尾藤志信の思い 下
「ヒイロ殿……」
思い出に浸りながら、男ーー魔王は月明かりに照らされた手のひらを見つめていた。
その時、足音を感じる。ヒイロが目を覚ましたのだ。
「おっと、変装しなければ」
急いで髪を纏めて頭巾を被り、仮面をつける。
その数秒後、廊下を歩いていたヒイロが、窓の外ーー屋根の上にいる魔王をみて微笑んだ。
「シノビドス、起きてたんだ」
「ござる。ヒイロ殿は?」
「んー。悪い夢みちゃって、ちょっと目が覚めちゃったんだ」
屋根から降りて隣に立つと、ヒイロはシノビドスをみあげてふにゃりと笑う。
寝巻きの上から肩にショールをかけて、髪を下ろした姿は無防備で愛らしいと思う。光輪に髪が絡まって静電気のように数本浮いているのも彼女らしい。
あまりジロジロ見るものではないと気づき、シノビドスは月に目を向ける。
「月が綺麗だったゆえ」
「本当、綺麗だねえ」
ヒイロはシノビドスの隣で、眩い満月にウサギのような紅瞳を細めた。
「月を見ていると、ヒイロ殿の光輪を思い出すでござるよ」
「ふふ。確かにこれ、暗いところでは灯りになるしね」
隣に立つ少女の、肩の細さや頬の白さに胸が甘く苦しくなる。
柔らかな髪に触れたいと思う。昼間口付けた手の甲に、もう一度唇を寄せて、愛をささやきたいと思う。
ーーけれど。
男はシノビドスであり、魔王だ。
「綺麗で……ござるな」
何が綺麗なのか、主語を誤魔化した言葉一つ絞り出すのが精一杯だ。
ぎゅっと、拳を作って衝動に耐える。隣でヒイロが思い出したように話しかけてきた。
「そうだ。ねえシノビドス。ホットミルク飲もうと思ったんだけど、よかったら一緒にどう?」
緋色の名前によく似合う、赤い瞳で見上げてくる彼女。
苦労を重ね、人に傷つけられてきた娘なのに、よくわからない胡散臭い男にも、こんなにも優しく微笑んでくれる。
ーーヒイロはだれより、綺麗だと思う。
「良いでござるか? ならばお言葉に甘えさせてもらいたいでござるよ」
「ふふ。ちょっとパンを浸して、疲れを取る異能かけてあげるね」
「おっ、それはかたじけない」
「そうと決まれば、お夜食お夜食〜♪」
彼女の無防備な優しさは、彼女のかけがえのない長所でもあり、危うさでもある。
男は、この素朴な少女を守りたいと強く願った。
添い遂げることができない身だとしても。
「ヒイロ殿」
「ん」
台所に向かう彼女を呼び止める。
ほぼ無意識と言っていいくらい、勝手に言葉が溢れだした。
「拙者の名前は、志信でござる」
「えっ」
「シノブ・ビトウ。井河藩尾藤家、二十一代当主、志信。それが拙者の、の本当の名と身分でござるよ」
「じゅ、呪文……?」
目をぐるぐるにするヒイロに、シノビドスはクスリと笑う。
「シノブ・ビトウ。志信が名で、尾藤が家名でござる」
「ってことは……シノブがシノビドスの本名……?」
「左様。だが、ヒイロ殿にはこれからも今まで通り、シノビドス、と呼んでいただきたいでござる」
「えっ……で、でも、でも本名知っちゃったら、なんだか悪いよ」
「拙者が好きなのでござるよ、ヒイロ殿にシノビドスと呼ばれるのが」
様々な名を持つ男は首を横に振り、困惑する愛しい娘に笑顔を返した。
「尾藤志信の名はーー絶家となった昔に捨てた名でござる。シノブより、ヒイロ殿に呼ばれるシノビドス、が……今の拙者でござる」
「そ、そうならいいけど……でも一体、いきなりどうして教えてくれたの?」
「突然申し訳ない。なんとなく、言いたくなったのでござるよ」
光輪をふわふわとさせながら困惑の顔を見せる彼女に、男は笑う。
「わかった……シノブ。普段は呼ばないけど、ちゃんと覚えておくね」
彼女に本名を呟かれると、ぞくぞくするほど嬉しくなる。
ーー本当の正体は、明かせないからせめて。名前を伝えて誠意にしたかった。
それがたとえ、男の身勝手な自己満足であったとしても。