第一章
第一章
莉子
1
若宮大路を走り、一ノ鳥居の脇を通ると、目前に大きな空と海が広がってきた。
車は交差点を右折し、海沿いの国道134号線を走り始める。週末はいつも混んでいる134号線だが、朝七時過ぎとなると、さすがにまだスムーズに流れている。
「ねえお姉ちゃん、見て!あれ何?あの黒いの。海の上にいっぱい浮かんでいるよ!」
後部座席に座っている弟のダニエルが、興奮した声で後ろから訊いてきた。助手席に座っていた莉子は、サングラスを取ろうと、サイド収納ボックスに伸ばしかけた手を止め、左側の車窓いっぱいに広がる由比ガ浜の海を見た。
「何だろう、黒いものがいっぱい。・・アザラシ?」
砂浜とは一定の距離を置いて、海面に黒くて丸いものが等間隔に浮かんでいる。すごい数だ。
「リコ、あれはサーファーだよ」運転席にいる父のブライアンが、笑いを含んだ声で言った。「みんな波を待っているんだ」
「嘘でしょう、あんなにたくさん?」
黒いアザラシ達の後ろから大きな波がやってくるのが見えた。アザラシ達が一斉に動き出した。海面を掻き分け、ボードに飛び乗り、ふわりと波に乗る。
「うわああ、すごおい。上手だねえ!ねえ、ママ、見えた?」ダニエルは感嘆の声を上げる。ダニエルの隣に座っている母、沙知絵の返事が聞こえてきた。
「うん、見えたよ。みんな上手だね。サーフィンは子どもだってできるんだよ。ダニーも今度、やってみる?」「無理!砂が足につくもん」「終わった後で、水で洗って流せばいいじゃない」
「絶対に嫌だ!」必死に抵抗するダニエルに、沙知絵が声を上げて笑う。
「莉子はどう?やってみたいって思わない?」母に訊かれ、莉子は、波の上で絶妙なバランスを取っているサーファーを見つめながら、言った。
「もし自分が海で泳げたらやってみたいけど。プールでも二十五メートル泳ぐのがやっとだから。そもそも足が地面につかないこと自体、恐怖だな」
莉子の答えに、沙知絵は言った。「もう、せっかく鎌倉に住んでいるのに、勿体ない。自転車で二十分もあれば、いつでも海に行けるのに」
ブライアンが宥めるように言う。
「まあ、近くに住んでいてもそんなものさ。今年の夏は、海水浴に行こう」
車は稲村ケ崎に向けて坂道を登っていた。
「今日は晴れているから、もうすぐ江の島と富士山が見えるよ」
ブライアンがそう言った途端、ダニエルがあっと声を上げた。
「お姉ちゃん、見て!富士山だよ!僕達、今日、富士山の近くに行くんだよね。湖を見に行くんだよね?僕、湖って、初めて見る。海とどう違うんだろうね」
興奮したように話すダニエルの声は、いつも甲高くて、聞いていると少し耳が痛い。それにいつも、「お姉ちゃん、見て!」を、莉子が何か答えるまで連発する。
莉子は十九歳、ダニエルは六歳になったばかりだ。通訳の仕事に忙しい母に替わって、時には保育園の送迎なども莉子がしているので、姉というより、ほとんどシッターのような役回りだ。
「ねえねえ、お姉ちゃんは、湖って、見たことある?」
莉子の返事を待たずに、次々と発せられるダニエルの機関銃のような質問に、莉子は小さなため息をついた。育児にはストレスが溜まるものだ。
「さあさあ、ダニー。そんなに質問ばかりしていたら、お姉ちゃん、答えられないでしょう?それにせっかくこんな素敵な海の景色を眺めているんだから。もうすこおし静かにして、ゆっくり景色を楽しみましょう」
沙知絵が言った。ブライアンも笑う。
「四人でドライブなんて久しぶりだからね。これから行く山梨県の富士北麓は鎌倉と比べると涼しいから、まだ新緑を楽しめるよ。高速に乗らず、下道でのんびり行こう」
ハンドルを握りながら、ブライアンは楽しそうに言った。
莉子がそっと父を見ると、その口元には笑い皺が刻まれている。
(嬉しいんだ)
いつも穏やかに笑う父の明るい茶色の髪を眺める。真っ直ぐに前を見つめるサングラスの下の瞳は、薄い茶色のヘーゼルアイだ。髪の色も、目の色も、ダニエルと同じ色。
莉子は父親の横顔を見るのをやめ、遠くに見える富士山に目を遣った。
そもそも、富士山が見える場所に行きたいと言ったのは、莉子だった。
高校の卒業式が終わった三月から、体調が悪くなった。不眠、頭痛、眩暈、吐き気、食欲不振、生理不順が重なった。大学入学後もそれは続いた。心配した母は、莉子を様々な病院に連れて行って検査を受けさせたが、どの病院の先生も、首を傾げるばかりだった。検査の数値に、特に異常は見つからない。そうなると、最後はお決まりの、「精神的なもの」が理由とされた。思春期だから、環境が大きく変わる時期だから、と心療内科の先生に優しく言われ、よく眠れるようにと睡眠剤を処方された。
ゴールデンウィークが終わり、本格的に授業が始まると、莉子は睡眠剤を飲むのをやめた。薬の効き目が強すぎて、朝起きるのに、膨大なエネルギーを必要とするし、一日中眠くてふらふらするからだ。幸い授業に出たり、友達に会うことで、少しは気が紛れた。何とか授業には出られるし、両親の問いかけにも答えられたし、家中に響くダニエルの甲高い声や、ドタドタという、うるさい足音にも耐えられている。
「ねえ、莉子、今度、週末にどこかにドライブに行かない?どこかにお泊りして、美味しいものを食べたりしてさ」
最初に沙知絵がそう言った時、莉子は胸の内がざわざわと動くのを感じた。母が自分を気遣って、そう言ってくれているのは分かる。けれど、母の見せるそういう気遣いが、かえって莉子をより苛立たせた。
「・・別に、どこかに行きたいわけじゃないから」
そんな気分ではない。ちょっとどこかに出かけて一泊するくらいで気持ちが晴れるわけなどない。本当は、莉子は知っている。自分の今の状態を作った要素は、もともとあったものだ。自分の中でずっと息を潜めていて、それが今になって表面化したのだ。そう反駁したかったが、言えなかった。言えば、両親を傷つけてしまうと知っていたから。
だから咄嗟に言ったのだ。たまたま壁に掛かっていたカレンダーの写真を見て。
「・・それなら、富士山を近くで見たい」
「富士山?」
「うん。このカレンダーの写真みたいな大きな富士山」
適当に言うと、母は、ぱっと明るい表情になった。
「それは山梨県の河口湖だね。車で行けば、三時間ぐらいで着くから、一泊すればゆっくりできるよ。よおし、宿を探してみるね」とスマートフォンを手にして言った。
車は、湘南海岸と並走する西湘バイパスを通った後、国府津インターチェンジで下りて、松田町を北上し、国道246号線を走った。すぐ近くに山々がどんどん見えてきて、山と山をつなぐトンネルを何度も通り抜ける。静岡県御殿場市に近づいたところで、交差点を右折した。
「山中湖に向かう国道138号線は、行楽客で混んでいるだろうから、迂回して行くよ。実は、いい回り道を知っているんだ」ブライアンが得意げに言った。
道路は片側一車線で、どこまでも伸びている。その周りを取り囲むように細長い木々が林立していた。ブライアンが言っていたように、六月なのに、木々の新緑が眩しい。前を走る車も、追いかけてくる車もない。
「とても素敵な道ねえ」と、沙知絵が声を上げた。ブライアンが頷きながら言う。
「少し時間はかかるけど、渋滞している道をたらたら進むより、こうやって、緑の中を好きなペースで走っていた方が、気分がいいしね」
莉子は、目の前を次々に流れていく景色を黙って眺めていた。カーナビで見ると、富士山に近づいている筈なのに、周囲を緑に囲まれていてその姿が見えない。けれど、どこまで行っても続くこの緑の一本道は、確かに気持ちが良い。そして気づく。
(気持ちが良いと思うなんて、ずいぶんと久しぶりだ)
住いのある鎌倉から離れ、遠くに来たせいか、気分が高揚しているのが分かる。
車は、富士山東口本宮富士浅間神社前の道を通って脇を抜けた。国道138号線に合流し、籠坂峠を上り始めた。いつの間にか寝てしまったのか、気づくとダニエルが静かになっていた。
次々とやってくるカーブに、ブライアンはハンドルを大きく回した。その度に身体が傾く。ダニエルが起きていたら、ジェットコースターみたい、ときっと大騒ぎだっただろう。時折、マウンテンバイクに乗った人達を追い越した。必死にペダルを漕いでいる。最後に最も大きなカーブを曲がるために、車は減速した。
「さあ、頂上だ。あとは下りだよ。まずは山中湖が見えてくるよ」
辺りは緑の林が続く。車はなめらかに坂道を下って行った。
2
「いらっしゃいませ。アンダーソン様。ようこそ河口湖へ」
温泉旅館の玄関に入ると、着物姿の女将と思しき女性が、にこやかな笑みで、莉子達を迎えた。
沙知絵とブライアンが、フロントで記帳している。莉子とダニエルは、近くの革張りのソファに座っていた。退屈したダニエルが、バタバタとロビーを走り回り始めた。
「ねえねえ、お姉ちゃん、絨毯がふかふかだよ。僕、ここでゴロンしてもいいかなあ」
「ダニエル、静かにしなさい。ここはお家じゃないんだよ」
「ねえ、あっちまで走ろうよ。競争しようよ」
莉子の制止の声も聞かず、ダニエルは笑い声を上げながら走り始めた。
その時だった。ロビーの入り口から歩いて来た青年にぶつかりそうになった。
「あ、ダニエル!」思わず大きな声を出してしまう。
青年は、突進して来るダニエルに気づいて立ち止まり、さっと手を出してダニエルの行く手を阻んだ。ぶつかりそうになったダニエルは、目の前の青年を見上げていた。莉子は走って二人のところに行った。「すみません。弟がご迷惑をおかけしまして」
「大丈夫ですよ」青年は、莉子を見て笑みを作った。ダニエルの栗色の髪に、そっと指を触れ、言った。「走るのは外でしようね」
ダニエルはこっくりと頷いてから、ばつが悪いのだろう、莉子の脚に腕をからませて隠れた。莉子は改めて青年を見上げた。背の高い父よりも大きく、全体的にすっきりと細身で脚が長い。どこか人好きのするような柔らかい笑みを口元に乗せている。
莉子の背後から声がかかった。「あら、蒼、戻ったのね」
振り向くと、旅館の女将だった。すぐ側に両親も立っていた。
「ちょうど良かったわ。お客様をお部屋までご案内してちょうだい。308号室よ。荷物はあちらね」
青年は頷いて、女将から鍵を受け取り、荷物を両手に持ち、莉子達ににっこりと笑みを見せた。「お部屋にご案内いたします。こちらへどうぞ」
青年が案内してくれたのは、三階の、湖に面した眺望の良い部屋だった。
広い部屋の中に入ると、窓の向こうに、河口湖と富士山が見えた。
「うわあ、大きい富士山!」ダニエルが歓声を上げて窓際に走って行った。
「ダニエル、走らないって、言っているでしょ」
「お姉ちゃん、ほら見て。富士山があんなに近くに見える!すごく大きい!」
「部屋を予約したの、ギリギリだったのに、よくこんなに素敵な部屋が取れたわねえ」
沙知絵が言うと、青年は言った。
「実は、ご予約いただいた直前に、キャンセルが入りまして」
「そうだったのね。私達はラッキーだったのね。あなたは、ここで働いているの?」
青年は静かに首を振った。
「僕はこの旅館の息子なんです。フロントでご案内したのは、僕の母です。普段は、地元の大学に通っていて、週末や休日、時間のある時に仕事を手伝っています」
「あら、学生さんなの、莉子と同じじゃない。この子はこの春から大学一年生よ」
「ああ、そうでしたか。僕は二年です」青年は莉子を見て、笑顔を向けた。
「大浴場は、いつでもお入りになれます。ご夕食は、六時になりましたら、一階のレストランにお越しください。何か御入用でしたら、こちらにある電話でフロントにおかけください。それでは失礼いたします。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
ブライアンがチップを渡そうとするのをやんわり断り、青年は礼儀正しく正坐して礼をし、部屋を出て行った。慣れているのだろう、美しい立ち居振る舞いだった。
「素敵な男の子だったわねえ!」
沙知絵が感嘆した声で言った。
ダニエルが早速、大浴場に行きたいと言うので、両親は、着替えを持ってダニエルを連れて、大浴場へと向かうことになった。
「わたしは夕食の後にする。ちょっと湖畔を散歩して来るね」
「そうね、ダニーと一緒じゃ、落ち着かないわよね。新鮮な空気を吸って、のんびりするといいわよ。車には気をつけてね」
沙知絵は、莉子が外出する時には、いつも「車に気をつけて」と言う。小中学校の通学時、高校生になって駅まで自転車通学する時にも。もう大学生になったのに、相変わらず同じことを言う。
みんなで部屋を出て、一階にある大浴場へ向かう三人と別れ、莉子はフロントで鍵を預け、旅館の玄関を出た。
旅館の前には小さな日本庭園があって、水音が聞こえる池には、赤や黄色の模様の入った錦鯉が泳いでいた。玉砂利の敷かれた道を歩き、道路に出た。道路を横切ると、遊歩道があり、湖畔に下りられる。週末なので、駐車場には、横浜や品川、湘南など、様々なナンバーの車が停まっていた。
莉子と同じ観光客らしい人々が、思い思いに遊歩道を散歩していた。アイスクリームを食べている女の子達もいたし、ヨークシャテリアを散歩させているカップルもいた。湖の向こうの富士山を撮影している人も多くいた。スマートフォンではなく、三脚を立て、本格的なカメラを使っている。
莉子も立ち止まって、目の前の富士山を見つめた。なだらかな二等辺三角形の底辺の方は、薄い雲で覆われていた。先程、女将が話していたのを思い出した。
「実は、こんな風に富士山がくっきり見える日は、秋から冬はともかく、春から夏はそんなに多くはないんですよ。でも、雨の日に観光ツアーで来たお客さんの中には、たまに怒り出す人がいるんですって。自分は、富士山を見るために、わざわざお金を払ってここに来たのだから、それが見られないなら、ツアー代金を返してくれ、なんて言って。気持ちは分かりますけど、お天気ばかりは、人間の勝手にはできませんからねえ」
莉子は富士山を見つめた。なんて大きな山なんだろう。今朝、稲村ケ崎で見た富士山とは大違いだ。それに、ここには何もない。サーファーも、江の島も、国道134号線の車の列も。大きな富士山と目の前で静かに揺れる湖面だけだ。
風が吹き、莉子の前髪を揺らした。
(・・わたしは、富士山が見たかったのかな・・?)
