初子を救う
――我が恋を遂げさせよ。さもなくば、お前の命をちぢめてしまうぞ。
初子が、そう脅迫されたのだと僕に訴えてきた。
脅迫したのは、僕の叔父の源惟清様。熊の様な巨大な身体を持つお方で、今は四国に配流の身――。それが、京の初子をどのように脅迫できるのかと首をひねりつつ、僕は初子からの文を読み進めた。初子が十一歳、僕がひとつ上の十二歳のときに散り散りに逃げ、それ以来の音信だった。
夜が更け、月が白い光りで地上を照らしている。僕は燭台を灯し、その明かりで文を読み進めた。貧しい寺だが、さすがに燭台はあった。
源氏が京を追われたのが五年前。
僕たちは散り散りになって野に隠れた。初子とは幼馴染。源氏華やかりし頃は、玉はじきや虫取りなどをして、日が落ちるまで遊んだものだ。遠い思い出が、陽のあたる風の匂いと共に思い出された。
源氏敗走以来、初めての初子からの便りは、細い頼りない線でしたためられている。
――わが身を助け給え。
そう、初子は僕に訴える。
惟清の叔父上は、鳴るような肉が両の肩に盛り上がって付いている剛の人だ。恋ならば、歌を送るべきなのだが、叔父上は歌が詠めない。無骨な文脈の文を初子に送り、初子を怖がらせてしまったのだと、最初は思った。
胸が締め付けられた。
初子は現在、身を偽り名を隠し、平政国様の屋敷で侍女として働いているのだが、こんなことなら初子に恋歌のひとつも送っておればよかったと僕は後悔した。
いや、そんなことはできるわけがない……。
僕は目立たぬよう、京の北西の外れの海住岳寺に厄介になっている身なのだ。浮世のことは忘れるべき。僕の身の上を知るのは、寺では和尚の拓新様だけ。源氏に好意を持って僕を匿ってくれる和尚に、迷惑をかけるわけにはいかない。
それにしても、叔父上が初子に恋慕の想いを抱いていることは意外だった。初子は今、僕よりひとつ下の十六歳。叔父上とはかなり歳が離れている。
初子の奉公する政国様は歌人として有名な方で、僕も政国様が詠んだ歌を拝見したことがある。繊細な心映えを持った方のようで、家族の安息を願う歌が多く、その歌に僕は癒された。
その政国様の正妻は、伊都子様という僕の叔母だ。政国様は、妻の息災を願う歌を多く詠まれて、二人の仲の円満ぶりが容易に想像できた。
伊都子様は源氏の出自なのだが、平家の政国様の正室となっている。
家族を殺され、逃げ道を失っていた十一歳の初子を、伊都子様が政国様の屋敷の侍女として雇い、匿ってくれている。僕がこの、海住岳寺に身を隠せたのも伊都子様のお力添えで、だから初子は僕の潜伏先を知っていたのだ。源氏華やかりし頃は、鳥辺野にある大きな屋敷の次男坊として、僕は不自由なく暮らしていた。初子も向かいの屋敷に住む姫君だった。今はもう、出自が発覚するだけで僕らは首と胴が離れる身。
初子の文は続く。だが、途中から様子が変わってきた。
――十日ほど前から、政国様のお屋敷の庭に白い猫が現れるようになりました。その猫に、私は餌を与えました。猫は礼も言わず去ってゆき、残り物だったのが気に入らないのかと思ったのですが、その次の日も白猫は現れて、そのまた次の日も現れます。そして、今ではその白猫に毬と名付けて可愛がっています。痩せた猫ですから、毬のように丸くなってほしいと願っています。
なぜか、白猫のことを呑気に書きつらねる初子。叔父上に脅迫されている話はどうなったのだろう。白猫に餌をやる初子が鮮やかな色彩をおびて脳裏に浮かんだのだが、その初子の姿は十一歳のままだった。今の姿を知らないから仕方がない。
文はもう残りわずかで、最後に、
――今晩、そちらに忍んでいきます。詳細は、そのときに。
と、そのように結ばれていた。今晩とは――?
