魔女のおばあさんとおてんばゲルデ
やがて、魔女の家が見えてきた。魔女の家の向こうには、深く暗い森が大きな口を広げて待ち構えている。
この小さな家の中に入るのかと思いきや、ゲルデはザシャの手を離すと、戸口そばの手頃な石に腰掛けた。拍子抜けするザシャに、ゲルデは自分の隣をぽんぽんと叩く。
すすめられるがままザシャが隣に座ると、ゲルデはにこっと笑い、抱えていた本を広げた。ザシャもそれに倣い、読みかけの本を開く。いつ魔女が出てくるか気が気でないまま、ザシャはページに綴られた文字を追った。
静かな時間が流れた。風に乗って、微かに楽隊の音楽が聞こえてくる。けれどザシャの耳には、木々の葉が擦れ合う音、鳥たちの鳴き声のほうが心地よく感じた。
どの程度ページをめくった頃だっただろうか。足を引きずり草をかき分ける音に、ザシャは顔を上げた。ゲルデも顔を上げ、同じく森の入り口で顔を向けていた。
暗がりから、ゆっくりゆっくり時間をかけて、老婆が現れた。灰色の外套を羽織って、背中にはかごを背負っている。
「おやまあ」
老婆はしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして笑った。
「珍しい。今日は二人もお客さんがいる」
ゲルデは元気よく挨拶をした。「こんにちは!」
ザシャは警戒を隠しもせず挨拶をした。「こんにちは」
二人が同時に挨拶をすると、老婆の目はしわに埋もれた。見ている分には、子供好きのおばあさんにしか見えない。だがザシャは警戒を緩めなかった。老婆が何か怪しい動きをすれば、すぐにでもゲルデの手を掴み逃げられるつもりでいた。
ザシャがこれほど気を張っているとも知らず、ゲルデはにこにこ笑って老婆に話しかける。
「おばあちゃん。今日もここで本を読んでもいいですか?」
礼儀正しく尋ねるゲルデに、老婆はうんうんとうなずいた。「ありがとう!」とにっこり笑ったゲルデは、また本に目を落とした。老婆は何度もうなずき、楽しげに笑ったまま、家の中へ入っていく。老婆が家から飛び出して来やしないか、自分たちに襲いかかってこないかと気が気でないザシャは、この日、ゲルデほど本を読み進めることができなかった。
それから二人は、毎日のように魔女の家を訪れた。ザシャは魔女と噂の老婆を警戒し、必要以上に近寄ろうとしない。だがゲルデはまったく老婆を警戒せず、むしろ懐いてさえいた。
「ねえ、おばあちゃん。狼はどうして悪いことばかりするの?」
「悪いことしたほうが簡単に得するからさ」
「おばあちゃん、どうして妖精さんはいたずらするの?」
「それが仕事なのさ」
「おばあちゃんって、物知り!」
ゲルデは物知りな人が好きだった。どんな質問でも間を置かず答えてくれる老婆に、ゲルデは大いに懐いた。老婆もまた、ゲルデを大いに可愛がった。ゲルデの質問には何だって答えたし、ザシャを連れてくれば二人におやつを振る舞った。
血の繋がりのない二人が本物の祖母と孫のように仲良くしているのを見て、ザシャは次第に警戒心を薄れさせていった。そのうちザシャも、親しみを込めて老婆を「おばあさん」と呼ぶようになった。
おばあちゃん、おばあさんと懐き、手を繋いで毎日のようにやってくる二人を、老婆は目が溶けるのではないかと思うほどとろけさせ、それはそれは可愛がった。
ザシャがゲルデと出会い、ゲルデと過ごす時間は責任感の強い少年へと変わったように、ゲルデもまた変わった。ただしそれは本を読んだあと、その興奮冷めやらぬ間だけのことだが。
本を読んだあとのゲルデは、普段からは想像もつかないほどお転婆になった。ある日のこと、蛇が根元で眠る木には本当に巣がかかっているか確認するため、木登りなんてしたこともないのに木に登ると言い出した。
「鳥が目を独り占めしたから、蛇は鳥が巣を作った木の根元で目を奪い返す隙を狙ってるんだって。本当か確かめてくる!」
そう言って、ゲルデはザシャが止めるのも聞かず木に登った。が、ゲルデの服装は木登りに適していない。めげないゲルデは懸命に幹にしがみつき、動きにくい手足を動かしてよじ登った。ハラハラと見守るザシャの前で、ゲルデは少しずつ小鳥の巣へと近づいていく。
ゲルデは見事、巣がかかった枝にたどり着いた。薄く色づいた卵が置かれた巣を見て、ゲルデは顔を輝かせザシャを振り向いた。薔薇色に輝いていたゲルデの顔から、すっと血の気が引く。木に登り巣を確認するのに必死で、ゲルデは自分がどれだけ高いところにいるか気づいていなかったのだ。何とか枝から幹へと移動できたが、そこから下りることができない。
