綻びの足音
「それより・・・」
「はい?・・・ど、どうしたの?」
二人の時は、普通にしゃべる。厳しい取り立てをされ続けたシェーナは、いまだぎこちないながらも、カナスに基本的には砕けた口調を使うようになっていた。
それにふっと笑い、さらりとシェーナの黒髪を一束、掌に乗せたカナスはその髪に口付ける。突然の行動に、シェーナは驚いていた。
「あのな、シェーナ」
しかし、カナスの真剣な表情を見て、シェーナも少しこわばった表情に変わる。
そんな彼女を安心させようと、カナスはもう一度シェーナの頭を撫でた。
「婚姻の式、な。頭にかぶるの、ベールにしねえか?」
「ベール・・・?それってあの、薄い透ける布のもの・・・?」
「そうだ。もちろん、そのあたりのやつじゃなくて上質なものを用意させる」
ベールはもともと、南方の衣装に取り入れられていたものだ。だから、シェーナもコフールにいたときにはそれをマナマリに薦められて(というか強制的に)つけていた経験がある。
「でも、あの・・・それだと、髪が・・・髪の、色・・・が・・・」
だが、シェーナは自分の髪の色が人の目につくことを恐れる傾向にある。
限られた人たちの中ではベールでも何とか過ごせたが、それを大勢の民の前でさらすことにはひどく抵抗があった。
だから、カナスもその提案は悩んだ。
けれど、せっかくの機会だからこそ、シェーナに一歩を踏み出して欲しいと願っている。
「シェーナ、黒髪は確かに珍しい。だが、アキューラでは珍しい、というだけだ。何も悪いことはないだろう」
シェーナはうつむいたまま黙っていた。カナスは言葉を続ける。
「俺は、参賀に来た者に胸を張って言いたい。これが俺の妃だと。黒髪で黒瞳の、愛らしい姫だと」
ふる、とシェーナが一度だけ首を振った。それでもカナスは引かなかった。
「お前は何を気にするんだ?俺は、何度も言っているが、お前のこの髪もこの瞳も綺麗だと思っている。なのに、何故駄目なんだ?」
「・・・・・・・・・きつ・・・だと・・・」
問いかけからしばらく待って、ようやくシェーナの小さな小さな声が返ってきた。
「不吉・・・だ・・・と、死の色・・・みたい・・・って、この国、でも・・・言われたから。だから・・・カナス様が、不幸になるって・・・わたしみたいなのじゃ・・・、そう思われるの・・・思われたく、ない・・・」
「っ誰が言ったんだよ!そんなこと!」
きつく答えを迫ると、シェーナはびくっとなったが、それでも首を振って答えなかった。
「そうやって、思う人もいる・・・ということなんだと思う。私のこの髪を見て、悪い予兆を感じる人がいるなら、それは・・・見せないほうがいい、と思う。せっかくの・・・良き日になる、はずなのに」
「だからずっと隠しておくというのか?自分を隠して?」
「・・・・・・・・騙しているのは、申し訳ないと、思います・・・」
「そうじゃない!俺が言いたいのは・・・っ」
「カナス様の、お名前に傷がつくのは嫌。あのような娘を選んで、と」
もどかしそうに言い募ろうとしたカナスを、シェーナが珍しくさえぎった。涙で黒い瞳が潤んでいた。
「近くにいる人には、行動を通して、いつか、わかってもらえるかもしれない。でも、多くの人が来るのなら、遠くにいる人で、たった一度、カナス様のお姿を見に来られる方だっていると思うから。その人たちに、不安を抱かせてしまいたくない・・・。国中が抱いている“歌姫”の幸せな幻想を壊してしまいたくない」
その涙はぽろぽろと彼女の白い頬を伝って零れ落ちる。
「私が不吉な連想をさせるのなら、黙ってるほうがいい。心苦しいけど・・・でも、式の間だけは。せめて自ら明らかにしないほうがいいと思う、思います」
そう言ってうつむいたシェーナの顎を、カナスは捉えた。そして指で涙を優しくぬぐってやる。
「お前を不吉、と言ったのは貴族の娘か?」
ぎくりと固まったシェーナに、彼は自らの言葉が正解であることを悟った。そしてふう、とため息をつく。
「シェーナ、誰も本気で黒髪が不吉とは思わない。それはただのやっかみだ。では聞くが、お前と同じように神を信じるあの宗主はお前の髪や瞳の色で不吉だと一度でも言ったか?」
「・・・・いえ、マナマリ様は珍しい、とおっしゃっただけで」
「あの国は黒は覆いの色、苦しみや悲しみを覆ってくれるとして、救いの色の一つに数えられる。だからこそ、宗主はお前にベールをかぶせたがったんだろう。隠すなどもったいない、と俺は何度も怒られたぞ」
「・・・・え・・・?」
