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追憶1

過去の回想になります。

◇◇◇


かつて、シェーナが祖国に対して異常なまでの怯えを見せていたのは彼女の周りにいる者すべてが知っていることである。


フィルカに災厄を招くと言われる黒髪と黒い瞳の子供。シャンリーナと呼ばれ、生まれてすぐ処分される存在。

しかし王家の娘として人々の心を癒し奇跡をも起こすといわれる歌使いの声を持つシェーナは、その存在を隠され、塔の一室でのみ育てられた。ただ歌うための道具として。


生まれてからこの方、誰からも愛情を傾けられず、ただひたすらに痛めつけられ、搾取をされ続けた。

シェーナの頼りない細い背中には打ち据えられた無数の鞭の跡、そして焼きゴテの跡すらある。


美姫を望む前王の要請に対し死ねと同義の形でアキューラに連れてこられ、カナスに保護され、かの国を離れ1年以上が経過するなかで、その残酷なまでの傷はたくさんの愛情に包まれて少しずつ少しずつ薄らいでいった。

だが、ふと、ほんのふとした瞬間に、恐慌の中に引き戻されることがある。


一番ひどかったのは、彼女の誕生日の前だった。

きっかけは、彼女に仕えている双子の誕生日が祝われたことだった。ほんのそれだけのことでシェーナの心の均衡は簡単に壊れた。



**


その日、シェーナは朝から知らない言葉をたくさん耳にした。

“キーニバセッティア”。

シェーナのそばに付き従う双子にかけられるその言葉は、二人をはにかんだ、照れくさそうな表情に変えた。

さらにラビネが二人に小箱を渡し、大喜びしている双子をも目撃した。

不思議に思ったシェーナは王子時代からカナスの宮で仕えていた女官の一人にその意味を尋ねた。


「それは、ルナード族の言葉で、あなたに出会えた日に感謝する・・・つまり、誕生日おめでとうという意味ですよ」

「誕生日・・・?」

「ええ。二人は今日で18歳になるんですよ。今日はお祝いで料理長特製のケーキが出ますよ、きっと」

「誕生日とは、生まれた日ということですか?この世に生まれたことを他の人がお祝いするんですか?ラビネ様が二人に何かあげていましたけれど・・・」

「え?はい、そうですね。アキューラでは、誕生日はその人に贈り物をしたり、いつもと違う料理を作ったりしますね。カナス様は自分の宮にいる使用人たちを何ヶ月に1度まとめてお祝いするために宴を開いたりしていました。毎回どんちゃん騒ぎで、それは楽しゅうございましたよ。あの方は、使用人一人に一人に心を配ってくださるとてもお優しい方です。今年は王位にお付になられてなかなかそういうこともできないでしょうが、目をかけておられる双子の誕生日ですから、なんらかのお祝いがなされるでしょう。姫様のお国では違っておりましたか?」

「・・・・・・。生まれた日は、神に・・・感謝をします。教会に祈りをささげます。・・・それだけ・・・です」

「姫様?いかがなさいました?」


シェーナの答えがたどたどしいばかりではなく、その顔色もひどく悪くなったと知った年かさの女官は心配そうな表情を見せた。

するとシェーナははっとして、慌てて笑顔を作ろうとする。


「あ、ありがとうございました。私も二人をお祝いしなくては」

「姫様・・・?私めがなにかお気に触ることを・・・」


しかしそれは失敗していたようで、女官の曇りはとれない。シェーナはそれ以上表情を読まれないために頭をさげると、さっと踵を返してその場を逃げ出した。

どきどきと心臓が嫌な音を立てていることを自覚しながら。


その夜、女官が言ったとおり大きなケーキが振る舞われた。だが、シェーナにはやはり説明はない。

それを不思議に思いながらも、シェーナが自主的に二人に「おめでとう」と言うと、何故か二人は顔を見合わせ戸惑った表情を見せた。


「あの、ごめんなさい・・・。私、何もプレゼントが用意してないです。今度、あの、カナス様に聞いて、何か探して・・・・・、あ、私が頂いた装飾具とか・・・、もし、欲しいものがあれば何でも・・・」

