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騎士道。  作者: Albert Aldebaran
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1-2-1

 召使の先導で、目的の教皇閣下の書斎まで案内されるマサル。

 「お待たせいたしました。こちらでございます」

 丁寧に低頭し、召使が示した先にあるのが、どうやらその入口らしい。他の宮廷内の部屋と比較して不自然なほどに質素な木目調の戸。宮廷内の豪奢な雰囲気に飲み込まれないそれは、唯一気品の高さを主張している金のドアノブも相まって、無闇に侵入してはならない神聖な領域の存在を暗示している。

 さすがのマサルも、少しばかり顔の筋肉がこわばる。

 「よろしいでしょうか」

 マサルの緊張を見て取ったか、気づかわしげに尋ねる召使。そこには、コンバットのような強者に媚びを売らんとする下卑た考えはうかがえない。

 「ありがとうございます。お願いします」

 召使の優しさに、マサルは笑顔で応えてみせた。

 この程度の重圧に耐えきれないようでは、到底絶対的な強さなど手に入るまい。何事にも惑わされない強い精神が、そこには必ず伴うはずである。

 だからこそここは気丈に、揺らがず弛まずいなければならない。

 ただ強く、『正しく』生きること。

 マサルのなすことは、師匠が失踪したあの日から、何一つ変わっていないのだ。

 召使が戸を二三度手の甲で叩き、中にいる教皇閣下にマサル来訪の旨を伝える。中からの応の返答を受けて、召使が戸を開き、マサルを中へ入るよう促す。マサルがそれに従って入室を済ませると、召使は自分は書斎には入らず、戸を閉めてその場を後にした。

 残されたマサルは、眼前の光景に圧倒されていた。

 うずたかく本の収納された本棚。入口から向かって両側の壁に沿って設置されている二つのそれは、宴会会場となっていた大広間と同程度あるこの部屋の天井まで、一片の隙間もなくそびえたっている。敷き詰められた書籍たちは、赤や緑といった輝かしい原色から、黒や茶といった落ち着いたものまで、各々美しい色彩の背表紙を持ち、この双塔を鮮やかに彩っている。

 入口から入ったマサルの目の前には、応接用と思われる長机と、向かい合わせに置かれた革張りのソファが二つ。そのさらに奥には、何やら芸術性を感じる一枚の移動式の壁があり、書斎の幅半分ほどをふさいでいた。

 その壁の向こうで響く、しわがれた声。

 「すまんがそこの椅子で待っていてくれるか。今仕事のキリが悪いのだ」

 その声の主が教皇であることは、宮廷に仕える身であるマサルには明らかだった。

 一言返事をして、マサルはソファに腰かける。静謐な空気の流れる書斎の中で響くのは、教皇閣下による作業音だけ。紙とペンをこすり合わせるような音であることから、何か書き仕事をしているのだろう。座して待っているマサルのもとへは、先ほど退出した召使が教皇閣下の分を含めた二つの紅茶を持ってきてくれる。

 召使が給仕を終え退出してほんの少し後、ペンを走らせる音がやむ。自然とマサルの背筋は常時より一層正される。

 真紅の花が深緑の蔦を這わせながら旺盛に繁茂する様子を描いた例の移動式の壁の奥から現れるのは、中年の男性。茶色がかった黒の頭髪と、二つに分かれて伸びるこれまた茶色がかった口ひげ。彫りが深い目鼻立ちとも相まって、その貫禄は著しい。白を基調としながらも所々に金糸の刺繍が施された光沢のあるシルク製のお召し物が、地位の高さまでも示して見せる。

 このお方こそ、プロスペラドラゴ帝国皇帝にして《聖道》教会教皇であらせられるお方、教皇閣下である。皇族の方々には本名はあれど、口に出すことは最大級の不敬とされているため、この世界のほとんどの者が教皇閣下の本名を知らない。ゆえに、教皇閣下は教皇閣下なのである。

 長時間の事務作業で凝り固まった目元を指でほぐしながら、マサルに紅茶に口をつけるよう勧める教皇閣下。

 「すまないね。疲れているところに呼び出しておいて、大したもてなしもできなくて」

 「いえ、お招きいただき、有り難く存じております」

 マサルも、常以上に言葉遣いには気を使いながら、閣下のご慈悲に甘んじて紅茶に口をつける。対する閣下も、マサルの机を挟んで反対側にどっかりと腰を落ち着け、紅茶を一口すすりなさる。