「色の評価など、その国ごとに違う。それぞれの心の拠り所によって違うものに、意味などない。まして、俺たちの国には神はいない。己の力とこの目で見たものを何より信じる。シェーナ、俺たちはお前の力を幾度となく借りてきた。だから、民はお前を歓迎している。黒髪だろうが白髪だろうが、そんなもの、関係ない。そこにいるお前が全てだ」
シェーナは言葉がないようだった。黙ってじっとカナスの言葉に聞き入っている。
カナスは、かがんでシェーナの目元に唇を寄せた。しょっぱい味が唇に移る。
「大体なあ、なんのためにお前を各地へ連れまわしたと思ってるんだよ。有力者にはちゃんと認識させておいただろう。“俺の歌姫”はちっこい、黒い瞳と黒い髪の娘だって。その上、お前はよく病院やら孤児院やらに行って庶民と勝手に触れ合ってるから、巷じゃ結構有名になってるぞ。黒髪の聖女様、ってな」
「!」
「この国に黒髪はいないからな、目立つんだろう。フードかぶってても髪は見えるし」
「・・・そんな・・・」
驚きすぎて呆然としている彼女の頬をカナスはそっと指でなぞる。そして顎下に流れる黒髪も流すようにたどった。
「俺の評判?そんなもの、良いに決まってるじゃねえか。この国の内紛を止めた“歌姫”で民のために惜しげもなく尽くす“黒髪の聖女”を正妃に――“シアン”に選んだんだ。誰が非難するっていうんだよ」
「カナス様・・・」
「俺のことを思うのだったら、無理に隠さないでくれ。お前が今までのことを乗り越えて、これからを俺と生きるためにその髪をさらしてもいいと思ってくれるのなら、それは俺にとっての何よりの喜びになる」
またしばらく返事は返ってこなかった。
けれど、肩に手を置いたまま辛抱強く待っていたカナスに、シェーナはようやく首を縦に振ってくれた。不安そうな色はまだ残っていたが、それでもはっきりと。
「カナス様がそうしたいというのなら、私もそれがいい」
そうして、まっすぐにカナスを見上げてくる。
「私が共にありたいのはカナス様だから、カナス様がいいということを信じるようにする」
この国に来たばかりの頃からは考えられないほど、シェーナは人をまっすぐに見るようになった。常に漂っていた他人への怯えも随分と影を潜めるようになった。
見た目以上に、彼女の成長はその心にある。
「そうか」
カナスはぎゅっとシェーナを自分の腕の中に強く抱いた。
「ありがとな、シェーナ」
「お礼を・・・言わなければならないのは私のほうでは」
シェーナの細い指がカナスの上腕のあたりのシャツをつかんだ。くん、と上を見上げたシェーナが、はにかんだ微笑みをみせる。
「カナス様のような方が、私を選んでくださってとても幸せなので。ありがとうございます」
率直過ぎる言葉、それも心から言っているのが本当に良く分かるその言葉に、カナスは頬が熱くなったような気がした。
気恥ずかしさをごまかすために、彼はぐしゃぐしゃとまたシェーナの頭をかき混ぜる。
まったく、この純粋さには誰も敵わない・・・そう笑いながら。
* *
式の日取りが近くなるにつれて、カナスの忙しさは殺人的になっていた。
何せ、普段の政務に加えて、当日の警備、賓客の選定、式次第の構想、ついでに商業地の開放まで考えなければならないからだ。本来であれば、内務文官長が取り仕切るところではあったが、何せ、アキューラ人ですらない花嫁を“シアン”にするなど前代未聞である上、伝統伝統とうるさい初老の男ではカナスの機嫌を損ねない配慮ができなかったのだ。
しかし、なにより、国中の人気者の“歌姫”への関心は高く、かつてないほど国民の参加を希望する声が多く、とても従前どおりの式では納得しない雰囲気になっていることが大きかった。
各地方、自治区から是非ご行幸を、との陳情が来ていることも配慮に入れて、日程を組まなければならない。
しかもその間、動かすことができない政務も全部片付けておかなければならないのだ。
さすがのカナスもやることの多さにぐったりを通り越して、殺気立ってきていた。
「あー?スヴィールにジョカラート、パルト、チャコンだあ?んなに回れるか!てめえらが来いってんだ!」
「か、カナス様・・・ああっ、放り投げないでください!ちゃんとお返事を返さなくては」
「っるせえ。これくらいてめえらで処理しとけ!俺は何があってもマロジェまでしか行かねえからな。そこの州知事に近辺のやつらと調整するよう言っとけ。ついでに滞在時間は一刻だ」
あとは、街道の警備と移動する護衛兵の数の指示だけをして、カナスはしっしっとグィンを手で追い払った。けれど隻眼の青年は疲れた顔をしつつも、その場をまだ動かない。
「何だ?」
「ザイーツ宗主マナマリ殿下から滞在のご希望が来ておりますが」
