気づき
一方、シェーナはといえば。
「・・・あの・・・」
「何だ」
「・・・・・・・・・ごめんなさい・・・」
地下から連れ出され、汚れをぬぐうために何人もの女官によって風呂に入れさせられ、すべて整えられたシェーナを待っていたのは、カナスの無言の圧力だった。
シェーナを前に座らせているのに一言も話さないで、ただワインと果物をつまんでいるだけ。
ようやく声をかけたときも、ちっとも視線を合わせてくれないまま、そっけない返事。
くじけそうになったシェーナがせめて謝罪を口にできたのは奇跡に近いだろう。
「何に謝ってるんだ?」
「・・・・・・・勝手に、王太子殿下に会いに行ったこと・・・です」
「何が悪かったと思ってる?」
「そ・・・の・・・、カナス様にも、ジュシェにもニーシェにも黙って・・・一人で・・・勝手に、行きました。地下牢の守衛の人にも・・・カナス様の許可があると・・・嘘を・・・つきました・・・嘘はよくないです・・・」
流石にこの状況で砕けた口調は無理で、こわばった響きのまま人前のように話した。
ふぅ、とカナスのため息が聞こえてきた。
シェーナはソファの上でこれ以上ないほど縮こまる。
「シェーナ、俺が怒っているのは分かるか?」
「はい・・・申し訳ありません」
今にも泣きそうになりながら、それでも泣くまいと必死にこらえているせいで、黒い睫が何度もせわしなく上下した。
「カナス様のお心に反するようなことをして・・・本当に、申し訳なく思って・・・」
「違う」
するとさらりと前髪がすき上げられた。その手に促されるままに視線を上げれば、カナスは想像通り苛立った表情を浮かべてはいたが、それだけではない、複雑な感情の色も伴っているように見えた。
「俺は確かにあいつがこの上なく憎い。だがな、俺の怒りを知りつつ、それでもあいつの肩を持とうとしたからっていう理由で、今お前に対して怒ってるんじゃねえぞ」
「・・・え・・・?」
「いや、まあ・・・あいつをかばおうとしてんのにも、むかついてるはむかついてるが」
「申し訳ありません!」
むかついている、といわれてシェーナは即座に頭を下げる。
ぎゅっと唇を噛むのは、そうしなければ一気に泣いてしまうことが分かっていたからだ。
シェーナにとってはカナスに嫌われることが一番恐ろしかった。
だったら余分なことをしなければいいと心のどこかでは気がついていても、それを受け入れられるほどには『賢く』なかった。
それでも、嫌われたくないと思うし、怒られたくないという気持ちは本当だ。
突然、「来い」という命令が下って、シェーナはおそるおそる立ち上がった。
恐くて顔は見られなかったが、差し伸べられた手に従って彼の隣に腰を下ろす。
途端にぐいと肩を抱えられて、体の半分以上をカナスに預ける形になった。
意図がつかめずに視線を上げようとしたところ、頬をすべる指の感触があった。
シェーナはそれにびくっと思い切り体をすくめる。
シュンヌに触られたばかりで、殴られるような恐怖感が反射的に湧き上がってきたからだ。
「ほら、怯える」
妙に納得したように呟いて、カナスの手がすっと離れた。
「す、すみません!今のは違うんです・・・カナス様が怖いわけじゃなくて・・・」
「あの男が怖いんだろう?」
慌てるシェーナに対して、カナスはまるで動じていなかった。
かつては、シェーナが怯えればそれだけ悲しそうな、あきらめたような顔をみせていたのに。
「お前が本気で俺に怯えているのかそうでないのかくらい、いい加減区別がつくようになったからな。つーか、区別できねえとやってけねえよ」
「え・・・す・・・すみません・・・」
「謝らなくていい」
独り言のようにぶつぶつ呟いたカナスになんと言えばよいか分からなくて、とりあえず謝ってみる。
すると、彼は勢いよくシェーナの体を引っ張り自分の体で受け止めた。
「いいか。俺が怒ってるのは、お前が自分を大切にしないからだ」
「・・・自分を、大切に・・・ですか?」
「そうだ。百歩・・・いや、千歩譲って、あいつを助けたいと思ったのはいいとする。それがシェーナだろうからな。だが、何故むざむざとあんな奴に近づく。お前は、あいつが恐ろしいんだろう?何を言われるかなど、感謝などされないことくらい分かっているだろう?それなのに、何故、自分を傷つけに行くんだ?俺はそれを怒っているんだ」
「・・・・・・よ・・・く、わからない・・・です。私はただ・・・ただ・・・」
思考がぐしゃぐしゃに絡む。
どうしたかったのだろう。でも、駄目だと思ったのだ。殺したらいけない。
シェーナにとってどうであれ、あの人はフィルカにとっていなければならない人だと知っている。そしてカナスのしていることは、たぶんきっと最良の途ではない。