そもそも、何が何でも見たかったわけでもない。ただ、沙知絵にどこかにドライブに行こうと言われたあの時、たまたま目の前に富士山の写真があったのだ。特に深く考えずに言ったのだ。
観光客から離れて湖畔に下りる。湖は、莉子が知っている由比ケ浜の海とは全然違う。水は透明で、底には小さな丸い石がびっしりある。風に揺れて小さな波が、足元に届く。ピチャピチャという音が聞こえてきた。
「ちゃんと波があるんだ」思わず口にした。由比ケ浜の海のザーン、ザザーンという波の音とはまったく違う。ささやかで優しい音だ。
時折、ものすごいスピードで車が道路を走って行った。その度に莉子は道路の方を見た。スピードを出し過ぎる車は好きではない。エンジン音がうるさい。人を押しのけて自己主張する人のようで、下品だと感じる。そんなに急がなくてもいいのに、と思う。
車には気をつけて。出かける際、母が未だに莉子にそういうのには理由があった。
莉子は、幼稚園児の時、交通事故に遭った。横断歩道を青信号で渡ろうとした時、信号無視をして右折してきた車に撥ねられて意識不明の重体に陥ったという。幸い命は取り留めて、額に少し傷は残ったが、前髪で十分隠れるし、そんなに目立つ傷ではない。
命は取り留めたが、その時に頭を強く打ったせいか、莉子はそれまでの記憶を失った。
幼い時の記憶が莉子にはない。鎌倉に引っ越して来て、近くの幼稚園に通うまでは、横浜で暮らしていたらしいが、その頃の記憶がまったくないのだ。
誰だって、小さな頃の記憶など、そう多くは憶えていないだろう。友人達に訊いてみても、一番古い記憶は、保育園に預けられていた時のことや、妹や弟が生まれて、病院に母親を見舞いに行った時のことなど、ぽつぽつとした感じで出てくるだけだ。別に思い出せなくても、今、生活する上で何か支障があるわけでもない。
けれど、まったく何も思い出せないというのは、やはり異様だと思えた。六歳のダニエルを見ていると、余計にそう感じる。赤ちゃんの頃や、離乳食を食べ始めた時、歩き始めた時、おしゃべりがうるさくなった頃、ダニエルが憶えていなくても、莉子は赤ん坊だった彼の可愛らしい姿と、一緒に過ごした濃密な時間をよく憶えていた。
だから失った記憶を取り戻したいと思った。記憶が真っ暗なままでは安心できない。ぼんやりとした印象でもいい。何かが自分の中に残っていれば、それで良かった。
ダニエルが生まれた時、莉子は十三歳だった。父ブライアンの髪は明るい茶色だ。生まれたてのダニエルの小さな頭には、うっすらと栗色の毛が生えていた。それを見た時、莉子は思ったのだ。自分とは違うと。
それまでも疑問には思う時はあったし、人からも言われることはあった。
「莉子ちゃんて、パパがアメリカ人なのに、ハーフっぽくないね。ママは再婚なの?」
誰が見てもそう思うだろう。髪の色が違う父と母、両方の特色を持つ容貌の弟の側に立つ、黒髪黒眼の莉子。莉子は沙知絵に訊いたことがある。
「ねえお母さん、わたしはお父さんとお母さんの子どもなんでしょう?それなのに、どうしてわたしの髪は真っ黒なの?」
母は笑って言った。
「それはね、たまたまお母さんの色が強く出たからよ。絵の具だってそうでしょう?黒はどんな色も黒くしてしまう。髪や目の色だって同じよ。兄弟姉妹で髪の色が違うことなんて海外では普通のことよ。日本にいるから、目立つ感じがするだけだよ」
「わたしは、本当にお父さんとお母さんの子どもなの?」
「当り前よ、何、言ってんのよ!」
「じゃあ、どうして、わたしが赤ちゃんの時の写真がないの?」
食い下がると、母は顔をしかめながら言った。「前にも言ったでしょう。横浜で住んでいたアパートが火事になっちゃったって。三人で逃げるのに必死で、アルバムやDVDはみんな燃えちゃったのよ。あの頃は、今みたいにオンライン上でデータ保存するなんて便利な機能はなかったの。あれは本当にショックだったわよ。可愛かったあなたの記録を失ってしまったんだもの。でも、お母さんはあなたの小さかった時のことをちゃんと憶えているし、大事なのは、命が助かったこと。これから楽しい思い出を作って、たくさん写真を撮っていけばいいじゃない。今度はちゃんとバックアップもとるわよ」
その言葉通りに、父と母は、莉子の写真を事あるごとに撮りたがった。幼稚園の卒園式、小学校の入学式、運動会、鶴岡八幡宮で撮った七五三の着物姿。両親と並んで三人で、ダニエルが生まれてからは家族四人で。家のリビングの出窓には、フレームに収められた家族写真がいくつも並んでいる。
その写真を眺めていると、もうこれ以上の質問をしても無駄なのだろうと莉子は思うようになった。それでも、何度も心の中で母に問うた。
(でもお母さん、わたしの写真がないのは、赤ちゃんの時だけじゃない。交通事故に遭って記憶を失うまでの写真も、そっくりなくなっているんだよ。そんなの変でしょう?交通事故と一緒に、写真まで消えてなくなってしまったの?)
車には気をつけて。母が莉子に繰り返してそう言う度に、莉子は少し胸が苦しくなる。それ以上の詮索はしない方がいいのだ。時折、父と母に、昔の話を訊くくらいで十分なのだ。アパートが火事に遭ったこと、莉子が交通事故に遭って生死の境を彷徨ったことは、両親にとっては、つらくて嫌な思い出なのだ。今、家族が、元気でいるならそれで十分ではないか。確かにその通りだ。莉子は、ここにいる今を大切にしていけばいい。今を楽しめばいいのだ。
「・・そうだよね」と呟いてしゃがみ込み、湖の澄んだ水を見ていると、憂鬱な気持ちが少しだけ晴れていく気がした。大きく伸びをして目の前の富士山を見つめる。それにしても、笑ってしまうくらい大きい。あまりにも大きくて、綺麗で、静かで、ここはなんてすごい場所なのだろう。空の大きさも、周囲の美しい緑も、自然が満ちている。
ここに来られて良かった。莉子は素直にそう思った。
遊歩道に上がり、旅館に戻ろうと、行き交う車が途切れるのを、横断歩道の前で待っていると、「お姉ちゃーん」と、ダニエルの声が聞こえてきた。見上げると、旅館の三階の窓を開けて、ダニエルが大きく手を振っていた。隣で父と母が笑っている。みんな、揃って浴衣を着ていた。莉子は三人に向け、軽く手を上げた。
レストランのテーブルは、夕食を楽しむ宿泊客でいっぱいだった。莉子達と同じような家族づれ、カップルらしい男女、老夫婦が、それぞれ、浴衣姿でゆったりとくつろぎ食事をしている。その間をウェイトレスが、忙しそうに立ち働いていた。
蒼と呼ばれていた先程の青年の姿はなかった。彼はこの旅館の息子さんだそうだから、きっと今頃は、自分の部屋にでもいるのだろう。何となく残念な気持ちになっている自分に気づき、莉子は心の内で笑った。
(・・うん。まあ確かに、結構、素敵な人だったかな・・)
旅が人の心を解放するというのは、本当だ。鎌倉にいる時より、莉子は様々なことを考えている。知らない場所で、色んな景色を見て、同じように旅をしている人々を見ながら、莉子の心は、少しだけ整理されていく。自分が気になっていること、嫌なこと、大切だと思うことを、余所行きの顔と姿勢で考える。
目の前には父と母がいる。二人は山梨産の白ワインを飲んで、顔を赤くしていた。天井から吊り下げられたシャンデリアの灯りが、きらきらとグラスに反射している。二人の表情もリラックスしていて、楽しそうだった。莉子と同じように、両親の心にも普段とは違う感情が生まれているのかもしれない。春から体調を崩し始めた莉子のことで、二人にも心労が溜まっていた筈だ。両親にもこういう時間が必要だったのだろう。
一方、ダニエルは、どこに行っても変わらない。まだ六歳の彼は、この世の全てが優しく彼を包み、明るいものだと信じて疑わない。甲高い大きな歓声を張り上げ、可愛らしい声でおかしなことを言っては、周囲の人達を笑わせていた。
「莉子、明日は何をしようか?どこか行きたいところはあるかい?」
父の言葉に、莉子は言った。
「今日は、山中湖と河口湖を見たから、残りの西湖、精進湖、本栖湖を見てみたい」
「オーケイ。いいね。じゃあ、富士五湖を周遊してドライブしよう。帰りは、静岡の方から鎌倉に帰ってもいいしね」
「パパ、運転がんばってね!」ダニエルがはしゃいだ声で言った。
夕食が終わり、部屋に戻って少し休んだ後、莉子は大浴場に入ろうと、着替えを持って一階へと下りて行った。案内表示に従って、大浴場までの渡り廊下を歩く。ほんのりとオレンジ色の灯りが灯る廊下には、ところどころに季節の花がさりげなく活けられていた。壁沿いには大きく引き伸ばされた写真が額に入れられ、何枚も飾られていた。
四季の風景写真と共に、美しい稜線の様々な顔を持つ富士山の写真が並んでいる。朝焼けで赤く染まる富士山。花火大会。山小屋の灯りが連なる夏の夜の富士山。
それらを丁寧に眺めながら、一枚の写真の前で、莉子の足が止まった。
目の前の写真を凝視する。
他の写真と同じように富士山を撮ったものだ。少し遠くから撮ったものか、富士山の姿は小さい。周辺の山と湖面が写っている。
どこかで見たことがあるような気がした。
鎌倉の家のカレンダーに載っていた写真とは違う。富士山の大きさが違う。そうではなくて、どこかで、この写真と同じようなものを見たことがある気がする。
懸命に記憶を呼び起こそうとするが、思い出せない。そもそも今回の旅行に出かけるまで、莉子にとっての富士山は、晴れた日に国道134号線を江の島に向けて車で走った時に、たまたま稲村ケ崎から見える小さな富士山だった。
(それなのに・・)
莉子はその場から動けない。どうして、目の前にあるこの写真を見て、自分はこんなに驚いているのだろう。その時だった。
「どうかされましたか?」不意に後ろから声をかけられて、莉子は驚いて振り返った。
声をかけてきたのは、チェックインした時に、部屋まで荷物を運んでくれた例の蒼と呼ばれていた青年だった。蒼は柔らかく笑いながら莉子の側に歩いて来た。
「ずっとこの場にいらっしゃるので、どうかされたのかと思いました」
「あの、この写真・・」莉子が目の前の写真を指差した。
「この写真が、どうかしましたか?」
莉子に並んで蒼も写真を見上げた。こうやって隣に立つと、彼の背の高さが改めて分かった。莉子の頭は、彼の肩にも届かない。
「この写真と同じ風景を、どこかで見たことがあるような気がして。わたし、河口湖に来るのは今回が初めてなので、こんなこと言うのも変なんですけど、どこか懐かしいような気持ちがしてきて・・」
莉子の言葉を、蒼は静かな表情で聞いていた。小さく笑って言った。
「実は、ここに写っている湖は、河口湖ではないんです」
「え、そうなんですか?わたし、てっきり河口湖だとばかり思っていました」
「違います。この写真を撮ったのは、僕なので」
莉子は改めて蒼の顔を見上げた。蒼はどこか眩しそうな目で莉子を見つめていた。
「・・あの、わたし、飾ってある写真の中で、この写真が一番好きです」
莉子が言うと、蒼はにっこりと微笑んだ。「気に入っていただけたなら、光栄です」
「ここに写っている湖は、どこなんですか?」
「本栖湖です」
「本栖湖・・。明日、西湖、精進湖、本栖湖をドライブして回る予定なので、この場所を見つけられるか行ってみますね」莉子が言うと、蒼は笑顔で頷いた。莉子が手に持つ着替えの入ったバッグに気づいたように、「今からご入浴ですか」と訊いてきた。
「はい」
「このまま廊下を真っすぐ進んで右折すれば、入口があります。この時間なら、静かにゆっくりできると思いますよ」
「はい。ありがとうございます」莉子は礼を言って、歩き出した。
廊下を渡り、ふと振り返る。蒼はまだ先程の写真の前に立ち、写真を見つめていた。
翌日は快晴だった。レストランで、ビュッフェ形式の朝食を食べた。
テーブルに着いて、莉子がオムレツを食べていると、遠くからでもダニエルと母の声が聞こえてきた。
「ママ。僕、あのかわいいパンケーキを食べたい。アイスクリームをのっけてね」
「はいはい、分かりました」
「ダニーは朝から元気いっぱいだね。莉子は、昨夜はよく眠れたかい?」
父に尋ねられ、莉子は頷いた。「ぐっすり、夢も見なかった」
「それは良かった」父が笑う。莉子はコーヒーを啜り、窓から見える大きな富士山を見た。昨夜の夕食時には、窓の外は真っ暗だったので気づかなかった。ここではいつも、こんなに大きな富士山を見ながら食事ができるのだ。
蒼が撮ったという写真が脳裏に浮かぶ。あそこに写っていた湖は本栖湖だと彼は言っていた。今日は、本栖湖にも行ける。また違う美しい景色に出会えるのだ。
「もう、ダニーったら、何でもかんでも食べたいって言うんだもの。取ってきたものは、ちゃんと全部食べるのよ」
「僕、ちゃあんと全部食べるよ。だっておなかぺこぺこだもの」
母とダニエルの賑やかな声が近づいてきた。二人がテーブルに戻ってきただけで、父と二人だった静かな空間に、一気に雑多な音が紛れ込んできた。
父が莉子に苦笑して見せる。莉子は肩をすくめて返した。
荷物を一階におろし、チェックアウトをしている時だった。
コンシェルジェのいるカウンター側の棚にあるパンフレットを見ていたダニエルが、大きな歓声を上げた。「トーマスだ!ママ、トーマスがいるよ!」
コンシェルジェが、ダニエルにパンフレットらしきものを手渡し、にっこりと笑って言った。「トーマスランドですね。富士急ハイランドにございますよ。ここから車で二十分ぐらいで行かれますよ」
少し離れたソファに座って聞いていた莉子の予感は当たった。ダニエルは言った。
「ママあ、僕、富士急ハイランドに行きたい!トーマスランドに行く!」
母が言う。「ダニー、急には無理よ。今日はこれから残り三つの湖を見にドライブしようって、昨日、パパとお姉ちゃんが話していたでしょう?」
「嫌だ!僕、トーマスがいい。富士急ハイランドに行きたいの!湖なんて見たくない!湖なら、すぐそこにあるじゃない。もう見たじゃない。トーマスがいいの!」
ダニエルの声がロビーに響いた。車の用意をしていた父が、ロビーに入って来た。
「どうしたんだい?」
「それがね・・」
「僕、富士急ハイランドに行きたいの!絶対に行きたいの!」
ダニエルの剣幕を見ながら、事情を察したらしい父は、ダニエルの前にしゃがみ込んで、言い聞かせるように言った。
「ダニー、でも、お姉ちゃんは、今日は、他の湖を見たいって言っていたよね?」
「僕だって、富士急ハイランドに行きたいの!トーマスがいいのお!」
しまいには、声を上げて泣き出した。ロビーにいた人達の目がダニエルに集まる。ダニエルにパンフレットを渡したコンシェルジェが、申し訳なさそうな顔をして、父や莉子の顔を見た。
「わたしはいいよ。ダニエルの行きたい所に連れて行ってあげて」
この場ではそう言うしかなかった。
「でも、莉子、富士五湖が見たいって・・」
ダニエルは大声でわんわん泣き続ける。莉子はいたたまれない気持ちになって、手を振った。ダニエルはいつもそうだ。そうやって欲しいものを手に入れようとする。我が儘になれるのは、安心感があるからだ。絶対の安心感。自分が両親から愛されているという自信。だからこうして公衆の面前でも我が儘を通せるのだ。莉子にはできない。
「もう、いいから!」思いがけず大きな声が出てしまった。
もういいから、早くこの場を出たい。恥ずかしい。ここから離れたい。
騒ぎを聞きつけたのか、女将が足早にやってきた。その後ろには蒼の姿もあった。コンシェルジェから事情を聞き、女将は頷き、にこやかに言った。
「まあ、そうことでしたか。それなら、どうでしょうか。弟さんとご両親は富士急ハイランドに行っていただいて、お姉様は、うちの息子に富士五湖を案内させましょう」
女将の提案に、母が当惑した顔をした。
「でも、もうチェックアウトも済ませましたし。そんなご迷惑はかけられません」
「あら、いいんですよ。この子は、しょっちゅうお客様を車に乗せて富士五湖を周遊していますから。こう見えて、運転は上手いんですよ。蒼、あなた、今日は特に予定はないって言っていたわよね。いいわよね?」
女将の勢いに押されるようにしながら、蒼は目を丸くした後、頷いた。
「いいですよ」蒼は笑み、問うように莉子を見た。「僕で良ければ、ご案内しますよ」
ダニエルが涙目で莉子を見た。両親は困った顔をしている。
自分はどうしたい?莉子は自分自身に問うた。ダニエルと一緒に富士急ハイランドに行く気にはなれなかった。きっとそこは、今の莉子にとっては楽しくない場所だ。また、いつものように楽しい振りをしてしまう。
(せっかく遠くに来たのに・・)
莉子は顔を上げ、蒼に言った。「お願いします。連れて行ってください」
「承知しました」蒼がにっこりと笑った。
3
両親とダニエルとは、午後二時に河口湖駅のロータリーで落ち合う約束をした。
「お姉ちゃん、またねえ!」窓を開け、にこやかに言って手を振るダニエルと両親が乗った車を見送った後、莉子と蒼も出発することにした。
蒼の車は、臙脂色のミニクーパーだった。
「これは僕の亡くなった祖父が使っていた車で、もうオンボロだけど、頑張ってくれるので、なかなか手放せなくて」そう言いながら、慣れた風に助手席のドアを開けてくれる。助手席に座った後、父以外の男性が運転する車に乗るのは初めてだと気づき、少し緊張する。運転席に蒼が乗って、シートベルトを締めた。