犬猿の仲の相手の名前を聞いてカナスはちっと舌打ちをした。本気で憎んだり嫌ったりしているわけではないが、とにかく彼女は「気に入らない」。
シェーナにとってはこれ以上ない後ろ盾とは分かっているものの、なるべく関わり合いになりたくないというのが本音なのだ。
「まだ正式な招待状も出してねえのに、気の早い話だ」
「シェーナ様とお手紙のやり取りをされているそうですから・・・。それで、あの~式の日の前後一週間くらいこちらに滞在したいと・・・」
「んなもん却下に決まってんだろ。大事な大事な宗主様にうちの国内でもしものことがあってはならねえからな。警備が大変すぎて無理っつっとけ。ああ、馬鹿みたいに警備引き連れてきても入れるとこはねえとも付け加えておけよ。何せ、“手狭な”王宮なもんで、ってな」
嫌味も忘れずに指示するカナスに、グィンは苦笑を浮かべた。
それを見たカナスが近くに摘んであった林檎を手に取り、グィンの頭にクリティカルヒットさせる。
「痛っ!何するんですか!?」
「むかつく笑い浮かべてんじゃねえよ。おら、とっとと働け。じゃねえと、今度のてめえの休み、全部返上させんぞ」
「なんて事を言うんですか!最近は毎日残業なのに、この上休日まで潰すなんて・・・時間外労働はとっくに限界超えてますよ」
「んなもん、俺だってそうだ。いいからぐたぐた言わずに、さっさと動け」
カナスがもう一つ林檎を手の平の上で跳ねさせたのを見て、グィンは慌てて回れ右をした。
またぶつけられてはたまらないと思ったのだろう。
カナスはふん、と鼻で笑って、手に持っていた林檎を一口かじる。まともに食事の時間を取れない分、こうやってちまちまと栄養補給をすることが既に日課となっていた。
(・・・式の前に痩せるな。これは・・・)
ろくに衣装の採寸あわせもできていない状況に、はぁ・・・とため息が漏れる。
もう一つ体があればいいのに、とないものねだりをしたくなったことはもはや数え切れない。
もっと現実的にラビネくらい頭の切れる側近がもう1人欲しい・・・いやいや、それも無理そうだ。
では、せめてグィンレベルでいいから、もう一人こちらの意に沿うように動く人間が欲しい。
それも無理か・・・なかなかあそこまで忠義に厚く信頼できる相手はいないものだ。などと、どうでもいいことを考えていないとやっていけない気分だった。
(っつーか、要はグィンのやつがもっと使えるようになればいいんだよ。あいつは事務処理能力はあるんだが、高位の奴らとの立ち回りがうまくねえからな。こまごましたのまでいちいち報告してきやがって。だから俺の仕事が増えるんだ。そうだ、何もかもあいつが悪い)
最終的には完全な八つ当たりしながら、がしがしと書類を処理していくカナスの耳に、またばたん!と耳障りなドアの音が響いた。
「カナス様!大変で・・・わっ!?」
そんな開け方をするのはグィンしかいないので、カナスはほとんど芯しか残っていない林檎を思い切り投げつけた。
すこん、と小気味がいい音がしてグィンの額にぶつかったそれは、勢いよく跳ねて絨毯の上に落ちた。
「ひどいじゃないですか!」
「っるせえんだよ」
それを拾いながら文句を言う乳兄弟をまだ八つ当たりの気分でにらみつける。
一度は愛想笑いでごまかしたグィンであったが、すぐに顔つきを改めて重要な新情報を告げた。
「先ほど、フィルカの先駆けが書状を持って参上しました」
「・・・・なんだって?」
さすがにそれには、カナスもペンを止める。
視線で続きを促すと、グィンは手に持っていた書状へ目を落とした。
「それが・・・、フィルカ王太子殿下が既にこの王宮に向かっているそうです。婚礼の件でお祝いを申し上げにいらしたそうで。それに、是非、直接御願いしたいことがあるということで、話し合いの席を設けてほしいと」
「・・・・呼んでもいねえのに、気の早いことだ」
カナスは皮肉を含ませて唇の片端を持ち上げた。マナマリのときとは違い、本気の嫌悪の表情だった。
グィンから書状を受け取ったカナスは、一瞬無になってから、次に冷ややかな瞳で笑って顔を上げた。
「グィン、明後日の昼には着くそうだ。丁重に出迎えてやれ」
「・・・場に乗るおつもりですか?」
グィンは複雑な表情だった。
彼も幾度となく、シェーナの恐慌を見てきた。だからこそ、フィルカの王族には嫌悪感を抱いているのだろう。
しかし、カナスは譲らなかった。
「避けては通れねえことだ。この際、決着をきちんとつけておかねえとな」
「かしこまりました」
先ほどまでの冗談めいたやりとりとは一変、二人ともすっかり真剣な表情に変わっていた。