 現在この世界は、西の果てなき海洋と東の未開拓の森林地帯を除いてすべて当帝国、プロスペラドラゴ帝国の領土である。この広大な土地と、そこに住む数多の国民を管理・統制する立場にある教皇閣下が、気楽な立場であるはずもない。こうして日夜政治に追われ、神経をすり減らしておられるのだ。

 マサルはこの、生まれながらに高位につきながら、決して驕ることなく誠実にひたむきに自分のやるべきことに勤勉に取り組み続けるこの御方を、心の底から尊敬していた。特に自分が勇者という高い地位を与えられ、偉人のみが感じる大衆の視線が放つ重圧というものをこの身で体感してからは、その敬意は高まる一方である。

 だからこそ、その教皇閣下直々の申し出であるならば、どんな類いのものでも快く受け入れようと、マサルは考えていたのだった。

 紅茶を口に含んで一息おつきになられた教皇閣下は、喉の調子を確かめるように、低くそれでいて優しさのある声で話し始める。

 「書斎と聞いて身構えたかもしれないが、心配することはないよ。確かにここに呼んだ従者たちにはそれなりに重要で困難な頼みをしてきた。だが私がここに君を呼んだのは、単に敬意を表したかったからだ。毎日毎日一所懸命に鍛錬に励み、その努力を見事な結果につなげて見せるその姿勢は、私も見習わなければならないところがあるよ」

 「もったいなきお言葉、ありがとうございます」

 低頭するマサル。ここからが本題だと、マサルの脳が告げていた。

 果たして、教皇閣下は口火を切った。

 「そんな君を見込んで、頼みがある」

 「はい」

 「うちの娘のことなんだが……」

 言いよどむ教皇閣下。その顔には不安と心配の色が浮かぶ。

 だがやがて、とつとつと語り始める。

「私はずっと、娘にはいい嫁になってもらおうと思っていた。皇族になるに足る才覚と家柄に恵まれた男を婿にとり、子供を産んで、良き妻となり、宮廷で幸せな家族生活を送ってほしいと思っていた。そのために勉学に努めて教養をつけることだけでなく、最低限の家事と妻としての心得なども、私の妻を通じて身につけさせてきた。だが、どうも最近それらとは別の何かに対して強い情熱を注いでいるらしいことに私は気づいた。聞けばはぐらかされるかと思えば、日頃の稽古には傍から見て明らかであるほどに身が入っていないようである始末。思案した私は、先の召使に頼んで調べさせることにした。そこで私は、娘が私や妻に隠れて一人で、剣の稽古をしていると知った。私はすぐに娘を問い正した。すると娘は、将来は《聖道》を修め、《聖道》騎士になりたいというではないか。私は当然反対した。我々の護衛だけならともかく、昨今は開拓運動に伴って《魔道》側との対立も激化しつつある。家庭の中で安全に幸せになってほしいと思っていたくらいなのに、まして命を危険にさらす《聖道》騎士になるなど、私にとっては言語道断だった。だが、そこで私は妻に諭されてしまってね。今まで自分たちは、自分の理想を娘に対して押し付けすぎていたのではないか、もっと自分の子供がやりたいことをやりたいように応援してやるのも親なのではないか、とね。それを聞いて私は、……」

一度言葉を区切る教皇閣下。

「……娘が自分の意志で初めてした選択を、少しは尊重してやりたいと、思うようになったのだ。だがその一方で、娘が今後直面する危険のことを考えると、どうにも不安でな……だから、マサル君。……いや、勇者、マサル=アーネスト殿」

 教皇閣下は、途中厳しい表情を見せていながらも、最後には晴れやかな笑みを見せて、言う。

「娘に、剣の稽古をつけてやってくれないだろうか」

 優し気な、嫌味のない笑顔。押し付けるでもなく、こびるでもない、ただ純粋に信頼する相手に対する依頼が、教皇からマサルに提言された。

 一見、筋の通った依頼である。

 マサルは今大会で優勝したことで、名実ともにこの国において最も《聖道》を極めた人間となった。指導者としてこれほどの適任はいないように思われる。

 《聖道》とは、神聖なる神によって開かれた道のことであり、プロスペラドラゴの民は遍く《聖道》の開拓神・ドラーゴを信仰している。

 《聖道》を歩むにおいて重要な訓戒は二つ。


 一つ、強き意志を持つこと。


 一つ、他者の利益を大切にすること。


 ただ一つの自らの望みを見定め、それを胸に抱き、それに向かって《正しい努力》を積み重ね続ければ必ずそれは叶う。場合によっては、自らの体に超常的な力を発現させることだって、可能となるだろう。

