ザシャとゲルデは商人の子
ザシャとゲルデは商人の子だった。二人の家は大通りを挟んだ向かいにあり、どちらも雑貨屋を営んでいた。互いの家は商売がらみで何かと衝突し、いがみ合っていた。ザシャの父もゲルデの父も、自分の子らに「向かいの家とは仲良くするな」と口を酸っぱくして言い聞かせていた。
ザシャは内気で弱虫な少年だったから、父の言いつけに逆らうつもりは毛頭なかった。上の兄たちが元気に返事をするのに遅れて、小さな声で「はい、父さん」と呟く。声の小ささに父が眉をひそめたのを見ると、大きく分厚い本を抱え、逃げるように家の隅っこへ駆けていった。
ザシャはいつも家のどこかに隠れて本を読んでいた。商人の子として、学ぶことは良いことだと父はザシャが本を読むことを大いに褒めた。だが上の兄や近所の子らはそれを面白く思わず、日向に出ないザシャを「弱虫ザシャ」「陰気なザシャ」「頭でっかちのザシャ」とからかった。外で囃し立てる子供たちの声を聞こえないふりをして、ザシャはいつも膝を抱え本を読んでいた。
ある日、ザシャはとうとう耐えられなくなった。家のどこにいても、外にいる子供たちが自分をからかう声が聞こえる。読みかけの本をバタン! と閉じたザシャは、それを脇に抱え、家を飛び出し大通りを当てもなく駆け抜けた。町の外れまで行けば、静かな場所はあるだろう。そう思って、足が動く限り走った。けれど普段外で遊び回らないザシャは、すぐに疲れてとぼとぼ歩くようになった。それでも、ザシャは足を止めることだけはしなかった。
どれほど歩いたか、広場を越えるか越えないかのうち、ザシャは女の子とすれ違った。女の子はザシャとすれ違う寸前、石畳に爪先を引っかけ、つんのめった。
「あっ」
声を上げ、女の子はそのままべしゃりと倒れ込んだ。慌てたザシャは、本を抱えていない手をすぐさま女の子に差し伸べ、助け起こした。
「だ、大丈夫?」
ザシャの手を取り、女の子はよろよろと立ち上がった。反対の手では、ザシャが抱えているのと同じくらい分厚い本を持っている。女の子は涙で目をキラキラさせていたけれど、助け起こしてくれたザシャににっこりと微笑んだ。
「手を貸してくれてありがとう! あなたが助けてくれたから、わたし、泣かなかったよ!」
目がうるうるしているのを見ないふりをして、ザシャは「どういたしまして」とぼそぼそ呟き、その場を立ち去ろうとした。女の子が誰だか、ザシャは気づいてしまったのだ。ザシャが助け起こした女の子は、お向かいの子ゲルデだった。
今こうしてゲルデに手を握られている自分を見て、父や兄たちはどう思うだろう。想像して、ザシャはぞぉっと背筋を粟立たせた。父にはどやされ、兄たちには小突かれるに違いない。
すぐにでもゲルデの前から姿を消したいザシャだが、ゲルデはザシャの手を離さなかった。ザシャの手を握りしめたまま、ゲルデは焦げ茶色の瞳でじぃっとザシャを見つめる。
「わたし、あなたのボサボサ頭、見たことある気がする」
「走り回った子供なら、みんなこんな頭になるよ」
「あなたまだ子供なのに、持ってる本、とっても分厚い!」
「きみが抱えてる本だって、分厚いよ」
「ねえ、あなたもしかして、お向かいのザシャ?」
ザシャは口を閉じてしまった。ザシャは嘘をつくのが苦手だった。何も言わないザシャの目を、ゲルデはキラキラ光る両の目で覗き込んだ。
「わたし、お向かいのゲルデ! ザシャと話してみたかったの。ザシャって、いっぱい本を読んでるんでしょう? わたしも本を読むのが大好き。ねえザシャ、わたしとお友達になって!」