「シェーナさま、そのようなことを気になさらないでください」

「シェーナさまのお気持ちだけで十分です」

「でも・・・・・、いつも二人にはお世話になっているのに。私が一番迷惑をかけているのに」

「「そんなことありませんよ」」


うつむいたシェーナに二人は即座に首を振った。


「シェーナさまのお世話をできることが私たちの一番の楽しみでもあるのですから」

「そうです。シェーナさまが悲しいお顔をなされては、私たちも悲しいです。シェーナさまが笑ってくだされば、それが私たちへの一番のプレゼントです」

「ジュシェ・・・ニーシェ・・・。でも・・・」

「でしたら、シェーナさま。私たちに装身具をくださるよりも、シェーナさまがそれを着ているお姿を見せていただけるほうがずっといいです」

「きゃあ!それはすごいです。シェーナさま、是非お願いします。ああ、腕が鳴ります・・・」

「まだ着ていただいていないご衣裳もたくさんあるもの。ああ、それにこの間整理していて見つけたあれとあれを組み合わせて・・・」

「素敵・・・お可愛らしいこと間違いないわ!」

「え?え・・・?そ、それは・・・」


着せ替え人形になれと言われて、シェーナはたじたじになった。

着飾るのが格別に嫌というわけではないが、この二人、かなりしつこいのである。

しかも、褒めちぎってばかりで、面映いのも苦手だ。

だが、すっかりそれで決定してしまったらしく、幸せそうに二人はあれこれと想像している。

シェーナはそっと苦笑をした。

だが、苦笑以上に、どこか晴れぬ胸の奥が重たかった。



「・・・・・・っや、ごめ・・・・ごめんなさいっ」


その夜、シェーナは自分の叫びで目が覚めた。

飛び起きた先の視界は真っ暗で、それにも震え上がる。

だが、暗闇に目が慣れてくると、そこが16年を過ごした寒々しい白い塔の中ではなく、広く豊かな調度品に囲まれた幸せな一室であることを認識でき、ほぅっと息を吐いた。

恐怖が去ると今度は、今の叫びで双子を呼んでしまわないか不安を覚え、シェーナは慌てて布団の中にもぐりこむ。

カナスは今日も宮には帰ってこれないようだから大きなベッドで1人きりだ。

その中で、膝を抱えて小さく丸まった。

静かな布団の中では、どくんどくんと自分の心臓の音だけがうるさく響いている。

誕生日、という言葉に動揺していることはよくわかっていた。

シェーナには"祝うべき"誕生日、というものがない。

あるのは、母が死んでしまった日付だけで、シェーナは常にその一日を悔恨と恐怖にさいなまれながら過ごさなければならなかった。

シェーナが生まれたその日は、真実を知るフィルカの人々にとって最悪な日だったからだ。

表向きは、王妃の裳に服すということで王女であっても盛大な祈りの儀式というものがないという説明がされていても、シェーナはその日じゅう、頭を垂れ、神に許しを請わなければならなかった。


“生きていて、ごめんなさい”と、そう繰り返すことを強制され続けていた。


だが、人々の憎悪があまりにも恐ろしく、苦行のような祈りですら安堵を覚えていた。

だから、誕生日はシェーナが一年で一番つらく、恐ろしい日だった。


ここでは、シェーナを誰も憎まない。

生きていることを罪だと言わない。

それでも、植えつけられた恐怖はぬぐえなかった。


「・・・・ごめんなさい・・・」


遠く離れた故郷を思うと、その言葉しか出てこない。

このまま幸せでいることがどうしても許されないと、そう思ってしまう。

本当はシェーナの誕生日は5日後だった。

誰にも言わず、思い出さないように、何もないように、過ごそうとしていた。

けれど、きっとそんな逃げを神は許してくれないのだ。

たとえ、フィルカにもう捨てられたのだとしても、シェーナが“神に見捨てられた子”(シャンリーナ)であることには変わりないのだから。

生きている限り、災厄を招くとされる人間であることに変わりはないのだから。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・」