「あ、あの・・」
「何ですか」
「チェックアウトも済ませたので、もう敬語はやめませんか。普通に喋ってください」
「そっちも丁寧語だね」蒼はくすりと笑って、エンジンをかけた。
「そうだね。同じ大学生だし、ここからは普通に喋ろうか。まずは何て呼んだらいい?アンダーソンさんじゃ、長いよな」
「えっと、莉子でいいです」「じゃあ、莉子さん」
「呼び捨てでいいです。友人はみんなそう呼ぶので」
「じゃあ、僕のことも、アオイで。アオでもいいよ。じゃあ、出発するよ」
そう笑って、蒼は車を走らせた。
車は、片側一車線の道路をなめらかに走り始めた。左側には河口湖の湖面が見える。
「西湖、精進湖、本栖湖という順で回るよ。君のお父さんが、お小遣いをくれたから、どこかでランチにしよう」
「はい。よろしくお願いします」莉子が頭を下げると、蒼は笑った。
「はい、こちらこそ。って、普通に喋ろうよ。じゃあ簡単に自己紹介しようか。俺は二十歳で、大学二年生、平日は甲府にある大学に車で通っている。専攻は、経営学。旅館の一人息子なんで、将来はどうしようか考え中と言ったところ。莉子は?」
「わたしは、横浜の大学に通っているの。専攻は史学」
「史学って、西洋史?日本史?どの辺が好きとかって、あるの?」
「勉強したいのは、日本の中世史」
「へえ、それは、鎌倉に住んでいるから?」
「それもあるのかも。『吾妻鏡』をちゃんと読んでみたくて入ったの。でも一年だから、まだ何もしていない」
「一年目はそんな感じだよな。まずは大学生活を楽しめばいいんじゃない?」
道路は、次第に湖面と離れていく。
「そのつもりだったんだけど、高校を卒業してから、急に体調が悪くなっちゃって、今は何とか大学に通っている感じで」
「そうなんだ?・・何か、病気とか?」蒼がちらりと莉子を見た。莉子は首を振った。
「よく分からないの。夜中に目覚めて、その後、眠れなくなる日が続いて。そうすると早起きできなくなって。いつもだるい感じで、夕方に微熱がでる時もあるけど、どの病院に行っても、検査の結果は異常なし。八方塞がりという感じ」
笑おうとするが、涙が出そうになって、慌てて堪える。
「もしかして、今も気分悪い?無理しないで、旅館で休んでいてもいいんだよ」
「ううん。大丈夫。実は、昨日、ここに来てからは、すごく気分がいいの。空気がいいのかなあ、頭の中がクリアになっている。調子が悪かったことを忘れていたくらい」
「それは良かった。・・ああ、西湖は近いから、もうすぐ見えてくるよ。車はいつでも停められるから、停めて欲しい時は、言って」
「うん。ありがとう」
車はスピードを上げ過ぎるわけでもなく、一定のペースを保ち、なめらかに、流れるように走る。女将が言っていたように、蒼は運転がすごく上手なのだろう。乗っていて安心できる。莉子も、高校卒業前に教習所に通って、運転免許証は取得したが、鎌倉の狭い道はすれ違いが多く、まだ一人では怖くて運転できない。
「この辺はよく走るの?」「うん。もう庭だね。車に乗るの、好きなんだ。お客さんを案内する時もあるし、あとは気分転換で、ぐるぐる回ったり」
「富士山の写真を撮りに行ったり?」
「そうだね。まあ、しょっちゅう撮っているわけじゃないけど。そうだ、莉子が一番気に入ってくれた写真を撮った場所、後で案内しようか?」
「実は、それをお願いしたいとずっと思っていたの」
莉子が言うと、蒼は首を傾けるようにして笑った。
「オーケイ、喜んで。莉子さ、昨日、ずっとあの写真の前に立って、見ていただろう?俺、自分が撮ったやつだったからさ、気になっちゃって。あの子、なんであの写真だけをずっと見ているんだろうって。何か変なものでも写り込んでいるのかと思ったよ」
「違うの。そういうわけではなくて、なんだか懐かしい感じがしたの。富士五湖に来るは初めてなのに、あの場所からの富士山をどこかで見たことがあるような気がして」
「・・そうなんだ」蒼は前を見たまま、静かに言った。
話していて改めて気づく。体調を崩して以来、鬱々としていた心が、あの写真を見た時、大きく動いたような気がしたのだ。強い既視感。こみ上げてくる懐かしさ。自分は、この風景を見たことがあると強く感じた。そこには大切な何かが詰まっている。だから莉子は、あの写真から目を離せなかったのだ。
理由は分からない。でも、その場に立ったら、それが何なのか分かるかもしれない。
莉子は目の前に続く道を見つめた。
程なく湖面が見えてきた。西湖だ。
「富士五湖のうち、西湖と本栖湖と精進湖は、地下でつながっていると言われている。大雨が降った後の増水時に、それぞれの湖で水位が同じになるんだ。俺が生まれるずっと前の話だけど、以前、大雨で、西湖の水位が上がって、この辺一帯が水浸しになったことがあったらしい」
空いているスペースに車を停め、湖面を眺めながら、蒼が説明してくれた。
西湖は、河口湖と違って、周囲に大きな宿泊施設もそう多くなく、静かだった。そしてやはり、目の前には雄大な富士山の姿があった。
「莉子はラッキーだったね。この時期に、二日続けて快晴なんて、なかなかないよ」
蒼が笑う。莉子は頷いた。不思議な人だ。昨日会ったばかりなのに、ずっと前から知っているような、この安心感は何だろう。隣にいて違和感がない。大学のキャンパスで出会う他の男子学生のように、変に意識しない。何故、こうも自然なんだろう。そう考えながら、蒼の穏やかな横顔を見上げていると、
「え?何、どうかした?」と、怪訝な顔をされた。慌てて、首を振る。
「蒼は、わたしと歳もそう変わらないのにすごいね。車の運転もだけど、旅館の仕事も手伝って、こうして、嫌な顔もせずに、もうチェックアウトした客の面倒まで見て」
蒼はにこりと笑う。「物心ついた時から、旅館を走り回って、お客さんに可愛がってもらったからね。毎日、色んな人に会って、色んな家族を見てきたから。お客さんがうちの旅館でくつろいで、楽しんでくれているかが気になって、自然に人を観察するようになっていた」
「・・うちの家族は、どんな感じに見えた?」
蒼は腕組みをして考える表情になった。
「うーん、アンダーソン家は・・、ダニエル君が突出していたね」
その言葉に、莉子は思わず吹き出していた。「・・うん。確かに、その通り。うちの家族の中心は、わたしの弟。父も母もわたしも、彼の明るさに救われている」
小さな弟の存在に救われ、平穏なペースを乱され、苛立たされる。疎ましくも思う。そんな風に思う自分が嫌で、莉子は以前に比べ、ダニエルと接する機会を減らすようになった。子どもというのは不思議だ。避けようとすると、本能的にそれを察知する。大きな目で莉子を見て、何度も訊いてくる。「お姉ちゃん、ダニエルのこと好き?」
「好き好き、大好きだよお」と言って抱きしめてやるが、本当は言わされている感じがして嫌だ。十三歳も年下の弟にそんな質問をされたら、本当は一緒にいると少し疲れるとは、絶対に言えない。
可愛いと思うし、赤ちゃんの頃から面倒を見てきた。大切な存在であることは間違いない。だが、ダニエルが成長していくのを見ていくうち、莉子は自分の中にある歪なものに気づくようになった。もしダニエルがいなかったら、きっと気づかずに済ましていたことだ。少しずつ積み重なっていた歪なもの。疑問。
「うちの家族、変に見えたでしょう?母とわたしは黒髪で、父と弟は明るい茶色。たぶん、子連れ同士の再婚とかに見えたんじゃない?」
「・・家族の形は、色々あるから」蒼が穏やかな表情のまま、言った。
「うん。そうね、そう言うのが正解ね、きっと。でもね、父と母はわたしに言うの。わたしは、二人の子どもなんだって。どう見たって、そう見えないのに、言い張るの。困ったことに、戸籍を調べても、ちゃんとそう書いてある。わたしはアメリカのピッツバーグで生まれたらしいけど、そこで発行された出生証明書には、父の子としてちゃんと登録されている。だからこれ以上、わたしは質問を続けられない」
小学生の頃は、母の説明に納得していた。莉子が黒髪なのは、たまたま、母の遺伝子が強かっただけのこと。黒は、どんな色よりも強い色だからなのだと。
けれど、ダニエルが生まれて、彼の世話を母と共にしていくうちに、莉子は思うようになった。記録がどうであれ、自分は、おそらく父と母の本当の子どもではない、と。
何故なら、父と母は、乳児だった時、莉子がどんな子であったのかを具体的に莉子に語らなかった。
「あなたも、赤ちゃんの時は、とっても可愛かったわよ。ダニエルはお姉ちゃんと同じことをするのね」
莉子が尋ねれば、母は必ず笑顔で、こんな風に返してくるが、具体的な思い出を語らない。父と母が嫌いなわけではない。ずっと育ててもらい、今も大切にしてもらっている。それでいて、莉子は家族に対して、わだかまりを持ってしまう。家族は好きだ。ずっと一緒に鎌倉の家にいたいと思っているが、心のどこかで、冴え冴えとした別の感情の塊が沈んでいるのを知っている。その塊は動かしようがない。
「莉子は、両親に何を求めているの?」蒼に静かに問われて、はっとする。
自分が求めているもの。手に入れられずに、鬱々としているもの。それは、分かっている。それは、きっと。
「小さい頃の記憶がないの」
「え?」と驚いた顔をする蒼を見て、莉子は言った。「わたし、四歳の時、交通事故に遭って、記憶喪失になって、何も憶えていないの。小さい時の記憶がまったくないの。交通事故に遭ったことも憶えていない。だから、こんな風に感じるのかもしれない」
「・・四歳って言うと、今から十五年前・・?」蒼は呟くように言って、真剣な顔をして黙り込んだ。あまりに深刻そうな表情をするので、莉子は慌てて言った。
「どうしようもないことを言って、ごめんなさい。結局、そういうことなの。家族にイライラしてしまうのは、自分に小さい頃の記憶がないせいなの。そんなの、しょうがないことなのに、ただの八つ当たりだって、本当は分かっている」
蒼は、小さく息を吐いてから、言った。
「・・そういう状況だったなら、気持ちは分かるような気がする」
優しく言われて、莉子は不意に泣きそうになった。蒼が驚いた顔をした。流れてくる涙を止められず、莉子は慌てて顔を背けて言った。
「ごめんなさい。泣くつもりなんてないのに。・・ただ、このことを人に話したの、初めてだったから。ずっと友達にも話せていなかったの」
こうして言葉にして分かることがあった。幼い頃の記憶を失ったことで、自分は家族との絆も失ったような気がしているのだ。両親に愛されていたこと、大切に育ててもらったこと、その幼少期の記憶の断片すらない状態で、家族との関係を紡いでいくのは、おそらく想像以上に、人の心の根底に不安定さを残すものなのだ。
春から急に始まった心身の不調の原因の大本が、?めた気がした。今までずっと自分の心の中にしまい込んだままにしていた。誰にも言えなかった。それが何よりもきつかった。
「変な話を聞いてくれて、ありがとう。ちょっと楽になった気がする」
頭を下げると、蒼は静かに微笑した。
「いいえ。どういたしまして。・・そろそろ行こうか。次は精進湖、その後は、本栖湖。例の写真を撮った所に案内するよ」
莉子は頷いた。そうだ。あの写真の風景があった。
失った記憶は、どう頑張っても取り戻せない。それなら、未来のことを考えよう。昨夜、自分の胸に漣を起こした写真の風景を見に行こう。それを記憶に残せばいい。せめて、今、自分が持っている記憶、胸の中にある感情を失くしてしまわないよう、大切にしていけばいい。
蒼が案内してくれた場所は、本栖湖の湖面から少し離れた小高い丘のような所だった。ハイキングコースや公園として整備されているわけではない一画で、近くに駐車場もない。蒼は路肩に車を停めた。腰まである雑草をかき分けるように道なき道を歩くのを、莉子は必死で追いかけた。十五分ぐらい登って、その場所に辿り着いた。
「・・この辺り、そう、ここだ。このポイントで、昨夜の写真を撮ったんだ」
蒼が場所を譲り、莉子はその場に立った。
左手前に小さな山があり、その向こうに空と同じように水色の富士山の姿がある。富士山の足元には樹海が広がり、その手前の湖面が青い空を反射して輝いていた。
風が吹き、莉子の前髪と足元に生えている草を揺らした。
それは、確かに、莉子が昨夜見た写真と同じ風景だった。写真でない分、奥行きと広がりが感じられる。何よりも頬に触れる空気の流れがあった。
けれど、目の前の風景は、ただの風景だった。この風景を切り取った、あの写真を見た時ほどの、何とも言えない懐かしいような強い感情は湧き上がらなかった。
確かにあの風景だ。あの写真と一緒だ。でも、昨夜あの写真を見た時に動いた心は、不思議と動かなかった。
4
河口湖畔に建つ小さなオープンカフェに寄り、ランチを食べることになった。
犬を連れた客が、何組かテラス席でくつろいでいた。案内されたテーブルのすぐ側で、真っ黒なラブラドール・レトリーバーが、行儀よく腹ばいになっていた。
「犬が側にいても平気?」
「うん。大丈夫」
莉子は椅子に座る。ウェイトレスがやってきて、メニュー表と水の入ったグラスを置いて行った。
「ここのお薦めは、実はこのサラダだよ。メインと言ってもおかしくないボリュームだから、きっとびっくりするよ。あとコーヒーと自家製のザッハトルテもうまい」
蒼は、メニュー表を莉子に見せ、慣れた風に言った。
「莉子のお父さんにお小遣いを貰ったから、俺も遠慮なくいただくよ」
「蒼のお薦めのサラダとデザートで。メインは、カルボナーラにする」
ウェイトレスが去った後、莉子はグラスに手を伸ばし、水を飲んだ。
「お水が美味しい!」
蒼がにこりと笑う。「富士山の伏流水だからね」
「それにすごく冷たいのね。旅館の水道の蛇口から出てくる水が冷たくて、びっくりした。鎌倉の水とは全然違う」
「そうなんだ」
「鎌倉には来たことある?」尋ねると、蒼は頷いた。
「あるよ。この地域の小学校の修学旅行の行先は、鎌倉と三浦半島だし、高校の時にも、日帰りで行ったバス旅行の行先は鎌倉だったな。グループ行動で、大仏に鶴岡八幡宮、萩で有名な宝戒寺に行ったな。季節は春だったから、萩は咲いていなかったけどね。あとどこか忘れたけど、高級感溢れる蕎麦屋で昼飯を食べた記憶がある。莉子は鎌倉のどの辺に住んでいるの?」
「鎌倉宮って分かる?その近く、山の側なの」
「ああ、そうなんだ。アメリカで生まれたって言っていたよね。日本に来てからは、ずっと鎌倉に住んでいるの?」
「ううん。五歳になる前に引っ越してきたの。その前は、横浜にいたって。横浜のアパートが火事にあって、赤ちゃんの頃の写真は全部燃えてしまったって。交通事故に遭ったのは、その後。わたしは憶えていないけど」
蒼は驚いた顔をした。「火事に交通事故。・・災難続きだな」
誰が聞いても、同情するしかないだろう。だから、その話をわざわざ友人にしたことはない。「わたしはどちらも憶えていないから、漫画みたい話だなと思ってる」
「じゃあ、莉子の一番古い記憶って、どんなの?」
蒼はテーブルに肘をつき、両手を顎の下に置いて、言った。
「一番、古い記憶?」そう言われて考える。自分自身、失った記憶を取り戻そうと、幾度となく思い出そうとしてみた。けれど駄目だった。どんなに意識を集中させても、そういう関係の本を読んでも、何も思い出せない。
「鎌倉に引っ越した後、母に手を引かれて、幼稚園に通っていた時の風景かな。家から幼稚園までは、子どもの足では結構、遠いんだけど、歩いて通っていたの。途中に桜並木があって、その道を通るのが好きだった。幼稚園の近くに行くと、最後に信号が見えてくるんだけど、その信号がいつも気になっていたの」
「信号?」「うん。歩行者信号の方。黄色の時、青信号が点滅するでしょう。その意味が分からなくて」
「と言うと?」
「うまく言えないんだけど、あの信号を見ると、『違う、これじゃない』って思った。母にも言ったかもしれない。『信号が違う』って。何だろうね、どうして信号にこだわったのか、今では自分でも分からない。けど、その信号を見ると、それを思い出す」
四歳の時の自分が抱いていた違和感。あの頃の莉子は、今よりも、ずっと敏感に自分の記憶がないことを感じていた筈だった。小さいからそれを言葉や感情に表せないだけで、心の中で懸命に失った記憶を求めていた筈だった。
思わず笑みを漏らす。「考えてみたら、四歳の自分って、すごいなあって。何にも真っ白の状態から、よくこうやって成長できたなあと、今は思う」
「ご両親が見守ってくれたんだよ」蒼は優しい目で言った。
「莉子の家族が何かを抱えているのは、正直、何となく分かった。ダニエル君は別として、君のご両親も、君も、少し疲れているように見えた。だから、うちの旅館でゆっくりしていって欲しいなと思っていた。そしたら、朝から、ロビーでダニエル君の大きな泣き声が聞こえてきたからね」
「だから、こうして付き合ってくれたの?」
「・・理由はそれだけじゃないけどね」
蒼が答えた時、ウェイトレスが皿に盛られたサラダを運んできた。