 もし厳しい修行の果てに自らの望みを達したとしたら、その結果自分が得た幸福・能力は、決して自らのためだけに使ってはならない。能力の独占は嫉妬や憎悪といった負の感情を生み、幸福の独占は、社会的格差を生み出す。社会全体、ひいては世界全体が幸福であるためには、自身の幸福すら分け与えようとする利他的な精神が不可欠なのだ。

 以上が、《聖道》の教えである。

 もし教皇閣下の娘、すなわちこの帝国の姫が「強い力を手に入れ、騎士になりたい」という強い意志を持って《聖道》を信仰するなら、その意思を遂げるためには正しい指導者の下で《正しい努力》をする必要がある。ゆえに、マサルという正しく努力し《聖道》を修めた者の下で娘を学ばせたい、という教皇の申し出は、客観的に見て当然のものであるといえるのだ。

 もっとも、教皇の意図はそれだけではなかったのだが。

 一方のマサルは、当惑を隠しきれずにいた。

 書斎にて宣言される重要な依頼とはいっても、せいぜい普段の業務の延長線上にあるものであろうと、心のどこかで高をくくっていたからだ。宮廷に仕える《聖道》騎士であるところのマサルの普段の業務は、皇族や貴族の護衛任務、東の森林地帯への侵攻と開拓、《聖道》のための鍛錬。およそこの三つに完結する。ゆえにマサルは、いくら書斎という特別な舞台装置においてもたらされる任務であるとはいえ、普段の《聖道》騎士の業務を逸脱することはないだろうと、心のどこかで考えていたのだ。

 そこで教皇から提示された、師範になれ、という任務。未経験のことである上に、今まで己を磨き上げることしかしてこなかったマサルにとって、他者に対して教えを説くという行為には、大いに抵抗が付きまとうものであったのだ。

 わずかな逡巡の後、マサルは重い口を開いて教皇閣下に返答する。

 「恐れながら閣下、その任務、私めではない他の者にお預けになることは、できませんでしょうか」

 「……ほう、なぜかな?」

 マサルは言葉を選びつつ続ける。

 「此度の全国聖道選手権大会で優勝することができたとはいえ、私はまだ二十歳という若輩者でございます。知識も経験も、豊富に兼ね備えてはございません。それに私自身自分のこの力をどのように使うべきかに、未だ迷いがございます。この先この能力がどうなるかも、とても分かったものではありません。ゆえに、私めに指導者など、務まらないというように、僭越ながら考えさせていただきました」

 マサルには自信というものがない。よくも悪くも、自分が十分に強いという自負がないのである。

 今自分が手にしている強さは、マサルが求める完全なる強さではないから。

 ゆえに、マサルに指導者となる選択は、取り得るものではなかった。

 マサルの言葉を聞き、教皇閣下はソファの背もたれに大きく体を預ける。脚を組み、膝の上に絡ませた両手を置く。顔の表情はといえば、通常時ですら彫りが深く強面であるところに眉間をはじめとした各所にしわがより、一層険しいものとなっている。

 とはいえ、教皇閣下からしてみれば、ある程度予想された反応である。

 一国の主であるところの教皇閣下なる男が人間観察にたけていないはずもない。マサルの生真面目な性格は考慮のうちだ。

 しかし教皇は、それを理解してなお、マサルに自分の娘を指導させる必要があった。自らの目的を達するために。

 その目的とは、娘に《聖道》騎士の道をあきらめさせることである。

 確かに教皇は、妻の説得によって娘には《聖道》騎士になるという道があることは理解した。しかし、納得したわけではなかったのである。気高きプロスペラドラゴ家の人間が混沌と脅威の渦巻く戦場に自らおもむくなど、前代未聞であり、空前絶後だろう。父親という立場がもたらす偏見を考慮しても、やはり娘であり一国の姫であるところの幼子を、《聖道》騎士などにならせるわけにはいかない。