気がつけばシェーナはずっと泣きながら謝りつづけた。

かつての白く無機質で自由のなかった日々と同じように。


**


悪夢ばかりを見るのでろくに眠れず、その次の日から、シェーナは部屋から出ることもできなくなってしまった。

ベッドの上でうずくまって震える以外、声を出すことすらまた怖くなってしまったのだ。

日一日、いや、一時間、一分ごとに、シェーナが懺悔しなければならない“あの日”が近づいてくる。

それが恐ろしく、その恐ろしさが気絶をするかのように意識をふと失い、そのたびに悪夢を引き起こす。

どんどんとリアリティをもって。

ここがアキューラではない、あのフィルカの塔の白く冷たい息苦しい部屋であるかのように。

それがまたさらにシェーナの恐怖を増幅させていた。


「シェーナさま、シェーナさま。シェーナさまのお好きな蜂蜜です。一口いかがですか?」

「木の実もたくさんありますよ。こちらはどうですか?」

「・・・・っ・・・・」


双子が心配をしてあれこれと世話を焼いてくる。

だが、近くに寄った他人の気配にシェーナはひきつったような悲鳴を喉で上げると、大きく震えたまま首を振った。

その拒絶の仕方はひどくなる一方だった。


「「シェーナさま・・・」」


ごめんなさい、とそう言いたいのに、喉が震えるだけでたったそれすら音にならない。

さらなる申し訳なさに、シェーナの縮こまりは加速していった。声もなく泣き出すシェーナに、双子が慌てて謝罪をする。


「シェーナさま、泣かないでください」

「シェーナさまは何も悪いことをしていないのですから」


だが、悪いのは自分だ、とシェーナは思った。

心配をさせていることは分っているのに、二人が危害を加えないことは分っているのに、それでも怯えてしまうのが悪いのだ、と。

こんなにも優しくしてくれる人たちを怖がってしまう自分がたまらなく嫌で、ますますシェーナは自身を追い詰めていってしまう。

そしてそれは、自己否定につながっていった。


自分がいなければ、二人はこんなにも悲しそうな顔をしないだろうに。

そもそも自分だけ誕生日すら教えてもらえなかったのは、知られたくなかったからではないのか。

もしかして自分は二人の邪魔になっているのではないのか。

本当は世話などしたくないのではないのか。

そう・・・かつての侍女ルーナのように、本当は・・・・。


アンタナンテサッサトイナクナレバイイノニ―――・・・・


「ひ・・・・っ」


彼女の口癖が耳の奥によみがえって、シェーナは必死で耳をふさいだ。

そんなことをしても無駄なのに。

むしろ何も聞こえなくなった世界は、余計に過去を思い出させる。


“もう16年だとよ”

“成人まで生きたんだからもういいじゃねえか”

“いつまでこの時代が続くのかしらねぇ”

“いっそ病気にでもなってしまえば、厄介払いできるのに”

“その辛気臭い顔を見ているとむかつくのよ。大体、私はこんなところでこそこそ生きたくなんてないの。あんたが死ねば自由になれるのに”

“あぁ、またこの日が来てしまった。私はなんと民に詫びればよいのか――・・・”


「・・・・、ぅ・・・・め・・・なさ・・・・ごめ・・・・なさ・・・」

「シェーナさまっ?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいご・・・・、・・・・・っ、ごめ・・・・なさぃ・・・」


耳をふさいだまま、突然壊れたように謝罪ばかりを繰り返し始めたシェーナには、もう双子の声は届いていなかった。

その黒い瞳もただ涙をこぼすだけで何も写そうとはしていない。

ひたすらに恐怖に支配され続けるシェーナの心は徐々に壊れ始めていた。


**


「シェーナ、おい、シェーナ!大丈夫か?!」


どれくらい泣き続け、眠っているのか起きてぼうっとしているのかもはや分からなくなった頃、ふと安心する匂いと頬に温かな感触を覚えてシェーナはのろのろと顔を上げ、瞳を何度か瞬いた。