「手紙は読んだ? 私を助けてくれる?」
いきなり、背中に湿り気をおびた甲高い声がふりかかった。驚いてそちらを見ると、初子の幽霊が立っていた。
「は、初子……?」
だが、十一歳の姿ではない。十六歳の初子のようだった。
「玲次様」
と、その幽霊が僕の名を呼んだ。
「なに固まってんのよ。文は届かなかった? あ、持ってるじゃない。読んだのね」
矢継ぎ早に初子が言った。
僕の手の、手紙の端を細い指先でつまみ、すぐにその可憐な白い指を引っ込めた。小気味のよい、元気な幽霊だ。
よく見ると足がしっかり生えているようで、僕はしげしげと初子の足先から顔までを、首を縦に振って眺めた。燭台を初子の顔に近づけると、血色のよい丸い頬を持っている。美しい娘に成長したようだ。五年ぶりの初子の声は昔のままで、しおらしい文と違って、言葉遣いの乱暴さは記憶の中の初子そのままだった。
着物の合わせ目は左前というわけではない。
幽霊を連想したその純白の着物は寝間着のようだ。昔は絹の衣を贅沢に着ていたはずだが、当然のように寝間着は麻である。
初子はきっと政国様のお屋敷で、みなが寝静まるのを待ち、ひっそりと戸を開けて寝間着のまま抜け出して来たのだ。寝間着の折り目が正しいのは、擦り切れていない新品の寝間着を、わざわざ着てきたのかもしれない。久しぶりの僕に会うために――。
「玲次様、ほら」
と、初子が踏み石の上で数回跳ねた。腰に鈴がぶら下がっていて、それが凛と綺麗な音を響かせる。
「お守りに、まだ持っていたのよ」
凛々と、跳ねるたびに鈴が鳴る。
その小さな鈴は幼い頃、僕が贈ったものだ。初子は自分の足でなんども跳ね、足が二本あることを僕に見せる。あるいは、初子の文の中の白猫が、初子に化けているのかとも思った。
「まだ私、死んでないからね。でも、あなたの叔父上の惟清様が、言うことを聞かないと殺すというのよ」
そして、不安そうに大きな瞳を潤ませ、
「私を助けてくれる?」
「応」
僕は即答した。
男子とはこうあるべきだ。
叔父上がなぜ初子を殺そうとしているのか深くは分からない。なれど、詳細を述べさせて返事をするのは男子として清くない。大切な人ならば、話を聞かずに返事を返せるものだ。
初子は満足そうに口角を上げた。目が慣れてきて、初子の顔がよく見える。目を細めて、茜の花が香るようにあかるく笑っている。
「玲次様の叔父上はね、伊都子様を妻にするつもりなのよ。伊都子様に恋をしているの」
僕は、すぐには話が飲み込めなかった。
伊都子様は叔父上の実の妹だ。
政国様の妻であり、初子を匿ってくれた恩人でもある。叔父上は、初子に恋慕しているのではなく、妹の伊都子様に恋をしている……?
「玲次様の叔父上は、出家したはずなのに俗界に勝手に戻り、政国様を殺して伊都子様を救い出し、伊都子様を自分の妻として迎えるつもりなの。あの人、ぜんぜん本気で、私に屋敷に忍び込めるように手筈を整えろと迫ってきてるのよ。手助けしないと、私を殺すって」
「手助けをしないと初子を殺す?」
「ねえ、私の味方になってくれる?」
「返事はもうした」
「だから好きなの!」
初子が抱き付いてきた。初子の匂いと温もりに僕は包まれる。その初子を剥がすように遠ざけ、僕はひとつ息を吐いた。
「……まあでも、冷静になろう。そもそも、叔父上は本気なのか? そんなことをしたら、すぐに自分が捕らえられて殺されてしまうはずだ」
「だから、ぜんぜん本気だって言ってるでしょ! 玲次様の叔父上は、お屋敷に乗り込むつもりよ」
ぜんぜんの使い方が合っているのか分からないが、僕は青ざめた。一生、経を読む日々が続くのかと思っていたのだが、武の道に生まれた者は、こういう運命に巻き込まれると石に刻まれているのかもしれない。
「初子、僕と逃げるか? そうしたかったら一緒に逃げてあげる。田舎に隠れて畑を耕して生きるのもいいと思う」