「あ、きたよ。まずは食おう。腹が減った!」蒼が笑顔で言った。
蒼お薦めのサラダは、青い平皿にたっぷりと盛られていて、サニーレタスや胡瓜、人参といった色とりどりの野菜の上に、薄切りの魚介類が並べられ、様々なハーブが添えられていた。
薄い白魚の刺身をレタスと一緒に箸でつまんで口に入れる。ドレッシングの酸味が、白魚の甘味を引き立てた。
「美味しい!すごく贅沢なサラダだね」
「だろう?俺、ここの店に来たら、絶対にこのサラダを食べるって、決めているんだ」
蒼は、見ていて気持ちが良いくらい、パクパクとよく食べた。落ち着いた物腰で、ウェイトレスに対する応対も丁寧だった。この人、結構、もてるだろうなあ、と思った。
蒼と目が合った。にこりと笑う。「今、何を考えているの?」
「蒼は結構、もてるんじゃないかと思って・・。休みの日なのに、ここでわたしとこんなことをしていていいの?もしかしたら、彼女に悪いことしているのかな、と思って」
蒼は破顔した。「生憎、彼女はいない。今はやりたいことがあって、外に出てばかりいるから。莉子はどう?誰かと付き合っているの?」
莉子は首を振った。面と向かって訊かれると、かなり恥ずかしい。
「そんな余裕、今はないから・・。まずは元気にならないと」
「うん。そうだね」蒼は静かに頷いた。
莉子はパンをちぎって口に入れながら、目の前の蒼を見た。男性とこうして食事をするのは、初めてのことだった。昨日会ったばかりの人で、ほんの少し会話を交わしただけなのに、今、こうして向かい合って食事をしているなんて、不思議なことだ。正面に座って、もちろん、少し照れくさくはある。けれど、蒼は最初からゆったりと穏やかで、それを見ていると、莉子も、自然と気持ちが落ち着いてきた。かすかに首を巡らせば、静かに水を湛えた湖面が見えた。
食後のコーヒーが運ばれてきた後、蒼が口を開いた。
「例の写真の場所、行ってみてどうだった?感想を聞きたいと思っていたんだ」
莉子は、ミルクを入れてかき混ぜたスプーンを、ソーサーの上に置いた。
昨夜、渡り廊下で見た写真。その写真を撮った場所に連れて行ってもらった。その時に莉子が感じたことを、どう説明したらいいだろうか。
「・・正直に話すね。せっかくあの場所に連れて行ってもらったのに、わたし、何も感じなかったの・・。昨夜、あの写真を見た時に感じた、懐かしさみたいのは全然なくて、ただの風景だったの。もちろん、富士山も湖も綺麗だった。でもただそれだけだった。写真とは違ったの」
「写真とは、違った・・?」蒼の黒い瞳が、真剣に莉子を見つめてきた。
「・・それは、莉子が何かを感じたのは、あの風景そのものではなく、飾ってあったあの写真に対してということなのか・・?」
「うまく言えないけど、そうなんだと思う・・」莉子は頷いた。
莉子が心を惹かれたのは、風景ではなく、額に入れて掲げられていたあの写真だったのだ。壁に掛けられていたあの状態のもの。これをどこかで見たことがあるという、懐かしさと既視感。
莉子の説明を、蒼は黙って聞いていた。テーブルの上に置かれた蒼の拳は、ぎゅっと握られていた。
「ごめんなさい」莉子が言うと、蒼ははっとしたように視線を莉子に戻し、優しく笑った。「謝る必要はないよ。俺の写真を見て、何かしらを感じ取ってくれたってことだし。それに、色々と分かったこともあるし・・」蒼の言葉は、だんだん小さくなった。
「え?」最後の部分が聞き取れずに、聞き返すと、蒼は改めて莉子に向き直った。
「・・あのさ、今度、連絡してもいい?こんなことを言うと、まるで口説いているみたいだけど、俺はもしかしたら、そのうち、君に会いに鎌倉に行くかもしれない」
突然の言葉に、莉子は内心驚いたが、蒼の表情は真剣で、口説くといった甘い感じではない。よく意味が分からなかったが、莉子は頷いた。
「うん、いいよ。蒼が鎌倉に来たら、今度はわたしが鎌倉を案内するね」
「よろしく。あ、あと、あの写真の画像データ、良かったら、今、送ろうか?」
「いいの?実は、渡り廊下の写真を撮りたかったけど、他人の写真を勝手に撮るのも良くないかなと思って、迷っていたの」
チェックアウトをしている時から、ずっとそれが心残りだったが、ダニエルが騒ぎ始めたので、それどころではなくなってしまった。
「いいよ。喜んで」蒼はスマートフォンをテーブルの上に出した。お互いにライン交換をした後、蒼が、早速、画像を二枚送ってくれた。例の写真だ。一枚は、例の写真そのもの。もう一枚は、額装されて、他の写真と共に渡り廊下の壁に掲げられている状態のもの。
こうして比べて見ると、明らかだった。莉子は、二枚目の画像に、より心を動かされている。飾ってある状態のもの。今もそうだ。何かが懐かしいと感じる。
「ありがとう。嬉しい」スマートフォンをテーブルに置いて、莉子は言った。
「そうだ。さっき蒼が言っていたことって、何だったの?色々と分かったことがあるって聞こえたけど。何が分かったの?」
蒼は少し戸惑ったような表情になった。
「ごめん。まだ確証はないんだ。俺が勝手に考えているだけ。もっとはっきりしたら、言いたいんだけど。でも・・」
「でも?」
「うまく言えないけど、もしかしたら、俺は、前にもどこかで莉子に会ったことがあるかもしれないなと思って。・・困ったな、これじゃあ、まるっきり口説いている台詞だよな。そういうんじゃないんだ・・」
「うん」莉子は頷く。蒼が何かを真剣に考え、莉子に伝えようとしているのは、よく分かった。
「今、一つだけはっきり言えるのは、莉子と同じだったってこと」
「同じ?」
「ああ」蒼は力強く頷いた。「俺も、あの写真を撮った時、この風景をどこかで見たことがあると思ったんだ。あの写真を額装して、渡り廊下の壁に飾った時、鳥肌が立った。俺は絶対にこれを知っている、これを見たことがあるって思った」
静かな蒼の語り口の中に、彼の興奮が伝わってきて、莉子は思わず息を呑んだ。
蒼
莉子の両親と弟は、河口湖駅のロータリーで待っていた。駐車場に車を停めて、莉子を連れて行くと、ダニエルが歓声を上げて走って来た。
「お姉ちゃーん、お帰りい。湖、どうだった?きれいだった?」
莉子が答える間もなく、楽しそうに話し出した。
「僕はトーマスランドに行ったの。ママとパパとトーマスに乗ったんだよ!ゴードンやパーシーもいたよお。それからねえ、うきうきクルーズって言ってねえ・・」
「はいはい、ダニー。お話は後でできるでしょう?お兄ちゃんが困っているわ」
母親がダニエルを制し、蒼に笑顔を向けた。
「色々とありがとう。莉子、楽しんで来た?」
莉子が頷く。「うん。すごくリフレッシュできた。行って来られて良かった」
その様子を見て、父親もほっとしたように、蒼に声をかける。
「本当にありがとう。世話になったね」
蒼は首を振った。「いえ。こちらこそ、美味しいランチをいただけました」
ダニエルがすかさず言った。「え?ランチ?お姉ちゃん、何を食べたの?」
莉子が笑って言った。「美味しいサラダ」
「サラダ?それだけ?僕は、チュロスを食べたよ!甘くてシナモンの味のするやつ。あとコーラを飲んだ。パパはね・・」
「はい。ダニー、後で、後で」母親が苦笑する。父親が蒼に言った。
「鎌倉に来る時があったら、家においで。歓迎するよ。なあ、莉子」
莉子が蒼を見て、頷く。「ぜひ来て」
蒼は笑みを作って頷いた。
「ありがとうございます」
アンダーソン一家の乗った白いアルファードが駅のロータリーを出るのを、蒼は見送った。
「お兄ちゃん、バイバーイ!」ダニエルが大きな声で言った。莉子も窓から手を振っていた。笑顔だった。良かった。昨日、旅館にチェックインした時に見せていた表情とは、明らかに変わっていた。彼女が言うように、ここの景色や空気は、体調不良に苦しんできた彼女を少しは癒してくれたのだろう。そのきっかけを自分も提供できたのなら、何よりだ。蒼自身も、彼女とのドライブを楽しんだ。
駐車場に戻り、ミニクーパーに乗り込んでエンジンをかけ、アクセルを踏み、車を走らせた。
流れゆく景色を見つめながら、唇を強く噛む。さっきまで隣の助手席に座っていた莉子のことを考える。彼女が語っていたことを一つ一つ反芻する。幼少期に遭った事故、記憶の欠如、彼女とは髪と目の色が異なる父親と弟。歩行者専用の信号機。最近の体調不良。
これから、どうするべきか。
昨夜、莉子があの写真の前に立っているのを見たのは、偶然だった。莉子は長い間、あの写真を見ていた。だから、つい声をかけてしまった。普段は、客に対して、そんなことは絶対にしないのに。
彼女は、あの写真を見て懐かしい気持ちになった、と蒼に言った。
もしかしたら、と咄嗟に思った。それを確かめたいと思ったが、彼女はもう翌朝にはチェックアウトしてしまう。機会はない。それでももう一度、彼女と話をしてみたくて、今朝、ロビーに向かった時、ダニエルの泣きわめく声が聞こえてきた。ダニエルが我を通したのは、蒼にとっては僥倖だった。
ドライバーを申し出たのは、親切心や好意からだけではない。確かめようと思ったのだ。彼女をあの場所に連れて行って、彼女の反応を見れば、きっと分かると思ったのだ。自分と同じかどうか。
答えはビンゴだった。莉子は、まさに自分が感じたことと同様のことを言った。惹かれるのは、あの場所そのものではなく、写真として掲げられていたものだと。彼女がそう言うのを聞いた時、蒼は、見つけた、と思った。Tシャツの下で鳥肌が立っていた。
胸の内で高まった期待と予感は、ランチを食べながら、莉子の話を聞いていくうちに、確信となった。五歳になるまでの記憶、即ち十五年前までの記憶が、頭からすっぽりと抜け落ちていること。彼女の出生地はアメリカだったこと。
蒼も同じだからだ。蒼もアメリカで生まれ、幼少時代の記憶がなかった。
蒼が憶えている最古の記憶は、河口湖の青い湖面だった。
その日は、風が強く、湖面にも波が立ち、ゆらゆらと揺れていた。季節は冬だろう。蒼は、鮮やかな黄緑色のダウンジャケットを着ていた。蒼の右側には母、左側には父がいて、それぞれ蒼の手を引いていた。
「湖が青い」と蒼が言うと、母は笑って言った。「そうだね。蒼の名前と一緒だね」
そうか。自分の名前は、この湖の青と同じなのか、と子ども心に納得した記憶が確かにある。強い風を正面から受けて、頬は冷たかったが、蒼の手をぎゅっと握る両親の手は温かかった。
思えば、あれは、両親が、河口湖畔に建つ祖父母の旅館を改装し、オープンする準備をしていた頃だったのではないか。二人はアメリカのサンフランシスコで知り合って結婚し、蒼が生まれ、亡くなった父方の祖父母が経営していた旅館を引き継ぐために帰国した。蒼が五歳の時のことだ。
蒼には、アメリカで暮らしていた時の記憶がない。普通、大抵の人も三歳ぐらいまでの記憶はないと聞く。それでも、断片的に記憶のかけらのようなものはあるらしい。たとえば、その当時、暮らしていた家の間取りや、母親と歩いた散歩道の一風景といったものだ。だが、蒼にはまったくそれがない。
唯一残っている痕跡は、蒼が英語を喋れるということだ。
「すごい、ネイティブみたいだね」と人によく感心される。両親が日本人であるにもかかわらず、蒼は流暢に英語を話すことができた。外国人に英語で話しかけられると、反射的に英語で応えている。記憶はないのに、現地の言葉は憶えている。奇妙だった。
毎日、河口湖とその向こうに広がる富士山の姿を眺め、旅館の中を、歓声を上げて駆け回った。近くの小学校に通い、地域の少年野球チームに入り、ごくごく普通の少年時代を送った。時々、父と近くの山に登り、時には富士山まで外国人客を案内し、夏には友達とカブトムシやセミを取り、八月五日には、両親やお客さん達とベランダに出て、河口湖湖上祭の花火を眺めた。
繰り返される日々の中、アメリカでの記憶がないことについて、深く考えることはなかった。別になくたって構わない。ないものはないんだ。しょうがないじゃないか。そんな風に考えていた。
自分に幼少時の記憶がないことに、疑問と興味を抱き始めたのは、中学生の頃からだった。当時、蒼の中学校に勤務していたアメリカ人のAET(アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー)が、蒼の話す英語を聞いて、「君は、北東部の生まれかい?」と訊いてきたのだ。
彼が言うには、英語にも、日本語の方言と同じような、アクセントというものがあり、それを聞けば、それを話す人間が、どの辺りの生まれか分かるらしい。
蒼が両親と暮らしていたのは、カリフォルニア州サンフランシスコだ。蒼は、家に帰ると、世界の地図帳を開き、アメリカ大陸を眺めた。北東部と言うと、バーモント州、ニューハンプシャー州、マサチューセッツ州、コネチカット州辺りか。自分が北東部のアクセントの英語を話すとは、どういうことだろう。疑問に思った蒼は、早速、母に訊いてみた。
「ねえ母さん、俺はここに来る前は、サンフランシスコにいたんだよね」
旅館の事務室で、椅子に座り、パソコンを前に作業をしていた母が、振り返って、なんだ急に、という顔をした。「そうだよ。どうしたんだい、急に」
「今日、学校のアメリカ人の先生に、俺の英語は北東部のアクセントだって言われたんだよ。俺、アメリカにいた時に、北東部にいたことがあるのかと思って」
母は蒼をちらりと見てから笑った。「蒼はずっとサンフランシスコにいたよ。そう言えば、時々来てもらったシッターさんが、コネチカット州出身って言っていたね」
「ああ、そういうことか」「そういうこと」
蒼は事務室を出た後、父の姿を探した。父は駐車場で、旅館の送迎バスの運転手と話をしていた。
「おお、蒼、帰って来たか、お帰り。真面目に勉強してきたか」
父は蒼を見て、にこやかに笑った。
「ねえ、父さん、サンフランシスコにいた時に、俺の面倒を見てくれたシッターさんって、何て名前だったっけ?」蒼の突然の質問に、父は目を丸くした。
「なんだ、突然。何の話だ。現地でシッターさんを雇ったことなど一度もないぞ。母さんはお前を片時も離したことはない。母さんが美容院に行く時は、俺がお前を見ていたからな」
隣に立つ運転手が、蒼と父の会話を聞きながら、不思議そうな顔をして首を傾げている。蒼は手を軽く振った。「ああ、そうだっけ。ごめん、ごめん。勘違い。ねえ、父さん、小さい時、俺、アメリカの北東部とかまで旅行したことってあった?」
「北東部?・・いや、ないな。西海岸にしかいなかったな」
「そう。分かった。ごめん、急に」踵を返しながら、蒼は母の嘘を確信した。
その日までは、幼少期の記憶がないことは、あまり気にしていなかった。ないものはしょうがいない。英語を喋れるだけで、儲けもの。お釣りがくると、友人にもうそぶいていた。だが、自然に口をついて出てくるこの英語が、両親と共に暮らしていたサンフランシスコで話されるアクセントではないと知ってしまったら、話は別だ。そして、あの時、母は咄嗟に嘘をついた。母の表情には、緊張感のようなものがあった。だから父の元に確認しに行った。双方の言い分が食い違っているのなら、どちらかが嘘をついているか、どちらかの記憶が間違っているかだ。だが、それ以上それを追求し、真実を確認しようとは思わなかった。
何故なら、結局、自分にその時の記憶がない以上、何が真実かは自分には分からないからだ。他者の記憶はあてにならない。他者が語ることは、他者が見たもの、あるいは見せようと意図したものだ。蒼は、自分にアメリカで過ごした時の記憶がないことを、初めておかしいと感じるようになった。
それから記憶探しが始まった。と言っても、蒼が今いるのは日本だし、学生の本分を忘れたわけではない。バスケット部に所属し、定期テストの勉強をしながら、時折、スマートフォンでストリートビューを使って、サンフランシスコの街中に降り立ち、三百六十度の景色を眺めた。記憶や脳科学に関する本も図書館で借りて読み漁った。自分の状況の理解はできたが、記憶が戻るわけではなかった。
高校に進学した後も、蒼の探求は続いた。十六歳になり、家業を手伝うためという名目で原付バイクの免許を取った後は、暇ができると富士五湖周辺をバイクで走った。
記憶は何も思い出せていなかった。けれど、部屋の中で、スマートフォンでグーグルマップを開いて何も憶えていない街を眺めるより、風を浴びながらバイクの運転に集中している時の方が、何かに近づけているような気がした。
何か。蒼は、自分の心の奥を探索することを忘れなかった。自分の中に英語という言語が残っているのなら、他にも何か残っている可能性はある。諦めない。思い出す努力をし続ける。何かある筈だと思った。何かを見たり、聞いたりした時に、自分の心が動いたら、それは失った記憶に関する重要な情報かもしれない。だから、注意深くするべきだ。もっと様々な経験をし、視野を広げ、色んな場所に行って、心を動かすべきなのではないかと考えた。何かが心の内で引っかかったのなら、それは自分にとって、何か意味があるものではないだろうか。
そう思ってバイクを走らせていたある日、それは、突如、蒼の頭に浮かんできた。
何か絵のような、写真のようなものが見えた。あれは。そこに見えるのは。
富士山?
