二人の吸血鬼
【前編】
真っ白い清潔感あふれる廊下の窓から、暖かな初夏の日差しが差し込んでいる。僕はその眩しさから目をそらすように視線を前に戻すと、エレベーターを昇る。
どういうわけだか、僕は病院にいた。保険証も財布もなく、病気や怪我の類もない。だというのに、僕は大きな大学病院のエレベーターで、二階へと昇っている。
いったい、どうしてここにいるのだろう。どうにも、頭には靄がかかっていて、ここ最近のことが思い出せない。
特に意味もなく昇ったエレベーターの先には、アジア系の人々がいる。ぼんやりする記憶と、聞こえてくる会話からして、日本人だ。
しかし、その中に、顔や目の色が違う人も多々見受けられる。
そういえば、そうだ。二千二十五年を超えたこの日本には、アメリカがとうとう受け入れられなくなった移民が流れ込んできている。国境のない日本にとっては、住み分けが難しくなっているだろうから、いい迷惑だろう。
なら、僕も移民――外国人なのだろうか。こんな記憶喪失のような症状を診てもらうために、来たのだろうか。
わからない。僕はだれなのか。軽い頭痛を覚えながら、着ていた薄手のジャケットのポケットを漁る。やはり、財布の一つもない。
代わりに、開いたポケットから鉄の――血の匂いがしてくる。ツンと鼻に刺激を与えた匂いからは、不思議と不快感はない。それよりも、とても喉が渇いた。まるで砂漠を三日三晩歩き続けてきたかのようだ。
クラクラしてきた頭で、僕は院内にある自販機に目をやる。さして特別な飲み物があるわけでもないが、今は、この喉の渇きを癒したい。
でも、財布はない。お金がなければ、当然自販機からは飲み物を得られない。
口の中が渇いて吐き気を感じながら、周囲を見渡す。松葉杖をつく老人や、白衣に身を包む医者らしき人々が歩調をとっている。彼らから、お金をもらうことはできないだろうか。
そんなバカなことを考えて、頭をふった。喉が渇いたのなら、トイレの水でもいいだろう。万国共通で表されるトイレのマークを目で追って、男子トイレに駆け込んだ。
幸い、誰もいない。いくら喉が渇いていても、トイレの蛇口から流れ落ちる水を掬って飲む姿は、浮浪者と間違われてもおかしくない。
とにかく人はいないので、僕は蛇口をひねって、適温の水を両手に注ぐ。それを零しながらも一気に飲み込むと、少し落ち着いた。
いったい何だったのだろうか。それに、まだ喉の渇きは完全に癒せていない。十分に飲んだはずなのに、どうして……
そう、頭を上げた刹那、鏡に僕の顔が映る。アジア系とも白人とも違う顔は、僅かな記憶を呼び起こした。
『メネストレッド・ブラッドルフ』。僕の名前だ。生まれはルーマニアで、今は二十七――
二十七?
鏡に映る僕の顔は、深紅の瞳で、黒髪を短く整え、口周りに髭を生やした、普通の若いルーマニア人だ。だけど、二十七歳ということ、それ自体がおかしく感じる。
おかしい……おかしい? なにが? 僕が? いや、おかしいのは、いつだって世界のほうだ。あの、石畳の上でも、世界がおかしいと思っていたではないか。
あの、石畳の……あれ、石畳?
世界のどこでもコンクリートが道を造っている世界――時代に、石畳などあるのだろうか。
そもそも、あんな罰の下し方は、人権団体が許さないだろう。拷問も、殺し方も、囲む人々も、記憶から消えていた狂気も――
ハッとして、僕は鏡に映る自分の顔を凝視する。そうだ、僕はたくさんの人を殺してきた。狂気に身を任せて、用意周到に、時に乱雑に、殺してきた。それは、とてもとても、昔の話なわけで……
鏡に映る僕の顔が、だんだんと歪んでいく。深紅の瞳は見開かれ、愉悦を感じているトロンとしたものに変わり、口角はピエロのように上がっていく。
違う。こんな顔は僕のものではない。僕の狂気は、あの石畳の上から消えたのだ。こんな狂った顔はしない。こんな狂人ではない。殺人鬼ではない。間違っているのは――狂っているのは、いつだって、この世界のほうだ!