言ったあとに、あっと思った。初子に求婚の言葉だと誤解されたかもしれない。でも、それも望むところだ。
僕は思うのだ。
命さえあれば大丈夫。命さえあれば苦しい生活の中で、たとえば野に咲く花を見て和める瞬間もあるだろう。人にとって最悪なこととは死ぬことだ。僕も初子もまだ生きている。生きていれば大丈夫。
「あいつ、私のところに来て、今日も私を脅したの」
初子は、焦りの色を瞳に浮かべ、まつ毛をいそがしく動かして僕に訴えた。
「今日も来た? 叔父上は、このへんに潜伏してるのか?」
叔父上は四国をすでに脱走してここまで来ているようだ。初子が血相を変えるわけだ。文で初子を脅していたのではなく、訪ねて脅していた。
「『――夜分、お前が屋敷の戸を開け、わしを招き入れよ。さもなくば、お前の命をちぢめるぞ』……そう何度も私に言うのよ。もう私、怖くて」
そのわりには、初子の目は猛々しく吊り上がってきた。武家の血が息づいているからかもしれない。
「いっそ、あいつを殺してしまった方がいいかもね」
さらっと恐ろしいことを初子は言う。
「政国様と伊都子様は幸せに暮らしているのよ。もう世は定まっている。あいつなんかに、邪魔されてたまるもんか」
「まあまあ、おちついて」
僕は、牛のアクビのように大きく口を開けて笑い、その顔を月光に照らして初子によく見えるようにした。
「なにそれ、馬鹿みたい」
「この顔を見て落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられないわ。玲次様、いい? 源氏の世の中なんてもう来ないのよ。玲次様の叔父上は、玲次様を誘って、玲次様と一緒に政国様のお屋敷に乗り込むつもりよ」
「僕を誘って!?」
それは初耳だ。
おもわず大声を出してしまった僕に、初子が怖い顔をして、人差指を立て、形の良い唇にかざす。そうだ、人の気の少ない寺とはいえ、用心に越したことはない。
初子は声をひそめ、
「……だってあの人、本当に狂ってるのよ。政国様を殺して、自分の妹を妻にして、あなたと一緒に源氏の旗を挙げるつもりなのよ。そんなことをしたら、みんな殺されて一巻の終わり」
「たいへんだ……」
僕は、そのように言うしかない。波風の立たない浮世を離れた僧の生活が長く続いたせいで、驚き方がわからなくなっている。
しかし、源氏の棟梁は、伊豆に配流されている頼朝様が受け継ぐべきものだ。源氏の棟梁だけが着用することを許された、薄金の鎧も、髭切の太刀も、僕らは持っていない。
「でも、あいつの言う通りに夜中に戸を開けないと私が殺される。開けても、そのあとにあいつに殺されるかもしれない。玲次様、私を守ってくれる?」
怒りがこみ上げて来たのか、叔父上のことを初子はもう「あいつ」としか言わない。
「だから、それはすでに答えた」
「うん!」
初子が光るような微笑みを僕に送り、身を翻して闇に消えた。静寂な庭に戻り、月が雲に消えて暗闇になった。胸の鼓動は、いつまでも鎮まらないままだった。
次の日、昨夜のことが夢かもしれない――。そのように思って日課の経を上げていると、僧の姿の叔父上が海住岳寺に現れた。僕を庭の隅に招く。
「初子から、文で話を聞いたのか?」
意外な切り出しで叔父上は言った。叔父上から、猪の毛皮のような、なにか獣の匂いがする。
初子が僕に文を出したことを、その文を届けた商人に聞いたようだ。叔父上は、自分と一緒に立つ源氏の者を募っているのだという。文を届けてくれた商人は、源氏の血をくむ者で、初子が文を僕に届けたことを、うっかり叔父上に言ってしまったらしい。
誰しも早死にはしたくない。
叔父上は源氏の誰からも相手にされず、ついに、僕のような若輩の者を道連れにするしかなくなったようだ。
ただ、初子が裏切りを考えていることまで、叔父上の想像は届かない。初子が幼馴染の僕と、たびたび通信を持っていると、そのように簡単に思っただけで、別に文の中身まで尋ねられることはなかった。