うまく焦点を結ばなかった視界がようやくクリアになるとともに、目の前に青く綺麗な色の瞳が飛び込んでくる。


「・・・・・・・ナ・・・ス・・・さま・・・?」


深く意識せずに、その名前が口をついて出た。

すると彼はほっと息を吐き、シェーナの頭を撫でた。

そしてしばらくためらってから、いつもよりもゆっくりとした口調で尋ねてくる。


「なにか、食べたいものはないか?なんでもいいぞ」

「・・・・たべたいもの・・・?」

「ああ。果物とか、木の実とかどうだ?好きだろ?ああ、お前が好きだと言っていた砂糖菓子もあるぞ」


カナスはいろいろ提案してくれたが、どれもシェーナの心を揺さぶらない。

むしろ、何を言っているんだろう・・・とまたぼんやりとし始めた。

シェーナがよく知る言葉ではない言葉で話されてもわからない。


「おい、シェーナ。シェーナ!」

「・・・・・・・・あ、は・・・い・・・」


腕をつかまれて、はっとなる。

けれど、頭の中がとろりと溶けてしまっている感じで、やはりぼうっとしていた。

体中に熱がこもっているようでだるくてたまらなかった。


「食べたくないか?それとも眠いか?ここのところ、眠れてないそうだな」

「あ・・・いえ・・・はい・・・」

「・・・眠そうだな。熱も、ありそうか。ここにいてやるから、少し寝ろ。ほら、あったかくして」

「う・・・ん・・・・」


促されるままに、シェーナは布団の中に横になる。

すぐにまぶたが落ちてきそうだった。

眠ることが恐ろしくてたまらなかったはずなのに、カナスが毛布の上から撫でてくれていると不思議と恐怖を感じなかった。

あんなに他人の気配が怖かったのに。


「・・・・カナス様・・・」

「うん?何だ?」

「・・・・・・・カ・・・・・手・・・」


手をつないでいて。

素直な気持ちのままに呟き手を差し出そうとしたが、何故かふいっとカナスは立ち上がっていなくなってしまった。


「・・・・ぁ・・・・」


それを拒絶されたと思ったシェーナは、瞳を凍えさせる。


「まぶしいんだろ。気づかなくて悪かったな」


シェーナの声を聞き取れなかったカナスがカーテンを引いてほしいと訴えたかったのだと勘違いしたことも知らず。

寝室用の厚手のカーテンが引かれたことで、一気に室内が薄暗くなった。

日光が遮られたせいで、日に透けて金に見えていたカナスの髪も分からなくなる。

むしろ太陽に背を向けたせいで、シェーナにはただ大きな影が側に近づいてくるように見えた。


シェーナではとても敵わない大きな男の影。


その影が自分に向かって手を伸ばしたのだと知ったとき、突如シェーナの中で恐怖が膨れ上がった。


「・・・・・・ぁ・・・い・・・嫌ああぁあっ!!」


シェーナは飛び起きて、壁にどん!と背をつけた。


「シェーナ?」


不可思議そうにシェーナを呼んだ声は、もう彼女にはカナスの声として認識されていなかった。

壷の中に声を吹き込んだときのような、歪んで響いて聞こえるうつろな声が自分を呼んだのだと思った。


それは次第に、記憶の底に眠る、恐ろしい呼び声と重なっていく。

この世でもっとも怖い、父親の声と。


「い、いや・・・近づかないで・・・近づかないでくださ・・・」


蒼白になったシェーナは必死に逃げようとベッドサイドに寄った。


「シェーナ・・・?」

「怖い、怖い、怖いこわいこわいコワイ!来ないで、許して、許して・・・・っ」

「な・・・何だ、どうしたんだ?シェーナ?!」

「ひっ!いや!嫌!いやああああぁ!!」

「シェーナ、おいっ?どうした!?」

「「シェーナさま!!」」


シェーナの悲鳴を聞きつけて、侍女姉妹が部屋に駆け込んでくる。

その足音にもシェーナは恐怖した。


「来ないで、来ないで、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい許してえぇ!!」

「・・・っおい双子!医者呼んで来い!」


切羽詰ったカナスの声がするかしないかのうちに、叫び続けていたシェーナはぷっつりと意識を闇に手放してしまっていた。


* *


―――ここは、どこだろう。


真っ暗な中でシェーナは立ち尽くしていた。一人ぼっちで、立っているのは自分だけだった。

孤独と何も見えない恐怖に苛まれ、シェーナはその場にしゃがみこむ。

ぎゅうっと自分の腕に爪を立てていなければ、気が狂ってしまいそうだった。

するとふと、ざわ・・・と嫌な感じを覚えてシェーナは振り返った。

そして声にならない悲鳴を上げる。

たくさんの人影が、シェーナを見つめていた。

顔は見えないのに、目だけがシェーナを注視している。

ただ、じっと。黙ったままシェーナを見つめ続けている。


――――い・・・や・・・嫌・・・!


