1話
聖歴1938年8月5日1410時
壁に備え付けられた机の上、そこには大きく広げられた海図が1枚。
ここに集まった人間の半数が、この小さな卓を半円に囲んでいる。
互いに肩を狭めながら身を寄せ合い、海図に書き込まれた数字と線を、難しい顔をして見下ろしていた。
海図の上で何度も折れ曲がり、その都度数字が書き込まれている。
その中で一番長いもの、その端は北の大陸の果て、ドワーフ領ヴィルゴー岬から東の海洋を南東に300kmほど沖を渡った海の上を示していた。
「――船団は真っ直ぐ北を目指して進んでいました。水平線の高さから計算すると……彼らが航行していたのはこの辺りです。イラ・ウアラクからナグゥーシナンへの物資輸送が目的でしょう。」
当直見張り員の航海士ダッチ准尉は、海図の上を太い指でなぞりながらそう答えた。
長い耳がピコピコ動いている。
集中している時の人兔族特有の癖だが、本人は気付いていないようだ。
「ナグゥーシナンか……。」
小さく独りごちた。
ナグゥーシナン騎士王国。
かつて魔王から騎士の称号を得た魔族が興した国で、代々王となる者は今でもイラ・ウアラクまで赴き、当代の魔王から直々に騎士の称号を授かるという。
有史以来幾度となく繰り返されたエルフ同盟と魔族連合の戦いに於いて、只の一度も我らにその土を踏ませることのなかった、北の大陸に突き刺さる魔王の槍。
今後の戦況の為にも、この国の通商は確実に破壊しなければならない。
そして何より、その為に俺たちは此処に居る。
「――船団の規模は?」
「全部で10隻です。マストは1列で、船同士重なっているようには見えませんでした。単縦陣で進んでいたと思われます。」
「――護衛の艦艇を確認できたか教えて欲しい。」
「マストの間隔と配置を考えると……恐らく先頭と殿の2艦は少なくとも駆逐艦クラスの戦闘艦だと思われます。」
情報が次々と海図に書き込まれてゆく。
とはいえ、今得られる情報としてはこれが限界だろう。
しかし出来るだけの物を得ることは出来たと思う。
「報告ありがとう准尉。君のお陰で欲しい情報を全て得ることができた。感謝する。艦橋へ戻り、見張りを継続してくれ。」
「ハッ!それでは任務に戻ります!」
敬礼をし、急ぎ垂直梯子を登ろうとする准尉を引き留め、敵発見の褒美にとタバコを差し出したが、やんわりと拒否された。
タバコは筋肉に良くないらしい。
ならばと棒付きの飴玉を差し出したところ、喜んで受け取ってくれた。
「でもよぉアニキ、定期航路にしては西に寄り過ぎじゃないか?」
先ほどから腕を組み、思案していた副長が口を開いた。
「……確かに、彼らの海上交通路はもっと東だな。」
「ダンレーブから100キロくらいしか離れてないのは、いくらなんでも近すぎる。俺には何か裏があるんじゃないかと、そう思えてしかたないぜ。アニキがどう思うか、考えを聞かせてくれ。」
ダンレーブ、それは20前後の島々からなる群島。
その名の由来となった最大の島、ダンレーブ島は友軍によって全体が要塞化されている。
さらに第二航空戦隊の母港としている軍港があり、4個飛行隊が展開している航空基地もあり、その戦力は我が国でもかなりの規模を誇っていた。
あの輸送船団が実は敵の陽動であり、ダンレーブ攻略の為の艦隊と上陸部隊が別動隊として集結していたとしたら?と、副長は懸念しているのだろう。
……現実的に考えて魔族海軍東方艦隊はアトランタ海軍中央内海艦隊の相手で忙しく、こんな北の海域まで出張る余裕は無いし、精強を誇る騎士王国海軍もやはりエルフ極東艦隊の相手で忙しく、今のところダンレーブを単独でどうにかできるほどの余力は無い……はずだ。
仮に可能だったとしても、この要塞島が早々攻略出来るとは思えない。
2国同時に来られたら分からないが……。
「……裏は、無いな。エサが小さすぎる。これじゃ大物は釣れないだろう。」
少し考えたが、そう断言した。
「それならもっと大きい艦隊が昨日の嵐で散り散りになったって可能性もあるぜ。俺らが見た輸送艦は本当はその補給部隊だった、と――」
「確かにその可能性はある。だが散り散りになった時点で作戦は失敗だな。何をするにしてもそれどころじゃない。」
「敵がツイてなかっただけか……ふぅむ……。」
「そう、ツイてない連中だ。そして俺たちにはチャンス到来と言う訳だ。とはいえ輸送船団にしては確かに中途半端な数だと思う。副長の言う通り、仲間の艦艇が近くに居る可能性は高いかもしれない。」
「……うん、そうだな。アニキの言う通りだ。昔から狩り場じゃ、ツイて無い奴とマヌケな奴から最初に食われるもんだって相場は決まってるしな!ガハハ!まったく、見えない敵の影に怯えるなんて俺らしくねぇぜ!」
「まあ、それはそれとして本物の狩人は獲物の不運に期待なんてしないものだけどな!」
「どっちだよアニキ!ワッハッハ!まあいいや!やっちまおうぜ!」
副長は取り合えず納得したようだ。
普段でも優秀な男だが、いざ戦闘の事となると副長は本当に真剣で何より楽しそうだ。
これであとはアニキ呼びを止めてくれたら言う事は無いのだが。
流石に少しこそばゆい。
「後は……そう、真っ直ぐ北に向かっていたのも、一刻も早くこの海域から脱出したいという一心だからだと考えれば納得がいく。」
「そうなると、獲物が味方と合流する前にさっさと叩きたいぜ。数が多いと目も多いから沈めるのに手間がかかっちまう。」
「向こうに合流の機会を与えたくないのは同意だ。少々危険だが日没と同時に攻撃に移ろうと思う。……異論のある者は?」
皆が頷く。
「航海長、今日の日の入り時刻を教えて欲しい。」
「1830時です。」
「では1900時を会敵時刻とする。足の長い偵察機がはぐれた輸送艦を探している可能性が非常に高い。今まで以上に気を引き締めて、確実丁寧に敵を沈めていこう。」
会話は終了し、今はタービンとモーターから発する僅かな振動音と、男達の呼吸音だけしか聞こえない。
この狭い空間――発令所には机に集まった者以外にも、必要以上に敬体な男達が犇めく様に配置に就いている。
蒸し暑さに文句を口にする者は居ない。
彼らは俺の一挙手一投足を見逃すまいと、汗を拭うのも忘れて身じろぎ一つせずこちらを注視している。
この場の全員、いや、共和国海軍中央内海艦隊所属巡洋潜水艦U-416二重王冠号乗員全員が、俺の――艦長の言葉を待っていた。
「……。」
握りしめた懐中時計にチラリと視線を落とす。
突然額から流れた汗が目に入り、文字盤がボヤけてしまった。
腕で強引に汗を拭い、もう一度時間を確認する。
針は1420時を指していた。
「よし。」
小さく呟き、机から離れ、そうして壁に掛かっているスピーカーのマイクを掴んだ。
皆の顔を見渡す。
彼らの目には炎が宿り、いかなる敵をも打ち砕かんとする熱い闘志に溢れていた。
「総員傾注!」
ザザッというノイズが流れ、俺の声が艦内全体に響いた。