湖畔にバイクを停め、ヘルメットを取った。常に視界の中に入り、身近な存在だった日本一高い山を、蒼は改めて眺めた。
「・・さっきのは、何だ?」
頭の奥で、一瞬だけ見えた気がした絵のようなもの。確かに富士山のような山が見えた。だがこんなに近くない。おそらくもっと遠くから見た富士山だ。
蒼は、再びヘルメットを被り、バイクに跨った。頭の片隅で、何かが信号を発しているような気がした。これは、何だろう。
それから何か月か、週末の度に、富士五湖をバイクで周った。河口湖、山中湖、西湖、精進湖、そして本栖湖の周囲を走った。それぞれの場所から見える富士山の姿を、自分の目で確認した。
本栖湖の周りの国道を走っていた時だった。
何故、そこで停めようと思ったのか、今となっては分からない。蒼はとあるポイントでバイクを停め、路肩に駐車した。目の前は、丘のようになっていた。誰か歩いたことがあったのか、わずかに道のようなものがあった。下草を掻き分けて、丘の頂上に向かって歩き出した。ハアハア、という自分の激しい呼吸とガサガサと草や枝を掻き分ける音が辺りに響いた。一番上へと登った時、ふっと視界の開けた空間があった。目の前に、富士山、青木ヶ原樹海、本栖湖の湖面が広がっていた。蒼は、小さく声を上げた。
自分でもよく分からないまま、蒼は持っていたカメラで何十枚も写真を撮った。
家に戻って写真を現像した。手にした写真を見て、蒼は確かに、これを知っていると思った。これと似たものをどこかで見たことがある。湖面、富士山、その周りの山の形。そうだ。自分はこの風景を知っている。それは壁に掛かっていた。アイボリー色の壁紙が貼ってある壁だ。蒼は、その絵か写真のようなものを見上げていた。蒼のすぐ隣に誰かがいた。
そう思った瞬間、蒼は、「あっ」と声を出した。頭の奥に霞んでかろうじて見えていたものが、一瞬にして散ってしまった。何か大切なことが、?めた気がしたのに。
蒼は写真を額装し、自分の部屋に置いた。さらに拡大して、旅館の渡り廊下に飾ってある写真コレクションの一つに加えさせてもらった。旅館の仕事の手伝いで渡り廊下を行き来する時、常にあの写真に目を遣った。
あの写真は、蒼にとっての道標だった。確かに何かを?みかけたと実感できた風景。自分が探していた記憶を、一瞬だけ蘇らせてくれた。あの写真を見上げると、何故か懐かしいような気持ちになった。
両親も旅館の従業員達も、蒼の心の内は知らない。渡り廊下に飾る写真は時折、入れ替えられたが、蒼は、必ずあの写真を飾り続けた。この場所の存在を、誰かに伝えたかったのかもしれない。あの写真の前で足を止めている宿泊客を見かけると、気になった。どう思いますか?その写真を見て、何か感じますか?その場所は、自分にとって、とても大切なもののようなのです。でも、それが何故か、自分には分からないのです。
心の内でそう話しかける。だが次の瞬間、宿泊客の目は、隣に飾ってある夏の夜の富士山の写真に移っていく。彼らが件の写真を見ることはもうない。
あの写真を飾ってから、三年が経つ。その間にも、蒼は自分の記憶を掘り起こす作業を続けていた。バイクや車を無心で走らせている時、窓の向こうの富士山を眺めながら、コーヒーを飲んでいる時、ふっと何かを?めそうになる感覚を味わう時があった。
手掛かりがまったくないわけではない。あの写真のようなものを見上げていたという確かな記憶。アイボリー色の壁。隣にいた誰か。温かくて、懐かしい想い。
隣にいたのは、誰だったのだろう。蒼はその誰かの横顔を見ていたように思う。あの写真を見ながら、その誰かに自分は何を語ったのだろう。やはり英語だったのだろうか。蒼は、アメリカ北東部のアクセントで、隣にいた誰かと話していたのだろうか。
その言葉が浮かんだのは、昨年の秋のことだった。
連休を利用して、関西から、老夫婦の宿泊客が来ていた。夫は足が悪く、杖をついていた。富士山の五合目まで行きたいという話をフロントでしていたのを聞き、蒼は、車で富士スバルラインを走り、富士山五合目まで老夫婦を乗せていった。夫婦が五合目を散策している間、駐車場で待機していた。
蒼は、車から降りて、大きく伸びをした。富士山の五合目は、地上と異なり、気温も低く、寒い。目の前を雲が猛スピードで流れていった。視界が晴れて、ゴツゴツとした黒い岩肌が目に入った。その時だった。不意に、どこからか、声が聞こえてきた。
――ユーリイ!
蒼は、きょろきょろと首を巡らした。まるで誰かが蒼にそう呼びかけたように聞こえた。だが気づいた。違う。あれは、自分の声だ。自分が言った言葉だ。誰かに向けて。
蒼は、急いでスマートフォンを取り出し、メモ帳に、「ユーリイ」と入力して保存した。誰かの名前か?男でも女でも使えそうな名前だ。首を捻った瞬間、男だ、と感じた。ユーリイは女じゃない。男だ。俺達はいつも一緒にいた。
(・・一緒にいた?どこに?)
蒼はぎゅっと目を閉じて考えた。暗闇の中、何かが見えてきた。アイボリー色の壁紙が貼ってある部屋だ。部屋の中は暖かい。蒼達はあの部屋で、誰かが帰って来るのを待っていた。壁に掛けてあった富士山の写真を眺めながら。誰を待っていた?
蒼はこめかみを押さえながら、懸命に思い起そうとした。だが、それ以上は思い出せない。頭の中が真っ黒な闇に包まれて、何も見えない。どんなに手を伸ばしても、もう何も?めない。ああ、駄目だ。分からない。
「お待たせしちゃって、悪いねえ」突然声をかけられた。目を開けると、老夫婦が蒼の目の前に立っていた。蒼は、今、自分がどこにいるのかを理解した。杖をついた夫を支えるようにして立つ妻が言った。
「孫たちにも土産を買っていたんだ。あれやこれやあるから迷っちゃって、遅くなっちゃったね。お兄さんに乗せてきてもらえて、助かりましたよ。死ぬ前に一度は、富士山に登りたいって、思っておったからねえ」
隣で夫が頷く。「本当は頂上まで行かれれば良かったんだけど、この足じゃあ無理だからね。やっぱりやれる時に、何でもやっておかないといけんな」
「はい、これお兄ちゃんに」妻が蒼に小さな紙包みを手渡した。開けてみると、富士山と刻印されたキーホルダーが入っていた。
「お兄ちゃん、バイクやらにも乗るって言ってたろう?鈴が付いていたら、鍵を落としてもすぐに気がつくからな。使ってな」
手を動かすと、チリンという高く澄んだ音が響いた。記憶の断片を確かに?んだ日に聞いたその澄んだ鈴の音は、いつまでも蒼の耳に残った。
莉子を見送った後、蒼はすぐに旅館に戻る気にならず、最初に莉子を案内した河口湖畔の駐車場に向かった。
ミニクーパーを置いて、湖畔に立った。湖畔は観光客で賑やかだった。家族連れやカップル達が、歓声を上げて、富士山を背景にして楽しそうに写真を撮り合っていた。数時間前にこの場を訪れた蒼と莉子も、はたから見たら、同じように何の悩みもなく、観光を楽しんでいるカップルにでも見えただろうか。
蒼は胸の内で繰り返していた。これからどうすればいい?
