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プロローグ




息を呑む、って言葉を、はじめて理解した。


綺麗で、澄んだ空気。


まるで、そこだけが違う世界のようで。


指先まで洗練されたその姿に、その世界に、


私は一瞬で心を奪われてしまったのだ。







「違う」


 顔を見ずとも分かるほどあからさまに苛立った声が飛んでくる。

 今日だけでも片手では足りないほど聞いたであろう声に、千夏は反射的に、う……と苦い顔をして、勢いのままに踏み出しかけていた左足を引っ込めた。

 歩き出した瞬間から、このままでは間違えるであろうことには薄々気づいていたのだ。自分のあまりの学習能力のなさ加減に、もはや声の飛んできた方を向く気にもなれない。

 そちらから絶えず突き刺さってくる視線が、千夏の心境に反比例するかのように鋭さを増しているとなれば尚更である。


「……だーかーら、畳の縁を越える時は右足、って何回言えば分かるんだよお前は。毎度毎度間違えやがって、全然進まねーだろうがバカ。やる気あんのか!」


 頑なにこちらを見ようとしない後輩に痺れを切らしたのか、声の主、もとい篠崎は苛立ちを隠そうともせずに罵声を浴びせかけてくる。


「わ、分かってますよ! 分かってますけど、なんかこう、どうしても歩幅が上手く合ってくれないというか……」


 ハハハ……という千夏の乾いた笑いが静かな部屋に空しく響く。せっかくおどけてみせたのに、この先輩には逆効果だったようで。返ってきたのは、はあ?という冷たい言葉だった。


 「当たり前だろ、足が勝手に合ってくれるのなんか待ってたら日が暮れるわ! 自分で合わせろそれくらい。あと、これもさっきから言ってるけど大股すぎなんだよお前。ったく、ただでさえデカくてガサツなんだから、歩き方くらいおしとやかにできねーのか」


 千夏は畳み掛けるような罵詈雑言に弾かれたように顔を上げる。

 ようやく見た篠崎の顔は、相変わらず馬鹿にしきっているようにしか見えない。おまけに、偉そうに腕まで組んでいる。




 ああもう、ほんとに。なんでこの人はいつもいつもーー!




 「~っ、いくらなんでもそんなに言うことないでしょ!? 先輩いっつも一言多いんですよ! だいたい、この際ですから言わせてもらいますけど、先輩も大概ガラ悪いですからね!? ホラ、今だって胡坐なんてかいてるし!!」


――言ってやった。


 今日こそは言い返せまいと、やや得意げな表情を隠せずに篠崎の様子を伺うと、案の定黙り込んでいる。


――よし、勝った……!


 勝利を確信し心の中で小さくガッツポーズをした千夏の前で、篠崎が立ち上がる。突然のことに目を丸くした千夏にずんずんと近づいてくる篠崎は、笑顔だ。


 「ほう……先輩に向かっていい度胸だなあ、橘? 覚えの悪い後輩にわざわざマンツーマンで指導してやってる俺のどこがガラ悪いって? ん? ホラ、言ってみろよ」


 危機感を感じて後退ったものの、時すでに遅し。あっという間に伸びてきた篠崎の手に、両頬を強く抓られる。


「いひゃいいひゃい! ほーひゅうほほろへふよ!」


 必死の抵抗も、ただの間抜けな音となって口から零れ落ちた。笑えるくらいに意味不明であったが、当然そんなことを笑っていられるような状態ではない。


「パードゥン?」


 痛さに狭まる視界で、篠崎はにっこりと笑って首を傾げている。この先輩は、笑顔の時が一番コワイのだ。

 ああ、そうだった、と千夏が自分の学習能力のなさを改めて痛感した瞬間、ガラッと扉の開く音がして、千夏と篠崎は抓り抓られのそのままの体勢で反射的にそちらを向く。


「ごめんね~遅くなっちゃった」


 ピリピリしていた空気にはいささか不釣り合いなのんびりとした声が聞こえてきて、千夏は助かったと胸を撫で下ろした。もう大丈夫だ。


「もー、2人ともまたケンカしてたでしょ。廊下まで聞こえてきた、よ……って、ちーちゃん!?」


 そのままの調子で喋りつつ、開いた襖からひょこりと姿を現した小柄な先輩、美織は、頬を抓られている千夏を見るやいなや、あからさまな驚きを露わにした。


「たっくん、めっ!」


 慌てて駆け寄り篠崎を叱るものの、その姿は小さな子が背伸びをしているようにしか見えない。今にもぷんぷんという効果音が聞こえてきそうだ。

 しかもこれで本人は至って真剣なのだから、かわいいとしか言いようがない。


「……ハーイ」


 それでも篠崎には効果てきめんなことは、いやというほど千夏も知ってた。パッと手を離されようやく解放される。


「だいじょうぶ?」


 ヒリヒリする頬を押さえて唸っていると、美織が心配そうに覗きこんできた。


「う~……みおりん先輩~」


 頬自体は別に大したことはないのだが、思わずかわいい先輩の小柄な体に抱き着く。というより、抱きしめる。

 精一杯背伸びをして千夏の頭をよしよしと撫でた美織は、改めて篠崎の方を見た。


「ちーちゃん女の子なんだから、優しくしてあげて?」

「コイツが先輩みたいにかわいかったら優しくできます。」

「真面目な顔で言わないの……!」

「それより先輩」

「なーに?」

「めっ、ってもう一回やってください」

「やりませんっ」


 くるくると表情を変える美織とは対照的に、篠崎は終始大真面目だ。


――出たよ、ホラ。


 千夏は2人のやりとり、というより篠崎の反応を見てけっ、と心の中で毒づいた。

 もう大分慣れたとはいえ、やはりどうも気に食わない。ホントなんなんだこの人。みおりん先輩困ってるだろうが。


「あと、さくちゃんも。ちゃんと助けてあげて……!」


 千夏の腕の中でくるりと向きを変えた美織は、部屋の奥で黙々と読書をしている女子生徒、朔良に声をかけた。


「すみません……面倒だったので。」


 朔良は読んでいた本を閉じると、その涼しげな視線をこちらに向けて平然と言ってのける。

 そうなのだ。朔良は千夏と篠崎が言い争っているあいだもずっとこの部屋に居た。そのことにはもちろん千夏も気づいていたが、この先輩には助けを求めること自体無駄なのである。


「も~……しょうがないなぁ。じゃあほら、遅くなっちゃったけど、ちゃんと部活はじめよう?」


 困ったように眉を下げて小さく息を吐いた美織は、仕切り直しとばかりにパチンと手を打つと、千夏たち後輩を順に見渡してふんわり微笑んだ。




――ああ、本当に。わが茶道部は、この先輩がいないと成り立たない。




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