何かを強引になそうとすれば、必ず禍根が残る。
それは彼にとって決してよくはならない。
だから・・・・和解をしてほしかった。
「ただ・・・争わないで、ほしかったんです・・・」
その答えにたどり着く時間はおそらく短くはなかっただろう。だが、カナスは待っていてくれた。
この1年と半分の間、カナスはシェーナを理解しようと努力し、答えを導く時間を待つべき場合を少しずつ学んでいった。
「私は・・・フィルカの人間です。けれど、カナス様は私と分かり合おうとしてくださいました。だから、王太子殿下のことも、分かり合えるとはいわなくても、譲歩をしてくださると思いました。殿下も同じです。違う国だからといって分かり合えないことはないということを分かっていただけば、歩み寄る心を持てば、私たちが教えられてきたアキューラという国がたったの一面しか見えていなかったことを知って、尊重できるようになると思ったのです」
シェーナはその黒い瞳に、カナスの青い瞳をしっかりと写しこんだ。
彼はどことなく悲しそうな色を一瞬見せ、それからは一切の感情を表そうとしなかった。
その表情が“国王”としてもののだとシェーナは分かっていた。
「シェーナ、理想論では国は治まらない。二国が歩み寄ることは決してないだろう。この先も」
「・・・・・そうだと思います。私は、甘いのだと・・・よく・・・わかっています。それでも、どうしても、一度は話していただきたかった・・・」
「そのためには自ら痛みを引き受けても構わないと?確かに、お前は聖女だな」
「カナス様・・・」
「俺はいつまで経ってもお前のその部分だけは理解できない。こういうときのお前はまるで言葉の通じない別の生き物と話しているようだ」
「・・・・・・・・わたしは・・・」
ずきん、と胸が痛んだ。
カナスは正しい。
あれもこれも欲張っていては何もできない。
何かを得て何かを傷つけることの決断をするのが、施政者なのだと、心得としては知っている。
だが、食料が足りないのならばある者から分け与えればいい。
人手が足りないのなら助け合えばいい。
悪い人だってきっと理由があるのだから、話を聞いていい人になってもらえばいい。
そう考えることをやめられなくて、何もしないままに決めることができない。
それはいわゆる『愚か』なのだと、どれほど思い知らされても、あきらめなければならないときまでどうにかしたいと思う。
全てをあきらめていたシェーナだったからこそ、変われる可能性を誰よりも知っているから。
(でも・・・それは、カナス様のように力のある人がいないと、結局駄目なのだけど・・・)
一方でシェーナだけの力で何かを変えることができないことも、良く分かっている。
そして、その自らの『愚かさ』からカナスの命を危険にさらしたことも恐怖と共にしっかりと刻まれている。
矛盾する心は、いつもシェーナの胸をちくちくと痛めた。
「私は・・・、世間知らずで、甘すぎ・・・ですか?」
「客観的に言えばそうだ。人の上にいる資質はないんだろうな」
「・・・はい・・・」
「絶対的にお前は弱すぎる。身を守る力さえない。なのに無防備すぎる。それでは王族は勤まらない。却って弱点になる」
「ごめんなさい・・・」
淡々と責められて、シェーナはどんどん縮こまる。
だがカナスは逆にシェーナを抱く腕を強くしていった。
ほとんど腕の中に抱きすくめるような状態になったことを、シェーナはカナスの頬が髪に触れたことで知った。
彼の手は厳しい評価を下す言葉とは裏腹に、ひどく優しさを伴っていた。
「本来ならあるべき姿を求めるのが俺の仕事だろう。お前が俺の肉親であったならば、そうしなければならなかっただろう。・・・だが、俺は本当はお前のその性根を非難したいわけじゃないんだ」
「え・・・?」
「俺にはお前のことが分からないし、それが正しいとも思えない。だが、お前のその馬鹿正直さと甘さに何度も俺は予想外の幸運を与えてもらった。俺自身を何度も救ってもらった。その事実を捨て置けない」
甘くていいとはいえないが、それが一つの道であることも彼は認めていた。
彼が手に入れられなかった信頼や敬愛を、シェーナはいくつも手に入れているのだから。
「俺とお前は違う。だから俺はお前に惹かれるんだろう。腹立たしいこともあるし、面倒くさいときもある。それでもそれをひっくるめてお前だから、俺はお前を選んで、そばにおいておきたいと思ってる。俺と似ているなら、きっとここまで守ってやろうとは思えねえし、たぶん、こんなに大切にも思ってねえ」
シェーナがそのシェーナであるからこそ愛おしいのだと、惜しげもない言葉をカナスはくれた。