「いいか、今日これから政国の屋敷に忍んで、政国の首をあげる。翌朝、鴨川の河原に政国の首を晒す。これをもって源氏の歩みが再び始まる」
「今日、これから?」
叔父上は長い時をかけて準備したのかもしれぬが、僕はまだ心がうろたえている。男子とは、内心のうろたえを気取られるをもって恥とする。だが、それを隠すすべを僕は修行していなかった。
「わしを手伝え」
と、仁王のようなぎょろつく目で叔父上は言った。
「応」
僕は答えた。
叔父上は僕のその返答に、澄みきった青空のような笑みを作ってくれた。初子を守るために、僕は叔父上と行動を共にするよりほかはない。
「……初子に聞きました。叔父上は、妹君の伊都子様を妻にするつもりなのですか?」
僕は恐る恐る叔父上に聞いた。叔父上は、すでに手負いの獅子のように危険だ。どこで逆上して、僕をも殺そうとするかもしれない。
「うむ。わが妻にふさわしい女だ」
伊都子様は美貌が京に鳴り響いている人だ。
その言葉は、ほかの者が言えば自然であったのだが、山が鳴るような、岩が光るような、そういう違和感だけが僕に残った。
叔父上は、伊都子様の実の兄。
そもそも、叔父上が戦場で平の者を縦横に血祭りに上げながら、なぜ今の今まで生き長らえることが出来たのかといえば、妹の伊都子様が平家に助命嘆願をして、それが受け入れられたからだ。伊都子様に頼まれ、夫の政国様がそのように動いてくれたのだろう。伊都子様に感謝するのはむろんのこと、叔父上は、政国様に感謝をしなければならない。
「子をたくさんもうけて、源氏の血を増やすぞ」
叔父上はそう言い、たからかに笑い、僕の肩を分厚い手で何度も叩いた。
英雄豪傑の風貌をした叔父上だが、なるほど、初子の言う通り狂っているのかもしれない。叔父上は、僕と二人だけで平家と対立するつもりだ。朝に政国様の首を河原に晒しても、次の朝になれば僕らの首がその隣りに並ぶことになるだろう。
すでに初子を助けることを決心していた僕だが、初子を守るために、本当に叔父上を殺さなければならないかもしれない。殺そうとすれば、逆に僕が叔父上に殺されるだろう。生きていることだけが目標の僕だったのに、ここにきて目の前が塞がった。
叔父上は四国に配流され、その先の、毘沙門天と観音をまつった寺の境内にのみ生息が許されている存在だった。命は助かった。それで十分のはずなのに、叔父上は大不満だったようだ。寺どころか四国からも脱走して、さらに京を平気で闊歩している。さらには、平家の者を片っ端から殺すつもりだ。考えれば、四国を出る前にすでに気がふれていたのかもしれない。叔父上は源氏の御曹司というわけではなく、源氏の棟梁を目指すには、たしかに平家を叔父上が倒してしまえばその通りになるのだろうが、叔父上が僕を従えただけで、いったいなにができる。岩にあたるそよ風のように、岩にその存在を気にされることもなく、飛散するだけの運命が僕達に待っている。平家を覆すなど、月に両手を伸ばしてそれを掴み、真っ二つに割るほどに難しいことだ。
叔父上に、背中を押されるように寺から連れ出された僕は、京の市中で僧服を捨て、市中で庶民の服を買い求め、微服して人々の中に溶け込んだ。
雑踏を進み、賑やかな人々の生きる声を久しぶりに聞いた。楽しいものだ。活力が血の中に戻るようだった。苦しさもあるだろうが、みな、たくましく生きている。
五条の橋のたもとに初子が立っていた。
僕たちをみつけると、ふところから文を出して叔父上に差し出す。初子は無言で去っていった。
「伊都子からだ」
道をそれ、用心深く人のいない場所で叔父上は文を開いた。それを一読し、満足そうに叔父上はうなずく。そして、その文を僕にも見せてくれた。
――お兄様、三日の夜に忍んできてください。政国殿を討ってくだされば、おおせに従います。