無意識に近くにあった小石を蹴ると、車のキーにつけたチリンという澄んだ鈴の音が、ズボンのポケットの中から聞こえてきた。その度に、初めて「ユーリイ」という言葉を思い出した時の衝撃を思い起こす。
本当は、莉子に訊いてみたかった。
「ユーリイを知ってる?この名前を聞いたことはある?」
莉子と蒼は同類かもしれない。共通点が多すぎる。アメリカから来て、十五年前の記憶を思い出せない。乳幼児の時の写真が残っていない。ただ、蒼は、かろうじて幾つかの記憶の断片を掘り起こすことができていた。バラバラのモザイクを必死にかき集めて、選び出したようなものだ。その幾つかを莉子に提示してみることはできるだろう。問題は、それを、彼女が望んでいるかどうかだ。今日の彼女の様子を見ると、いきなり蒼の記憶の断片を突き付けるのは、拙速に過ぎる気がした。
莉子の家族が、彼女をとても大切に思っているのは、はたから見ても分かった。それに彼女自身、体調を崩していると聞く。彼女と彼女の家族は気分転換をするために、ここにやって来たのだ。記憶を掘り起こすためではない。
だから蒼は、こらえた。急ぐのはやめよう。連絡先は教えてもらった。しばらく時間を置いて、また彼女に連絡を取って、蒼が思うことを話してみて、その上で莉子が蒼の話をもっと聞きたいと言ったら、話せばいい。
レイモンド
1
アメリカ、オハイオ州の州都コロンバス市には、オハイオ州立大学(OSU)がある。アメリカ最大規模の州立総合大学で、広い敷地を持つ同大学には、六万人もの学生が学ぶ。
五月に入り、太陽の光の眩しさを日に日に感じられるようになった。白地に赤い文字でOSUのロゴが入ったTシャツとジーンズ姿のレイモンドが、キング通りを歩いていると、紺色のスバルがレイモンドのすぐ側で停まった。
「やあ、レイ。今から授業かい?」
大学の合気道クラブのメンバーであるジョシュアだった。レイモンドは頷いた。
「うん。アメリカ現代文学。途中で寝てしまわないか心配だ」
アメリカ現代文学のアーマル教授は、退屈な授業をするくせに、居眠りする学生にはうるさい。名札を付けているわけではないのに、一度でも居眠りをすると、何故かしっかりと名前と顔を憶えられて、学期末に痛い目に遭う。
ジョシュアが声を上げて笑った。「そりゃあ、レイ。気合を入れるしかないな。稽古と同じだ」と、ハンドルの前で、合気道の構えを見せた。「そうだ。今度の金曜の稽古の後に、みんなで軽く夕飯を食おうって話になっているんだ。ナミコ先生も来るって」
波子先生は、合気道クラブの師範だ。五十代になる日本人女性で、普段はⅠT会社にプログラマーとして勤務している。小柄で、百九十センチを超えるレイモンドから見れば、中学生の女の子のように小さく見えるが、合気道の技が入ると、簡単に引っ繰り返されてしまう。
「レイも行くよな?」
「もちろん」頷くと、ジョシュアはにこやかに笑った。
「じゃあ、俺、『レイク・エリー』に予約を入れておくよ。ナミコ先生から、何か話があるみたいなんだ。メンバー全員に連絡をしておく。レイも誰かに会ったらよろしく」
「オーケイ」スバルを見送った後、レイモンドは腕時計を見て、はっと気づいた。
「うわっ、まずい!授業が始まっちまう」
アーマル教授は、学生の遅刻にもうるさいのだ。レイモンドは、五号館を目指して走り出した。
五号館に辿り着き、階段を駆け上がって教室に入ると、日本人留学生の勝俣隆也が、入口近くの席に座っていた。隆也は、大学の合気道クラブのメンバーだ。レイモンドを見て軽く手を上げた。レイモンドは、空いていた隆也の隣の席に滑り込むように座る。
「ギリギリだな、レイ。お前、でかくて目立つから、気をつけないと」
「アーマル教授は?」「まだだよ。セーフ!」隆也は、野球の審判がするジェスチャーを大きくして見せた。レイモンドは顔をしかめた。アーマル教授の遅刻の基準は教授自身だ。彼は自分の遅刻には何も言わないが、学生が自分より遅れて来ると、いちいち学生を呼び止め、名前を訊き、何故遅れたのかを教室にいる全ての人に聞こえるよう、大きな声で発表しなさいと責めるのだ。こうやって授業を中断させる以上、遅刻者はそうする義務があるというのが教授の言い分だ。
「レイ、世の中には、色んな人がいるのよ。それをよく憶えておきなさい」
コロンバス郊外の高級住宅地アッパー・アーリントンで暮らすレイモンドは、よく母のスーザンから、そう言われてきた。
自分の周りは、白人の家族や友達ばかりだったが、スーパーに行くと、東洋系の顔立ちの家族もいたし、ダウンタウン行きのバスの運転手はいつも陽気な黒人男性だ。ダウンタウンには、ホームレスもいた。だからアメリカには、様々な人種が暮らし、貧富の差もあることはレイモンドもよく分かっている。そう答えると、スーザンは微笑した。
「そういう意味ではないの。見た目だけではなくて、考え方ね。世の中には色んな考え方の人間がいるってこと。人の心は色々だってこと。時には自分の価値観とはまったく違う考え方をする人もいる。それを憶えておいて欲しいの」
アッパー・アーリントンという狭い世界で、高校までずっと過ごしてきたレイモンドにとっては、家から車で二十分のこの大学は、巨大なカオスだった。全米のみならず、世界中から、六万もの学生が集まって来ているのだ。驚くほど様々な価値観を持つ人間がいた。教授からして自由人ときている。
「自分が遅れて来ても、同じことをして欲しいもんだ・・」
呟くと、ドアが開き、アーマル教授が教室に入って来た。
「皆さん、ごきげんよう。今日も良いお天気ですね。早速、授業を始めましょうか。ええと、先週はどこまででしたっけ?ああ、百二十五頁の三行目まで?じゃあ、その次から読みましょう。ええと、タカヤ?そこから読んでください」
隣に座る隆也が、うわっと、小さく言った。
「何ですか?」
「い、いえ。読みます。えっとお・・」
隆也は留学生だが、英語は上手い。ネイティブレベルとは言えないが、文法は正確だし、発音も他の日本人留学生が喋る時に感じる独特の癖がない。留学生はどうしても同国人同士群れるのが普通だが、隆也は最初からそれがなかった。初対面のレイモンドにも、どんどん話しかけてきた。
「俺の父ちゃんも母ちゃんも日本人。英語はさ、近所に住んでいて仲の良かった友達がすげえうまくて、そいつに教わったんだ。そいつは、子どもの頃にサンフランシスコに住んでいたらしくて、ペラペラだったんだ。学校の英語の先生よりも流暢に喋れたな」
合気道クラブの歓迎会で隆也と出会い、すぐに意気投合した。隆也は百六五センチと小柄だが、子どもの頃から合気道を習っていたそうで、入部した時からうまかった。膝と腰を使って、畳をこするようにしながら進む膝行も、背筋が伸びてぐらつかず早いし、前受け身も後ろ受け身も、忍者みたいにくるくるとやってのける。視野も広く、レイモンド達、合気道初心者が、畳からはみ出そうになったり、他の列の人間とぶつかりそうになると、すぐに声をかけてくれる。今では、波子先生のアシスタントのような立場になっている。
隆也は、アーマル教授からの質問に幾つか答えた。
「はい。よろしい、では、次。おはようございます、アンナ。ここはあなたのベッドルームじゃありませんよ」
アーマル教授が教室の後ろの方で居眠りをしかけたらしい学生を起こしに行った。
隆也は、レイモンドに悪戯っぽくウインクして見せた。
午後の授業が終わった後、隆也が暮らすシェアハウスに寄った。海外やオハイオ州外から来た学生は、寮に入るか、大学近くの一軒家を数名とシェアして住むのが一般的だ。隆也のシェアハウスは、一見するとごく普通の家だ。共用のキッチンとリビングとトイレがあり、シャワー室と洗濯機は地下にある。そこには五人の住民がいた。学生だけではなく、IT会社や近くの市場に勤めている社会人も住んでいるらしい。
「寮も面白そうだけどさ、付き合う相手がOSUの人間ばかりになっちまうし、せっかくアメリカに来たんだから、大学の枠から出るのも大事かなと思ってさ」と、隆也はレイモンドに言った。隆也は英語学と言語学を専攻している。ゆくゆくは、故郷に戻り、中学校の英語教師になりたいそうだ。
「なるべくアメリカ社会を見ておこうと思ってさ。シェアハウスの契約を自分ですることも、自炊も、勉強の一環さ」
留学先にこのオハイオ州を選んだのも、そういう理由らしい。日本人留学生に人気の街は、ニューヨークやボストンがある東海岸、あるいはロスアンゼルスやサンフランシスコなど西海岸のカリフォルニアだろうが、隆也は、あえて中西部オハイオ州にあるこのOSUを選んで来たのだという。
「学費が安かったのも大きかったんだけど、所謂、ザ・アメリカじゃない、普通のアメリカ人の生活を見てみたかったんだ。ほら、オハイオって、アメリカ大統領選挙の激戦州だろう?オハイオを制するものは全米を制するってやつ。それで興味を持った。どんな所なんだろう。そこから見た日本は、どんな風なんだろうって」
「実際に来てみてどう思った?」かつてそう訊いたことがある。隆也は笑った。
「街自体は、正直、俺が住んでいた県とあまり変わらない規模だ。でも風景は全然違う。俺んちは、周りが山に囲まれているから、常にどこかに山が見えた。でもここは、景色がだだっ広い。飛行機と車でしか州外に移動できないのも、衝撃だったな。でも人は好い。みんなフレンドリーだ。まあ、基本、大学構内にいるからかもしれないけど、今のところ、ここで人種的な差別を受けたことはない。そこはすごく好きだ」
隆也の部屋には、ベッドと小さな丸テーブルにラブソファ(とても男二人では、狭くて座れない)、壁沿いに机と椅子があった。
「皿とグラスを持ってくるから、ちょっと待ってて」と言って、隆也が出て行った。
レイモンドは、途中、スーパーに寄って買ったタコスチップスの袋とディップソースの小瓶が入った袋を机の上に置いた。椅子を引き出し、腰かける。机の前の壁には、大きなカレンダーが貼ってあった。
Mt.Fuji。英語で書かれている。下の方に載っている一年分のカレンダーをよく見てみると、日曜日ではない場所で、時折、数字が赤い色になっている。祝日がアメリカとは違うのだ。これは日本国内用のカレンダーなのだろう。日本では、十一月三日が祝日なのか。なんのお祝いの日なのだろう。
レイモンドは、少し椅子を机から遠ざけて、改めて富士山を見た。左右均等になめらかな稜線を描いたその山は、白い雪を被っていた。麓にある湖から撮ったのだろうか。水面に富士山の姿が、まるで鏡のように映っていた。
「・・綺麗だな」と小さく呟く。
隆也と仲良くなるまで、レイモンドは、日本のことをよく知らなかった。もちろん、ゲームやポケモン、アニメは、子どもの頃から知っているし、コロンバスには、ホンダの大きな工場があるから、そこに就職している人の話も聞いている。ショッピングセンターにある日本食レストランに行ったこともある(アボガドの寿司を食べた)。けれど、この富士山が、日本一高い山で、世界遺産に登録されているのだとか、日本の国土は、意外にも八十パーセントが山地であるとか、日本では車は、アメリカと違って、イギリスと同じ左側通行であるとか、ラーメンを食べる時は、ずるずると下品な音を立てても許されるとか、隆也に教えてもらうまで、知らないことばかりだった。
机の上に置いてあるハードカバーの本に目をやる。日本語で書かれているらしい。レイモンドは手を伸ばして、その本を手に取った。ぱらぱらと中をめくる。ところどころに漢字が書かれている。文字が縦に書かれていて、どっちから読んだらいいのかも、まったく分からない。右から左?左から右?上からだよな。まさか、下からってことは、いくらなんでもないだろう。
「タカヤは、すごいな・・」思わず呟く。
レイモンドは、英語を話すだけだ。高校の時にスペイン語のクラスを取ったが、簡単な挨拶を話せるくらいで、あとは何も憶えていない。今、もし、日本の大学に留学したとしても、何も話せないし、授業などまったく理解できないだろう。そう考えると、OSUにやってくる留学生達は、みんな、たいしたものだ。そもそも母国で多くの時間と労力を費やして外国語である英語を学び、試験を受け、飛行機に乗ってやって来る。教授の話を聞き、分厚いテキストを読むよう毎週課題を出され、アメリカ人学生の中に入り、討論に加わる。アメリカ人学生の中には、特定の留学生の英語の発音の癖や文法の間違いを、本人がいないところで馬鹿にする者もいるが、そういう場面に遭遇すると、「じゃあお前がそれを外国語でやってみろよ!」と指を突きつけて言いたくなる。
「おまたせ」隆也が、トレーにコーラ、グラス、皿を載せて部屋に入って来た。
「デニがキッチンにいてさあ。ああ、デニって、インドネシアレストランで働いているインドネシア人のルームメイト。今日は定休日だから、今、起きたんだって。それで、朝飯を作っていたから、これ、貰っちゃった」
皿に乗った山盛りの麺を運んで来た。丸テーブルの上に置く。
「朝飯って、今、午後の四時だけど」「デニにとっては、朝ごはんなんだって。人には人の生活サイクルがある」「・・まあ、そうだな」
「とにかく食おうぜ。料理はアツアツが一番うまいんだから」
隆也は、嬉々として、箸をレイモンドに手渡した。
「いただきまあーす!」
両手で手を合わせて言う隆也の真似をして、レイモンドも言った。「イタダキマス」
昼食にバーガーキングのサンドイッチを食べただけなので、腹が空いていた。
「旨いな」口を動かしなら言うと、隆也も頷いた。「だな。ミーゴレンって言うんだぜ。日本にも、似た料理がある。焼きそばと言う。ちなみにうちの妹は、天然パーマで、渾名は、やきちゃん。髪の毛が焼きそばみたいにくるくるだったからさ」
隆也の英語は淀みない。だが、時々、ジョークで言っているのか、本気で言っているのかよく分からない時がある。
「・・それは、そう呼ばれる君の妹は、その時、どんな気持ちなんだろう?」
「よく分からん。あまりにみんなにそう呼ばれるので、本名で呼ばれると改めて、ああ、自分はそういう名前だったと気づくと言っていた」
「そうか。タカヤは妹のことは何て呼んでいるんだ?」
「本名の、凪子だよ」
ミーゴレンを食べ終わり、皿をキッチンに返しに行った後、隆也は、机の上のノートパソコンを起動させた。今日は二人で、合気道の動画を観るつもりだったのだ。
日本では、長い弓と矢を使った弓道、木刀を持って打ち合う剣道なども盛んらしいが、アメリカで有名な武道は、やっぱり空手、次に合気道だろう。実際、コロンバス市内では、多くの空手教室がある。
レイモンドは、高校まではテニスをしていた。大学に入ったら、何か別のスポーツをしたいと考えていた。身長百九十センチと体格には恵まれているが、人と人がぶつかり合うスポーツは好きではない。OSUには、広大なフットボール・スタジアムがあって、カレッジフットボールの強さは、全米でも有名だが、あれは、両親と共にソファでくつろぎ、テレビの前で興奮して観ていれば十分だと、中学生の時から思っていた。
大学入学後、いくつかのスポーツクラブから声をかけられながらも、レイモンドは首を縦に振らなかった。そんな中、ある日、たまたま、スポーツセンターで合気道クラブの先生が、合気道の演武をするという話を誰かから聞いたのだ。合気道には、実戦がないと聞いたことがあった。全て決められた型で行われるのだと。レイモンドは興味を覚え、放課後、スポーツセンターに向かった。
スポーツセンターに着き、体育館の中に入ると、フロアの真ん中に、何か特殊なマットのようなものが敷き詰められているエリアがあった。その周りを多くの群衆が取り囲んでいる。近づいて行くと、そのマットの上に、二人の人物が向かい合って立っているのが見えた。どうやら、これから演武が始まるところだったらしい。
一人はアジア系の女性で、白い上衣に、黒くて裾の長いキュロット・スカートのようなものをはいていた。小柄で、黒髪を後ろに束ねている。それに対峙している男性は、学生なのだろうか、白い上衣、下も白いズボンだった。腰には黒い帯を締めていた。黒帯を締めているということは、相当、実力があるということだろう。
二人は向かい合って、礼をした。男子学生が左手で、女性の右手首を?んだ。学生が?んだ手首を、女性は逆に自身の左手で?み、学生の身体の前に足を踏み込んで、刀をふり上げるように手を上げ、百八十度向きを変え、刀で切り下すように手を下げた。学生の身体が、あっという間に崩れ、学生は後方に倒された。一瞬の出来事だった。
「えっ!すごい!」「どういうこと?」レイモンドの隣にいた女子学生達が呟いた。
女性は落ち着いた表情のまま、構えの姿勢を取った。姿勢を立て直した男子学生は、次は女性の正面に右手で打ちかかった。女性は自分の右手で学生の手を受け止め、左手で学生の肘を素早く取って足を踏み込むと、学生は身体のバランスを崩して、マットの上に倒れ込んだ。女性は、学生の手の平を上にし、肘を押さえた。学生は、参った、という風にマットを叩いた。
「次、二人で」女性が短く言うと、マットの袖で正坐していたもう一人の学生が、マットの中央に入って来た。二人は並んで女性に対峙する。
