9
「――道春くん、今日のご予定は?」
「クラスメートの家で勉強」
「なん……ですって……」
驚愕し、崩れ落ちる母に朝から体力を奪われつつ。
早めに用意してもらった昼食をさっさと食べて、12時に家を出る。
若干早くつくことになるけれど、待つだけなら構わない。
ジーンズにポロシャツ。通学にも使ってるショルダーバッグ。
なんら目立たない普通の空気キャラである。それは私服でも変わらない。
ただ、私服で電車に乗るのは割と久しぶりである。
普段外に出るのは学校に行くぐらいで、その時は当然制服だから。
エアコンがガンガンに効いた車内は少し肌寒く感じた。
いつもはTシャツと開襟シャツの2枚だから、余計にかもしれない。
少しだけ目の覚めるような思いをすることになった。
「来てくれて、ありがとう。今日もよろしく!」
「……うん」
カーゴパンツにTシャツにパーカー。活動的な感じ。
少し早く着いたはずの俺とほぼ同じタイミングで、西岡くんは現れた。
駅前に適当に止められた自転車を引いて、案内されるままについていく。
……いつも、学校に向かう道を少しそれて、左。そのまままっすぐ。
学校と駅との位置関係は、45度の直角三角形だと推測出来た。
「……やっぱり、いつもは送ってくれてたんだ」
「あーうん。まあ」
若干、困ったように言葉を濁して、俺を見ようとはしない。
何か言いにくいことでもあるのかななんて思ったけれど、追求は止めておく。
言いたいことがあるのなら、自分から言ってくれるだろうし。
そうじゃなくても、悪いことではないとなんとなく思ったからである。
すると案の定、頭を掻きながら少しぶっきらぼうに言葉が向けられた。
「――話してみたかったんだよ。吉野くん、自分のこと喋ってくれないし。
どんなこと考えてるのか、とか。教えるの嫌がってないか、とか」
「……割と楽しんでるし、嫌がってなんかはないけど。
俺、そんなに自分のこと喋ってない?」
「んー。俺の感覚では、だけど」
そんな積もりはなかったけど、西岡くん的にはそうらしい。
……いや、自分のこと喋るといっても、一体何をという話である。
隠しているつもりは全くないし、割と素直に心を開いているとも思うのだが。
それが伝わっていないというなら、それは少し悲しい気もする。
「――繰り返すけど、嫌ではないし、楽しいよ。
あまり人と話すのは得意ではないけど、君なら苦にはならない」
「……うおー。なんか、すっげえ嬉しいな、それ」
「…………それは、良かった、のかな」
西岡くんは、少し顔を赤くして息を吐いていた。
なんだか良くは判らないけれど、嬉しいならそれでいい。
……もう少し、思っていることは口に出していこう。そう思った。
「ただいまー」
「……お邪魔します」
駅から10分足らずの道のり。
庭に置かれた4台の自転車が目を引いた。
その内の2台は比較的小さく、多分弟さんたちのものだろう。
玄関を潜った先にも、バットやボール、アウトドアなグッズが並ぶ。
元気がいい子たちなのかな、と思っていると、奥からだだだと足音が近づいてきた。
「お帰りなさーい!」
「こんにちはー」
「……こんにちは。お邪魔します」
先に駆け込んできたのは、小さな方。後に中くらいが続く。
元気よく西岡くんに小さい弟さんが飛び込んで、その勢いに少し驚いた。
その横から、大人びた感じのする2人目が、俺に挨拶をする。
大体俺の肩に頭が来るぐらいだろうか。20cmと少し小さいぐらいである。
「留守番ありがとなー。もういいぞー」
「うっし!」
「……じゃあ行ってくるね」
西岡くんが頭を撫でると、入れ替わるように玄関に。
バタバタと慌ただしく、靴を履いて飛び出す小さい方の弟さん。
その背中を目で追いながら、大きい方の弟さんは、俺に向く。
「――その。兄さんに勉強を教えてくださって、ありがとうございます。
多分、大変だとは思うのですが、今日もよろしくお願いします」
「あ、はい。頑張ります」
「それじゃあ失礼しますね。兄さんも頑張って」
なんとも賢そうな感じに呆気にとられていると、スタスタと家を出ていく。
――え。幾つなんだろうか。物凄くしっかりして見えるのだが。
俺と西岡くんより頭一つ小さな背丈は、150cmぐらいだろう。
意表を突かれて、立ち尽くしたまま、説明を求めて西岡くんを見た。
「……あーうん。取り敢えず、俺の部屋に」
「…………判った」
照れくさいとか、色々な感情がごちゃまぜになった感じ。
そんな西岡くんに、なんとなくこの兄弟の関係が判ったような気がした。
「――お兄さんしててびっくりした」
「……あぁうん」
案外こざっぱりと片付いた部屋。折りたたみのテーブルが光る。
グラスに注がれたコーラを、手に取るだけで飲むことはなく。
玄関前での会話について、軽く触れてみる。
小さいのが小学3年生の直紀くん。大きいのが小学5年生の智之くん。
目の前にいる西岡くんとは、少し歳が離れている。
「なんというか、あのまんまなんだ」と西岡くんは照れて笑った。
「直はひたすら元気で騒がしいんだけど。
智はあんな感じで。ダメ兄貴と賢い弟みたいになるんだよ」
「……礼儀正しくて、びっくりしたよ。すごくいい子だなって思った」
「マジで?マジで?弟褒められると嬉しいなぁ」
えへへ、と顔を崩す。本気で嬉しそうである。
いや、確かに智之くんの礼儀正しさには驚いたのだけど。
それ以上に驚いたのは、西岡くんがちゃんとお兄さんをしていたことである。
なんというか、声に責任というものを感じた。落ち着きを感じさせる声だった。