そのように書かれている。
初子に聞いていた話とちがう。
伊都子様と政国様が仲睦まじいというのは嘘だったのか……。伊都子様は、むしろ叔父上を屋敷に迎え入れようとしている。まるで、自分が解放されるのを待っているかのようだ。
三日とは、今日のことだ。
文には屋敷の図面がしたためられていて、そこに政国様の眠る場所が丸く示されている。
あるいは、「従わねば、初子ともどもお前を殺す」と、そのように叔父上に脅かされたのかもしれない。伊都子様は、昨日より病を理由に離れに引き込み、寝所には政国様一人だけが居ると書かれている。
「そういうことだ。裏門の閂を初子が外す手筈になっている。雨戸も初子が開け、我々を招き入れる。政国の首を掻き切り、伊都子を救ってわが妻とする。これが、源氏再興の産声だ」
「……初子は、どうなるのです」
僕は叔父上に聞いた。初子は、もちろんこの計画に反対だ。それを「殺す」と脅して叔父上は強引に仲間に引き入れた。協力すれば初子になにもしないという確約がなければ、僕はもう動かない。
「あれは、お前の妻とせよ。あれも源氏の血だからな」
なにか、僕を小馬鹿にしたような、薄い皮膚を歪めて叔父上がわらう。僕が初子に懸想していることに気付いているのだろうか?
「なんだ、不満か」
叔父上は怖い顔をした。すでに源氏の棟梁のつもりでいるのだろう。自分の意が通らないことに憤りを感じたようだ。叔父上は武人で、自分の意志は力づくでも押し通す。
「いいえ……。でも、すぐに追手が来ます。叔父上は、その後どうなされるおつもりです。僕らはきっと、殺されますよ」
「どうするもない。次々に我が目の前の平の者の首を掻き切る。それだけだ。民は飢え、源氏の旗を待ちわびている。俺たちが平の血を浴びるごとに道が開けるのだ。やがて俺たちが天下を得る」
「わかりました」
そう言うほかはない。
夢物語ではあるけれど、平家に見つかれば殺される僕だ。ならば、相手を殺して活路を見出すほかはない。武人とはそういうもの……。経を読んでいた僕は仮の姿。全身に血のたぎりを感じた。今の僕の目も、吊り上がっているのかもしれない。
政国様の屋敷に着いたのは夕暮れだった。
日のあるうちに屋敷周辺の地形を覚え、夜になるのを待つ。東の空に丸い月が出て、それが屋敷の頭上にかかる頃、裏戸の閂が動く音がした。叔父上が僕に目配せをする。僕らは風のように動いた。
裏戸に手をかけようとすると、それが向こうから開いた。初子の細い身が、その隙間からこちらに来た。
「お待ちしておりました」
「首尾は」
短く、叔父上が問うた。
「計画の通りです。雨戸はすでに開いております」
その初子の怯える声音を聞き、叔父上が屋敷に突入した。叔父上は伊都子様からの文で、政国様が一人で寝る部屋を知っている。
あとに続こうとした僕の袖を初子が引いた。
「もう、逃げよう。あいつが政国様を討つことができても、あとであいつは必ず殺される」
初子が、強い力で僕を道の向こうに連れていこうとする。
――今、逃げるのか。
選択肢が増えた。
確かに、叔父上と一緒にいたら、どうせ僕も死ぬ。
「それとも、あの男を止めて、政国様を助けてくれる? 伊都子様のためにも」
初子は、眉を下げて泣きそうな瞳を僕に向ける。
そうしたいのは山々だ。
だが、僕にそれができるのか。刀は叔父上に与えられたが、この五年、木刀すら握っていない。
「よし、叔父上に消えてもらおう」
僕は、刀の柄を握りしめた。
自分で言って、自分で意外だった。初子の願いが僕の願いとなった。初子を救うためにも、僕は叔父上を討ち取る。
政国様は、初子の素性を伊都子様から聞いて知っているのだそうだ。知っていながら、初子のことを黙ってくれていた。その恩を、僕は政国様に返したい。お世話になった伊都子様を救うことにもなる。暴走しているのは叔父上だけ……。