ザシャはなるべくゆっくり、壊れ物を扱うように優しくゲルデの手をほどいた。そして「無理だよ」と首を振った。
「父さんたちが許さない。ぼくらが友達なんて、無理だよ」
「どうして?」
首を傾げるゲルデの目は、未だ輝きを失っていない。
「お父さんたちは、わたしたちのお友達じゃないでしょう? ねえ、ザシャはわたしとお友達になるのがいや? それだったらわたし、あきらめるから」
ゲルデのまっすぐな目に見つめられ、ザシャは大いに困った。その上、ゲルデの小さな手に自分の手を握られている。こんなにも近くで他人と――それも女の子と――話したことのないザシャは、今までもこれからも、このとき以上なんてないだろうというくらい顔を赤くした。
「ぼくは、……ぼくも、きみと友達になりたいって、言っていいのかな」
ザシャも、友達がほしかった。本を読んでいても、外で遊ぶのが苦手でも、笑ったりからかったりしない、そんな友達だ。
ザシャが正直な気持ちを打ち明けると、ゲルデは「もちろん!」と言ってひまわりの花のような笑顔を見せた。
ゲルデはそのままザシャの手を引き、「あっちへ行こう!」と反対方向へ歩きだした。ザシャは今来た道を引き返すこととなり、慌てふためいた。けれどゲルデは落ち着いていて、引き返す理由を説明する。
「あっちはね、楽隊が来るの。もっともっと人が集まってくるから、本を読むには騒がしくなっちゃう」
そう言って、ゲルデはちょっと足を止め考え込んだ。隣に並んだザシャを見上げ、首を傾げる。
「ザシャも、本を読む場所を探してたんだよね? もしかして、おうちのお遣いの途中だった?」
ザシャが首を横に振ると、ゲルデはホッとしたように笑ってまた歩き出した。
広場を抜けるときも、大通りを歩いている間も、二人の家の前を通り過ぎるときも、ゲルデはザシャの手を離さなかった。行き交う人たちに見られてしまっても、ゲルデはまったく気にしていないようだった。一度、ザシャをからかう子らが二人を見つけ口笛を吹いた。それでもゲルデは気にせず、ザシャの手を引き歩き続けた。手を繋いでいるところを見られて恥ずかしいやら、からかわれてもゲルデが気にしないことが嬉しいやらで、ザシャの顔はいつまでも赤いままだった。
そのうち人気が少なくなって、ゲルデがどこへ行こうとしているか気づいたザシャは、ゲルデの腕を引き足を止めさせた。
「ゲルデ、こっちは止そう。これ以上行くと、魔女の家があるよ」
「独りで住んでるおばあちゃんのこと? あの人は大丈夫、怖くないよ」
また歩き出そうとするゲルデをどうにか引き止め、ザシャはだめだだめだと首を振る。
「だめだよ、ゲルデ。静かなところはほかにもある。ぼくも頑張って探すから、あっちに行くのはやめよう」
ゲルデは悲しそうな顔をして、ザシャを正面から見上げた。
「ねえ、ザシャ。わたしたち今日お友達になったばかりだから、こんなこと言ってもむずかしいと思う。でも、でもね、ザシャ。お願い、信じて。怖いことなんか何もないから。おばあちゃんは悪い人じゃないから」
一生懸命に頼み込むゲルデを見下ろし、ザシャは折れることにした。うなずいたザシャを見上げ、ゲルデはパッと顔を輝かせる。繋いだ手をぶんぶん振りながら歩き出すゲルデを横目に見ながら、ザシャは密かに決意した。
今、ゲルデを守れるのは自分しかいない。もしも魔女が自分とゲルデを食べようとしたら、ゲルデだけでも逃がしてあげなくちゃいけない。自分がしっかりしなくちゃ、この底抜けに良い子のゲルデは食べられてしまう。
内気で弱虫だったザシャは、ゲルデと出会ったほんのわずかな時間で、ずいぶんと責任感の強い少年に成長していた。