「けどな、お前の善行は、せめて俺が助けられる範囲にしてくれ」
ぎゅっとカナスの腕にますますの力がこもる。
くっついたところから、彼の心臓の力強い鼓動が聞こえてきた。
「お前の正しいことをしても許すから、一人でやるのだけはもうやめろ。そばにいるのが、俺自身じゃなくてもいい。俺では、話が通じないことだってあるだろうからな。だが、だったら双子を連れて行け。あいつらはお前を守るためにつけたんだ。お前の味方をした上で機転も利かせられる。危なくなったら俺が助けてやれる可能性も高い。シェーナ、お前は自分で考えている以上に弱いんだよ。何もかも俺に手出しをされるのは嫌かもしれないが、一人で身を守れないなら、ちゃんと守らせろ」
「カナス様・・・・」
「頼むから自覚しろ。俺にとってお前が一番大切なんだと、何度も言ってきただろう?お前が傷つくかもしれないと思うだけで冷静な判断ができなくなりそうになる。お前に何かあるたびに自分のことよりも辛い。だが、そうやって俺が大切にすればするだけ、お前の周りの危険も大きくなる。過保護にすぎると言われても、俺はお前が傷つくことが堪えられない。だから、俺の目の届くところにはいてくれ。いい加減、それくらい約束してくれ」
「・・・ごめ・・・ごめんなさい」
カナスが怒っているというより、傷ついているのだとようやく悟った。
何度言っても彼にしてみれば無鉄砲にしか見えない行動を繰り返すシェーナに、傷つけられていたのだと。
カナスには迷惑を掛けられない、分かってもらえない。
そう思ってカナスに何も伝えない度に、自分なりの行動を選ぶ度に、その結果としてシェーナが傷つく度に、彼はシェーナよりもずっと心をすり減らしていたのだと。
信じてくれないシェーナに、傷ついていたのだと。
「ごめんなさい」とシェーナは繰り返した。
負担をかけることをしたくなくて、意見をぶつけたくなくて――ただ、嫌われたくなくて。
助けてもらうたびに、シェーナはより頑なになっていたのかもしれない。
間違いに気がつこうとしなくなっていたのかもしれない。
「謝らなくていいから、一人で行動することはやめろ。ちゃんと頼れ」
「はい。ごめんなさい。ごめんなさい、カナス様」
「約束できるか?てか、俺の言いたいことはわかってるか?」
「はい、ちゃんとわかります。さっき、わかりました。・・・何度もカナス様は、このことを伝えてくださっていたのですね、ごめんなさい。私、分からなくて・・・傷つけてしまって、ごめんなさい」
迷惑じゃない。ちゃんと言え。お前に何かあるほうが大変なんだ。
何度も言葉を変えながら、怒ったように言われてきたのは、彼の痛みの裏返しだった。
ただ邪魔になりたくないとしか考えなかったシェーナの愚かさをずっと彼は許してくれていた。
今日まで気がつかなかったシェーナをただずっと見守っていてくれた。
「・・・っめ・・・なさ・・・ぃ・・・」
「なんで泣く?!どうした急に・・・。こら、泣くなって」
そう思うとぼろぼろと涙が出てきた。
カナスが受けていた心の痛みを、自分に置き換えてみるだけで、止める術を忘れてしまうくらいに涙がこぼれ続けた。
「きつく言い過ぎたか?あー・・・、悪かったよ。まだ早かったかもな。よく分からないなら、無理に約束なんてしなくていいから、泣くな」
シェーナは首を振った。
この人は優しすぎる。自分で短気だとか、冷淡だとかいうくせに、シェーナを甘やかしてばかりいる。
「お前を泣かせるのは苦手なんだよ。ほら、落ち着けって」
ぽんぽんと、子供にするように背中を撫でるカナスに、シェーナはきゅうと抱きついた。
彼の肩の辺りに顔をうずめると、「ん?」と優しい声が返ってくる。
「・・・き・・・」
ごめんなさい、というとまた彼を困らせる気がして、シェーナは別の言葉を口にした。
謝りたい気持ちは本当だが、伝えるべき言葉はこっちだと思う。
「カナス様が好き、大好き。私にとって一番大切で、誰よりもお慕いしてる人だから。ずっと、ずっとそれは変わらないから」
顔が赤くなるのがわかった。
だからシェーナは彼の肩口に一生懸命に顔をうずめていた。
耳が赤くなっているのでばれているとは思うけれど。
「だ、だから、約束を…もう、一人で勝手なことはしない。もう、これで最後にする。迷惑に思わないというカナス様のお言葉を信じてるから、や、約束です」
恥ずかしさや緊張でどきどきと心臓がうるさかったけれど、カナスが今までよりも強く抱きしめてくれたから、シェーナはほっと息を吐いた。
ちゃんと、許してくれているという実感があった。
「・・・今まで、たくさん傷つけてごめんなさい」