屋敷に侵入して、通り掛かった無人の部屋の燭台に明かりを灯し、その蝋燭を手に闇を進む。明かりは目立つが、叔父上に早く追いつかなければならない。
叔父上の背に白刃を突き立てようとした瞬間、叔父上は振り返って僕を殺すだろう。そういう結末しか脳裏に浮かばぬが、刺し違えてもでも叔父上を討ち取ってみせる。
だが、叔父上は鬼神のように素早く仕事を終わらせていた。仕事を終えた叔父上が縁側に出てきていて、手に包みを下げていた。
「政国の首を切り取ってきた」
叔父上が低い声で僕に言った。
そして、首が入っているらしい包みを僕にさし向け、硬直しているだけの僕に、
「伊都子を助け出してこい。玲次、ゆけ」
と命じた。
「――はっ」
もう、迷っているわけにはいかぬ。
すぐにも屋敷の手の者がやってくる。
僕は、鎮まらぬ鼓動を抱えて屋敷の廊下を進んだ。初子の手を引く。
「……初子、こうなったら仕方がない。ここから最善を探そう。僕らは伊都子様をここから連れ出す。伊都子様の部屋に案内してくれ」
まだ、屋敷は寝静まっている。伊都子様は、すでに異変に気づいているだろうか? 夫の首は、叔父上によって屋敷の外に持ち去られた。
「ここが政国様の休んでいた部屋よ。伊都子様は、この先の部屋に……」
初子が萎れた声で言った。部屋には血の生な匂いが広がっている。その、政国様の部屋でお香がたかれていた。へんてつもないお香の匂い。だがこのお香は、初子によると伊都子様が好んでいたものだという。
「玲次様、明かりを。政国様が、お怪我で苦しんでいるかもしれないから」
初子は、叔父上の持つ包みを見なかったのだろう。部屋の中で重傷の政国様が苦しんでいるかもしれぬと心配している。手当をすれば助かるかもしれないと……。
「早く」
初子に促され、惨劇を見る趣味はないが、僕はやむなく部屋を蝋燭の炎で照らした。黒い影が布団に寝ている。
「こんなこと、こんなこと――!」
初子が叫んだ。僕は灯りを遺体に差し向けた。それは、ずいぶんと小柄な死骸に見えた。当然、首がない。お香はまだ、死骸の脇で煙をくゆらせている。
初子がよろめいた。
ふわりと倒れる初子の身体を僕は受け止めた。
奥の部屋で男共の騒ぐ声がする。屋敷の者が異変に気付いたようだ。激しい足音が近づく。もはや、このまま逃げおおせるしか手段がない。僕は、気を失った初子を背負って屋敷を出た。
道に出ると、叔父上が仁王立ちで待っていた。
「伊都子はどうした」
と言って、叔父上は僕の背中の人を見つめる。
「これに」
「ああ、背負っていたのは伊都子であったか。初子は逃げたのか?」
僕の背に顔を沈める初子に、叔父上は気付かない。叔父上は、たった今人を殺し、まだ気が定まらない荒い息をしている。僕は、この場をかわすために嘘をつくしか仕方がなかった。背中の初子を守らなければならない。
叔父上と共に河原に走った。
僕が足を踏むたびに、背中の初子が激しく揺れた。暖かく、重い。生きている実感を重さで軋む骨で受けた。ちっぽけな僕だが、この人だけでも守って差し上げたい。そのように思った。
朝日が昇る。
また新しい一日が始まったのだ。
鴨川の河原の石の上で叔父上が血のしたたる包みを開いた。包みから出てきたのは伊都子様の首だ。叔父上は知らなかったのだろう。叔父上は首が妹のものであるとわかると、錯乱して意味不明のおたけびをあげた。
僕は少しずつ後ずさりしてそこを去ろうとした。伊都子様は、夫を守るために自分の寝所を叔父上に伝えていたのだ。首は石の上に佇み、叔父上に無言の抗議をしている。
叔父上は、包みの前で身体を屈め、岩のように丸くなったままだった。
僕は初子を背負ったままでそこを去った。
僕は進む。
とにかく、生きつづけなければならない。どこに逃げればいいのだろう。歩を進めるたびに、初子の鈴の音が鳴った。
〈了〉