女性は、相変わらず静かな表情で、二人の学生を見つめていた。
「オネガイシマス!」そう言って、一人の学生が右手を上げて打ちかかると、女性はその手を右手で止め、左手を相手の肩にかけ、体勢を素早く変えて、右肘を上に動かすと、学生の身体が後方に大きく回転した。バアンとマットが大きく鳴った。次の瞬間には、もう一人の学生が、女性に挑みかかっていった。女性はすぐに体勢を整え、もう一人にも瞬時に技をかけた。学生達の顔は真っ赤で、ハアハアと激しい息遣いだが、女性はまるで静止画の中にいるように、背筋を伸ばし、静かな表情のままだった。
「やめ!」女性が鋭い声で言うと、学生二人は立ち上がり、女性と対峙して正座をし、礼をした。「アリガトウゴザイマシタ!」
「すごい!」「カッコいい!」見ていた学生達が一斉に歓声を上げ、拍手をした。
レイモンドも夢中で拍手をした。何と言っていいのか分からなかった。まるで曲芸でも見ているようだ。何よりも女性の身体の流れるような動きが美しかった。
合気道クラブのメンバー達が、女性の周りに集まって何やら話していた。それまで厳しかった女性の表情には、やわらかな笑顔が浮かんでいた。
その日、レイモンドは、その場で合気道クラブへの入会を申し込んだ。その時、同じように入会希望を申し出た学生がいた。それが隆也だった。
隆也とはすぐに仲良くなった。法学部のレイモンドとは専攻学科は異なるものの、時折、同じ選択科目の授業がある時は隣の席に座り、放課後、時間があれば、こうやって隆也の部屋に遊びに行っている。
タコスチップスを食べながら、一緒に動画を観ていたら、思わず欠伸が出てきた。
「欠伸かい。夕べ夜更かしをしたのか?」隆也が言う。
「・・いや。三月くらいからかな、時々、変な夢を見るようになって」
「セクシーな子が出てくる夢か」隆也がにやにや笑う。
「違うよ。自分でも、なんかよく分からないんだ。僕さ、今まで夢を見たことがなかったんだ。・・まあ、実際には見ているのかもしれないけど、憶えていないんだ。だけど、最近は、夢を見たということを憶えている。だから、妙な感じでさ」
「ふーん。夢の中に、何が出てくる?」
「目覚めると、さあっと霧に包まれるみたいに消えちゃって、断片的にしか思い出せない。僕は、いつも白っぽい壁の部屋の中にいる。・・ああ、この間は、この富士山のカレンダーが出てきた気がする。しょっちゅう、ここに来て見ているせいかな」
「・・昔の記憶が蘇っているってことはないのか?」隆也の言葉に、レイモンドは笑った。「忘れているから、それが昔の記憶かどうかは分からない」
「ああ、そうか。・・思い出したいって思う?」
「別に。思い出さなくても、不自由はしていないし」
レイモンドは、あっさりと答えた。あっさりし過ぎなのかもしれないが、本心だ。
隆也と親しくなってしばらくしてから、レイモンドは、アッパー・アーリントンの自宅に、彼をランチに招待したことがあった。レイモンドから話を聞いた両親が、ぜひ隆也に会いたいと言ったのだ。夜はレイモンドの部屋に一泊する予定で、隆也は着替えをリュックに入れ、レイモンドの家にやって来た。
「今日はね、レイの誕生日なの」得意料理のチキンとジャガイモとキャベツの蒸し煮を小皿に取り分けながら、母スーザンは隆也に言った。
「え、そうだったの?ごめん、俺、誕生日プレゼントとか持って来てないよ」
慌てたように言う隆也に、レイモンドは笑って答えた。
「必要ないよ。本当の誕生日ではないし」
「え、それはどういう・・?」
父と母は、レイモンドの肩を優しく抱いて言った。
「今日は、小さかったレイが、私達の息子としてこの家に来てくれた、私達家族にとって、一年で最も大切な日なのよ」
自分が彼らと血の?がりがなく、養子であることを、父と母は隠さなかった。アメリカでは養子縁組は、珍しいことではない。
この家に来たという十五年前のその日のことを、レイモンドは憶えていない。五歳ぐらいだったらしい。父ダンカンがその日に撮った写真には、玄関のドアの上に飾り付けられた『Ray, Welcome!』のカラフルなデコレーションを背に、まだ子犬だったピーグルのゼロに飛びかかられるようにして立つ金髪のレイモンドの姿が写っていた。痩せて、青白い顔をした子どもだった。
養父母は、いつも明るく前向きな人達で、レイモンドを愛情深く、大切に育ててくれた。レイモンドの最古の記憶は、母スーザンの笑顔だ。小学校からの帰り道、友達に突き飛ばされて転び、泣いていたのを慰めてくれた。土で汚れたズボンを手で払い、スーザンは言った。「レイ、痛かったね。嫌だったね。大丈夫?」
レイモンドはスーザンの胸の中に飛び込んで、声を上げて泣いた。スーザンが、優しくレイモンドの頭を撫でてくれた。その時の手の平の温かさを今も憶えている。
自分には、幼少期の記憶が欠落していると自覚したのは、いつの頃だっただろうか。レイモンドは、スーザンに訊ねたことがあった。
「ねえ、スーザン。どうして僕には、ここに来る前の記憶がないのかな?」
レイモンドの髪は、父ダンカンと同じブロンド、レイモンドの瞳の色は、母スーザンと同じ青色だが、レイモンドと二人には血の繋がりがないことは、以前から説明を受けて知っていた。レイモンドは養子で、遺伝子学的には実の親がいる筈だ。だが、何らかの理由で、実の親はレイモンドを育てられなかった。だから今、レイモンドはダンカンとスーザンの子どもとして、ここコロンバス市のアッパー・アーリントンで暮らしている。それは理解した。だが、それと、自分の幼い頃の記憶がないのとは、別の問題だ。
スーザンは、レイモンドの質問に頷いた。
「私達にもそれは分からないの。あなたの本当のご両親のことや、あなたがここに来る前、どういう場所で、どういう暮らしをしていたのかは、知らされていないの。私達は、あなたと養子縁組するにあたり、契約を交わしたの。そこには、あなたのこれまでの過去を一切詮索しない、という条項が記載されていた。だから、私達はそれを守らなければならない。破った場合、あなたとの親子関係を解消させられる恐れがあるから」
スーザンは続けた。あくまで憶測だが、もしかしたら、レイモンドには何かつらい過去があったのかもしれない。そのために、レイモンドは自己防衛という形で自身の過去を思い出すことを封印しているのではないだろうか。だとしたら、その過去は、これからの彼に必要なものなのだろうか。
「こう考えることもできるのよ。あなたは、忘れたいから、忘れている。それを無理やり掘り出す必要はないんじゃないか。もちろん、これはあなたの問題だから、あなたが自分の記憶なり過去なりを探りたいと思うのなら、チャレンジすればいいと思う。エージェントと交わした契約書も必要なら見せるわ。ただ、私達は動くつもりはないわ。今、ここにあなたがいることが、最も大事だから。あなたを失いたくはないから」
スーザンは、毅然とした表情で言った。
二人は、自分達と同じようなブロンドで青い瞳の男の子を特に希望していたわけではなかった。だが、レイモンドを紹介された時、その養子縁組を斡旋した団体、あるいは個人は、彼の幸せを強く望んでいるのだと感じたという。
「どんな子でも、我が家に来てくれる子なら、大事にしようって思っていたわ。でも、今はもう駄目ね。レイ、あなたでないと。あなたが我が家に来た日から、私とダンカンは、あなたの母と父になった。あなたは、私達にとって世界中で一番大切な宝物よ」
赤ワインの入ったグラスを持ったスーザンが、目を潤ませながら言った。その横で、父ダンカンが穏やかな表情で頷いていた。
今、目の前でタコスチップスを食べている隆也は、レイモンドの個人的事情を知っていた。「昔の記憶がなくても不自由しない」と言い切るレイモンドに、驚いた顔をしたが、ふと何かを思い出したように、くすりと笑った。
「・・ごめん、笑って。なんか大違いだなあ、と思って・・」
「何が?」
「実は、日本にいる俺の友達にも、レイと似たような奴がいるんだ。そいつも、子どもの頃の記憶がないって言っていた」
「え?」
「前に言ったろ。俺に英語を教えてくれた奴。日本に来る前にサンフランシスコにいたって言っていた。そいつの場合は、サンフランシスコにいた時の記憶がないんだってさ」
そう言えば、隆也が以前、同郷の友人について話していたのを思い出した。
「英語がうまいって話していた友達?」
「そう。記憶はないのに、英語だけはネイティブみたいに流暢に話せるって不思議な奴。まあ、大っぴらに周囲に言っていたわけじゃなくて、俺とそいつは小学生の時から仲が良かったから、何かの拍子に、そいつはそんな話をしたんだ。でも、レイとそいつは正反対だなあと思って・・」隆也が苦笑しながら言う。
「正反対って?」
「そいつはさ、気に入らないんだってさ」
「気に入らない?」繰り返すと、隆也は頷いた。「うん。自分がそういう状態に置かれていることが、我慢ならないって、怒っていた。絶対に、思い出してみせるって言っていたな。だから中学生の頃から、色々と勉強していたよ。脳科学とか心理学とか、色んな本を読んでいたな。英語で書かれた文献まで読んでいた。そいつの努力を間近で見ていたから、俺、小さい頃の記憶って、すごく大事なものなんだと思っていた。だからレイみたいに、忘れている当事者がそんな風に言ってのけるのって、ちょっと意外というか。・・まあ、ある意味、レイらしいというか。気を悪くしたらごめん、なんだけど」
世の中には、色々な人がいる。隆也の話を聞き、レイモンドは改めて思った。スーザンが言っていた通りだ。レイモンドは過去に拘泥しない。実の親を探そうとも思わないし、両親が言っていた養子縁組の際に交わされたという契約書も、結局見ていない。
今更、探してどうなる?過去を探って、何が変わる?アッパー・アーリントンでの暮らしは、平穏だが、幸せに満ちている。レイモンドは、何不自由ない暮らしをし、今は年老いたゼロを毎日、散歩させ、週に二回、本屋でアルバイトをし、週に二回、合気道の稽古に参加する。時折、隆也のシェアハウスに寄り、ポテトチップスを食べ、ソーダを飲みながら他愛のない話をし、時折、誰かが開いているパーティーに誘われて顔を出す。授業は真面目に出ている。課題にもちゃんと取り組んでいる。オハイオを出たことは一度もない。OSU以外の大学を受けようという気持ちもなかった。家から通える場所に、丁度いい大学があったから、そこに行けば良いと思った。
自分はそういう人間なのだ。何かに熱くなったり、夢中になったりもしない。ただ淡々と目の前のことを受け入れる。誰かがアドバイスをしてくれれば、「それでいいか」と思ってしまう。特に自分の意見というものを持たない。固執しない。我がない。
大学に入り、様々なルーツとキャラクターを持つ人々と出会い、レイモンドは少しだけ視野が広がったような気がした。少なくとも、自分自身のことをそんな風に分析することは、高校時代まではなかった。
レイらしい。自分らしいって、何だろう。人をその人たらしめているのは、いったい何なのだろう。遺伝、家族、友人、環境、性格。自分は、どうやって今の自分になったのだろう。そして、目の前で笑う友人は、どうしてレイモンドのことを、「レイらしい」と言えるのだろう。心の内で考えながら、隆也を見つめていると、隆也は大きな口を開けて、タコスチップスをその中に放り込んだ。
2
ロッカールームで白い道着に着替えると、いつも自然に気持ちが引き締まる。靴下を脱ぎ、裸足になる。タオルとペットボトルの水を持って、稽古場へと向かう。
先に来ていた隆也達が、体育館の床に畳を敷き、雑巾がけをしていた。
「ごめん、遅れて」レイモンドは、急いで雑巾を取って来て、同じように畳を拭き始めた。畳の雑巾がけをするのも、稽古の一環だという。学校で掃除などしたことがないレイモンドは、最初は驚いたが、今では納得している。雑巾がけは太ももの筋肉に効く。いい筋トレだ。掃除しながら筋トレできるなんて、一石二鳥だ。掃除をし終えると、みんなハアハアと軽く息を上げていた。
波子先生がやって来た。メンバーが畳に上がり、所定の位置に座って礼をした。
「よろしくお願いします!」
掛け声をかけながら、準備運動を行う。総勢二十五名のメンバー達が、一斉に身体を畳に倒し始めた。基本、挨拶や掛け声は日本語だ。最初は、何が何だか分からなかったが、今では普通に声を出しているから面白い。
「いち、に、さん、し、ごう、ろく、しち、はち!」
隆也の声が誰よりも大きく響く。普段は明るく朗らかな彼だが、合気道をやっている時は、真剣に稽古に取り組んでいた。そんな時の彼の表情は、凛々しく、黒髪と黒い目を持つせいか、まるでブルース・リーのように見える時もある。レイモンドも、負けじと声を張り上げた。
準備運動の後は、畳の端から端までを使っての、前方回転受け身の練習だ。腕を前に出して首を守りながら一回転する。終わったら、反対の腕を出して、再び一回転。薄緑色の畳と天井からぶら下がるオレンジ色の灯りが、交互に視界に広がる。
「痛っ!」「あ、ごめーん」時折、隣の列の人とぶつかったりする。
「次、後方回転受け身!」
前方回転受け身の後は、後方回転受け身だ。後ろ向きになり、尻から落ちる前に、片方の膝から足先までを同時につけ、肩を使って、身体を一回転させる。右側、次は左側、また右側。息が上がる。身体が熱くなる。
波子先生が、みんなを集めた。波子先生を囲う形で、正坐をする。
「今日は正面打ち入り身投げをします。まずは見本を見せますね。タカヤ、前に出て」
「はい」隆也が、すっと波子先生の前に立ち上がり、前に出る。
隆也は「お願いします」と言ってから、右手で波子先生の正面を打ちにいった。先生は素早く右手でそれを止め、隆也の後ろに回り、左手を隆也の首にかけると、隆也の身体がぐるりと回った。右肘で隆也の首を引っかけて落すと、隆也は上手く後方回転受け身を行った。
レイモンドは思い出した。この動きは、以前、波子先生が演武で見せた時の技だった。大の男が小柄な波子先生に吹っ飛ばされた技だ。
「じゃあ、近くの人とペアになってやってみましょう」
隆也がレイモンドの前に進み出て、レイモンドの手を取る。「やろうぜ、レイ」
長身のレイモンドから見れば、隆也はまるで中学生のように小柄だ。それでも、合気道をやっている時は、はたから見れば、きっと自分はどんくさい大男に見えることだろう。
「ああ、そっちじゃない。右足引いて!」
組みながらも、隆也が丁寧にアドバイスをしてくれる。
実際に手足を動かすと、何故、相手がほんの少し身体を動かすだけで、攻撃が封じられてしまうのかが、身体で分かってくる。合気道は、理に適った武術だ。
合気道の相手は、敵ではない。始める時は、互いに「お願いします」と言い、終わった時は、「ありがとうございました」と礼をする。互いの身体を使って、気を合わせ、一つの形を作る。それ以外の答えはない形。自然と完結していくその形に向かって、手と足を動かす。相手の腕に触れ、手首を?み、すぐ側にある目を見て、呼吸をする。
畳の上に倒れながら、レイモンドは、いつも、一人ではないと感じる。ここにいる時は、誰かの存在を感じる。合気道は、たった一人では稽古できない。一緒に掃除をして、相手をしてくれる仲間がいるからやれる。それは信頼関係なしにはできない。
ハアハア、と息をつきながら天井を見上げていると、隆也の顔がぬっと出てきた。にやりと笑う。「もうくたばった?」
「まだまだ」レイモンドは、手をついて起き上がった。
稽古が終わった後、『レイク・エリー』まで車で出かけた。合気道クラブメンバー行きつけの居酒屋だ。集まったメンバーは二十名。稽古帰りなので、みんなすっきりとした顔をしていた。
「ナミコ先生の健康と、我が合気道クラブのこれからの発展を願って、カンパーイ!」
ジュースやアルコールの入ったグラスを持ち上げ、みんなで言ってから、ゴクゴクと飲み干した。
「ああ、旨い!稽古の後の一杯はやめられないな」「それに、お腹が空いたあ!」
「だからBMIがずっと変わらないのよね。あ、このお魚、美味しい!」
口々に言いながら、テーブルの上の料理に手を伸ばし始めた。
留学生も多く、それぞれ専攻学科も違う。普段なら会う機会のない人達が、週に二回顔を合わせて、互いの身体に触れながら稽古をしていると、不思議なもので、すっかり打ち解けた気持ちになる。馴れ合い過ぎず、変にプライベートまで突っ込むこともなく、節度をもって付き合える、そんなクラブの雰囲気がレイモンドには心地よかった。
メンバーの空腹がアルコールと料理で満たされ、その場が一段落ついたのを見計らったように、波子先生が一同に声をかけた。
「みんなお疲れ様。今日はお知らせがあるの。タカヤ、このチラシを回してくれる?」
そう言って、手に持った白い紙を、隣に座っていた隆也に渡した。隆也が素早くそれを二つに分け、左右に回していく。レイモンドの手元にも届いた。『国際合気道演武会』と記されてあった。
「八月に日本武道館で、合気道の国際演武会が開催されることになったの。世界中の合気道団体から代表者が集まって、演武を披露するという催しよ。模範演武の依頼があったから私は参加するのだけど、もし、一緒に行きたい人がいれば、どうかと思って」