 しかしここで表向きに《聖道》騎士を志すことを禁じたとしても、また同様に自分らに隠れて鍛錬を続けないとも限らない。

 そこで、マサルの出番なのである。

 マサルの修行の厳しさは、宮廷内で誰もが認める最上級のものだ。未だに、彼の修行と同じ内容をこなして、三日と続いたものを教皇は聞いたことがない。そんなマサルがもし娘を指導するとなれば、従来の生真面目さも相まって娘に対し過剰なまでの指導をすることは明白。厳しい鍛錬に音を上げたところで、娘を説き伏せ、今度こそ完全に《聖道》騎士をあきらめさせることに成功するだろう。

 流石は大帝国をその手中に収めた男。普段は優しく寛容な人間でありながら、貫くと決めた意志は相手も場所も関係なく貫き通す。若干二十歳の若者の手には有り余る存在である。

 マサルの否の返答に対して、教皇は用意してきた反論を投げかける。

 「つまりあれかな、マサル君。君は強大な力を手に入れたにもかかわらず、それを他者に還元する機会を放棄する代わりに、自分の欲望を納得させるためにさらなる鍛錬をする道を選ぶと」

 そこまで言って教皇は、喉を湿らせようと紅茶を口に運ぶ。その間も一直線に向けられるマサルへの視線には、責め立てるような厳しさがある。

 「そういうことかい?」

 そこまで言われてマサルはやっと、ある可能性に気が付いた。しかし、言いつのろうとしたときにはもう遅い。

 「それは……」

 「もしそうだというなら」

 マサルを遮り口上を続ける教皇。紅茶を置く硬質な音が、書斎に反響する。

 「それは《聖道》の教えに反していることにならないか?」

 「……」

 マサルは、口ごもらざるを得なかった。

 《聖道》の教えの一つ。他者の利益を大切にすること。

 マサルにとって、《聖道》は全てだ。今のマサルにとって《聖道》を極めることが唯一の、『正しさ』を求める方法なのだ。《聖道》を極めるとは、ただ《正しい努力》を積み重ねることじゃない。教えを遵守することだって含まれる。むしろそれが前提となって初めて、《正しい努力》が実を結ぶといえる。その当たり前の、それでいて忘れていた事実に、マサルは教皇閣下の語りの中で気づいていた。

 納得がいくわけではない。誰かの指導者になるということは、自らを鍛え上げてくれた先代勇者であるところの『あのオヤジ』と同じ立場に立つということなのだ。マサルにしてみれば、自分がそれほど強くなったとは思えないし、人間的な成長もまだまだ足りないように思えてならない。だから、誰かを教えている暇などないはずなのだ。

 矛盾は感じる。しかし教皇閣下のおっしゃっているところはある種正しい。マサルは板挟みとなり、何も言えなくなってしまったのだった。

 自分の説得が効果を発揮したのを確認して、教皇は表情を和らげる。

 「すまない。別に責め立てようってわけじゃなかったんだ。ただ、《聖道》教会の頂に立つ人間として、教えをおろそかにされるわけにはいかなかいからね。そのあたりは、わかってほしい」

 「……申し訳ありません」

 その謝罪は、教皇にとって、マサルの依頼受諾の返答に変わりなかった。教皇は満面の笑みで、念を押して見せる。

 「やってくれるね......?」

 マサルは頷くことしかできなかった。


   ◆


 教皇閣下から姫との対面日時や場所についての指事を受けた後、早々に帰路につくマサル。大会をこなし、着心地の悪い衣装を着て時間を浪費した宴会の後に、教皇との対談という怒濤の一日を経て、流石のマサルも心身ともに少し疲弊していた。

 弱い心は、隙を生む。心の隙には甘えが宿る。

 『あのオヤジ』から手を離してしまった、あの日のように。

 マサルは、もう同じ過ちを繰り返したくなかった。己の弱さが、自分を含め複数の人間を不幸にする事態を、二度と見たくなかった。

 マサルは、不安を抱くことすら嫌った。自分の心が不安定になれば最後、心の安定を取り戻そうと甘い香りに流されてしまう。不安になることすら、あってはならないのだ。だからマサルは、目の前に現れた障害は全て、あますことなく撃破して見せると、あの日誓ったのだ。

 わずかな逡巡の後、平静を取り戻すマサル。

 課せられた未知の任務の重さに反して、宮廷を後にするマサルの背には、一片の隙もない。

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