直紀くんとの短いやりとりしか見ていないが、ふと思いいるものがある。
「――頑張れって言われてるしね。努力しようか」
「おう。これ以上弟たちに、みっともねえ兄貴でいられないからな」
そう言って笑う西岡くんは、いつもよりもしっかりして見えた。
……なんとなく、真剣さとか真面目さの源はここなんだろうな、と思った。
ご両親がいない間面倒を見なくてはいけないから、実のある真面目さというか。
地に足がついている、ふわふわしていない真剣さがあるのだろう。
――――ちょっと、いろいろなことが羨ましいなと思った。
5時ぐらいまで、ほぼ休憩なしでノンストップ。
残るは僅かと言えなくもない程度まで、数学の解説は進んだ。
雑談がてらに明日と明後日も来ることを確約。この3日で終わるだろう。
帰ってきた弟さんたちと入れ替わるように、駅まで送られた。
いいよと言ったけれど、道も少し不安だったので、ありがたくはあった。
次の日も、またその次の日も午後1時に待ち合わせ。
どちらも少し早く着いたのにも関わらず、既に西岡くんは待っていた。
敬老の日に2つの数学が終わり、生物に取り掛かり始める。
そこまで範囲はないから、一度学校でも教えればそれで範囲は終了だ。
そうなれば、2週間分の時間を対策に費やすことができそうだ。
……特に数学は、テストのような形で問題演習ができればいいのだが。
同系統の新しい問題に対応できるかが、点数の分かれ目だと思う。
3日目に、智之くんに頭を深々と下げられたり。
家に帰ると母さんが、家にひとり残されたことを嘆いていたり。
月曜日の夜には、小説の定期更新をしておいたり。
普段と違う日常が、いつもと同じように過ぎていくことを不思議に思いつつ。
西岡くんの勉強は着々と前に向かって進んでいった。
9月17日、火曜日。三連休が明けた日。
着実な歩みを見せる勉強は、今日の生物を終えたら本格的なテスト対策に移る。
現国は教科書への書き込みの再確認。理解が足りているかの確認。
古典と英語は漏れがないかを確認してから、理解度の確認。
生物現社日本史の暗記教科は、今までの基礎を元に流れと補足の嵐。
そして、数学2つは――。
「――むむむ」
「どうかしたの?」
4日ぶりとなる図書室の定位置。
テスト範囲も配られたことで、図書室も少し騒がしくなった。
俄かに人が増えたが、二人が座る場所さえ確保出来れば構わない。
そんな中で、唸っている俺に西岡くんが心配そうにする。
勿論この唸り声も、理由は目の前にいる彼が原因であった。
「……生物が終わりに近づきました」
「あと大問3つだね」
「そのあとは、テスト対策を始めますが、しかし」
「しかし?」
困ったことに気がついたのは、古典の授業中だった。
ノートの片隅に、落書きついでに対策の計画を練っていたのだが。
……落書きそのものは別に問題はない。空気は先生に怒られない。
そこそこ点数を取る陰キャラは、例え上の空でも突っ込まれすらしないものだ。
最前列で、授業中ずっと外を眺めていても怒られなかったから判る。
それはともかく。気づいた問題は、数学に関わることである。
現状までに問題集の範囲は、丁寧に解き方を発想から教えてきている。
西岡くんの努力もあって、問題集の問題だと割りとあっさり解けてしまう。
……こうなると、彼の実力を測りにくいというか。
もっと多くの問題に触れさせて、対応力を上げるべきだと思うのだけれど。
その問題をどこから持ってくるのか、という話である。
まだ解いていないような問題は、正直手元にはない。
だから問題集の問題の数字を変えたり、出し方をアレンジするとか。
或いは、新しい問題集を買ってくるなりしなければいけない。
前者はどう考えても、俺の負担が大きすぎるし、本当に無理すぎる。
だからといって、このためだけに新しい問題集を買うのも気が引ける。
……流石に心配そうな視線がキツくなってきたので、説明しようか。
「……数学の演習をさせてあげたいのだけど。
残念ながら、適切な問題が手元に残っていない」
「数学?」
「そう。応用の練習に、新しい問題に挑戦してもらいたいけど。
どうしようか悩んでいる。別の問題集を買うしかないかもしれない」
お金をかけて勉強するということは、ちょっと嫌な感じ。
可能ならあるもので教えるのが正しいとは思うのだが、しかし。
問題の数字や条件を変えて、かつ適切な難易度にして並べる。
そんなことは気軽にできるわけがない。死ぬ。死ぬ。真面目に。
俺の苦悩にも関わらず、西岡くんはなんとも気が抜けた表情で口を開いた。
「――――やったことのない問題があればいいの?」
「うん。もし、心当たりがあるなら、聞かせて欲しい」
「……いや、心当たりっつーか。先生に聞けばいいんじゃね?」
……なんだと。気軽に言ってくれやがる。
そりゃ間違いなく、他にも問題集を抱えているだろうけれど。
「問題集貸してください」とでも言えと。それって特定の生徒への肩入れな気が。
まあ、西岡くんは肩入れしなければどうにもならない生徒でもある。
それでも先生に頼ることに気が引ける俺に、西岡くんは続けて言う。
「ダメ元ダメ元。昔のプリントとかでもいいわけっしょ。
案外くれるかもよ」
「……そんなに言うなら。生物終わったら、行ってみようか」
「おう」
なんか、先生を利用するようであまり乗り気にはなれない。
それでも先生たちに目を掛けられている西岡くんが、そう言うのだし。
少しもやもやとした感情を抱きながら、残りを片付けた。
……長引けばいいと、頭のどこかで少しだけ考えながら。