波子先生の言葉に、その場がわあっと湧いた。
「先生、すごい!東京、いいなあ!」「私、行きたーい」
「ただし、費用は自腹でね。宿泊先も各自手配のこと」
波子先生の言葉に、おおおっ、と残念な声が上がる。
招待されているのは波子先生本人なのだから、当然だろう。レイモンドは、チラシに写った金色の玉ねぎのようなものがてっぺんに載った日本武道館と、白い上衣と黒い袴姿の二人の男性が演武している写真を眺めた。
(・・日本に行く)
何故か心が動いた。合気道を始め、隆也という親しい日本人の友人ができたせいかもしれない。大学に入るまでは、太平洋の遥か向こうにある小さな島国に特に興味はなかったが、次第に関心を持ち始めた。波子先生と隆也の生まれ育った国は、どんな国なんだろう。日本武道館での演武は、どんな風に行われるのか。街の人々は、どんなファッションに身を包み、何を食べているのだろう。それに。
(富士山・・)
隆也の部屋にあった富士山のカレンダーが、ふっと脳裏に浮かんだ。
(日本に行けば、あの富士山を見られる)
飲み会は終わり、店を出て、隆也を車で彼のシェアハウスに送ることになった。時刻はもう十時過ぎだ。暗い道を走らせながら、隆也に訊いた。
「八月にナミコ先生と一緒に日本に行く話、タカヤはどうする?」
隆也は、大欠伸をしながら言った。「俺は残念だけど無理だな。正月にも日本に帰ったし、夏休みは、教授のアシスタントで、現地調査が入っているからなあ・・」
「そうか・・」「レイ、行きたいのか?」改めて問われ、レイモンドは頷く。
「・・うん。行ってみたい。僕、今までオハイオも出たことないんだけど、日本武道館でナミコ先生の演武も見たいし、タカヤが生まれた国を見てみたい。タカヤがオハイオに来た時に味わった感覚を、僕も味わってみたい。・・それに、富士山を見てみたいんだ。タカヤの部屋のカレンダーにあるだろう?湖に鏡のように映っている。演武が終わったら、行ってみようかと思ったんだ」
「富士山て、え、そうなの?」隆也が驚いたように身体を起こした。
「東京から電車で行けるって、前に話していたよな?僕、日本語はまったく喋れないけど、日本は、英語は通じるかな?少しは日本語を勉強しないと厳しいかな?」
言いながら、急に不安になってきた。
「大丈夫、通じるよ。駅の標識も英語が併記されている。小学生だって英語を習っているし。・・それにしても、驚いたなあ。レイが日本に行きたいと言い出すとはなあ」
「自分でも驚いている。急に行きたいと思った。衝動だ」
レイモンドが答えると、隆也は楽しそうに声を立てて笑った。
「いいな、そういうの。そうだ。富士山を見たいなら、俺の友達を紹介するよ。そいつんちは、麓の河口湖で旅館を経営している。そこに泊まらせてもらえばいい。そいつにレイを案内するように頼んでみる」
「大丈夫かな?」「奴も大学生だし、八月は、日本もちょうど夏休みだから、日程が合えば大丈夫だよ。それにそいつ英語、ペラペラだから」
「そうなのか」
「うん。例の奴だよ。前に話しただろう?レイと似ていて、小さい頃の記憶がないんだけど、必死で思い出そうとしている奴」
ドキリとした。隆也からその話を聞いてから、ずっと心の中で気になっていたのだ。一つの事実に対して、自分とはまったく異なるアプローチをしている人物。どんな奴なのだろう。やっぱり隆也と同じ黒髪黒眼なのだろうか。彼の目は、思い出すことのできない過去を、どんな思いで映し出そうとしているのか。それとも、その努力によって、少しでも何か手掛かりのようなものを得たのだろうか。
「その友達の名前は、何て言うの?」
「アオイだよ」隆也は快活に答えた。「アオイ・ワタナベ。俺は、アオって呼んでる」
3
オハイオの夏は、昼間が長い。夕方になっても太陽はなかなか沈まず、七時になっても真っ昼間のようだ。スーザンとダンカンは、それぞれの会社を退社後、映画館で待ち合わせてデートをしてくると言うので、レイモンドは家で一人きりだった。
自分の部屋のベッドの上で大の字になっていると、ピーグルのゼロが階段を上がって、レイモンドの部屋に入ってきた。ベッドに前足をかけ、レイモンドの顔を舐めてきた。先の尖った尻尾をしきりに振っている。散歩の催促だ。
「オーケイ。ゼロ、行こうか」レイモンドは勢いよく起き上がり、階段を下りて、玄関で靴を履いた。スーザンとダンカンの習慣で、レイモンドは、日本人のように、玄関で靴を脱ぎ、家の中では靴下のままか裸足で過ごしている。確かに、その方が家の中を清潔に保てるし、靴を脱いでいた方が、足も楽だ。
ゼロの首輪にハーネスを付ける。嬉しくてたまらないのか、ハアハアという荒い息遣いが止まらない。早く、早く、とレイモンドの膝に前足をかける。
玄関のドアの鍵を閉め、足元で自分を見上げているゼロに言った。
「お待たせ、じゃあ、行こう!」
勢いよく走り出した。
レイモンドが住むアッパー・アーリントンのこの区域は、概して似た雰囲気の家が立ち並ぶ。家々の前には、ロードやストリートの表記が付く道路があって、その通りに面して、意匠を凝らした家々が整然と並んでいる。道路と建物の間には緑の芝が広がり、大抵の家には広い裏庭がある。家の前の花壇には、色鮮やかな花々が植えられている。
レイモンドには見慣れた風景だが、やはりこの辺りは経済的に恵まれている人々が多く住んでいるのだと、ダウンタウンに行くと感じる。
「・・すげえな。豪邸ばっかりだ」初めて隆也を家に招待した時、隆也は左右を見渡して、感心したように呟いた。「庭だけでこんなに広い。うわっ、兎までいるよ!・・レイさあ、日本には猫の額ほどの庭っていう表現があってさ、東京なんかでは、そういう狭くても庭付きの戸建てが欲しくて、みんな必死に頑張って三十五年の住宅ローンを組むわけ。・・まあ、アメリカは、そもそも広いもんなあ。日本とアメリカを比べる俺が間違っていたよ」と溜息をつくように笑っていた。
ゼロは舌を出し、ハアハアと息を吐きながら、レイモンドのスピードに合わせてついてくる。ポールを見つけると、立ち止まり、くんくんと臭いをかいで、片足を上げて、おしっこをかける。そういう時、レイモンドは、ゼロの好きなようにさせている。急かさない。ジョギングは好きだが、こんな風に、時々立ち止まったり、歩いたりするのも好きだ。散歩のルートも特に決まっていない。家々の庭を眺めながら、ゼロが行きたいように、適当に、ぐるぐると走る。時折、ジョギングをしている人や、同じように犬の散歩をさせている人とすれ違う。「やあ」と笑顔を交わす。
「よし、ゼロ。じゃあ、あそこまで行ったら帰ろうか」レイモンドは声をかけ、ゼロのハーネスを軽く引っ張った。ゼロは心得たように、尻尾を振りながら、先に進む。
空が少しずつ開けてきて、アッパー・アーリントンの西に位置するサイオート川の岸辺に辿り着く。レイモンドとゼロは、川沿いに広がる草むらを踏みしだき、川面へと近づいていった。
この川のスペルは、Scioto、「サイオート」と読む。
「これはネイティブアメリカンがそう呼んでいた川なんだよ。鹿という意味だそうだ」
かつて一緒にここまで散歩に来た時、父ダンカンが、教えてくれた。この街で暮らすようになってすぐの頃だろうか。
この街に来た当初、レイモンドの胸は不安で一杯だった。連れて来られた街は、どこも大きくて同じような家が続いていて、レイモンドは右も左も分からなくて、しょっちゅう迷子になった。ここには、目印になる高いビルや大きな建物がないのだ。二階建ての家々に埋もれた街。今、自分がどこにいるのか分からない。この街に何があって、この先に何があって、これから自分がどう生きていったらいいのかも分からなかった。
レイモンドの不安を見て取ったように、ダンカンは優しい声音で言った。
「レイ、いいかい。もし、この先、何かに迷ったり、どうしたらいいか分からなくなったら、このサイオート川を見に来るといい。この川は、ヨーロッパ人がここに来るはるか昔から、いつでもこうやって静かに流れている。きっと君の道標になってくれるよ」
サイオート川は、豊かな水量を湛え、ゆったりと流れていた。不思議と何の音もしない。さっきまで聞こえていた近くの通りを走る車のエンジン音も、この川辺までは聞こえてこない。静寂の中、川の水だけが目の前を流れていくのが分かる。
ゼロは、レイモンドの足元に伏せ、ペロペロと自分の体を舐めている。しばらくレイモンドが動かないことを知っているのだ。レイモンドは、ゼロの側に座って、お腹を撫でた。ゼロの尻尾が揺れる。
二週間後、レイモンドは、日本に旅立つ。
結局、波子先生に同行するのは、合気道クラブのメンバー八人となった。東京までは、みんなで一緒に出かけ、日本武道館で波子先生の演武を見た後は、各自、自由に動くことになった。秋葉原や銀座で買い物をする者、飛行機で北海道に行く者、新幹線に乗って京都に行くつもりだと言う者もいた。
レイモンドは、まずは富士山を見に、東京の近郊にある山梨県に行こうと思っていた。誰もレイモンドの案に乗る者はいなかったので、一人で行くことになる。滞在期間は十日間を予定していた。
「レイ、日程が決まったら、アオに連絡してみるよ。えっと、日本に着くのが八月一日、演武が二日。山梨に行くのは、次の日の三日からでいいのか?」
隆也は早速、故郷に住む友人の蒼に連絡を取ってくれた。蒼は、すぐに旅館の部屋を確保し、滞在中、レイモンドを案内することを快諾してくれた。その後、隆也がパソコンを使ってビデオ通話をしてくれ、レイモンドは、直接、蒼と話をした。
パソコンの画面越しに見る蒼は、隆也と同じ、黒髪黒眼で、眉がきりりとした、ハンサムな男だった。侍のようだな、とレイモンドは思った。蒼の口からこぼれる英語は、確かに流暢だった。スピードも同じ米国人と変わらない。
「夏休み中に、急に色々お願いして、ごめん。ヨロシクオネガイシマス」
中途半端に丁寧になってしまう。画面越しの蒼は、レイモンドの緊張を和らげるように笑顔を見せた。笑うと少しばかり幼く見え、そのギャップが面白いと思った。
「こちらこそ、タカヤがそっちですごく世話になっているそうで。天気予報では、しばらく晴れそうだから、逆さ富士を楽しみにしていて」と、明るく言ってくれた。
普段から、誰とでもすぐに打ち解けるタイプではないレイモンドは、蒼のはきはきとした語り口と笑顔に、ほっと安堵した。宿も確保し、何よりも英語が通じる知人がいるのだ。これ以上、心強いことはない。
ビデオ通話を終えた後、隆也がにこりと笑った。「良かったな。アオは車も持っているし、よく宿のお客さんを車で案内しているって言ってたから、リクエストして色々と回ってもらえよ。ここと同じで、あっちも車がないと動けないから」
「うん。ありがとう、タカヤ。君のおかげだ」レイモンドは改めて隆也に礼を言った。
初めての海外旅行、初めての一人旅だ。二か月前、レイモンドが日本行きを切り出した時、スーザンとダンカンは驚いた顔をした。
「日本って、レイ、そりゃまた、なんで?」
「ナミコ先生が東京にある日本武道館で、合気道の国際大会で演武をするから、招待されたんだ。クラブのメンバーと一緒に見に行きたい。その後は自由行動の予定で、僕は、東京の近くを観光しようと思ってる。十日間くらい。タカヤの家がある山梨県は、東京から電車で三時間程で行けるらしいから。タカヤは、今回は一緒には行かないんだけど」
「そういうことね。いきなり日本。東京。びっくりしたわ!」スーザンが胸を押さえながら言った。「・・まあ、あなたが大学に入ってから、合気道を熱心に習っているのは分かっていたけど・・」
「いいんじゃないか」ダンカンがスーザンの肩を抱いて言った。
「何に対しても慎重なレイが、自分から旅に出たいと言っているんだ。これは喜ばしいことだよ、スーザン。彼は自立のステップを踏もうとしているんだ」
スーザンは、ダンカンを見て、頷く。「・・そうね、ダンカン。その通りね。旅費は幾らなの?飛行機代に宿泊費はどれくらい?日本は、物価は高いんだっけ?」
「1ドル135円くらいかな。東京では、クラブのメンバーと一緒にユースホステルに泊まるし、山梨県では、タカヤが友達を紹介してくれて、その友達の両親が経営している宿に安く泊まらせてもらえることになったんだ。今まで本屋のアルバイトで貯めた貯金で何とかなるよ」
「それじゃあ足りないだろう」とダンカンが笑う。
「我々も少しばかり援助するよ。せっかく遠くに行くんだ。我々も、日本の面白い土産も欲しいし、色々なものを見て、経験して、旨い日本食をたくさん食べておいで」
川面を渡ってくる爽やかな風が、レイモンドの頬を優しく撫でた。ゼロは地面に体を横たえ、完全にリラックスしている。
レイモンドは、ここ以外の場所を知らない。飛行機にも乗ったことがない。スーザンもダンカンもオハイオ州出身だから、クリスマスやイースターで祖父母の家に集まる時も、車で数時間走れば辿り着いた。
大学構内にいると、轟音と共に、コロンバス空港に向かう飛行機が、よく空を横切るのが見えた。飛行機の高度は、かなりの低さだ。きっとあの飛行機の窓からは、歩道を歩くレイモンドの姿も見えているに違いなかった。あそこから見える景色はどんな風なのだろう。自分が暮らしている街は、空からはどんな風に見えるのだろう。
そもそもどうして自分は、日本に行きたいと思ったのだろう。わざわざ高校時代からアルバイトしてコツコツと貯めた金を使ってまで。
慎重で、変化を嫌う。人と争ったり、競うのも苦手だ。だから進学の際、ニューヨークのような大都会に行きたいとはまったく思わなかったし、刺激を求めてコロンバスを出ていく友人の話も共感できなかった。ここは、こんなに平和で、良いところなのに。家族がいて、ゼロがいて、静かで清潔な自分の部屋がある。すぐ側には、サイオート川が、いつもゆったりと流れている。この場所から離れるなんて、考えたこともなかった。
レイモンドは考える。自分が変わったのは、隆也に出会ったからだ。
日本からオハイオにやって来た留学生。合気道を通じて彼と知り合い、交流を深めていく中で、これまで頑なだったレイモンドの価値観が、少しずつ変化していった。
世界には、様々な風景がある。もちろん、知識では知っていた。グーグルアースを使えば、まるでその街に降り立ったような臨場感も味わえる。だが、それはあくまでパソコンやスマートフォンの画面上でのことだ。現実は、レイモンドはいつもコロンバスの空の下で暮らしている。だが、目の前で明るく笑う友人は、実際に、海を越えてやって来た。隆也には、彼の国に、家族も友人もいるし、思い出もある筈だ。それを全て置いてきた隆也の勇気と潔さに、レイモンドは内心驚嘆していた。
自分に同じことができるだろうか?自分は、この場所と違う場所へ行けるだろうか。心を穏やかに保てるだろうか。隆也のように、異国の地で、あんな風に明るく振舞えるだろうか。自分だったら、強烈なホームシックに陥るのではないだろうか、自分がここに来た時のように。
ここに来る前の記憶はない。来た時の記憶も曖昧だ。だが、当初の、胸の奥が常に締めつけられるような、深い孤独感は忘れられない。ずっと心の中に残っている。少しでも思い出そうとすると、胸が苦しくなり、吐き気がこみ上げてくる。
だからレイモンドは、蓋をしたのだ。記憶を失った自分に蓋をした。なかったものとした。自分の記憶は、ダンカンと一緒に見た、このサイオート川から始まったのだ。それだけで十分だった。
三月ぐらいから、夢をよく見るようになった。
以前は夢などまったく見なかった。レイモンドは十分満ち足りていたし、日常生活の中で、不満や鬱憤を感じることもなかった。夢は、心の中で抑圧された思いが、形を変えたものだと聞く。自分の中に何らかの変化が起こりつつある。
レイモンドは、川面を見つめたまま、己の心に耳を澄ませる。今、何が気になっている?何でもいいから、ここで吐き出してしまえ。日本。富士山。隆也の幼馴染の友達、蒼。
先日、ビデオ通話で見た端正な蒼の顔が浮かんだ。黒い瞳は、力強かった。
自分と同様に、蒼もまた幼児期の記憶がない。だが、彼は記憶を取り戻そうと努力していると聞く。確かに、蒼の瞳には、どこか思い詰めたような真剣さが潜んでいるように感じた。レイモンドの隣で屈託なく笑う隆也とは決定的に違う何かを、蒼は持っていた。そしてそれは、もしかしたらレイモンドも同じなのかもしれない。
最初から切り取られた記憶。自分自身の心の一部を失ったことで、レイモンド自身、知らぬ間に何かを失っていたのかもしれない。蓋をして気づこうとしなかった、認めようとしなかった何かを、蒼は探そうとしているのだ。
蒼は、自分の記憶につながる何か、ヒントのようなものを見つけたのだろうか?
レイモンドは、蒼に直接会って、話を訊きたいと思った。そう願う自分自身に驚く。実際に会ってもいない他人に、こんなに興味を覚えるとは。
もしかしたら、日本から戻って、再びこの場に立つ時、レイモンドは今の自分とは違っているのかもしれない。そして今、自分は、それを望んでいる。自ら手を伸ばして、その変化を得ようとしている。だが、それが何なのかは、今は分からない。
第一章続きます。