握りしめたこぶしが、トイレの鏡を殴りつける。バラバラに崩れていった鏡の破片には、未だ、狂った僕の顔が映っている。
こんなもの……鏡など、信用できるわけない。僕の狂気は、あの日に消えたのだから。
「探しました」
ふらつきながら、鏡の破片から逃げるようにトイレを出ると、白と黒のコントラストが描かれているメイド服を着た女性が、僕と同じ深紅の瞳で立っていた。
長い銀髪を左で結び、スレンダーな立ち姿の女性は、僕の様子を見て、どこか寂しそうにしている。
「また、記憶を失ったのですね」
透き通るたんぱくな声は、僕をあやすように投げかけられた。そして、僕を抱きしめてくれる。
「大丈夫です。何度失っても、私が覚えていますから」
抱きしめて、頭をなでてくれた女性は、僕の知らない記憶を知っているようだ。
とはいえ――ああ、この温もりは、覚えている。
胸の中にまで浸透した暖かさは、氷のように固まった記憶の糸をほどいていく。
「ねぇ、狂っているのは、世界のほうなんだよね」
「……ええ、あなたは狂っていません。ただ、長く生き過ぎただけです」
「生き過ぎた……?」
「はい」
よくわからない言葉の真意は、なんなのだろうか。ほどけて露になった記憶の海には、その答えがあるはずだ。
僕が感じていた違和感の正体は――ああ、そうだ。
「僕は……吸血鬼だったね」
「ええ。私も、吸血鬼です」
とても長いこと、自分のことを忘れていた気がする。けれど、この女性――カーミラは、千九百五十九年から、ずっと僕の傍らにいてくれた。まだ断頭台や領主などの制度がある昔から生きてしまって、あやふやになっている僕の記憶を覚えてくれる人として。
あの後、色々と忘れていたことを確認するために、病院内にある喫茶店にやってきた。僕は吸血鬼だが、いわゆるおじいさんなので、頻繁に記憶を失う。そんな僕が財布などを持ち歩いていては、いつなくしてもおかしくない。
なので、貴重品はカーミラが管理してくれている。僕の記憶も、管理されているようなものだ。
とりあえず、頼んだエスプレッソにシュガースティックを五本混ぜ込むと、一気に飲み干す。凝縮されたカフェインとたっぷりの糖分が脳髄を刺激して、深く溜息を吐いた。
「それで、僕たちはなんで日本の病院に?」
吸血鬼の古い制度である『従属』として、カーミラは僕に絶対的な忠誠心で仕えてくれている。そんなカーミラは、いつだって僕の望んだ答えを持っていた。
話の先を語るため、カーミラはカップを置くと、吸血鬼特有の深紅の瞳を向けてくる。
「主であるあなたの問いには、寸分も間違いなく真実を伝えます」
「妙にかしこまらなくていいよ。君がいないと、僕はボケ老人なんだから」
そうですか。カーミラは一息ついて、手にぶら下げていたカバンから、A4用紙ほどのタブレットを取り出す。何度か画面をタップして、僕へ差し出すように見せてきた。
「連続吸血殺人事件……?」
画面上には、この日本で最近多発している殺人事件の記事が映し出されている。しかし、吸血殺人とは……
「あなたは、これを止めるために、日本へ来ました」
「僕が、止める?」
「はい。同じ吸血鬼である自らの使命であり、過去の贖罪だと聞いています」
「えっと……ああ、そういえば、そうだった……かな」
吸血鬼とは、単純な言葉で表すのなら、強い。世界の陰で今も生きる吸血鬼たちは、人間の数倍の身体能力を持ち、たとえ銃で撃たれても、そう簡単には死なない。それに鏡には映っても映像媒体には映らず、無限永久の時を生きる。
そして、体を霧や蝙蝠に変化させ、人を魅了して操り、幻覚を見せ、『とある物』を使わなければ死ぬことはない。
