕事を掛け持ちして大変だったからね。・・うん、そうだね。その保育園ではよくしてもらったよ。お前のことをとても可愛がってもらった。それだけは、よく憶えているよ・・」
「そう。それならいいんだ。あの夢は、保育園の時のものなんだって分かれば。なんで今になって夢に出てくるのかは謎だけど」
「アイーシャ」母がアイーシャを見つめながら言った。
「なあに?」
「・・お前は、言葉を話し始めるのが、人より少し遅かった。あたしも、お前のパパも、それを心配した憶えがある。そんなお前がよく言っていた名前があるんだ。・・もしかしたら、それは保育園の先生の名前だったのかもしれないね」
「へえ、何て言ってた?」
「・・ヌアナ、とね」母の声は、かすかに震えていた。
「お前が、可愛い声でよくそう言っていたのを、今、ようやく思い出したよ・・」
母の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ママ?泣いているの?どうして・・?」
アイーシャが顔を傾けると、母は手の甲で目元の涙を拭って、首を振った。
「泣くつもりなんて、ないんだよ。・・ただ、涙が自然に出てくるんだ・・」
第二章に続きます。