第一話 吸血鬼狩りの夜に 【鬼】
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少女が跳躍するたびに胸のロザリオが揺れる。
まだ薄暗い住宅街の屋根の上を、化け物と、それを追う少女の姿があった。
雪は、もう止んだ。
あと数分で太陽が顔を出す。太陽の光は、化け物を現実世界から霧のように消し、少女の人間離れした跳躍も消す。
化け物は痩せた小人のような姿だ。肌は濃い灰色で腹だけが異様に膨れている。口は耳まで裂けていて、手と同様に血まみれだ。犬のように走り、猫のように屋根から屋根へ飛び移り少女から逃げている。
「餓鬼のくせに、やたら動きが速い」少女は舌打ちをした。
長い艶のある金髪を揺らし、少女は白い息を切らせながら屋根の上の障害物を華麗に避けて怪物との距離を縮めていく。
少女の姿は全身を包む黒いレザースーツを着て、そのの上に腰まで伸びた赤茶色の外套をしている。少女の白い右手はマントと背中に隠した銃を手にした。短く切り詰めた古い猟銃のようなものだった。
猟銃の銃身の長さが短いと射程距離は落ちるが殺傷能力は高くなる。この改造をソードオフショットガンという。少女の中折れ式の水平二連銃は年代物のようだ。馬に跨った騎士が吸血鬼を剣で突き刺し倒す繊細な彫金がなされている。
少女は走りながら銃の機関部を解放して、銀の矢が10本詰まった指ほどの長さのショットガンシェルを二つ薬室に送り込んだ。
化け物は住宅の屋根から大きく飛んで高校の体育館に飛び降り、そして校庭を降りた。
障害物のない直線なら化け物の方がわずかに速い。
高校の隣は自然公園になっていて森へ逃げられたら姿を見失うだろう。
少女が体育館に飛び移り、雪が積もった屋根の上で足を滑らせながら腰を降ろした。校庭を走る化け物に照準を合わせ射撃姿勢に入る。餓鬼と呼ばれた化け物は、すでに校庭の半分程を進んでいる。このショットガンでは射程外の距離だ。
「我らが主よ、風の精霊のご加護を」
少女の左手が胸のロザリオを掴んで、十字架に埋め込まれた青い宝石に口付けをした。
宝石は一瞬、緑色に光った。光った後、ロザリオの宝石は青から緑にかわっていた。少女は瞳を閉じて、一度深く深呼吸をしてから呼吸を止めると、雪のような少女の指は引き金をひいた。
散弾銃の音が一発響いた。
銃口からショットガンシェルが飛び出た。ショットガンシェルはすぐに裂けて、十本の銀色の針の矢になった。十本の矢は意思をもったかのように空中で孤を描いて、校庭を走り去ろうとした餓鬼の背中めがけて風を斬った。十本のうち四本の矢は、餓鬼の手足を貫いて地面に釘付けにして動きを止め、3本は後頭部の頭蓋骨を貫いて脳漿まで達し、残る3本は背中の急所を的確に突いた。
射抜かれた餓鬼は暴れた後、激しく痙攣し、力尽きたように動きを止めた。餓鬼の身体から流れ出る体液は薄く雪の積もった校庭を赤紫に染め上げていった。
再び粉雪が上空から舞い始めた。
雪を踏む音が餓鬼に近づく。
餓鬼は死んではいなかった。
死んだと思い込んで油断した獲物が迂闊に近づいてくる。餓鬼は重傷を負いながらも獲物の足音から距離をはかっていた。餓鬼の舌は2メートルまで伸縮できる。鉄の槍のように硬くした舌は人間の身体を貫通し、そこから毒を注入して血と毒で解けた臓物を啜り取ることができる。毒で麻痺しても刺された人間に意識はある。恐怖に歪んだ人間の顔は、餓鬼を恍惚にさせるばかりでなく、人間の血肉は食欲を満たし、負った傷を癒してしまうのだ。
音が十分に近づいた。餓鬼は頭を横にして舌を限界まで伸ばした。鉄の槍は、わずか5センチ届かなかった。少女は近づいたフリをして、1歩後ろへ下がっていたのだ。
粉雪の舞う冬の朝の空気に、一発の散弾銃の音が響いた。
急所である舌を至近距離で砕かれた。餓鬼はガラスを金属の爪で引っかいたような泣き声をあげて地面に串刺しになったまま激しく暴れた。しばらく悶えて苦しんだあと、泣き声は徐々に弱くなり、餓鬼は生命活動を停止させた。
少女は銃を背中のホルスターに戻すと、かわりに腰から上腕ほどの長さの短剣を引き抜いて逆手に持った。
「汝の罪は我が契約の血をもって浄化され、魂は穏やかに天に召されるであろう」
少女がそう言うと、短剣の切っ先で自分の指の腹を少し切って、短剣に自分の血を這わせた。少女は短剣を餓鬼の頭部を突き刺した。
餓鬼の身体は青い炎に燃え上がり、灰になって崩れていった。短剣の先には灰色の宝石が突き刺さっていた。少女は宝石を剣から抜いて皮袋にしまうと、スマートフォンを取り出した。
「パッカード、私よ、セラよ。仕事は終ったわ。でも、こいつは猟奇殺人の犯人じゃないわ。紫じゃないわ、灰色よ。宝石の色は灰色だった。……えぇ、サンプルは採取したわ。赤の書も副本じゃハズレるのかも。…………詳しくは学校が終ってからするわ。えぇ……大丈夫よ。もうアヤの時間だわ。私はこのまま学校へ行くわ」
電話の相手はまだ話が足りず「待て」と言いかけてセラは電話を切った。
「アヤには、また負担をかけてしまうけれども。これも血統の宿命よね、アヤ? 」
粉雪をかき分けて朝日が顔を出した。
朝日は白い校庭に校舎の影を明確に線引きした。
日陰の領域が日向の領域に押されていく。
少女と餓鬼のいる場所は日陰から日向にかわった。
餓鬼の亡骸は陽にあたると灰も残さず消えてしまった。地面に刺さった銀の矢も朝日を浴びると灰になって消えた。短剣の切っ先で傷ついた少女の指先から滴落ちる赤い血液は、地面に落ちる寸前で朝日に浴びて灰になってかき消えた。