それに安心してもう一度だけおずおずと謝ると、耳元に、軽く吐かれた息がかかった。
「俺の情けないところだけには鋭いな、お前は」
「な、情けなくない!カナス様はいつも凛々しくてしっかりしていて、格好いいから!」
「・・・ったく・・・かなわねえな」
さきほどびくついてしまった頬に、またカナスの手が触れる。
今度は素直にそれを受け止めることができた。
綺麗な顔が近づいて、シェーナは目をつぶる。そうすることを、経験的に学んだから。
優しい感触で唇が触れた。だが、いつもはたくさん触れるのに、今日はすぐに離れる。
それが不思議でそろそろと目を開ければ、彼は笑っていた。
「約束の印だからな」
「・・・・あ・・・は、い・・・」
そうか・・・といつもとの違いに納得しつつ、シェーナは指先で下唇に触れた。
ふわふわのお菓子を唇に付けただけのような不思議な感触が残っている。
「何だ?足りなかったか?」
からかうように笑われ、その意味を一瞬考えた後で、シェーナはかあああっと思い切り頬を染めた。
この不思議な感じは、好きな物をもっと食べられたらよかったのに、というのと同じだと気がついたからだ。
そうして、気がつけばますます、頬が火照った。
こんなことでは気がつかれてしまう、とシェーナがぐるぐるしていると、ぐいっと後頭部を引き寄せられる。
びっくりして目を丸くすると同時に、また唇をふさがれた。
ただ、今度は自分が食べられてしまうような、深くてくらくらする口付けだ。
けれど、どこか甘い味がすることに気がついて、涙目になったシェーナはちょっとだけ自分の舌を動かしてみた。
やっぱり甘い。
だがそれを知る代償として、好き勝手な振る舞いをしていたカナスが固まってしまった。
どうしよう、とシェーナがパニックになっていると、その戸惑いに気がついたカナスがふっと息だけで笑う。
そのまま、ちゅっと恥ずかしい音を立てて、唇が離れた。
「どうした?」
彼はなんだか楽しそうな表情を浮かべていた。
「ご・・・ごめんなさい」
「別に悪いことしてねえだろ。ただ、珍しいな。いつもぽやぽやしてんのに」
ぽやぽや、はたぶん褒められていない気がする。突き詰めてもいいことはない気がしたので、シェーナはとにかく説明してみた。
「あ・・・あの・・・、甘かったから・・・」
「ん?」
「何か、甘い・・・味がしたから、何だろう・・・って」
「甘い?・・・・ああ」
妙に納得顔のカナスが、シェーナの薄く開いた唇を舐めた。
柔らかくて熱い舌が前歯と舌先をこすって思わず後ずさる。
けれど、まだ甘いか?と聞かれて、シェーナは自分の唇を舐めてみた。
「・・・さっきよりは・・・甘くないけど・・・。でも、甘い気が。何でかな?」
「何でも何も、果物食ってたからだろ。甘いもんはあんまり食べねえから、珍しかったんだろ・・・つーか、単にお前が甘いもん好きだからすぐ気がついたのかな」
「そうなの?」
気がついた理由なんてものは良く分からなかったが、カナスがそう言うのだからそうなのだろうとあっさり納得する。だが、続いた言葉には到底うなずけなかった。
「そうか、お前甘いもんなら積極的になるんだな。だったら、菓子でも食ってたら、お前から口付けしてくれるか?」
「・・・・・・・なにいって・・・むむ無理、絶対むり!!」
呼吸が止まるかというほどに息を詰め(実際驚きすぎて数秒は止まっていたが)、シェーナは千切れんばかりに首を振った。
ゆでタコのように真っ赤に染まり、パニックのあまり、瞳がふらふらと渦を巻く。
ついでにじわりと目じりに涙が浮かんだ。
「わかったわかった。やらせねえから、落ちつけって。冗談だ」
「ほ、ほんとう・・・?」
「本当にそんなことやれっつったら、卒倒するだろ。それはいくらなんでもつまんねえからな」
つまる、つまらないの問題ではないと思ったが、カナスがそう言っている限りは安全かと思い、ほっと息を吐く。
時折、理解の範疇外のことを要求してくる彼に、シェーナは心臓が壊れる寸前に追い込まれることがある。
安堵しきって脱力するシェーナを笑って、カナスはシェーナの顎を自分の肩に乗せた。
「お前、そういうところは変わらないな。それは、慎み深いっていうのか?まあ、初心なんだよな」
「はあ・・・すみません」
「良く分かってねえだろ。見た目ちょっと成長しても、中身はそう変わらんか」
まあ、今更焦んねえけど、とカナスは一人ごちだ。
「なあ、シェーナ」
「はい」
呼ばれて、視線をカナスのほうへ向けようとしたシェーナの頭を、何故か呼んだカナスが、ぐいと上から押さえつけた。
「カナス様?」
「・・・・・・やっぱりお前は変わったよ」