幹にしがみついてしくしくと泣くゲルデに、ザシャは励ますよう努めて明るい声をかけた。
「大丈夫だよ、ゲルデ。ぼくもそっちに行くから」
ゲルデ同様、ザシャも木登りなんてしたことがない。だがザシャの胸には、ゲルデが困っているなら助けてあげなければという気持ちで満たされている。正義感とも責任感ともつかない気持ちに突き動かされ、ザシャは幹に組み付いた。木登りをしたことのないザシャだが、失敗談は上の兄や近所の子供たちに散々聞かされた。自分が同じ失敗をするだろうとの嘲笑付きで、だったが。失敗談を必死で思い出し、その反対の行動を意識して、ザシャは木をよじ登った。
ゲルデよりは体を動かしやすい格好のザシャは、ゲルデがかけた時間より早く巣がかかった位置まで登ることができた。ゲルデの隣まで登り詰めたザシャは「大丈夫だよ」とゲルデの手に触れた。
「一緒に下りよう。怖いなら、ぼくが下を見るよ。ゲルデはぼくの声だけ聞いて、ぼくだけ見て、ぼくのまねをして下りてきて」
ゲルデは泣き止み、うなずいた。ザシャはゆっくりと幹を下りていく。ザシャに言われた通り、ゲルデは先に下りていくザシャだけを見て、ザシャが「気をつけて」と注意を促してくれる声だけを聞いて、ザシャが動かすように手足を動かして、ゆっくり、ゆっくりと木から下りた。
地面に足先が触れた。ザシャは幹から手を離し、無事地に足をつけた。ゲルデはまだ少し上にいる。ザシャが「もう少しだよ」と声をかけるが、ゲルデはもう限界を迎えているようだった。
「もうだめ、落ちちゃう……」
ザシャはとっさに腕を広げた。
「受け止めるよ、大丈夫。こっちにおいで、ゲルデ」
ゲルデは幹から顔を離し、下にいるザシャを見た。もう遙か下方ではない。なけなしの勇気を振り絞ったゲルデは、えいと手を離した。
ひ弱なザシャの腕では、そう高くない位置から落ちてくるゲルデを支えきれなかった。それでもザシャはゲルデをしっかり受け止め、二人一緒に地面へ倒れ込んだ。二人で土埃まみれになったが、どちらも怪我はしなかった。ゲルデが大慌てで体を起こし、下敷きにしてしまったザシャから下りる。
「ごめんね、ごめんねザシャっ。生きてる?」
「生きてるよ。大丈夫」
体を起こしたザシャは、ゲルデの顔や髪についた土埃を払った。ゲルデもザシャの体についた土埃や葉っぱを払い落とす。本当に怪我をしていないか、あちこちぺたぺた触ることも忘れない。
「本当に大丈夫? 痛くない? 平気? ごめんね、ごめんね」
「ぼくこそ、ごめん。結局、支えられなかった」
「ザシャは悪くない!」
何度も首を横に振り、ゲルデはザシャの手をぎゅっと包んだ。
「助けにきてくれてありがとう、ザシャ。ザシャのおかげで、わたし、こわくなくなったよ。本当にありがとう」
まっすぐ見つめてお礼を言われ、ザシャは照れてしまった。自分の手を包む体温に、ザシャの中で「ゲルデはぼくが守らなくては」という決意がさらに固くなる。けれどそれを口にする勇気はザシャの中になく、包まれた手を、上から包むことが精一杯だった。
こんなことがあってもゲルデはまだ懲りず、読んだ本に影響された。老婆が家にいなかった晴れた日の午後、ゲルデは読み終えた本をぱたんと閉じた。
「動物とお話って、本当にできるのかなっ?」
キラキラ光る瞳に嫌な予感がしたが、ザシャはゲルデに付き合うことにした。自分がそばにいればひどいことにはならないだろう、いやひどいことになんてさせない、と決めていた。ザシャが一緒に来てくれるとわかり、ゲルデはさらに瞳を輝かせると、勢いよく立ち上がった。
二人だけの小さな冒険が始まった。子供だけで森へ入るなと老婆から言われていたから、二人は少し分け入ったところまでで冒険をやめにした。たとえそこで足を止めたって、動物には会えるのだ。
ゲルデが見つけたのは野兎だった。まだ若いのか、食卓に上るよりも小さな兎だ。ゲルデは慎重に近づき、逃げる素振りも見せない兎の前でしゃがみ込んだ。
「こんにちは、うさぎさん。わたし、ゲルデ。あなた、話せる?」
兎は鼻をヒクヒクさせるだけで、鳴き声すら発さない。ザシャはキョロキョロと辺りを見回した。何かあってもゲルデの手を取ってすぐに逃げられるようにと、帰り道を気にしていた。