がくがくと震える足を酷使して、シェーナはそこから逃げ出した。

けれどどれだけ走っても、振り返れば同じだけの距離にたくさんの人の目があるのだ。走っても走ってもそれはついてくる。


――――いや、いや、いや!助けて!


シェーナは半狂乱で「どこか」に走り続けた。必死に足を動かし、闇雲に暗闇を突き進む。

助けて、と喉が痛むほどに叫びながら。

誰か助けて。ここから連れ出して、と。


すると、どこからかシェーナを呼ぶ声がした。優しく響く声。それは何度も何度もシェーナを呼ぶ。

シェーナはその声に向かって精一杯手を伸ばした。

すると、突然目の前が明るく開ける。まぶしさに目を細めれば、はっと目が覚めた。


「シェーナ」

「・・・・・・カナス様・・・?」


伸ばしたその手を掴んでくれていたのは、カナスだった。

鋭さを含むこともある青い瞳が、今はひどく穏やかにシェーナを見下ろしていた。


「よかった、心配したんだぞ」

「カナス様・・・!」


シェーナは感極まって飛び起きると、カナスの首にすがりついた。


「私、怖い・・・夢を・・・、暗くて、一人・・・で、すごく怖くて・・・、・・・でも、ゆめで・・・、よ、かった・・・。ほんとうに、すごく・・・怖か・・・っ」

「大丈夫だ。何も恐ろしいことなんてない」

カナスはシェーナの黒髪を撫でながら、優しい声でそう諭してくれる。シェーナはわあわあと声を上げて泣いた。

「シェーナ」

「・・・か・・・った・・・こわ・・・」

「大丈夫だ。もう、何も怖いことなんかない」


幾度もそう言い聞かせながら、彼はシェーナの頭を撫で続けてくれる。

その温かな手のひらにシェーナは安心しきって、身を寄せていた。

大丈夫、と。この人がいれば何も怖いことなどないのだと信じきって。

ようやく涙が収まり、シェーナはおずおずと顔を上げた。

その顔にははにかんだような笑みが浮かんでいた。


「ごめんなさい、カナス様。ご衣裳を濡らしてしまいました」


シェーナがくっついて泣いていたせいで、カナスの肩口が涙で濡れてしまっていた。

それを申し訳ないと思うものの、カナスがそれくらいで怒るような人ではないと知っているから、少しの恥じらいを含めるだけの謝罪を口にした。

気にすんな、といつものようにぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれることを予想しながら。

だが。


「なんてことをするんだ」

「・・・・・・え・・・?」


返ってきた冷ややかな声にシェーナの全身が凍りついた。


「服を汚した?お前ごときが、私の?」

「・・・・カナ・・・ス・・・様・・・?」


怯えきった呼びかけを音にした瞬間、ぐいっと強い力でシェーナの髪が後ろに引っ張られた。


「い・・・痛・・・っ」

「忌まわしい黒髪だ」

「・・・・・・・カナ・・・?ひ・・・っ!」


痛みに涙目になりながらシェーナが見上げたその人はカナスではなかった。

グレーの瞳に忌々しげな色を隠そうともしない初老の男性。


「お・・・とうさ・・・」

「その姿でそのように呼ぶことは許してはいない!」

「ひ!ごめんなさい!申し訳ありません!白の神官様!」

「私には、“歌使い”の娘しかおらぬ。塔で歌う娘だけが私の子だ」

「はい、シャンリーナは、存在しない。王家に呪いの子は生まれない。誰にも、だれにも、いわないです!どうかお許しを」

「シェーナ、その姿で許しを請うときはいかにせよと?」

「・・・っ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、もう二度といたしません。だから、だから・・・」