そんな僕が、決めたのだ。力を手にして狂気を失ったのならば、その感情に任せて殺してしまった分、このおかしい世界を生きるおかしな吸血鬼を見張ろうと。必要以上に血を吸って殺すのであれば、鉄槌を下すのだと。
「ちなみにですが、この病院を中心として連続殺人は行われています」
「だから、僕はここにいたのかな」
「それもありますが、別の用もあり、ずいぶん前に到着したのですが……記憶を失って、この周囲を彷徨っておりました。院内に戻ってこられたのは、偶然でしょう」
記憶があいまいどころか真っ白で、どこで何をしていたのかわからない。しかし、ここでやるべきことは思い出した。
「その連続殺人犯を止める。それから、この病院には『輸血液』をもらいに来たんだよね」
その通りです。カーミラは頷くと、そろそろ時間だと、腕時計を見た。
「その輸血液もですが、まだ目的はあります。私から聞くより、実際に会って話したほうが良いでしょう」
カーミラは立ち上がると、会計を済ませた。どうやら、急いでいるようだ。
僕も早々に席を立つと、カーミラの後についていく。その、目的とやらのために。
ずいぶんと広い院内を進むこと数分、キョロキョロと落ち着かずにいると、カーミラは足を止めた。たどり着いたのは院長室であり、扉をノックする。中世的な声で「どうぞ」と聞こえると、扉を開けて院長室に入った。
埃一つもないのではと思えるほどに掃除の行き届いている院長室には、特にこれといって特別なものはない。一応病院なので、医学書や棚にしまわれている薬品の数々を目にしていると、デスクトップパソコン越しに、こちらへ視線を向けてくる相手がいた。
「やぁ、ようやく戻ってこられたのかい」
デスクトップパソコンの先から、亜麻色の髪をした、まだ三十代も前半であろう女性が、僕とカーミラを受け入れる。この病院の院長だ。こちらの記憶喪失については知っているようで、特に心配はされない。
「いつもの症状のようだけど、今回は長かったね。ひと月――連続殺人が始まるまで、君は記憶を失っていた」
短い亜麻色の髪から覗く紫紺の瞳が僕を捉えると、次にカーミラへ目をやる。
「どこまで、覚えているのかな」
僕ではなくカーミラへ問いかけた院長は、記憶について聞いているのだろう。カーミラは僕を一瞥してから、なぜここに来たのか。院長の名前はなんなのか。それが思い出せていないと告げる。
院長はグッと背伸びをすると、いつものことだと、気にしていなかった。
「そうだね。ボクはニオ・フィクナー。名前の通り、日本人ではなくて、アメリカ生まれだよ。でも、育ったのは日本かな。今や、日本は移民大国だからね。窮屈なアメリカから逃げてきたんだと思う。それで、君たちを呼んだ理由だけれど……」
ニオを名乗った白衣姿の白人が立ち上がると、部屋の片隅にある冷蔵庫を開けた。中から取り出したのは、輸血液のパックだった。
「君たちが吸血鬼であることは知っているよ。それで、人間と違って、水よりも血液が必要になる。僕は君たちと『取引』をして、世界のどこにでも輸血液を送っているのさ」
輸血液の赤を見た途端、誤魔化していた喉の渇きが蘇る。苦悶の表情を浮かべて、つい
手が輸血液へ伸びてしまう。
ニオは、そんな僕の欲求にこたえるために、輸血液の端をハサミで切った。
「特にこれといって病気が混じる輸血液じゃないからね。好きなだけ飲んでくれて構わないよ」
手にした輸血液の切れ目から、一気に飲み込む。水でもコーヒーでも癒されなかった喉の渇きが、次第に治っていくのを感じながら、飲み干した。
「……ありがとう。生き返った気分だよ」
それはどうも。ニオは微笑むと、右手の人差し指を立てた。
「さっき、取引といったけれど、僕が差し出すのは輸血液だ。その代わり、君たちからも血液をいただくよ」
「吸血鬼の血液が、欲しいのか?」