がさがさと茂みが揺れる。野兎はぴょんと跳ねて反対方向へ走っていった。体を強張らせたザシャは、とっさに足下に落ちていた太い木の枝を掴んだ。ゲルデの手を引き後ろへ下がらせ、両手で枝を持ち直す。
二人の前に姿を現したのは、可愛らしいうり坊だった。ふぐふぐと鼻を鳴らし茂みから出てきた小さな姿を見て、ザシャとゲルデはほっと息を吐いた。
追いかけるように現れたのは、狼だった。二人の体が再び強張る。うり坊は叫び声を上げて遠くへと走り去った。しかし狼は追いかけなかった。狼の金色の目は、ザシャとゲルデをしかと捉えていた。
ゲルデを守らなくては。
ザシャは震える手を叱咤し、握った枝を構えた。
「おまえなんか、怖くないぞ」
狼はザシャを馬鹿にするように、ゆっくりゆっくり距離を縮める。ザシャは慎重に狼との距離を見定めた。やたらめったらに枝を振り回して、掻い潜られては二人の身が危ない。にたにたと狼が笑っているのを、ザシャは確かに見た。
長い鼻先が、枝が届く範囲に入った。ザシャはその瞬間を見逃さず、息を止めて鋭く腕を振るった。
ピシャッ、と太い枝が狼の鼻先を強く打った。狼は驚き、たじろいだ。目の前の獲物が、まさかこんな仕打ちをすると思わなかったのだ。
ザシャは手を緩めなかった。二度、三度と狼の鼻を的確に打った。自慢の鼻を何度も打たれ、狼はたまらず逃げ出した。仔犬のような情けない声を上げて逃げる狼の後ろ姿が見えなくなるまで、ザシャは息を止めたままだった。
狼の姿が、森の影に消えていく。静寂が戻ると、ザシャは大きく息を吐いてその場に座り込んだ。ザシャの後ろにいたゲルデが、慌ててザシャを支える。しかしザシャはすっかり緊張が解け、腰が抜けてしまっていた。
立てないのはザシャが怪我をしたのだと思い、ゲルデは泣きながら手を組み、天に祈った。
「ごめんなさい、もう本の真似は二度としません、もうしないからザシャをたすけて、おねがいかみさま!」
泣いて許しを請いザシャの快復を願うゲルデに、ザシャは思わず笑ってしまった。笑うと、少しだけ体に力が戻った。ザシャは「大丈夫だよ」とゲルデの手を包んだ。ゲルデの濡れた瞳がザシャを映す。ザシャは優しく笑った。
「ほっとして、気が抜けただけだよ。少し休んだら大丈夫」
ザシャの答えに、今度はゲルデが腰を抜かしそうだった。けれど次は自分がザシャを助けるのだと奮い立ち、ゲルデはザシャに肩を貸した。遠慮されても引かないゲルデに根負けし、ザシャはおどおどしつつ、老婆の家までゲルデの肩を借りることにした。
老婆の家まで歩く道すがら、ザシャは「ごめん」と謝った。
「助けたつもりだけど、結局きみに助けられて……こんなんじゃ、かっこ悪いよね。ごめん」
「かっこ悪くなんかない!」
信じられないものを見るような目で、ゲルデはザシャを見た。声を張り上げ、何度も首を横に振る。
「わたしがばかなことをしても、ザシャはいっつも助けてくれる。ザシャはお話の中の王子さまよりも、王さまよりも、ずっとずっとかっこいいよ!」
お世辞も嘘も含まないゲルデの言葉に、ザシャは照れてしまった。耳たぶまで熱を持つのを感じながら、ザシャははにかみ、笑った。
「ゲルデだって、お話の中のどんなお姫さまよりも、どんな女の子よりも、可愛いよ」
今度はゲルデが耳まで真っ赤になる番だった。
真っ赤になった二人は、森を出るまで黙って歩いた。
森を出ると、すれ違った覚えも追い越された覚えもないのに、老婆が家の前に立っていた。二人が置いていった本を見て、二人が森に入ったのを知ったのだろう。しわに埋もれた目を見開いて、普段は二人を褒めるばかりの口で二人を叱った。
「森は危ないんだ、子供だけで入っちゃいけないって言ってあっただろう?」
いつも優しいばかりだった老婆に叱られ、二人はしゅんとしょげた。「ごめんなさい」と項垂れ謝る二人に、老婆はいつものように目をとろけさせた。
「反省したならもういいよ。ほら、野苺をお食べ。おやつに摘んできたんだよ」
老婆が差し出したのは、かごいっぱいの野苺だ。どれもつやつやと輝いている。しょんぼりしていた二人は見る見るうちに目を輝かせ、老婆と一緒に家の中に入った。仲良く野苺を食べながら、二人は二度と自分たちだけで森へは入らないと誓った。そしてゲルデは、本の真似をしたいがために無茶をするようなことをしなくなった。