君の帰り道
ぼくは一歩ずつ歩いていく。真っ暗闇の帰り道を。
どうしてこんなにも暗いのだろう。すれ違う人はぼくに一切の関心を払わない。まあそれは当然か。こんなくたびれたおじさんに興味を示す人なんていない。
そういえばさっき横断歩道を渡った時、強くクラクションが鳴らされる音がして、車のヘッドライトが眩しいほどにぼくを照らした。その後、ドンっという鈍い音がした気がするが、御覧の通りぼくは変わらず家への帰り道を歩いている。あまり記憶がはっきりしないが、まあ多分何事もなかったのだろう。
それにしても帰り道が異様に暗い。都心から離れた住宅街の中だから外灯もまばらなのは仕方ないが、それにしたって暗い。足取りが重いのは仕方ないかな。ああ、ハハ、ぼくの話を聞きたい?
ぼくはねえ、コピー機リースの会社に勤めてる。営業担当さ。成績? 聞かないでよ。最近は顧客からのクレームが続いてね、それに対応するために毎日残業続きさ。だから帰るのもこんな時間になってるんだ。
出世はしていない。給料も多いとは言えないな。自分より若い上司に怒鳴られるのもなかなか辛い。会社に通うのは苦行さ、ハハ。
なら家はどうか。唯一の安らぎの場となっているのか……ハァ、ごめん、ため息なんかついちゃって。家に帰るのが楽しみなら、こんなに足が重い訳はないよ。
妻は悪くはない女だと思う。家計を支えるためにパートに出てくれているし、帰りが遅くなっているぼくの食事もいつも用意してくれている。ただ会話はほとんどない。ぼくが同じ食事の席になかなか揃えないせいかもしれないけれど。いつもぼくを無視して家事をしている。
子供は二人。息子は大学を卒業したが、いまだに働いていない。就活に失敗したらしいが、ぼくに詳しい事は話さない。
「親父には関係ないだろ! 殺すぞ!」
なんて台詞を吐き捨てられるくらいだ。いくら息子とはいえ、そんな言葉をぶつけられたらぼくだって怖い。だから何も言えないでいる。
高校生の娘は反抗期真っ盛りだ。
「くさい、寄んな。まじうぜえ」
そんな事を言ってくるものだから、ぼくはいつも彼女の位置を気にして縮こまっている。たまに彼女の方から近寄って来たと思ったら、言う事は決まっている。
「親父、金ちょうだい」
残念ながら、家のお金の管理は全て妻がしている。ぼくの自由にできるお金は、毎月妻から渡される小遣いだけだ。正直、昼食代に消えるほどの額しかなくて、滅多に飲みにも行けない。それでもぼくはなけなしの千円を渡す。
「ちっ、これだけかよ」
娘はお札をひったくると、礼も言わずに遊びに出かけてしまう。
「こんな夜からどこに行くんだ?」
「うるさいな! 友達んとこ行くだけだよ!」
ぼくの心配などどこ吹く風だ。妻は娘の背中に「気をつけてね」と声をかけるだけで、止めようとはしない。
あんなでも昔はかわいかったのになあ。小学三年生までは一緒にお風呂に入ってくれていた。休みの日にたまに公園に連れていくと、嬉しそうな顔して「パパー」って呼んでくれて。
反抗期だから仕方ないと思うようにしているけど、でもやっぱり辛い。
息子もさ、小学生の内はテストで百点取ったとか、工作で恐竜を作ったと言っては、ぼくに見せに来てくれていたのに。
ああ、足取りが重い。家になんて帰りたくない。この道はなんて暗いんだ。
そうだ、もう帰るのなんてやめてしまおう!
ぼくはくるっと方向転換した。ああ、ほら見てよ。この先には光があるじゃないか!
ぼくは思わず走り出す。足が驚くほど軽い。光はどんどん大きくなってぼくを包み込む。ぼくは光に飛び込んだ。
「あなた!」
「親父!」
「お父さん!」
三人分の声がした。その声の主達がぼくを覗き込んで、ぼくの視界を支配していた。ぼくは……? なぜか体がうまく動かないので、ゆっくり首を回して周りを見回した。
多分、病院だね。頭や腕、足などに包帯が巻かれているようだ。
「お父さん、車に撥ねられて何日も目を覚まさなかったんだよ」
「あなた、本当によかった」
「親父が死ぬ訳はないって思ってたよ」
……? 彼らは誰だ?
中年の女性と二十歳前後の男の子と女の子。彼らは涙を流しながら、ぼくが目を覚ました事を喜んでいる。だがぼくには覚えがない。
ぼくが君達は誰だと問うと、彼らは驚きの表情をし、慌てて医者を呼んだ。
医者の話によると、ぼくは一時的な記憶喪失になっているらしい。そして彼らはぼくの家族だと。うーん、やっぱり覚えがない。そして覚えがないまま月日は過ぎて、ぼくは無事退院する事になった。
久しぶりに帰ってきた我が家……我が家と言っていいのか、これも覚えがない。記憶にない知らない家族と過ごすのも気まずいが、まあぼくはここに住むしかないのだろう。
そしてこれまた馴染みのない会社に通う事になった。ぼくの同僚だという人達が歓迎してくれたが、業務内容もさっぱり覚えていない。そうすると明らかに面倒そうな顔をされた。
ああ、勘違いしないでくれ。ぼくは家族と会社の事以外なら全て覚えている。自分の事もちゃんとわかるし、物の名前も言える。田舎の両親の事も覚えている。正直両親の元に帰りたいが、両親は家族といなさいと言って帰省を許さなかった。
やれやれだ。
その後、ぼくがやった事だが……会社を辞めた。あんなくそな会社はない。さてこれからどうするか。蕎麦職人なんてどうかな。実は前々からやってみたいと思ってたんだ。
いまだに妻だと実感のない女性にその事を話してみる。すると意外にも彼女は「貯金ならいくらかあるから」と、ぼくの夢を後押ししてくれた。なんだ、いい人じゃないか! この人がぼくの妻でよかった!
息子と娘も賛成してくれた。
「あたし、お父さんのお店手伝うよ!」
娘はそう言った後で、「その分、お小遣いは増やしてね」とペロッと舌を出す。フフ、なんだ、ぼくの娘はかわいいなあ。
息子はしばらく日にちが経った後に、公務員試験の合格通知を持ってきた。
「親父に見せたかったんだ」
彼は照れたように笑う。ぼくは君が誇らしいよ!
もうすぐオープンの自分の店でぼくはふと思う。あの時、暗闇にまっすぐ帰らなくてよかったと。
君はどうする? その帰り道をいつものように歩いていくのか?
完
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