「その通り。なにせ吸血鬼の血液は……そうだね、生命エネルギーの塊とでも言おうか。どんな点滴や薬よりも、あらゆる患者の疾患に対して有効的なんだ。末期癌の患者に対しても、数的で回復の兆しが見えてくる。あまり血中に混ぜ込むと、カーミラのように吸血鬼になってしまうけどね」
「なるほど。だから取引なのか」
血液同士を分け合う。なんともおかしな取引だが、お互いにとって悪い話ではない。
早速注射器を取り出したニオに、僕は腕をまくった。
「吸血鬼の血は劇薬みたいなものだからね。それに、血を求める君たちが、血を奪われていては、格好がつかないだろう?」
そういうことで、注射器三本ほどが赤い血液でいっぱいになるまで抜かれると、それも別の容器に移して、冷蔵庫にしまわれた。
「ふむ……」
ニオが席について僕の顔をじっくり眺める。何かついているのだろうかと顔に手をやったが、ニオはコクリと頷いた。
「顔色が悪いね。吸血鬼の病気は知らないけれど、疲れがたまっているようにも見えるよ」
そういえば、カーミラも言っていた。ずいぶん記憶喪失のままだったと。だから、疲れたのだろうか。
「万能薬と輸血液じゃ釣り合わないからね。どうだろう、しばらくここにいないかい?」
「ここにって、病院に? 僕は病人じゃないよ?」
「吸血鬼だって人間と似たようなものだろう? なら、ふかふかのベッドで寝て、健康的な食事をする必要がある。ちょうど、内科の個室が二部屋空いているからね。そこを使うといい」
いいのか? と、聞き返せば、人の善意は受け取るものだと、僕より数百歳も年下のニオに言われた。
結局頷くと、個室のカギを二つ渡される。四階の二つ並んだ個室のナンバーが記載されている。
「それじゃ、ゆっくり休んでね。食事は病院食しか出ないけれど、プラスαはボクが用意するよ。君たちには関係ないかもしれないけれど」
「吸血鬼にも、最低限の食事は必要だよ。まあ、一日に食パン二枚くらいでしのげるけれど」
それはうらやましい。ニオは微笑むと、仕事が残っているのか、デスクトップパソコンのほうに目をやった。
僕たちは察すると、院長室を後にしようとした。だが、振り返りざまに見えたニオの顔に、見えては不味いものが見えてしまった。
僕は言葉を探す。カーミラもニオも、立ち尽くす僕に違和感を抱いている。伝えるべきだろうか……ニオの顔に映る、見慣れたものを。
「その、ニオ。冷静に聞いてほしいんだけれど」
「改まってどうしたのさ。まだ輸血液が必要かい?」
「いや……その、見えたんだ。ニオの顔に――死相が」
死相と聞いて、ニオとカーミラはびくりと反応する。しかし、ニオは手を振って否定した。
「仮にも大学病院の院長なんだ。心臓発作が起きても、すぐに助けは来るよ。それに、死相なんて非科学的なものは信じないね」
そう言われては、反論は難しい。だが、いやというほど見てきたのだ。人の死に顔を。
その時、カーミラがなぜか暗い顔をした。何か気になったのかと、脇に控えるカーミラに問えば、何でもないと、すぐに元に戻った。
「まあ、死にそうになったら君たちに助けてもらうよ。病気は君たちの血で。あの連続殺人犯が攻め込んで来たら、力で。いろいろと人間にない能力とやらがあるんだろう? なら安心だよ」
確かに、ニオが死ぬ要素は一つもない。錯覚か、ボケたか。とにかく、今はニオの思うがままにしよう。
「それじゃあ、個室を借りるよ」
ヒラヒラと手を振られて出ていくと、カーミラに鍵の片方を渡す。従属と主とはいえ、男と女だ。分かれているほうが都合はいい。
「しばらくは、ここで情報収集かな」
僕は何ともなしにカーミラに言えば、静かに、そうですねと返される。
どうにも、カーミラの挙動がおかしい。追求しようとしたが、やめた。吸血鬼にもプライバシーはある。