「シャンリーナの穢れはその身で払うもの。この場に懺悔しなさい」

「お願いです、ぶたないで・・・ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ・・・」

「腕を押さえなさい」


無慈悲な王は控えていた神官たちにシェーナの腕を押さえるように伝える。シェーナはこれから下される罰に震え上がった。背後で、鋭く乾いた鞭の音がする。


「い・・・や・・・嫌あぁあああ!」


自らの悲鳴でシェーナはがばりと飛び起きた。

全身がびしょびしょに濡れていて、心臓も壊れそうなほどの早鐘を打ち続けていた。


「・・・ゆ・・・ゆめ・・・夢・・・」


けれどしばらくすれば息も落ちつき始め、シェーナはほうっと大きな息を吐き出す。


「よかった・・・夢で・・・」


昔の怖い夢を見ただけだ、とシェーナは自分を慰める。

もう今は怖いことなどないのだから、と。

今は温かな人たちに囲まれている。

もったいないくらいに幸せな現実なのだ、と。

けれど、その慰めは一瞬のうちに脆くも崩れた。


「うるさいわね!!朝からアンタの声なんか聞きたくないのよ!」

「――――!」


怒鳴り込んできた声に、シェーナは息が止まるかと思った。

ぎこちなくそちらを向けば、金色の長い髪の女性が扉の前に立っている。


「・・・・ルーナ・・・?」

「名前を呼ばないで!アンタに呼ばれたら不幸になるじゃない!」


ヒステリックな高い声でわめき続ける彼女は、シェーナを毛虫のごとく嫌っている侍女のルーナだった。


「どう・・・して・・・ルーナ・・・ここに・・・?」

「どうして?来たくて来てるんじゃないわ。私の母親がアンタの乳母をしていた、それだけの理由で私もこんな陰気くさいところで働かなければいけなくなったのよ!全部アンタのせいじゃない!」

「っ!」


近くにあった本を投げつけられて、シェーナは必死で頭を守った。

頭をかばった代わりに本がぶつかった腕がじわりと痛む。


「さっさと着替えて、歌いなさい。時間通りに歌い始められなかったら私が怒られるんだから」

「歌・・・・?」

「ぐずぐずするんじゃないわ!」

「・・・っはい・・・!」


ルーナに再び手に本を持たれたシェーナは、びくっと震えあがりながら頷いた。

するとルーナは鼻をならして部屋を出て行く。


「歌・・・歌う・・・どうして・・・ルーナが・・・?」


シェーナは混乱しながら、ぐるりと周りを見渡した。そして臓腑が凍りつくような思いを味わう。


(ここは・・・塔の中・・・)


シェーナが出ることが許されない狭く息苦しい塔の中の一室。16年間見慣れた場所。

今いるのも、楽譜に埋もれた彫刻もされていない白いベッドの上だ。


「どうして・・・私・・・フィルカに・・・・?」


いつ戻ってきたのかとシェーナは何度も首を振った。

そしてこれは夢の続きではないかと、腕をつねってみる。

しかし、触れた腕が余りに細く骨と皮しかなかったことに、シェーナは驚愕した。

細い細いと言われ続けているシェーナだったが、最近はもう少し肉が付いていたはずだった。


「嘘・・・」


ぞっとした。叫びだしたいほどの恐怖に駆られ、シェーナはベッドを降りると窓に向かった。

見下ろした景色は、確かにフィルカのものだった。

雲に覆われた薄暗い空、古びた建造物、草の多い大地・・・アキューラとはまるで違う景色。

シェーナはへたりとその場にしゃがみこんだ。


そして、しばらく呆然とした後で、ぽつりと言葉が漏れた。


「・・・・夢・・・そう・・・あれが・・・夢・・・だったんだ・・・」


このフィルカでの現実が夢であると疑うなど、ありえなかった。

だって、シャンリーナの自分があんなにも幸せになれるわけがないのだから。

神様が哀れに思ってせめて夢だけでも素敵なものを見せてくれたのだ。そう、そっちのほうがずっと現実っぽい。


誰もいなかった。シェーナを好きでいてくれる人なんて、誰もいなかったのだ。


全ては夢、幻想・・・シェーナの頭の中だけの幸せな時間。


「私は・・・そう、ずっと、ここにいるんだ。死ぬまでずっと・・・・」


シェーナの白い頬に涙が一筋伝った。




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